「連れてきちゃった~!」
 瀬爪と映画に行った三日後の昼休み、小テストで最悪の点数を取りまくった坂口は、可哀想な事に宿敵の和田に呼び出しを喰らっていた。自業自得だが、文句たっぷりで職員室へと足を運んだ坂口が、教室に戻って来た時、異様にテンションが高いと思えば、横に瀬爪を連れて俺と矢島の元にやって来た。
 和田の説教を受けた帰り、瀬爪も担任に用事があったらしく、偶々職員室前の廊下で鉢合わせたそうだ。これも何かの縁だと一緒に昼飯を食おうと誘い、了承した瀬爪を連れてきたらしい。
 思いがけない登場に喜びはあるが、坂口がベタベタと瀬爪の肩を組み、俺ではなく矢島と坂口の間に椅子を置いて、そこに彼を誘導し座らせたのが許せない。坂口に悪気が無いのは分かるが、こうなるのなら最初に俺が椅子を用意しておくんだった、と行動力のなさが悔やまれる。
「席変わる?」
 俺が項垂れている様子を感知した矢島が、こそっと耳打ちしてきた内容に、ぶんぶんと勢いよく頷く。矢島は「了解」と親指を立て、さりげなく俺と席を変えてくれた。
 神様仏様矢島様。ありがとう、と両手を合わせれば、矢島はまた俺の耳に顔を寄せ、「今度、アイス奢りよろしく」と悪魔の様に微笑んだ。俺の感謝を返してほしいが今は仕方ない。
 最初は三年の教室という異空間に緊張気味に辺りを見渡していた瀬爪も、慣れ親しんだ俺たちに囲まれて安心したのか、持ってきたパンを小さな口で食べ始めた。たまごサンドだろうか、ふわふわで真っ白のパンと、卵の鮮やかな黄色が食欲をそそられる。俺も明日はサンドイッチがいいと母親に頼もう。
「瀬爪、それ手作り?」
 坂口が何気なく尋ねれば、瀬爪は咀嚼しながら頷き、こくりと飲み込んでから口を開く。
「ああ、母さんがパンも焼いている」
「へえ、凄いな!美味そう!」
「食いたいなら、坂口先輩の分も今度持ってくる」
「え、マジ!超楽しみにしてるわ」
 嫉妬で腸が煮えくり返りそうな会話を真横でされ、美味いはずの弁当が不味く感じる。
 坂口はスキンシップが激しいため、瀬爪の肩を抱き、「瀬爪は良い子だな~!」と頬をつついた。瀬爪は食べかけのサンドイッチを机の上に置き、「坂口先輩、食べにくい」と口では言っているが楽しそうだ。坂口と戯れながら、徐々に表情が柔らかくなっていく瀬爪を横目で見ると、焦りや独占欲やいろんな感情が飛び出てきてしまいそうだった。己の醜い感情に蓋をするように食べかけの弁当箱に蓋をする。これ以上、胃に入る気がしなかった。
「彩季、もういいの?」
 ほんの少し、心配そうに俺の様子を伺う矢島に、「平気平気」と笑顔をつくる。
「新山先輩、体調悪いのか?」
 瀬爪も矢島の声が聞こえたのか、俺を見詰め問いかけてきた。矢島と違って、声色から本当に心配してくれているのが伝わり、罪悪感が募る。嫉妬と焦りから食事が喉を通らなくなるなんて、ダサいにもほどがあり、瀬爪には知られたくなかった。
「全然平気。ほら、瀬爪まだ食い終わってないだろ」
「…なら、いい」
 若干疑いの目も向けられるが、食べるのを再開しだしたため、一先ず安心する。
 特に意味も無く窓の外を眺め、あの日のスズメを探した。都合よく飛んでいるなんてことあるわけないが、探してしまう。退屈だと窓の外を眺めることは、瀬爪に出会って一切無くなった。なのに、こんなに苦しいなら、退屈のままでも良かったとさえ思う。俺はなんて自己中心的で傲慢なのだろう。
「新山、ちょっといい?」
 肩に手を置かれ、振り返れば長野が居た。
「どうした?」
「廊下にこのポスター貼りたいんだけど、ちょっと場所が高くて。新山、背高いじゃん?お願いしてもいいかな」
 彼女は片手に募金活動協力を促すポスターを持っている。そういえば彼女は環境委員だったと思い出し、席を立ちながら了承した。
「ちょっと行ってくる」
 三人にそう言い残して、一歩踏み出そうとしたとき、手首を弱い力で掴まれた。
「…瀬爪?」
 緩く俺の腕を掴んでいるのは瀬爪だった。まさかの出来事に心拍数が上昇するも、意図が全く読めない。
「新山先輩、」
「なんだ、隣が居なくなって寂しくなっちまったか?よしよし、坂口にでも構ってもらっとけ」
 瀬爪が何かを言いかけているのは明白だったが、態と被せるように言葉を発し、軽く頭を撫でて俺は長野と教室を出て行った。
 二人で廊下を歩きながら、長野が話題を振ってくれるが正直頭に入って来ない。掴まれた右手に全ての神経が集中しているかのように熱を帯びる。瀬爪は俺を引き止めようとしたのか。寂しかったからか。坂口と矢島に挟まれるのは慣れないからか。それとも、単に何かどうでもいいことを伝えようとしただけかもしれない。
「ありがとう、新山。教室戻ろうか」
 ポスターを指定の場所に貼り、なんだかスッキリしない重たい足で教室に戻ると、俯きながら教室から出ようとしている瀬爪と軽く肩がぶつかった。
「あれ、瀬爪もう戻るのか?まだ昼休み十分くらいあるけど」
「戻る」
 瀬爪は俺と目を一切合わせようとせずに、速足でこの場を去ってしまった。坂口が余計な事でもして怒らせたのだろうか。取り合えず彼らのところに戻ると、あっけらかんとしている坂口と、バツの悪そうな顔をしている矢島がいる。
「…お前ら、なんかした?」
 目も合わせず、挨拶も無しに戻っていった瀬爪に違和感が残り尋ねると、坂口は首を傾げ、矢島は髪をぐしゃりとかきまわした。
「いや、新山さっき窓の外ぼんやり眺めてただろ?」
 口を開いたのは坂口だった。
「瀬爪がさ、『新山先輩は何を見ていたんだろうな』って言いうから、好きな奴の事でも考えてんじゃねえの?って…」
「そんで、そこの馬鹿が瀬爪に、彩季にはずーっと片想いしてる、彩季にとって特別なお姉さんが居る、って口走ったわけ」
「馬鹿ってなんだよ!」
 矢島の補足で全てを理解した。途端に、頭が真っ白になる。
 特別だ、と彼に何度も伝えてきた。この好意が伝われば良いと何度も願いながら。
 そうやって、瀬爪からしたら勝手に懐に少しずつ入って来た男、自分を特別だと見詰める男に、他に特別な相手がいると他者から聞かされたらどう思うだろうか。沸き上がる感情はプラスのものでは無いだろう。
「…俺が悪いな」
 完全に自業自得だ。適当に架空の恋物語をでっち上げて坂口を騙したまま、自分は安全地帯にいたいと瀬爪の気持ちと自身の気持ちが同等のものか、答え合わせをすることを先延ばしにして拒んだ。
 昼休み終了を告げるチャイムがそろそろ鳴ってしまう。走って瀬爪の元に駆けつけたいが、時間がそれを許してはくれない。急いでメッセージアプリで瀬爪の名前を開き、今日は一緒に帰ろうとメッセージを送信する。昼休みが終わるまで勿論返信は無く、落ち着かない精神状態で授業を受け、五限終了と同時にメッセージを確認すれば、返信は来ていたものの、今日は一人で帰る、と誤魔化しのない断りのメッセージが送られてきているだけだった。
 外はいつの間にか豪雨に襲われており、飛ばされてきた葉っぱが窓に張り付いている。この雨の中なら、ろくな会話も出来ないだろう。気持ちを無理矢理切り替え、HR終了後に一年の教室に向かい、もう先に帰っていたら翌日の朝、しっかり彼に向き合おうと決める。朝の電車の時間まで帰られたらやりようもないが、こればかりは願うしかないだろう。
 六限の授業内容も全く頭に入って来ない。窓の外を眺め、瀬爪のことばかり考える。重症だ。盲目になるくらい、瀬爪が脳も心も支配している。
 会いたい。会って抱きしめたら、この不安も焦りも吹き飛ぶ気がする。
 早く、早くと焦るときほど、思い通りに事は上手く進まない。HR開始時刻になっても和田は現れず、八分も遅れて「ごめんごめん」と前の授業が長引いたことを言い訳に教室に入って来た。しょうもない話は良いからさっさと終わらせてくれ、と睨みつけながら話が終わるのを今か今かと待つ。HRの内容は一切入って来なかったが、結果的に直ぐに和田の話は終わった。しかし、総合的にみるとマイナスである。急いで鞄を持ち、坂口と矢島には何も言わずに教室を出た。坂口は俺の行動を不思議に思うかもしれないが、そこは矢島がフォローしてくれるだろう。矢島の察し能力の良さは、他者よりも秀でている。
 二段飛ばしで階段を駆け上がり、一年三組の教室の中を見渡すも、瀬爪も姿は無い。生徒はまだ半数以上残っていることから、HRが終わってからそんなに時間は経っていないだろうと推測する。疲れを吐き出す様に息を吐けば、近くに来た田中が「瀬爪くんなら、もう帰りましたよ」と伝えてくれた。そうだよな、と苦笑いして礼を言い、急いで次は昇降口へと向かう。
慌ただしく走りながら移動するが、下校のタイミングが被ると階段は混雑し、急いで降りることが難しい。一年の大群に更に二年が加わり、昇降口に着くまでの階段で思いの外足を止められ更に焦りが募る。
 昇降口に付き、先ずは一年三組の傘立てを見る。今日は午後から豪雨が予想されていたため、瀬爪はきちんとビニール傘を持ってきていた。まだ校舎にいるなら傘立てに、俺があげたカメの目印が付いている傘が残っているはずだが、探しても見当たらない。遅かったか、と落胆しながら自身のロッカーへと行き、靴を取り出していると、長野が困った顔を浮かべ俺に近寄って来た。
「新山、あのさ」
 靴を履きながら長野へと視線を向けようとしたとき、彼女が持っている傘に思わず目を奪われ、反射的に傘を握ってしまう。
「これ、お前、なんで」
 長野が手に持っていたのは、俺が瀬爪にあげたカメがついたビニール傘だった。
「やっぱり、新山と仲良しの後輩くんのだよね。私、今日傘忘れちゃって。どうしようか悩んでたら、コレ貸してくれたんだけど、あの子何も差さずにこの豪雨の中走っていちゃって」
「あ~、くっそ!」
 急いで靴を履き、傘立てから己の傘を探すも、何処に入れたか覚えておらず、なかなか自分のものが見つからない。焦りすぎていたのか、手元に一番近いところにあった自分の傘を何度か見逃し、やっと手にとった瞬間、「新山!なんだ、まだ居たなら一緒に帰ろうぜ」と呑気な坂口の声が聞こえた。恐らく、隣に矢島もいるだろう。
「悪い、行かねえと。瀬爪がずぶ濡れなんだよ」
「え?まあ、それは心配だけど、今追いかけたってもう遅いんじゃ…彼奴も男なんだし」
 分かってる。俺も、傘を持たずにこの豪雨の中飛び出したのが坂口なら、心配はするが走って追いかけたりはしないだろう。
 でも、違う。今、この雨に撃たれているのは瀬爪だ。
「好きな奴が濡れてるって知ってんのに、追いかけねぇのは男じゃねぇだろ」
 瀬爪のビニール傘を持つ長野に自身の傘を差し出し、代わりに瀬爪のモノを受け取る。
「それ、俺の傘使っていいから。これ借りる」
「え、あ、」
「おい、新山!」
 長野と坂口が何か言いかけていたが無視して、瀬爪の綺麗なビニール傘を差し、豪雨の中飛び出した。傘は差しても、正直膝から下は意味がないほど、雨が跳ね返り制服を濡らす。水溜まりなどお構いなしに走っているから余計に水が跳ねて、靴の中に侵食してくる水が最高に気持ちが悪かったが、そんなこと言ってはいられない。
 会いたい。抱きしめたい。その気持ちだけで突っ走る。髪は乱れて、制服も濡れて、最高に格好悪い。だけど、会いたい。そして、伝えたい想いがある。
 息が苦しくなるくらい只管に走っていると、傘を差さずにずぶ濡れで歩いている男の後姿を捉えた。疲れも何もかも吹き飛び、周りの目線など気にせずに走って名前を呼ぶ。
「瀬爪!」
「…⁉」
 豪雨の中でも聞こえる様に、腹の底から声を出せば、瀬爪の耳にも届いたようだ。足を止め、振り返った彼は髪も服もなにもかもずぶ濡れだった。俺の姿を見て心の底から驚いたように目を見開く彼を、躊躇いもなく思いっきり抱きしめる。
「瀬爪、ほんと、お前…、ばかじゃねぇの」
「に、新山先輩、苦しい」
「知るかよ、そんなの」
 もう一度、力を込めて抱きしめるも、瀬爪は「やめてくれ」と拒否をして、俺の腕の中で抵抗するように動く。
 嫌がることを無理矢理したくは無いため、名残惜しいがゆっくり腕の力を解いた。豪雨の中、傘一本の下で話すのは合理的ではないため、路地裏の今はもう営業していない店の屋根下へと瀬爪の腕を掴み、半ば強引に連れていく。
 傘を閉じて傍に立てかけ、鞄の中から真っ白のタオルを取り出せば、瀬爪の頭にふわりとかけて、そのまま乾かすように撫でる。タオルを一枚くらい持って行った方が良いと、家を出る直前に差し出してくれた母親に感謝しながら、優しく丁寧にタオル越しに彼の柔らかい髪に触れた。
「これじゃあ、前と真逆だな。まあ、俺はこんなに濡れてはなかったけど」
 プール掃除をした日の事を思い出す。瀬爪に特別だと伝えた日。
「お前さ、長野に傘貸したんだろ?優しいのは良いけど、俺はもっと自分を大事にしてほしい」
 話しかけても瀬爪は何も言おうとしない。俯いて、俺にされるがままだ。
「瀬爪、あのさ」
「やめてくれ」
 やっと喋った言葉が拒絶で、思わず髪を乾かす手を止めた。
「瀬爪、俺は」
「お願いだ、新山先輩。これ以上、優しくしないでくれ。俺は、俺は…」
 今にも泣きだしそうな震える声に、胸が締め付けられる。彼をここまで追い込んだのは俺なのだ。自分が情けない。笑ってほしいと願った相手が、俺のせいで泣いている。坂口に敵対心剝き出しで嫉妬していたのも、自分勝手で格好悪い。
「新山先輩が、俺に優しいのも、特別だって笑ってくれたのも、全部、俺が後輩だからか?一人で寂しそうに見えたからか?一度助けた正義感から、手を差し出してくれただけなのか?」
 こんなに切羽詰まっているような瀬爪を初めて見た。浅く呼吸をしながら息を整えている。
「頼む、やめてくれ。これ以上、俺の特別にならないでくれ」
「瀬爪」
「俺は、欲張りになんてなりたくないんだ。新山先輩にとっての特別も、俺だけが」
 どうしようもなく愛しい目の前の彼の本音に我慢ならず、最後まで聴かずに思いっきり瀬爪を抱きしめた。強く、強く。どんなものでさえ俺たちの間に入る隙が無いほどに強く。
「俺が情けないばかりに、お前に辛い思いさせて悪かった」
 心からの謝罪を述べると、瀬爪は小さく首を横に振る。「新山先輩は悪くない」と最後まで俺を悪にはしないような彼の優しさに、また胸が締め付けられた。
「ほんと、俺はお前がかわいくて仕方ねえよ」
 自分でも驚くほど、蕩けた甘い声だった。好きで好きで仕方がない。俺の腕の中に納まっている彼が、愛しくて堪らない。
「嘘なんだ、近所のお姉さんに片想いしてるとか。適当に話を終わらせるための創作話で、俺にそんな相手は居ない。信じてくれ」
 強張る瀬爪の身体の緊張を解くように、強く抱きしめていた力を緩めて優しくタオル越しに頭を撫でる。
「それに俺は、誰にでも優しいわけじゃない」
 伝えよう。今なら、余計な感情に囚われず、純粋な想いで瀬爪と向き合える気がする。
 息を吸う。きっと大丈夫。
「お前が好きだ」
 ぴくり、と腕の中の体が震える。安心させるように、そっと耳元に顔を近づけた。
「好きだよ、瀬爪。お前だけが特別だ」
 ずっと力を無くしたように下がっていた彼の腕が、少しずつ自我を取り戻す様に動き、そっと俺の背に腕を回した。きゅ、と指先でシャツを握られ、子犬の様に頭を俺の肩口にぐりぐりと押し当てて来る。
「ずっと、この背に腕を回してみたかった」
 小さな声だったがハッキリと聞こえた。彼の不器用で健気な想いがどうしようもなく愛おしい。
「俺も、お前の事をこうやって抱きしめたかったよ」
 また力強く抱きしめれば、苦しいと瀬爪は口にする。しかし、幸せな声色だった。
「にしても、すげえ雨だな」
 濡れたままの瀬爪の髪を優しく乾かしていると、瀬爪はだんだん、気持ちよさそうに目を細めた。大分乾いてきたため、タオルを彼の首にかけてやると、大事そうにタオルに触れながら俺を見詰めて微笑む。
「新山先輩」
 瀬爪の声が好きだ。
「新山先輩、」
 何度名前を呼ばれても、ずっと聞いていたいと思える。透き通っていて、真っ直ぐな綺麗な声が、優しく俺を包む。
「なあに、名前を呼びたい年頃か?」
「好きだ」
 瀬爪は爆弾を落とす能力にも長けている。
甘い甘い好意の籠った言葉と、俺の大好きな美しい曇りのない瞳に吸い寄せられるように、彼の頬に手を伸ばして優しく包み込むように触れた。掌から感じる彼の体温が心地いい。ゆっくりと顔を近づけると、カシャン、と何かが落ちる音がした。恐らく、鞄に付けていたタツノオトシゴのキーホルダーだろう。留め具が弱かったのか、最近良く落ちそうになるためきっとそうだ。
「先輩、キーホルダーが」
「んなの、後で良いだろ」
 今はこの目の前にいる愛しい相手だけに集中していたい。
 瀬爪も俺を見詰めていて、俺も瀬爪を見詰めている。彼は俺を挑発するように笑みを浮かべれば、薄い唇を開いた。
「俺の事も、欲しくて堪らなくなったか?」
 何故このキーホルダーを買ったのか、瀬爪に問われた時の事を不意に思い出す。彼の問いかけに、俺は確か“目が合って、欲しくて堪らなくなった”と口にした気がする。
 本当に、瀬爪は俺を夢中にさせるのが上手いらしい。
「もっと、ずっと前から、欲しくて欲しくて堪らねぇよ」
 可愛い事ばかり言う唇が俺を誘うのが悪い。優しく頬を撫ぜれば、怖がらせないようにゆっくりと顔を近づけ、触れるだけの口づけを落とした。柔らかい唇の感触を確かめる様に、角度を変えてもう一度口づける。応える様に背に回された腕が、俺を離したくないと縋ってくるようで愛おしい。
 名残惜しいがゆっくりと唇を離すと、瀬爪の綺麗な瞳とまた目が合う。
なあ、瀬爪。俺がお前の事が大切で特別な存在だって、伝わったか。
「新山先輩、頼みがある」
 見つめ合ったまま、きゅ、と俺の制服を掴み、口を開く瀬爪の髪を優しく撫でる。
「なんでも叶えてやるよ」
 髪を撫でていた手を流れる様に頬へと滑らせれば、瀬爪は俺の掌に擦り寄る。そして綺麗な瞳を揺らがせながら困ったように眉を下げた。
「もっと触れていたい。もう一回、してくれ」
「仰せのままに」
 可愛らしい、愛おしい彼の頼みを叶えるべく、彼の腰に腕を回し、更に近くへと引き寄せ、唇を容赦なく奪った。
 雨音が煩いはずなのに心地よい。
 この不器用で可愛らしい後輩を離さないと心に誓う。
 雨が降るたび今日の告白と、初々しいキスを思い出すだろう。そうやって、連想される思い出が瀬爪で溢れるようになれば良いなと願う。
 退屈だなと窓の外を眺めることはもうないだろう。
 特別な誰かを想うだけで、何気ない日が幸せで溢れていく。
「お前を好きになれて良かった」
 ありったけの想いを込めて瀬爪に告げれば、彼は本当に可愛らしく微笑む。
「大好きだ、先輩」
「俺も、大好きだよ。瀬爪」



 鞄から突突落下したタツノオトシゴはきちんと回収し、二人で相合傘をしながら、駅に向かう。俺も瀬爪も酷い有様で、髪も制服も濡れているし、乱れていた。
「そういえば、なんで俺の傘なんだ?」
 新山先輩の傘は、と続ける瀬爪に、俺は曖昧に視線を逸らしながら頬を掻いた。
「いや…俺の傘、長野に貸しちまって」
「長野、先輩…俺が傘を貸した人だよな…?」
 不思議そうに尋ねる瀬爪に嘘は付けないとため息を吐く。自身の器の小ささが情けなくなるが、もう仕方がない。
「…瀬爪の傘、他の奴に使わせたくなかったんだよ」
 弱弱しい、普段よりも小さな声で告げれば、瀬爪は目を数度瞬かせる。
「そんな理由か」
「ハイハイ、俺はどうせ、すぐ嫉妬する面倒な男ですよ」
「ふは、先輩は可愛いな」
「はあ…?」
 どっちかというと、そうやって笑ってるお前の方が数億倍可愛いが。そう言って頬を抓ってやろうとしたがやめた。
「あ~、最悪だ。格好つかねぇ、髪もこんな乱れちまったし」
 若干濡れた鬱陶しい髪をかきあげながら口にすると、瀬爪は少し俺に近寄って、俺の大好きな美しい瞳を細めて笑った。
「どんな先輩も、格好いいぞ」
 可愛らしく俺の横で笑う彼を、ずっとずっと、彼の隣という特等席からみることが出来ればそれで十分とさえ思う。
 少しダサくても、受け入れてくれる彼をなら、どんな未来も輝かしく映るだろう。
 二人で少しずつ、幸せな日々を作り上げていこう。
 焦らなくていい。ゆっくりでいい。
 明日も、明後日も、永遠に、君と。
 

                                   完