昼休みに自販機に向かう最中、坂口と矢島は俺が撮った証拠動画を夢中で観ている。俺のスマホを坂口が持ち、肩と肩がぶつかるほど近距離で映像を観る二人を、若干後ろで髪をくしゃりと撫ぜながらついて行く。時折、前を見ていない二人が他の生徒とぶつかりそうになるため「危ないぞ」と声をかけるのが俺の役割だ。
撮った動画をまじまじと夢中で観られるのは、俺が映っていないとしても気恥ずかしい。恥じらいを隠す様に髪に触れる癖を治したいが、癖というものはやってから気づくものである。髪が乱れたのを感じながらひとつ溜息をつくも、俺の心情なんてお構いなしに前を歩く二人は楽しそうに動画を繰り返し再生させている。
「彩季かっこいいねえ」
「救世主だもんな!」
 証拠動画を撮っていたことを二人に公言したわけじゃないが、矢島に昨日あった出来事を説明している際に動画の存在がバレ、観たいとせがまれ今に至る。
因みに、昨日坂口に話した時には「すげえなお前、流石俺の親友」と褒められはしたが、他は特に何もツッコまれなかった。彼奴は単純思考なのだろう、矢島の「証拠動画見せてよ。あるんでしょ?」という指摘に目を輝かせ、「そうじゃん!なんで俺、昨日見せてもらわなかったんだろ」と大きな声で言うと、俺のスマホを奪い取り、証拠動画を見始めた。見終わると、大袈裟なほど俺を褒め称える。本当に恥ずかしい奴だ。俺はまた、髪をくしゃりと撫ぜた。
「囚われのヒロイン、全然映ってないけどどんな奴?一年?」
 坂口は何度か瀬爪が若干映っているところを巻き戻しながら俺に問いかける。
「ヒロインって…助けた奴男だし」
 苦笑いを浮かべるも、坂口は楽しそうに目を輝かせ笑った。
「悪い奴らから守ってもらうって、ヒロインっぽいじゃん」
「いや…シチュエーション的にはそうかもしれねえけど、彼奴、ヒロインって感じじゃないんだよ」
「どういうこと?」
「悪い奴じゃないのは分かるんだけどさ、可愛げが皆無っつーか…」
 不愛想で表情の変化が乏しく、颯爽と姿を消す後輩を可愛いとは思えないだろう。しかも、今朝、がっつり俺を無視しやがった。
坂口は「ふーん?」と不思議そうに首を傾げる。彼奴に会ってみないと、あの何とも言い難い可愛げのなさは伝わらないだろう。
 坂口は動画を数回観て満足したのか、矢島に一言断りを入れて俺にスマホを返却する。
俺のスマホ、やっと帰って来たな。かれこれ数十分は手元になかっただろう。坂口からスマホを受け取り、つきっぱなしの動画に視線をやる。この動画、実は自分自身ではあまり見ていない。ちゃんと証拠として機能する動画が撮れているか、一度確認して以来、全く再生していなかった。
 なんとなく再生ボタンを押すと、瀬爪を脅す馬鹿どもの顔がハッキリと映っている。こんな汚い動画、早く消してしまいたい。教師にデータをさっさと渡して削除してしまうのもありだが、やはり勿体なさを感じるのは何故だろう。
「彩季も偉いねぇ、俺なら放置して帰っちゃうな~。見知らぬ子助けたいって思わないし」
 矢島は呑気に欠伸をすると、少し歩く速度を下げ、後ろに居た俺の横へとポジションを変えた。それ故、話しにくくなった坂口が俺達へと顔を向け、後ろ向きで歩きながら自販機へと向かう。
 偉いと矢島に言われたが、果たしてどうなのだろうか。
「偉いのは俺じゃなくて、その囚われた一年だよ」
「え、なんで?」
 矢島の言葉を訂正したつもりだったが、食いついてきたのは坂口だった。説明しないわけにもいかず、重たい口をゆっくりと開けた。
「此奴、先に目つけられたクラスメイト庇って、一人で立ち向かったんだと」
 昨日、瀬爪が居なくなった後に田中から聞いた話をそのまま二人に伝えれば、驚きと感心が混ざり合った様子で「へえ」と揃って相槌を打っている。
「かっけえな、そりゃ」
「そうだね。ま、彩季が来なかったらどうするつもりだったかにもよるけど」
 純粋な瞳を輝かせながら言葉を発する坂口と、現実的というか皮肉も混じった言葉を発する矢島。二人の言葉に「そうだな」と返事をすれば、目的地である中庭の自動販売機へと到着した。
 本校の中庭には、自動販売機が三台ある。三段に分かれており、水やお茶、炭酸飲料にスポーツドリンクなどが購入できる一般的なものが二台と、紙パック専用の少し変わった四段の自販機が一台。俺は、微糖の蓋つき缶コーヒーがかなりお気に入りだが、俺以外に物理のじいちゃん先生しか購入しているところを見たことがなく、かなり不人気な商品だろうなと毎度思う。夏場は即座に売り切れの文字が出るスポーツドリンクは勿論、他の商品でも売り切れの文字は何度か見たことがあるのに、この缶コーヒーが売り切れているところは正直見たことが無い。卒業までに一度は見てみたいものだ。
 坂口は毎度、紙パックのオレンジジュースを。矢島は、紙パックの飲むヨーグルトを購入する。
 本日も坂口は普段と変わらずオレンジジュースが売っている自販機のコイン投入口に百円を滑らせていた。紙パックのジュースは全品百円のため、躊躇いもなく購入してしまうのが罠である。俺も今日はオレンジジュースにしてみるか、とポケットに入れておいた財布を取り出すと、坂口に「ストップ」と止められた。
「救世主よ、今日もいつもの?奢ってやるよ」
 坂口は自分の財布から小銭を抜くと、俺に百円玉を二枚差し出した。
「え、マジ?」
 予想していなかった坂口の奢りに、露骨に俺のテンションも上がる。
「いいな~。修二、俺にも奢ってよ。昨日、俺めっちゃ部活頑張ったよ~」
 坂口から躊躇いもなく二百円を受け取ると、すかさず矢島が俺の肩を掴みゆらゆらと揺らしてきた。
 矢島の強請りに坂口は嫌な顔はしなかったが、困ったように笑う。
「矢島は部活いつも頑張ってるだろ。今日奢ったら、これから毎日奢ってやらなきゃいけなくなるじゃん」
 さらっと矢島を褒める坂口に、一瞬驚いたように目を開いた矢島だったが、そんな表情は一瞬で消え、目を細めてご満悦そうに笑う。
矢島は俺の肩に乗せていた手を離し、自分の財布から小銭を取り出して坂口と同じオレンジジュ―スを購入した。
「あれ、飲むヨーグルトじゃないの?」
「今日はコレの気分なの」
 坂口の問いかけに上機嫌に返した矢島は、早速ストローを差し込み咥えて、オレンジジュースの甘酸っぱい味を堪能している。
「案外美味しいね、オレンジジュース」
 矢島は紙パックのオレンジジュースに記載されている成分表をチラチラと見た。特段、拘りなんて無いのに、俺も気に入った商品の成分表は自然と見てしまう。きっと、矢島もそうなのだろう。
 一方、坂口はオレンジジュースを褒められたのが嬉しいのか、頬を緩めていた。
「だろ。矢島も今日からオレンジジュースデビューする?」
「ん~…、今日だけでいいかなぁ」
 矢島が楽しそうに笑うので、俺も坂口も釣られて笑う。
 坂口も矢島に続くように紙パックにストローを差し込んだ。俺の購入待ちか、と自販機を一通り眺める。折角もらった二百円だが、無性にもオレンジジュースが飲みたくなってきている。
「俺も久しぶりにオレンジジュースにしよっかな」
「お、いいじゃん。超美味いぜ、お兄さん」
「美味しいよ~お兄さん」
「なんだよ、そのノリは」
 後ろにいるであろう二人の方を向こうと、一歩下がりながら少し勢いよく振り向く。その瞬間、肩と肩がぶつかり、思わず「おっと、」と声が漏れた。
「悪ぃ、そんな近くに居ると思わなか、」
 坂口か矢島とぶつかったと思い、軽く謝るのも束の間。俺とぶつかったのは親友二人のどちらでもなく、少し背の低い、柔い癖毛が特徴の男子生徒。
「お前、瀬爪じゃん」
「…新山、先輩」
 俺の目を真っ直ぐに見つめるアーモンド色の美しい瞳。若干大人びた声が、昨日の記憶を蘇らせる。間違いなく今ぶつかった男は、昨日、俺が助けた(今朝、俺の事を無視した)一年、瀬爪だ。坂口の言葉を借りるならヒロインだが、どっからどう見てもヒロインには見えない。俺の知る物語のヒロインは、もっと気弱で、健気で、儚く、可愛らしいものだ。
 坂口が「あ、ヒロイン」となんの躊躇もなく言い放ったような、そんな声が聞こえたが無視をする。矢島が上手く押さえつけてくれていると信じよう。坂口よ、頼むから余計な口は挟まないでくれ。
 瀬爪は足元に落ちている、ビニール袋に入ったパンを拾っていた。俺とぶつかった衝撃で落ちたのだろうか。ビニールで保護されていたため、食べられないわけではないが、罪悪感がふつふつと込み上げてくる。
「悪いな、俺のせいで。新しいの買ってくるか?」
 握っていた二百円を一旦渡そうとすると、瀬爪は首をゆっくり横に振った。髪が揺れた時に香ったシャボンの香りが鼻腔をくすぐる。香水かシャンプー、柔軟剤等の香りだろうか。控え目だが、優しい香りだった。
「問題無い。これは食える」
 ビニール袋のパンを見詰めながら、淡々とした声のトーンで答える瀬爪からは感情の色を感じられない。怒っているのか、無関心なのか、それすら判断がつかない状態に俺は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
「でも、なんか申し訳ないだろ」
 もう一度、硬貨を差し出すと瀬爪は俺の掌に並ぶ百円玉にもう一度目をやり、また首を振った。
「不要だ。新山先輩は、その金で何か買いに来たんだろ?」
「いや、でもさ…」
 実際には坂口から貰った金だが、わざわざ伝える必要もないかと黙っておく。数秒の沈黙が俺らの間に生まれ、瀬爪が軽く会釈をして立ち去ろうとした瞬間、坂口が「まあ、待てよ」と間に割り込んできた。坂口の表情は、ヒロインの姿を生で見れて嬉しいのか、単に揶揄いたいのか分からないが楽しそうだ。
「瀬爪くん、だっけ?新山に助けてもらったんだろ」
 坂口は瀬爪に顔を近づけながら述べ、自分が助けたわけでもないのに、何故か自慢げにドヤ顔を決めた。その勢いのまま、俺の背に手を回し、思い切り背筋を叩く。地味に痛い。
「かっけえよな、新山」
俺を称えてくれることに関しては素直に嬉しいが、対する瀬爪が無言なのが地味に辛い。そんな複雑な心境を持つ俺のことなどお構いなしに、坂口はまた口を開く。
「でも、お前も友達助けようとしたんだろ?大した度胸だよな、俺、感動したもんね」
「…誰から聞いたんだ、それ」
 瀬爪は一瞬目を丸くするも、直ぐに真顔に戻り、俺の方を向いて問いかけてきた。坂口もここで突っかかるとは思っていなかったのだろう。驚いた表情を浮かべながら、俺を指さす。
「え、新山に決まって、」
「それは、分かっている。新山先輩は誰に聞いたんだ」
 瀬爪の視線は一切坂口を捉えることなく俺に向いていた。俺はこの、美しいアーモンドアイに弱いのだろうか、目を逸らすことが出来ない。
「瀬爪が帰った後、田中に…」
 正直に述べれば、瀬爪も納得がいったようで「ああ、彼奴か」と呟き頷いた。
「余計な話を聞かせたようで、悪かった」
 瀬爪からしたら、自分のエゴで誰かを助けた英雄談は、余計な話というジャンルに分けられるらしい。瀬爪が人を助ける優しい奴だと知れて嬉しかったのだが、敢えて言わずに飲み込むことにする。
「田中って意外と良く喋るよな」
話題を田中へと逸らせば、瀬爪は小さく頷いた。
「俺の名前だって、お前が知ってるの彼奴のせいだろ?」
 昨日、田中には自己紹介をしたが、瀬爪には自分の名を告げていない。他人に興味はありません、なんて表情をしている瀬爪が、俺の名を知ってたことに驚いていたのだが、考えれば至極まっとうな正解が浮かび上がって来た。
 俺は田中に“困った事があればいつでも来い”と瀬爪にも伝えてくれと大見得を張っていって言ってしまっていた。律儀な田中は、その伝言と一緒に俺の名も伝えたのだろう。朝一番、瀬爪の席に駆け寄って、昨日の礼を必死な顔をしながら伝えている田中の姿は想像が容易く、思わず笑みがこぼれる。
「ああ。彼奴、田中に先輩の名を教えてもらった」
 瀬爪は相変わらず真っ直ぐな視線を俺に向けている。
「おいおい、新山。他人使って売名行為なんて恥ずかしくないのかよ」
 割り込んできた坂口は、ヘラヘラと笑いながら俺の肩を肘で突いてくる。矢島に此奴のダル絡みをどうにかしろと視線をやっても、オレンジジュースをチビチビ飲みながら、傍観を続けるだけの様だ。視線が全く合わない。薄情者め。
 はあ、と一つ溜息を吐く。特に自分を善だと、正義のヒーローだと押し売りがしたくて助けたわけでも、名を売るように教えたわけでもなかった。田中に助けを求められ、結果的に瀬爪を助けることになったが、そのことを、こんな形で親友たちに自慢するように伝えたかったわけじゃない。これでは俺が、助けたことを自慢げに話す痛い奴じゃないか。若干の苛立ちから、自分の髪を乱雑に掻き回した。
 瀬爪は真顔で俺の方を見詰め、ゆっくりと薄い唇を動かす。
「田中から無理やり教えられたわけじゃない。俺から彼奴に聞きに行った」
「え、」
 思わず目を見開き、瀬爪を凝視してしまう。恐らく、俺を揶揄って遊んでいた坂口も同じように驚いているだろう。矢島の表情はあまり変わらないが、何か楽しい事が起こるかもしれないと口角を若干上げたのではないだろうか。全て推測でしかない。親友二人の表情の変化を確認できるほど、俺には余裕がなかった。
 瀬爪は、ずっと俺から視線を逸らさない。
「格好いいと思った男の名は、誰だって知りたいだろ。だから、俺の意思で聞いた」
 照れる様子も恥じる様子も無く、ただ真っ直ぐな、嘘偽りのない言葉が俺の胸を容赦なく貫く。世辞の含まれない純粋な言葉を、馬鹿で単純な坂口も俺に伝えてくれたりする。しかし、瀬爪の言葉は更に澄んでいる。心に溶けていくように貫いた後、じんわりと彼の言葉が侵食していくような、そんな感覚に陥った。
 格好いいから名前を聞きに行った、彼は確かにそう言った。新山彩季という、昨日突如現れた先輩が、彼には格好良く映ったらしい。
「でも、昨日は全然…目とか全く合わなかっただろ」
「自分一人じゃ田中を助けられなかった事実に向き合っていた」
「なるほどなぁ…」
 制服の砂埃を払いながら心中では反省会をしていたのか?と疑問に思いはするものの、やはり嬉しさは隠しきれない。
「先輩は何を買うつもりだったんだ?」
 俺が感動を味わっていることなどお構いなしに、瀬爪は自販機へと視線を動かし、俺に問いかけた。
 瀬爪が見ている自販機を俺も視界に入れる。先ほどまでは、親友二人とお揃いの紙パックのオレンジジュ―スを買おうと考えていたが、矢島は一旦置いておいて、坂口という名の馬鹿と同じ幼稚な飲み物を飲んでいると瀬爪に思われたくなかった。
「微糖の、缶コーヒーだな」
 いつもこれ、と付け足せば、瀬爪は百五十円と値段が記載された缶コーヒーのボタンを見詰める。数回瞬きをすれば、ゆっくりと頷いた。
「なら、これを買うといい。その握りしめてる二百円は、そのコーヒーを買うために握られているんだろ」
 瀬爪は再度、俺の握られている百円玉二枚を一度視界にいれれば、軽く会釈をし、背を向けてこの場から去るように歩いて行った。昨日と同様、背中が逞しく美しく見える。
「あ、ちょ!瀬爪くん!俺、聞きたいことあったのに…」
「修二、後輩くんにあんまりダル絡みしないの」
 坂口が呼んでも瀬爪が振り返ることは無かった。がっくりと肩を落とす坂口に、漸くずっと観覧席にいた矢島が坂口の近くに来て、軽く励ます様に肩を叩く。坂口が俺の背を叩いた時とは違う、優しい音だ。
「矢島、俺の背中も叩いてくれねぇか…」
 咄嗟に口に出した言葉は、普段の自分が口にするとは到底思えない内容だった。「え」と坂口が驚いたような、引いたような、そんな声を隠しもせずに出す。
「彩季どうしちゃったの?普通に嫌なんだけど」
 矢島も明らかに嫌がるそぶりをし、「怖いんですけど」と付け足した。
 そう言われるのも無理はないな、と苦笑いし、ノロノロと足をゆっくりと動かしながら自販機の前に立った。坂口から貰った百円玉を二枚投入口に入れる。青いランプが光ったのを確認し、微糖の缶コーヒーのボタンを押せば、ガタンと音を立てて缶コーヒーが受け取り口に叩き落される。冷たい感触を右手に馴染ませるように拾った。
 右の掌にひんやりとした缶の冷たさが十分伝わったら、今度は缶コーヒーを両手で抱え、しゃがみ込む。
「ダメだ、にやけちまう」
 不愛想で全く可愛くないと思っていた後輩が、俺を格好いいと言った。
 誰に言われても嬉しい言葉ではあるものの、坂口たちが言う揶揄い混じりものや、女子の若干色目が入った甲高い声で言われるものではなく、純粋な瞳が映す先、俺だけに向けられた彼からの言葉は不思議と特別嬉しく感じた。格好良さの威厳のようなものを少しでも瀬爪に印象つけたいがため、気分とは的外れな缶コーヒーも買ってしまった。オレンジジュースが飲みたかった口は一体どこへ消えたのやら。
 無論、誰かに凄いと評価されることは嬉しい。親友の此奴らにだって、親にだって、先生、先輩、クラスメイト、近所の子供、誰からでも褒められることは嬉しいはずだ。なのに、なんだ、この浮遊できそうな感情は。
「あれは嬉しいよな」
「彩季さ、そんなニヤニヤしてんのちょっとキモイよ?」
 親友の対照的な言葉を聞いて立ち上がれば、買った缶コーヒーの蓋を開け、ぐっと一気に半分ほどコーヒーを流し込む。独特な味わいと甘さが口いっぱいに広がり、鼻腔をくすぐる瞬間が好きだ。オレンジジュースを買わずに、格好つけて缶コーヒーを買ったのはやはり正解だったかもしれない。
「なあ、新山」
 坂口は飲み終わった紙パックのオレンジジュースを自販機の横に設置してあるごみ箱に投げ捨てれば、俺の肩に腕を回した。
「可愛げない後輩ってのは、誤解だったな」
 瀬爪は校舎内に姿を消したため、昨日の様に長く後ろ姿を見てはいない。だけど、その背中の行く先を想像してしまうくらいには、一瞬のうちに彼は俺の中で放っておけない存在にまで昇格してしまったのだろう。自分の単純さに苦笑いしながらも頷いた。
「放っておけないよな、ああいう後輩は」
 坂口も頷き「そうだな」と笑う。
「新山って結構面倒見良いもんな。矢島もさ、サッカー部に可愛がってる後輩とか居んの?あんまりイメージないけど」
 未だにオレンジジュースを飲み終えていない矢島は、ストローを口に咥えたまま「んー」と何かを思い出す様に、視線を空へと向ける。数十秒後、予想通りと言っては可哀想かもしれないが「いないかな。俺、心開くまでに時間かかっちゃうから。後輩君たち嫌いじゃないけど、特別好きでもないんだよね」と真顔で言うため、「だよな」と坂口と二人で相槌を打った。
「矢島は新山みたいに後輩から好かれるタイプじゃないもんな!」
「分かる。矢島って何考えてるか分かんないんだよ」
「二人とも喧嘩売ってる?」
 ズズッと紙パックの中の液体が無くなった音がしたため、矢島は紙パックのごみを豪快にゴミ箱に投げ捨てれば、俺の方を見てニヤニヤと笑う。
「彩季さ、あの後輩くん可愛くて可愛くて仕方ないって今思ってるでしょ」
「え?いや、別にそこまでは…」
 確かに可愛いとは思ったし、最初の印象があまり良くなかったため、相対的に物凄くプラスの印象を今は抱いている。
「彩季は、自分の近くにいる人間に甘すぎるよ」
 矢島は俺の横に並んだ。自然と、教室に向かって足が進む。
「甘いか?」
「甘い甘い。さっきの後輩くん、超タメ口だったけど気になんなかった?」
「あ。言われてみれば確かに」
 そう呟いたのは俺ではなく坂口だ。「全然気にならなかった」とヘラヘラしており、気づいた矢島を称賛している。俺も全く気にならなかった。
「タメ口でも、俺は別に」
「はい、甘い」
 矢島はすかさず俺に告げれば、軽く尻を一発叩いてくる。
「なんなんだよ、」
「彩季が甘やかすから、周りの人間がどんどん馬鹿になってくんだよ」
 此奴とか、と矢島が親指で指す方向には、勿論坂口が居て「へ?」と間抜けな声を出している。坂口に関しては最初からこの調子だったとは思うが、第一印象は“優しくて明るい奴”だったため、今の印象とは少し異なる。今の印象は“優しくて明るい馬鹿”だ。
「別に俺、甘やかしてるとか、世話焼いてるつもりとか全然無いけどな」
「まあいいや。この調子で、俺の面倒も引き続き見てもらおっと」
 矢島は、いたずらっ子の様にニヤリと笑えば「今日、ファミレス寄って帰ろうよ。この財布で奢りね」と、右手に持っている財布をヒラヒラと見せびらかす。嫌な予感がして、尻ポケットに突っ込んでいた財布を取ろうとすると、あったはずの財布が無くなっていて、変わりに矢島の手に俺の財布が握られていた。
「お前、いつ取った?」
 驚きのあまり声が無意識に大きくなる。取られたなんて全く気が付かなかった。
「え?彩季の尻叩いた時」
「因みに、俺もばっちり見てた。矢島、めちゃくちゃ分かりやすく抜いていったけどな」
 坂口は楽しそうに笑うと「腹減った~」と俺の肩を組んでくる。反対側に居た矢島も、分かりやすく再度、俺の尻を叩き、財布をポケットへと戻した。
「奢りかは後で議論するとして、放課後ファミレスは決定で」
 矢島の馬鹿げた提案に呆れる様に笑えば「奢らねぇからな」と軽く反論する。最初から奢ってもらうつもりもない矢島は「え~」と落胆の声を上げてみるも、表情はあっけらかんとしていた。
「あれ、矢島部活は?」
 首を傾げる坂口に対し、矢島は「決まってんじゃん」と人差し指を立て、まるで名探偵が難事件の謎を解き明かすときの様に、坂口を指さした。
「サボる!」
「お前ってやつは…」
「はは、上が居なくなってからお前ほんと好き放題してるよな」
 昨年度、三年が引退してから矢島は部活に行ったり行かなかったり、好き放題している。本校のサッカー部は人数が多い割には大して強くもないため、仲間もコーチも顧問も特に何も言わないらしい。
「気楽に楽しむのが一番。ちょっと退屈だな~って思うくらいが一番楽しいんだよ」
 矢島はそう言って笑ったが、俺はそんな彼の考えが少し羨ましく感じる。
 平穏に生きてきた十七年間。それなりに楽しく、幸せだと言えるだろう。だけど、少し刺激が欲しいなんて思うのは我儘だろうか。
 教室に戻り、三人で弁当を食いながらしょうもない話を馬鹿みたいにする時間は好きだし楽しい。毎日のように弁当の隅に彩り要因で入れられるミニトマトを掴み、口に頬張りながら、ふと瀬爪の事を考えた。今頃、誰と何処で休み時間を過ごしているのだろうか。薄暗い空き教室で一人、パンを頬張る彼を想像してしまい、思わず眉間に皺を寄せる。
 明日、彼奴に会ったらそれとなく探ってみるか、と心に決めて、ミニトマトを流し込むように先ほど買ったコーヒーを飲んだ。最高に相性が悪く、更に眉間に皺を寄せる羽目になったが、矢島も坂口も、そんな俺の表情を見て、心配する様子は全くなく、楽しそうに笑った。