「新山、帰るぞー」
 何事もなく一日が終わり、放課後を迎えた。部活に所属していない俺と坂口は、HRが終わった後、そのまま鞄を適当に持ち、教室を出ていく。矢島はサッカー部に所属しているため、一緒に帰れるのはテスト期間で部活動が全て停止になる日、若しくは、彼奴がサボりたい日のみだ。今日は部活に励むらしく、頑張れよと彼の肩を叩いて、また明日な、と軽く手を振り別れた。
「帰りどっか寄ってく?」
 室内履きを脱ぎ、ロッカーから登下校用シューズを取り出しながら坂口に問いかける。
「俺、駅前の新しく出来たスポーツショップ行きたい。海外品の品ぞろがすげぇいいらしいんだよ」
「お前スポーツそんなにやらないだろ?」
「見るだけ見たいんだよ。それに、めちゃくちゃ派手でどぎつい色のサッカーボールあるらしくてさ。俺らで買って、矢島にリフティングさせる動画撮ろうぜ」
にやにやと笑いながら、坂口はやっとロッカーからシューズを取り出した。
ど派手な色のサッカーボールを、ただ淡々とリフティングする矢島の姿を想像すると、身内だからだろうが、とても可笑しい光景をみているようで思わず笑ってしまう。
「SNSにあげる気か?」
「矢島、リフティングだけはピカイチだし。新山だって見たいだろ」
「だけ、とか言ってやるなよな」
 坂口は突拍子もないことを躊躇いなく言うことが多い。彼にとって周囲の反応は二の次で、真っ先に思いついたことを誰かに共有したいのだろう。
明日には企画自体忘れていそうな、しょうもない話をしながら昇降口を出ようとした時、少し前を歩いてた坂口がピタリと足を止めた。
「坂口、どうした?」
問いかけると、坂口はズボンのポケットを触った後、鞄の中を慌てて確認し、俺の方へと顔を向ける。
「教室にスマホ忘れた!悪いけどちょっと待ってて」
 了解、と返事をする前に素早くまた靴を履き替え、坂口は教室へと戻っていく。忙しいやつだな、と彼の後ろ姿を見届けた。
坂口を待つ間、壁に凭れ掛かりスマホを見ながら時間を潰す。最近流行っているゲームのログインを今日はまだしていなかったと思い出し、ゲームを開いてログインボーナスを確認した。
「お。今日のログボなかなか良いアイテムだな」
 毎日継続してログインしてきたかいがある。上機嫌でそのまま画面を眺め、このアイテムをどう使うか、頭の中で軽くシミュレーションをしていると、遠くからドタドタと鈍く鳴る足音が聞こえた。坂口の他にも慌ただしい奴がいるもんだ、と音を聞きながら思う。だんだんその鈍くさい足音が近づいてきたため、スマホの画面から視線を上げれば、息を切らしながら必死に走ってくる男が映った。懸命に走っているからか、髪が乱れて額にくっつき、黒縁の眼鏡が若干ズレている。足の遅さと見た目から、きっと普段は運動しないガリ勉くんなのだろうと想像した。そんな必死そうな男は、俺と目が合った瞬間、神を見つけたかのように瞳を輝かせ、猛烈な勢いで此方に向かって走って来たかと思えば、縋るように俺の腕を掴んだ。思わず持っていたスマホを落としそうになる。
「おい、急になんだよ」
 弱そうな見た目に相反して案外力が強い。俺の腕を掴む目の前の男の額に湧き出る汗に視線を奪われた。尋常じゃないほど浮いた汗が、事の重大さをじわじわと伝えてくる。息が荒い男は口を開け、不足しているであろう酸素を一気に取り込んだ後、言葉を発していた。
「助けてください!あの、ク、クラスメイトが、その、先輩に!」
後方を指さしながら、俺に必死に訴えてくる。掴まれた腕から必死さを感じ、振り払おうという気は全くなくなった。懸命に俺に何かを伝えようとしてくるこの男は、ネクタイの色から見て一年だろう。とにかく助けが必要な事を察知し、事情は後で聞くことにして、彼の指す方に視線を向けた。古い第二倉庫の方角は、本校の有名な喧嘩スポットのような場所だ。普段全く使わない第二倉庫の裏は教師の目が届きにくい。俺が一年の頃も、クラスメイトがガラの悪い先輩に金をせがまれた、という噂を聞いたことがある。結論、その事件は近くに居合わせた教師の介入により未遂に終わるのだが、今はそんな噂話を思い出している場合ではなさそうだ。
「話はあとで聞く。助けに行きゃいいんだろ」
「は、はい!ありがとう、ございます!」
 いかにも真面目そうで体力も無さそうなこの後輩がターゲットから逃れ、今別の誰かが捕まっている事実に冷や汗が浮かぶ。ソイツはどれほど鈍くさい奴なのだろう。若しくは、女子生徒が捕まっているのだろうか。
手に持っていたスマホを雑に鞄に放り込み、急いで第二倉庫の方向へ向かおうと走る。急に走り出した俺に必死についてくる後輩との距離は、走れば走るほど開いた。ぜえぜえと食らいつくように後を追ってくるが、彼が追い付くまで優しく待ってやる暇も無いだろう。
「おい、第二倉庫裏でいいんだよな」
「え、あ、はい!」
「先行くぞ」
 後ろの後輩を気にするのはやめた。きっと彼もそれを望んでいるだろう。だから、派手にずっこけた音が後ろから聞こえても、気づかぬふりをして走った。本来は後ろを振り返り、大丈夫かと手を差し出してやりたいが、急がないといけない。善人としての心が若干痛むが、結局は見捨てる形となった。
眼鏡の鈍くさい後輩には情も何も持ち合わせていないし、捕まっている奴が誰かなんて全く知らない。面倒事や厄介事は教師に任せ、俺はスマホを取りに戻った坂口を、あのまま待ち続ければいいものを。それでも引き受けてしまう俺はお人よしなのだろうか。腕を掴まれ助けてとお願いされれば、誰だってこうするだろう。そうであってほしい。
 第二倉庫に近づけば男数名の喋り声が聞こえてきた。急に飛び出すのも得策じゃないだろうと、一旦物陰に隠れ様子を伺うことにする。男たちの喋り声を盗み聞くと、まだ暴力沙汰起にはなっていないように思えた。取り合えず、最悪な事態は免れたと一安心する。
さて、悪者を撃退するために証拠を握ろうと、鞄からスマホを取り出してあらかじめ動画撮影の開始ボタンを押してから、声と顔が映るように物陰からスマホを持った手だけを伸ばす。声を拾えるようにと近寄るとき、僅かに砂利と靴が擦れた音がしたが、悪党たちは目の前の餌に夢中なようで気づかれなかった。危ねぇ、気を付けないとな、と地面を確認し、音をたてないように気を配りながら録画を続ける。
「生意気な口きく後輩は嫌われちゃうよ?」
「そうそう。でも安心しろよ、俺たちがお友達になってやるから」
「これからは、存分に可愛がってあげるよ。後輩くん」
 倉庫の壁に追いやられた一人の男子生徒を半円で囲みこむように五人の男子生徒が立っていた。囚われているのが女子生徒じゃないことに安堵するも、まだ油断は出来ない。
馬鹿な真似をしている此奴らは、二年の頃から半グレ集団だと噂されていた者たちだろう。三年になって調子に乗ったのか、一年を玩具やパシリに使いたい、なんて目録が丸見えだ。本当に同学年として恥ずかしい。
 五人のうち真ん中に立っている男が前に一歩近づき、標的とされている男子生徒の肩に掛かっている鞄を指さした。
「さっそくだけど、今持ってる金、全部俺らに渡そうか」
「生意気な後輩は、先輩たちが教育してやらねえとだろ?」
「ほら、さっさと出せよ」
 囲まれている男子生徒の表情は見えないが、反撃をしている様には見えない。今一度、録画が出来ているかを確認すると、深呼吸をして覚悟を決める。
情けない人間には成りたくない。俺はわざとらしく砂利の音を鳴らす様に足を動かし、堂々と彼らの前に姿を見せた。
反射神経が良いのか、小心者の集まりで内心ビクビクと震えていたのか知らないが、砂利の擦れる音と人の気配に驚くように五人全員が俺の方へと一気に視線を向ける。あまりに素早く綺麗に揃っていたので、団体芸かよ、と笑いそうになったのは彼らには伏せておこう。
「アウト。全部撮れちゃってますけど?」
 リーダーだろうか、標的となった男子生徒の正面にいた男が金をせびった瞬間を捉え、スマホを彼らに向けながら足を進める。動画を回していると分かるように画面を彼らに向ければ、リーダーであろう男は顔を歪めた。
「っ、消せよ!」
 俺に殴りかかる勢いで前へ踏み出してきたが、実践慣れしていないのか、簡単に避けれてしまう。
「おいおい、それが人にものを頼むときの態度か?」
 不格好なリーダーを見下しながら笑ってやるが、こんな奴らを煽るのも時間の無駄だろう。
「お前ら、ダサい真似してんじゃねえよ」
 自分でも声が低くなったのが分かった。悪党どもはやはり同級生で、見覚えがある顔ぶれであることが、更に情けない。一人か二人は過去、同じクラスになったことがあるような気もする。
「なんだよ、邪魔すんなよ」
「めんどくさ、行こうぜ」
 思ったよりあっさりとこの場を去るような気配に思わず目を丸くした。殴り合いになるならそれはそれで打ちのめしてやろうと考えていただけに、思わず小さく「え」と俺は声を漏らしたが、彼らには聞こえていないようだ。
「だっる。正義のヒーロー気どりか?馴染めてなさそうな一年を俺たちは気遣ってやったってのに」「ほんと、勘違いされちゃ困るぜ」と、彼らはブツブツしょうもない言い訳だの負け事を呟く。心の底まで悪くなりきれていないのか、一人が後ずさりしたのをきっかけに続々と背中を見せて彼らは立ち去っていった。まるで、猫から逃げるネズミの様に小さく、可哀想で哀れな背中。同じネズミでも、彼らはドブネズミの様に美しくはなれないだろう。
 俺の視線は小物達から、標的にされていた男子生徒の方へと移る。一年だからだろうか、制服に着させられている感が拭えない、まだ少年のような男だ。若干焼けた健康的な肌に、真っ黒な髪はくせ毛だろうか、毛先の跳ね方が不規則だが決して不格好ではない。何より、俺の事を見つめる綺麗なアーモンド色の瞳がとても印象的である。
そんな目の前の男は、すぐに俺から視線を逸らすと、何食わぬ顔で新しい制服にかかった砂埃を丁寧に払い始めた。
「大丈夫か、お前」
 真っ先に礼を言わないのは癪に障るが、彼の方に徐々に近づき声をかける。それでも、彼は礼を言うどころか俺の方を見向きもしない。ただ、砂埃を丁寧に払い続けていた。
 礼を言われたかったわけじゃないが、少しくらいは俺に感謝を伝えてもいいだろう。可愛げのない後輩だな、と思わず苦笑する。
彼の肩に手を伸ばしかけた時、鈍い足音が聞こえ、俺に救済を求めた後輩のことを思い出した。後ろを振り返れば、やはりあの鈍くさい眼鏡の後輩が立っている。息切れが酷く、先ほど転んだせいかシャツが若干汚れていた。
「お前、マジで体力ねぇのな」
「す、すみません…」
 荒い息を整えながら謝る彼の方を親指で指し、砂埃を払うのに夢中で俺に目もくれない男子生徒を軽く睨んだ。
「おい、お前がここで危険な目にあってるって此奴が教えてくれたんだぞ。少しは感謝ってもんを…」
 言い終わる前に、彼は視線を制服から此方へと…厳密に言えば、俺の親指が示す先、眼鏡の後輩へと移し、口を開いた。
「お前は、彼奴らに何もされてないよな」
 俺の言葉は完全スルーして、男子生徒は鈍くさい彼に尋ねた。砂埃を払っていた手も、今は完全に止まっている。彼の視線は俺には一切合わず、まっすぐな瞳が眼鏡の後輩だけを映していた。眼鏡の後輩は、自分が心配されていると気が付かなったのだろう。慌ててズレた眼鏡を直しながら口を開く。
「ぼ、僕は平気だよ。瀬爪くんありがとう」
「そうか、よかった」
 捕らわれていた後輩の瞳はそのまま眼鏡の彼を映すが、口角は全く上がらない。声色は割と優しさを感じられるのに無表情。表情から感情を読み取るのは極めて困難だろう。
もう話すことはないと言いたげな雰囲気を纏ったまま、彼は一歩足を踏み出した。
「待って、瀬爪くん。なんで、」
眼鏡の後輩が咄嗟に手を伸ばし引き止めようとするが、答える気がないのか彼は足を止めようとはしない。
「は?いや、ちょっと待て」
 このまま立ち去ろうとする彼に、気持ち大きな声で呼びかける。彼自身が先ほど置かれていた状況に、全く危機感がないのなら相当危ない。また標的にされてもおかしくないだろう。生意気で無口で、感情を表に出さない可愛げのない後輩は、何かと目を付けられやすい。今後も気をつけろと、助言の一つや二つくらいしてもいいだろう。ついでに、俺の勇敢な姿も称えてもらおうじゃないか。
俺の声が届いたのか、ピタリと彼は足を止めこちらの方へ振り返り、漸く俺と目を合わせた。真っ直ぐ透き通った瞳と力強い眼差しに、目が離せない。一瞬間があり、彼の薄い唇が小さく開く。
「感謝してる」
 彼はそれだけ口にすれば、また正面を向き歩き出した。
 たった一言。まさかの一言に俺は唖然として、言葉を返せなかった。
淡々としていて感情は読み取れなかったが、仕方なく言った、なんていう適当さは感じられなかった。都合いい俺の解釈かもしれないが、彼はきっと、言葉や態度で感情を表すのが苦手なだけで、素直な奴なのかもしれない。
俺の想像の中の彼は、感謝どころか立ち止まることも無く、俺の言葉など無視してこの場を去っていくとばかり思っていた。無口で一匹狼のような気配を纏う少年に、俺の言葉は届かないと内心諦めていたから。
身も心も汚い連中に絡まれ、相当不快な思いや、怖い思いをしたと思っていた。しかし、彼はとことん冷静だ。遠ざかっていく俺より若干小さな背中は、先ほどの半グレ集団より身長も低く華奢なのに、眩しくて逞しく見える。
「行っちゃいましたね」
 気が付けば、隣に眼鏡の後輩が立っていた。遠ざかる背中を見詰めている。
「変わった奴だな。良い奴なんだろうけど、ちと可愛げがねぇな…」
「瀬爪くんは、他者と必要以上に関わろうとしないっていうか」
「瀬爪?」
「はい、瀬爪蛍くん。彼の名前です。あ、自己紹介がまだでしたね。僕は、一年三組の田中です。彼、瀬爪くんとは同じクラスで…」
 この鈍くさい眼鏡の後輩の名は田中で、先ほどの彼は瀬爪というらしい。
「えっと、瀬爪くんとは同じクラスなんですけど、あんまり話したことはなくて。彼は基本一人だし、友達とか、人間関係なんてどうでもいい、っていう、孤高の一匹狼のようなタイプだと思っていたので…まさか、僕を助けてくれるなんて思いませんでした」
 田中が嬉しそうに、少し照れくさそう話すので微笑ましく感じたが、一つ引っかかる。
「彼奴…瀬爪だっけ。瀬爪を助けたのがお前じゃなくて?」
 絡まれている瀬爪を見かけた田中が、自分一人では何も出来ないからと、たまたま昇降口の近くにいた俺を呼び掛けた。それが、俺が知る一連の流れだ。田中は俺の問いに対し、ブンブンと首を振り否定する。
「とんでもない。助けられたのは僕なんです。最初にあの人たちに絡まれたのは僕で…。遡ると今日の昼休みの話になってしまうんですけど。さっき、自動販売機に寄って、お気に入りの紙パックのイチゴオレを買ったんです」
「ああ、あのイチゴオレ。美味いよな」
思わず口を挟んでしまったが、無駄な相槌だっただろう。こほん、とわざとらしい咳払いをして田中に続きを促せば、田中は「美味しいですよね」と口にした後、また喋りだした。
「その時、反対方向から歩いてきたあの怖い先輩たちにぶつかってしまって。それが、運悪くストローを刺した直後の事で。反射的に紙パックを握った時に飛び出したイチゴオレが、少量ですが先輩たちの制服に…」
「おお…」
 不運すぎる事故に同情する。話している張本人も先ほどの悲劇を思い出したのか、少し顔色を悪くした。
「まあ、その後はよくある展開です。許してほしけりゃ、金を出せと脅されて。一人でビクビク震えながら鞄に手をかけたその時、瀬爪くんが割り込んできて。『彼奴は悪くない。お前らからぶつかってただろ、俺は見てた。意地汚いぞ』って堂々言い放って」
 田中は相当驚いたことだろう。特段仲良くないただのクラスメイトが、自分を庇う様に間に入り、上級生に向かって牙を向けているなんて。
「先輩たち、瀬爪くんの事を気に入ったのか、僕の事は完全に無視して、瀬爪くんの肩を組んで連れて行っちゃって。僕、僕…何も出来なくて。でも、先輩たちが、第二倉庫連れてくか、って声ははっきり聞こえたから…」
「それで、お前は俺のところに走って来たってわけか」
「はい。瀬爪くんを助けたい一心で…でも、僕は先輩たちの胸倉を掴んで殴りつける勇気も、大声を出して助けを呼ぶ勇気も無くて。今思えば、全く関係のない先輩を巻き込むなんて失礼な話でした。最初から、担任とか、大人を頼るべきだったんですけど、頭が全然回っていなくて。申し訳ないです」
「おい、謝るのは無しだろ」
 田中が深々と頭を下げるので、どうにか頭を上げさせるも、まだ申し訳ないとでも思っているのか、浮かない顔をしていた。少しでも田中の抱える罪悪感を拭おうと、俺は彼の肩を軽く叩き、笑ってみせる。
「こういう時は先輩に頼っておけば良いんだぜ、後輩くん。誰も怪我してねえし…と、お前はこけちまったけど、丸く収まったじゃねえか。俺が証拠の動画も持ってることだし、暫く彼奴らも大人しくしてるだろ」
 ぽんぽん、と宥める様にまた肩を軽く叩けば、田中は笑みを見せて「ありがとうございます」と礼を述べた。
「ん。謝罪よりそっちが良い」
 田中の汚れたシャツや、ズボンの裾を見ながら「怪我は平気か?」と問いかければ、田中は元気よく「大丈夫です!」と笑った。
「お前、瀬爪に会ったらもう一回礼言うんだぞ。何かまた困った事があれば力になってやるからさ、いつでも来い。お節介かもしれないけど、瀬爪にも伝えといてくれ」
「は、はい。えっと…」
「新山彩季。よろしくな、田中」
 右手を差し出せば、田中は嬉しそうに両手で俺の手を握る。
「新山先輩、よろしくお願いします!」
 ヒーローを見るような目でキラキラと見詰められると、多少の照れはあるが気分はいい。
「そういえば、お前時間とか平気なわけ?部活とか」
「あ!忘れてました!」
 田中はスマホで時間を確認すると、あからさまに焦ったような顔をした。不愛想で可愛げの無い後輩、瀬爪と比べて実に感情が分かりやすい。
「ほら、急げ急げ」
「すみません、先輩。今日は本当にありがとうございました!今度、お礼を必ずするので!」
 背中を軽く押してやれば、田中は初対面時と変わらぬ様子で鈍くさい走りをしながら去っていった。なんの部活に所属しているかは知らないが、少しの遅刻くらい気にしない優しい連中が集まるような部活動だったらいいなと思う。それに、こんな非日常的なことが起こった時まで、遅刻を気にする余裕はないだろう。部活動の存在を忘れてしまうのも無理はない。
 忘れても仕方ない。俺も何か、大事な事を…
「あ、坂口」
 慌ててスマホを確認すれば、ちょうど坂口から電話が掛かってきた。応答ボタンを押し、スマホを耳に当てる。
「もしもし、坂口?ごめん、俺」
『お前、今どこにいんの⁉トイレにでも行ってと思って待ってたけど、全然戻って来ねえじゃん!』
 声から相当焦っているのが伝わり、申し訳なさもあるが、慌ただしい挙動が目に浮かび思わず笑った。
「ちょっと人助けしててさ」
『はあ?』
 田中がまた、彼奴らに目を付けられないかも気になるが、それよりも俺は、瀬爪の事が気掛かりで仕方がない。今後は、変な厄介事に巻き込まれなければいいが。
「今から向かうから」
『…おう、後で話聞かせろよ』
「あいよ」
 電話を切ろうとしたとき、一羽のスズメが俺の前を軽やかに横切った。大樹を目掛けて飛ぶ軌道が美しい。
丁寧に紙飛行機を作り上げ、一番長く、美しく飛ぶ情景を、一羽のスズメに重ねた。誰よりも遠くに飛ぶ紙飛行機を作り上げた餓鬼の頃、友人たちから「すごい!」とまるで英雄の様に扱われた日を不意に思い出す。あの時作った紙飛行機は、宝箱という名のガラクタ入れの中にぐちゃぐちゃの状態で今も眠っているだろうか。
スマホの画面には、未だ通話中の文字。秒数が一秒ずつ増えていく。
「なあ、坂口」
『なんだよ?』
 近くの木の枝に止まり、羽を休ませるように丸くなったスズメは、朝のHRで見たスズメかもしれない。
「スマホ、忘れてくれてありがとな」
『は?どういう意味』
 最後まで聴かずに、今度こそ通話ボタンを切った。
坂口と顔を合わせたら、煩い声で「途中で切るなよ!」と責められるかもしれない。それもそれで楽しそうだ。
 休息中のスズメが可愛らしく鳴く声が、自然と耳に入ってくる。優しいく可愛らしい鳴き声が木々の葉を揺らす度、充実しすぎている退屈が終わり、新たな風が吹き抜けるような、そんな予感がした。