意図的に早起きをしようと思ったのは久しぶりだ。昨日と同じ時間の電車に乗れるように準備をする。洗面所で顔を洗い、いつもは適当に櫛で溶かして終わるヘアセットも、なんとなく毛先をいじってしまい、セットが終わった自分を鏡で俯瞰し苦笑した。意中の女に会うわけでもないのに、俺は何をしているんだろう。キッチン居た母親にも「格好いいじゃない。今日は朝から登校デートなのかしら」と揶揄ってくる始末だ。全力で否定するのも怪しまれるため、「格好いいって思ってほしい相手に会うだけ。約束とかはしてないんだけど」と弁当を受け取りながら返答すると、母親は目を輝かせ「どんな子?同い年?年下?」と質問攻めが始まってしまった。どうにか適当にはぐらかし、母親の攻撃から逃げる様になんとか家を出た。
 外は薄暗く、小雨が降っている。湿度のせいで折角整えた髪が台無しになりませんように、と願いながら、真っ黒な傘をさして己の身を守る。傘がぱっと音を立てて開く瞬間が好きだ。雨粒が小さいせいか、傘に雨が落ちる音は聞こえないが、車が水たまりの上を走行した際に飛び散った水しぶきを見る。綺麗だと感じると同時に、雨の日は電車が若干混むことと、地味に遅延が発生することを思い出した。折角、自発的に行動したのは良いものの、瀬爪に会えなかったら意味がないなと自然に歩くスピードが速くなる。表情の読めない二つ年下の後輩に対して、ここまで必死になっている自分に呆れるが、目的を持ちながら行動するのは楽しい。退屈じゃない時間は、長ければ長いほど良いのだ。
 駅に着き、傘に付着した雨粒達を軽く払いながら傘を畳む。電光掲示板を確認すれば、遅延の知らせは無く、通常運行だと安堵した。
他校の女子高生二人組が、前髪を触りながら「変じゃない?」と確認し合っている様が微笑ましい。普段ならなんとも思わないだろうが、俺も彼女達に釣られるように前髪を軽く触った。シトラスの香りがするワックスは、坂口に数か月前に勧められ、いつか使うだろうと買って以降、ほとんど使用せずに残っていたものをつけている。良い香りだと思う反面、坂口を不意に思い出すため、今日のヘアセットが好評だったら別の香りのものを買おうと決意した。
 改札を抜けて二番乗り場に移動する。いつもならスマホゲームでもやりながら電車が来るのを待つが、そんな気分にもなれず、線路を徐々に濡らしていく雨をぼんやりと眺めていた。
傘を持つ手に不自然と力が入る。緊張しているのだろうか。俺が、ただの後輩に会うという行為に。いやいや、無い。断じてない。ただ、俺は親切心で、彼奴を気にかけているだけだ。意外と素直で良い奴だと分かったから。これも何かの縁だろうと声を掛けるだけ。
 電車が当駅に到着し、ゆっくりと減速して止まった。扉が開きます、ご注意ください、とアナウンスが入った後、真っ先に瀬爪の姿を探す。
 居た。昨日と同じ場所に彼は立っていて、同様に澄んだ瞳で外を眺めている。
 電車に乗り込み、一歩ずつ瀬爪に近寄る。イヤホンをしているため、名を呼んでも気が付かないだろうと、ぽん、と肩を叩こうと手を伸ばそうとした瞬間、瀬爪の瞳が、窓の外の景色から俺へと視線を捉えた。綺麗な瞳が、驚きからか徐々に大きく見開かれる。一瞬の変化が、スローモーションの様に見えた。
「よ、偶然だな」
 偶然ではなく必然にしているのだが、あくまでも偶然を装い自然と声を掛けた。瀬爪が口を開いた瞬間、扉が閉まり、電車がまた少しずつ動き出す。
「新山先輩。最寄り、ここなのか?」
「そうそう。乗ろうとしたらお前見つけてさ。声かけちまったけど、迷惑だったか?」
「いいや、迷惑なんて思わない」
 瀬爪はイヤホンを外し、ケースに入れて鞄に仕舞った。最初から片耳にしかつけていなかった様で、これなら近寄る前に名前を呼んでも良かったなと思う。
 俺から何か話題を提供しないと、このまま何も起こらずに学校に着いてしまうような予感がする、そんな空気感だった。瀬爪は俺の言葉を待つように、じっと見つめてくるが、何から話をしたらいいかが分からない。聞きたいことは勿論、山ほどある。昨日は変な奴に絡まれなかったか、友達は居るのか、何か不安なことは無いか、身近に頼れる存在は居るのか。しかし、どれも親戚の痛々しいオジサンのような質問やお節介ごとで、瀬爪に呆れられるか、厄介者認定を受けるような気がしてならない。適当に話題を提供したり、話を盛り上げりするのは得意な方だと思っていたが、肝心な時に機能しない特技は、特技と呼べないだろう。
「かみ、」
 沈黙を破るように、瀬爪が小さく呟いた。
「かみ?」
 縋るように、彼の言葉を繰り返し口にしてみる。すると彼は、己の前髪に軽く触れながら、俺の頭部や態と跳ねさせた毛先を見つめる。
「昨日と違うんだな、と思って」
「ああ、コレか」
 特に瀬爪からヘアセットに対しては何も触れられないと思っていたため、少し驚きながらも眉を少し下げて俺は笑った。
「だいぶ前に買ったワックス、全然使ってなくてさ。久しぶりに使ってみたんだけど、今日、雨降ってるって知らなくて。湿気ですぐに崩れちまいそうで、失敗したなって思ってたとこ」
「そうだったのか」
 瀬爪はもう一度俺の髪に視線を向ける。話題終了、次の話題にスムーズに移行させようと口を開きかけた時、瀬爪も閉ざしていた薄い唇を僅かに開かせた。
「格好いいな、良く似合ってる」
 にこりと笑いはしないが、真っ直ぐで澄んだ瞳に見詰められながら褒められると、俺もどう反応すれば良いか分からない。
「…はは、ありがとな、瀬爪。嬉しい事言ってくれちゃって、先輩感激ですよ」
 大袈裟に、少し茶化す様に感謝を伝えると瀬爪は何も言ってこなかった。それでも、胸の中にじんわりとした温かい感情が広がり、頬が緩む。
「ちなみに、昨日の俺とどっちがイケてる?」
 瀬爪は少し考える様に目を伏せる。数秒の沈黙を破るように反対側の扉が開き、数人が電車から出たり入ったりしている。丁度、扉が閉まるタイミングで中年のおじさんが乗り込んで来た。おじさんが履いている灰色のズボンの裾が、片足だけ黒く染まっている。水たまりに足でも突っ込んだのだろうか、不運だったな、と同情した時、「どっちも」と瀬爪が呟く。一度逸らしていた視線をもう一度彼に向ければ、彼は此方に手を伸ばしていたようで、俺が振り向いた瞬間に、慌てて引っ込めていた。
「瀬爪?」
 引っ込めた手掴んでしまおうかとも考えたが、名を呼ぶだけに留めた。瀬爪は首を軽く横に振り、「ゴミが付いていたが、振り向いた時の反動で落ちた」と言った。
 そんなことなら、そんなに慌てて手を引っ込めなくても良いだろう、と言いたかったが、この台詞も言わずに留める。
「にしても、どっちもなんてホント俺を喜ばせるのが上手いようで」
 己の髪に触れながら言えば、瀬爪は不思議そうに目をぱちぱちと瞬きさせた。
「良く似合ってる。俺に尋ねなくても皆がそう答えるだろうな」
 お前だから尋ねたんだ、とも俺は言えなかった。
瀬爪が「でも、」と続けた瞬間、電車が大きく揺れ、瀬爪は壁際に背をぶつける。俺は彼に覆い被さる様に、手を壁際に着けて体制を支えた。瀬爪を守る様に俺が立っている。所謂、壁ドンのようなものだろうか、距離が近い。瀬爪の使っているシャンプーなのか、昨日も香ったシャボンの良い香りがする。にしても、近い。電車は急ブレーキをかけたようで、謝罪と数分この場に停車することが繰り返しアナウンスされていた。
 もう揺れは止まったというのに、動くのが惜しい。こんなに至近距離だというのに、瀬爪の表情が一切変わらないのは少し悔しいが、アーモンド色の綺麗な瞳が、俺をいっぱいに映しているという事実が堪らなかった。
「どっちも格好いいと思っているのに偽りはないが」
 この状況下でも平然としている瀬爪は、更に俺に顔を近づけ、首筋付近まで顔を寄せた。なんだ、なんの時間だ、と頭をフル回転させれば、瀬爪は顔を遠ざけ、美しい瞳で俺を見詰める。視線が合う。
「この香り、好きだ」
 瀬爪が動くたびに香るシャボンの香りだって、ものすごく優しくて好きだ。俺もそう言い返したいのに、思わぬ衝撃に目を見開く事しか出来ない。
「先輩、もう平気だ。離れても大丈夫だと思う」
「わ、悪い」
 数秒の沈黙後、瀬爪の声が聞こえて我に返り、壁についていた手を離しそっと距離を取る。
「急ブレーキ、びっくりしたな。お前、背中ぶつけただろ、痛くねぇか?」
「問題ない」
「そっか、よかったよ」
「新山先輩も、大丈夫か?」
「俺は頑丈なんで平気平気」
 に、っと歯を見せて笑ってみれば、瀬爪は頷いた。「良かった」って事なんだろう。俺はそう解釈することにした。
 ここまでは順調に瀬爪と距離を縮められている気がするが、昨日、俺を無視した事実だけが妙に引っかかる。わざわざ掘り返し、何故無視したか問いかけた結果、「面倒な気配がしたから、意図的に無視した」なんて瀬爪に言われたら暫く立ち直れないかもしれない。
昨日の事は無かった事にして、特に触れずに終わらせてしまおうとも思ったが、面倒だと思われているのなら、今のうちに彼にハッキリ言われた方が良いなとも思う。
俺が瀬爪を一方的に気に入っているからと言って、彼の迷惑になるくらい付きまとうのは違うだろう。格好いい新山彩季から、うざったくてイタい先輩にランクダウンするのは俺としても避けたい。
「あのさ、瀬爪」
 呼びかければ、彼は勿論無視なんてせずに視線を合わせてくれる。
「昨日、昇降口でも俺ら会った、よな?」
 瀬爪は特に気まずい雰囲気も出さずに頷いた。
その瞬間、意図的に無視されていたという事実が重く頭にのしかかり、乾いた笑いが自然と漏れる。
「昨日の朝も、俺は嬉しかったな。新山先輩、俺の事気にかけてくれたのか、って」
 予想していなかった瀬爪の言葉に、目を丸くする。
嬉しかった。今、彼はそう言ったのか?
 感情がプラスとマイナスで行き来して、自分でもよく分からない。嬉しかったのに無視するとはどういう原理だ。
「嬉しかったなら、無視しなくても良いだろ」
 軽く髪を掻き回しながら、悩んだ末に問いかけた。ヘアセットのせいで、普段の様に髪が流れてくれず、若干イライラとしながらも、彼の言葉を待つ。
 返って来た返答は、やはり想像とは違っていた。
「無視、したことになってたのか。悪かった。先輩の後ろに、女の…多分、三年の先輩が居た。新山先輩に声を掛けようとしていたから、俺が居ると邪魔かと思ったんだが、」
「女?」
 昨日の事を思い浮かべる。そういえば、瀬爪に無視された直後、長野に話し掛けられ、雑談をしながら教室に一緒に向かったのを思い出した。
「ああ、そういえば」
 瀬爪に声かける前から彼女は俺の近くに居て、俺と同じようにタイミングを窺っていたのだろうか。
「先輩は優しいからな。俺の事が放っておけないから、良心で声を掛けようとしてくれたんだろう?今もそうだ」
 もうすぐこの電車を降りなければいけない。間もなく到着すると、アナウンスが聞こえてくる。いつの間に停車していた電車は動き出したのだろう。全くもって覚えていない。もう少し、この時間に浸っていたかった。誰にも邪魔されない、この時間に。
「無視したつもりは無かったんだが、気を悪くさせたなら、」
「マジかよ。ごめんな、瀬爪。俺の勘違いだった」
 瀬爪が謝る前に己の声で掻き消し、謝罪する。不器用なだけで、意図して人が傷つくようなことを彼はしない。そんな事、昨日から、いや、田中を助けるために自分が身代わりとなったあの日から分かり切っていた事じゃないか。
「でも、良かった。余計な世話して嫌われてんじゃねぇかって思ってたからさ」
 瀬爪はゆっくりと首を振り、否定をした。
「ありがとう」
「え?」
 扉が開く。瀬爪はゆっくりと電車から降りたため、俺も後に続くように降りるが、彼の言葉に気を取られたせいか、ワンテンポ降りるのが遅れてしまい、先を行く瀬爪と俺の間に人が一人挟まった。少しの間、絶妙な距離が俺たちの間に生まれる。
 改札を抜けた先で瀬爪が待っていてくれたため、速足で彼に駆け寄った。
「悪い、降りるタイミング合わなくて」
「今日は雨だから、人が多いな」
 瀬爪はゆっくりと傘を開く。どこにでも売っていそうな透明のビニール傘が、やけに綺麗に見えた。薄く付着している雨粒がキラキラと光っている。
「ありがとう、先輩」
 雨音交じりに、はっきり聞こえた。
「礼を、ちゃんと言えてなかったと思って。本当に感謝してる」
 少し先を歩く瀬爪が、振り向きながら僅かに口角を上げて微笑んだ。
 彼が笑った顔を初めて見た。ビニール越しだったのが酷く惜しい。
「別に、礼なんて、そんな」
 彼と出会った当初の俺と、今の俺は果たして同一人物なのかと疑うくらい謙虚な言葉が出てきて自分でも呆れる。あの日は、感謝しろ、褒め称えろ、と可愛げのない彼に、傲慢さをぶつけていたというのに。
 瀬爪の隣に並べば、彼は俺の方を見てはまた緩く微笑む。
「やっぱり、先輩は優しいな」
 そう言った彼の横顔を、ずっと見ていたいと思うくらいに、彼の表情は柔らかく綺麗だった。普段はクールで無表情な彼が、自分には緩んだ表情を見せてくれるのかと思うと胸がいっぱいになる。
「なあ、瀬爪。俺が来なかったら、彼奴らどうやって片付けようとしてたんだよ」
 密かに感じていた疑問をぶつけると、瀬爪は真顔で応える。
「ちゃんと考えていなかった。田中が無事だったらそれで良かったからな」
 自己犠牲のような回答に、眉間に皺を寄せたのも束の間、
「でも、新山先輩が来てくれた。凄く格好良かった。それで十分だ」
 瀬爪はそう言って俺を見詰める。
照れながら言ってくれたならまだ良かった。なに照れてるんだよ、と茶化すことも出来たし、その小恥ずかしい台詞を笑う様に、格好いいだろ、とおどけてみることも出来た。
 真っ直ぐな瞳に加えて、美しく嘘偽りのない優しい声が、俺を包む。
「…雨、止んできたな。放課後まで降ってないといいけど」
 流石に気恥ずかしかったため、天気へと話題を逸らした。瀬爪は、ビニール越しに空を見上げ、小さく頷いた。
駅から学校までの距離は十分もかからない。適当に会話を重ねていたら、あっという間に昇降口に着いてしまった。手を濡らしたくないからと、留め具の端を人差し指と親指で極力濡れないように掴みながら、汚く雑に傘を畳んだ俺に対し、瀬爪は丁寧にビニール傘を畳んだ。一年三組とラミネートされた紙が貼られている傘立ての端っこの枠の中に、瀬爪の新品の様に美しく畳まれた傘が吸い込まれるように収納されていく様子をじっと見つめてしまう。
「あのさ、瀬爪」
 一年と三年のロッカーは、間に二年のロッカーがあるせいで離れた場所にある。自身の場所に行く前に、そのまま去って行ってしまいそうな彼を呼び止めた。次の約束をしておかないと、また彼が遠くに行ってしまう気がする。
「昼飯、とか。今日、一緒にどうだ?」
 思わず視線を逸らす。断られたらきついな、と思いながら、「いや、ほら。お前がまた変な奴らに絡まれたりしたら危ないだろ?暫くは少しでも、俺と一緒の方が良いかと思ってさ」とペラペラ誘った理由を聞かれてもないのに述べてしまう。お前ともっと話してみたいと素直に言えば良いものを。言い訳がましい男はダサいぞ、と自分自身に喝を入れるが、それと同時に「昼は、」と瀬爪の透き通った声が聞こえた。
「田中に、昨日誘われたんだ。一人で食ってるなら一緒に、って」
「…そうか、分かった。俺も急に誘ってごめんな。田中と仲良くしろよ」
 正直、断られる未来をあまり想像できていなかったため、自分の傲慢さに恥ずかしくなった。田中に一足先を越されたことに若干の苛立ちと羨ましさを抱えながらも、瀬爪には平然を装い笑ってみせる。
 このまま一年の教室へと向かってしまう瀬爪を引き止める方法は、放課後、一緒に帰ろうと誘うことくらいだろうが、昼も誘って放課後も誘うなんてウザがられないか?と変に頭を働かせしまい、一歩がなかなか踏み出せない。
 ダサい。最高にダサいぞ、新山彩季。
 瀬爪は不思議そうに俺を見詰めながらも、昨日の様に背を向けて去っていったりはしない。その優しさに甘えて、誘ってしまおう。駄目なら駄目で良いじゃないか。彼にどう思われるかを大事にするんじゃなくて、今は、俺がどうしたいかを大事にしよう。
 俺は既に、この不愛想でクールな後輩が気になって仕方がない。可愛くて仕方がないとさえ思っている。
「放課後、お前のクラス迎えに行く。一緒に帰るぞ」
 願望が現れまくって、誘いどころか決定事項の様に伝えてしまったのは最悪すぎるが、口にしてしまったものは仕方がない。反省は後からでもできる。
「…そんなに俺が心配なのか?」
 瀬爪は少し首を傾げた。俺よりも身長が低いせいか、上目遣いになる彼の瞳は相変わらずキラキラしていて眩しい。
「そりゃ、そうだろ。何しでかすか分かんねぇしな」
心配か心配じゃないかの二択を問われれば、勿論、誤解を生みやすい彼の事は心配である。ただ、一緒に帰る理由は他の感情も関係してくるのだが、瀬爪には恐らく伝わっていない。
「分かった。でも、別に俺の教室に来なくても」
「いいや、行く。お前は待ってろ」
 俺の圧に負けてか、瀬爪はしぶしぶ頷いて教室へと向かっていった。一先ず、約束を取り付けた事に安堵の息を漏らし、軽い足取りで教室に向かう。
 教室に入ると、坂口と長野が二人で喋っていた。机に向かいながら軽く挨拶をすると、長野が「あ!」と大きな声を出す。
「新山いつもと髪型違う!格好いいね」
 長野に今日の髪型を褒められ、ヘアセットがいつもと違うことを思いだした。遅れて坂口も、直ぐに俺の髪型が違うと口にして、似合ってると笑った。
「新山、急にイメチェン?」
「なんだよ、心境の変化か?」
 長野と坂口が順に揶揄う様に問いかけてくるため、そういう気分だっただけだと適当に軽くあしらおうとしたが、やめて意地悪気に笑ってみせた。
「格好いい、って言ってほしい相手がいるんだよ」
 二人の反応は想像以上で、教室に響く坂口の「マジで⁈」なんて声と、長野の「きゃあ!誰!誰⁉」なんて声が鼓膜を痛いくらいに刺激した。
「盛り上がってるね、何の話~?」
 更に矢島が合流し、坂口が先ほどの俺の台詞を下手な俺の声モノマネ付きで説明する。矢島には何か勘付かれそうで冷や汗が止まらない。ニマニマとしながら俺の方をじっと見つめてくる矢島は、心底楽しそうに俺に問いかけた。
「で?格好いいって言われたの?」
 答えません、という意思表示をすべく口を閉ざす俺に、矢島はしつこいくらい顔を近づけ、「ねえ、どうだった?教えてよ」と迫ってくる。こうなると此奴は面倒くさいし、絶対に折れない。諦めが肝心だ。
「…言われましたけど」
 痺れを切らし口にすれば、また煩い声が鼓膜を刺激した。
「ちょ、え、ねえ!聞いてよ、新山が!」
 俺の話題をすぐに広めようと、友人の名前を呼びこの場を離れた長野の後ろ姿を視界の端に入れる。これは噂が広まるのは秒だな、と確信してため息が出た。言い出したのは俺自身であるため、自業自得ではあるが。
「なあなあ、この前言ってた、ずっと片思いしてるっていう近所のお姉さんの話?」
 坂口は興奮しきった様子で俺に問いかけてくる。架空の近所のお姉さん。俺の都合のいい想い人。そんな人物も居たな、なんて思いつつ頷こうとしたが、このワックスの香りが好きだと言っていた瀬爪の事を不意に思い出す。
 弄った毛先に触れれば、シトラスの香りがした。坂口に勧められた、坂口と同じモノ。その事実に無性に腹が立ち、半ば八つ当たりの様に「お前には絶対教えない」と告げた。直後、チャイムと同時に、坂口の宿敵和田の「席に着け~」という間抜けな声が聞こえていたため、坂口は眉間に皺を寄せ、思いっきり舌打ちをした。