退屈であることは平和の証であると誰かが言っていたような気がする。
実際、世界のどこかで起きている紛争なんてものは、少なくとも俺の周りでは起こっていないし、人が突如、銃に撃たれて死ぬ、なんて気配も全く感じない。退屈な日常をそれなりに謳歌していたら、もう高校三年、十八を迎える年になっていた。
毎朝、同じ時間に起きて、同じ時間に二番乗り場に来る電車の三両目に乗る。十二分間電車に揺られ、HR開始の十五分前には教室に入り、出席番号で割り振られた席から、一度の席替えを経た、新たな席へと座った。前の席の男はすでに着席しており、俺の気配を感じたのか勢いよく振り返って口を開いた。
「おはよ、新山。昨日、お前急に寝落ちただろ」
「おはよう。悪い悪い、気づいたら朝になってて流石に驚いたわ」
HRが始まるまで、普段つるんでいる連中と適当に駄弁りながら過ごす。流行りのスマホゲームが最近の俺たちの話題の八割を占めていた。昨夜も自室のベッドに寝転がりながら、彼と通話を繋ぎ、一緒にプレイしていた。しかし、俺は眠気に抗えず、なんの断りもなくゲーム中に寝落ちてしまったようだ。朝起きた時、ゲームが起動したままだったため、スマホが熱くなっていたのは言うまでもない。
俺たちの中では寝落ちなんて日常茶飯事であり、目の前の男も俺が寝落ちした事を特に気にしていなさそうだ。けらっと笑いながら、また口を開く。
「昨日のボス戦だけどさ、彼奴の弱点が…」
「どれ?」
今年度、最初の席替えで見事俺の前という特等席をくじで引き当てた、高一からの親友である坂口修二は、スマホをズボンのポケットから出すと、話題のゲームのアプリを開いた。期間限定で登場しているボスの攻略法を、武器や装備を見ながら話していれば、いつの間にか時間は過ぎていく。そろそろチャイムが鳴る頃かと教室の壁に備え付けられている時計を確認すれば、後五分ほど時間があった。このクラスの担任は、既に教室の中で生徒たちと交流を深めている。予鈴前には必ず登場する担任の和田は、今年で三十五になるらしい。若作りかは知らないが、たいして似合ってもないレッドブラウンに染まったマッシュは、頭部から約3センチは元の黒髪が顔を出している。和田は紺色のネクタイを軽く緩めつつ、教卓周辺に集まって話をしていた女子生徒に視線を向けると、自然を装いながらその輪の中に入っていった。
「アイツ、絶対山本のことお気に入りだろ」
坂口は、俺の視線を追うように和田を軽く睨みつけた後、同意を求めるように言った。
先ほどまで楽しくゲームの話をしていた坂口は一体どこへ消えたのか、眉間には皺が寄っていて、元から切れ長な目を更に鋭くしながら、和田の態度が気に食わない、といいたげな視線で見詰めている。
坂口が名前を出した山本美紗は、このクラスの学級委員であり、艶やかなセミロングの黒髪に、丸くて大きい瞳が特徴の、贔屓目無しに美人と属される部類にいる女だ。真面目な彼女は教師からの信頼も厚く、一目置かれている存在なのだろう。和田の山本を見る視線は、他者を見る目とは全く違い、獲物を狙う猛獣のようにギラギラとしているように感じる。無論、俺の目の前にいる不機嫌そうな男も、現在進行形で彼女に魅了され、熱い眼差しを送っていた。
「彼奴さ、生徒のこと女として見てるだろ」
「まあ…和田はあからさまだな」
ほぼ反射的に返答をしていた。俺は和田に対して坂口ほどの嫌悪感を持ち合わせてはいないが、擁護してやるほどの信頼もない。和田という担任教師の分かり易さといったら、オチが最初からバレバレのB級ドラマを見ている感覚に近い。たった一ヶ月半しか共に過ごしていないのに、何か頼み事があれば山本。総合学習で意見を求めるとき、真っ先に和田が指名するのは山本。資料配布を手伝ってくれ、と頼む相手も山本。この前は、十分休憩の間にこっそり山本だけにチョコレートを差し出しているのを偶然にも見てしまった。いくら山本が学級委員だとしても、流石に可笑しいと誰もが思うだろう。きっと、山本に密かに想いを寄せている坂口に聞けば、[担任教師和田、クラス委員長山本美紗にガチ恋説]に対するデータが山ほど出てくるだろうが、聞きたくもないため必要以上に触れることはしない。坂口のお望み通り、和田はヤバい奴だ、俺もお前と同じでそう思ってるよ、と同意のみを示す。俺の同調をお気に召した坂口は、「だよな~」と相槌を打ちつつ、またも視線を和田へと向けた。
「学級委員だから和田と話す機会多いんだろうけど、和田の事どう思ってんだろ」
「山本は優しいから、あんま不審に思って無さそうだよなあ。そこは俺もちょっと心配」
「良い年のおっさんが痛々しいよな。生徒に恋とかマジ笑えねえ。山本も迷惑なら迷惑って言えばいいのにさ」
坂口は拗ねたように唇を尖らせ、次は山本を視界に向ける。
俺は坂口と違って山本を眺める趣味は無いため、ぼんやりと教室の入り口へと視線を向けた。直後、暑いと制服をパタパタ仰ぎながら、サッカー部の連中が朝練から戻って来る。その集団、といっても俺たちのクラスにはサッカー部は三人しかいないのだが、そのなかの一人とばっちり目が合うと、彼は悪戯な笑みを浮かべて「しー」と人差し指を口元に当てながら、山本に夢中になっている坂口にそっと近づいていく。
「おっはよ~」
坂口の肩を狙って振りかぶった手と共に、呑気な挨拶とバチンと痛々しい音がほぼ同時に聞こえた。
「痛ってぇな!」
全く気配に気が付いていなかった坂口の肩を、いつもギリギリの時間で朝練から戻ってくるもう一人の親友、矢島浩太が勢いよく叩いた。痛がっている坂口を労わる様子も無く、矢島はにやにやとした笑みを浮かべながら、揶揄うように坂口の肩付近を肘で何度か突きながら口を開く。
「山本さんのこと見てたんでしょ」
「べ、別に?」
坂口は必死に誤魔化そうとするが、正直無意味だ。嘘をつくのがとことん下手な奴だと、俺も矢島も呆れたように笑う。
「気持ちはわかるよ~、山本さん優しいもんね」
矢島は一瞬、山本を視界に入れながら口にした。
山本が褒められて嬉しかったのか、坂口は叩かれた肩のことは気にもせずに、少し得意気な顔をして見せる。
「そう。この前も小テスト散々だった俺に、最初の問題から難しかったよね、って声かけてくれてさ」
坂口の声に少しずつ張りが出てきた。本当に単純な奴だ。
「美人だもんね~」
矢島の揶揄いも、終わる様子がない。
「マジで美人。授業受けてる時の真剣な横顔と、普段友達と楽しそうに喋ってる時の笑顔とギャップがすごくて」
思い通りの返答をする坂口に、矢島の口角がみるみる上がっていく。
「修二は山本さん大好きだもんね~」
「そうだな、すげぇ好……って矢島お前ふざけんな!別にそんなんじゃねーよ!」
言わされた、と悔しそうに嘆き、俺の机にうつ伏せる坂口の耳はほんのり赤い。それに気づかないわけもなければ、見ないふりをするなんて優しさも持ち合わせていない矢島は、更に楽しそうにケラケラと笑いながら耳の赤さを指摘する。俺もこのノリに便乗し、笑いながら坂口の短い黒髪をわしゃわしゃと犬のように撫でた。
「恋してんだな、坂口くん」
「新山まで揶揄うんじゃねーよ!」
俺の手を払いのけながら顔を上げて吠える坂口を、矢島と二人で宥める様にしながら、結局しょうもない事で笑いあう。傍から見れば平凡なこの日常が、俺は割と気に入っていた。
「いいよな、イケメンは恋の悩みなんかなくてさ」
坂口がまた口を尖らせ、此方に視線をやりながら嫌味ったらしく言い放つ。
容姿を褒められることは素直に嬉しい。格好いいだの可愛いだの、言われすぎて嫌だと言う贅沢者もこの世にはいるが、俺は誰に何度言われても喜べるタイプである。皮肉のようなっものや、揶揄いまじりのものは除外するけれど。
得意気に上がりそうになる口角を何とか抑え、俺は口を開いた。
「それ、俺に言ってる?」
視線が合っているにも関わらず、白々しく坂口に確認を取った俺は、ふざけ半分の顔をつくり、首をかしげた。
坂口はなんとも嫌そうな顔をして、はあ、とため息を吐くと、頬杖をつきながら俺を軽く睨む。
「お前しかいないだろ、新山。そろそろぶん殴ろうか?」
「あはは、彩季性格悪~。修二暴力反対~」
本気で殴る気もない坂口も、どちらの肩を持つ気もない矢島も、平和な世界に必要不可欠なのは確かで、これ以上を望むなんて烏滸がましいのかもしれない。
「彩季はさ、顔もいいし、ノリもいいし、俺と違って普通に優しいしモテるはずじゃん。なんで彼女作んないの?」
今更って感じだけど、と付け足す矢島の瞳には濁りも嫌味もない。純粋に疑問に思って投げ掛けてきたのだろう。坂口も「それ、俺も気になってた。なんで?」と便乗してくる。
彼女が居ないことに対し、理由は必要なのだろうか。ぱっと出てきた答えは、本気になれない子と付き合っても退屈なだけだろ、なんていう綺麗ごとだ。
試しで付き合ってみたら、優しくて可愛くて、いつの間にか好きになってた!なんて結果論にすぎない。相性が最悪だった時のリスクが大きすぎる。時間は有限。無駄にするべからず。心から惹かれない相手のために時間を割き、何かしてやれるか、といわれると難しい話だ。この平穏な毎日に、態とストレスを与えるなんてことを俺はしたくない。理想ばかり並べているからか、結局本気で人を好きになることもなく、俺の人生はまもなく十八年目を迎えようとしていた。若者は青春を謳歌せよ、というが、この青春に恋愛要素は必須事項と化しているような風潮がある。親友たちと馬鹿騒ぎする毎日も楽しいが、胸が締め付けられるような刺激があるかと問われたら答えはNOだ。
矢島の問いかけに有耶無耶に回答しても、後々しつこく訊かれるだけだろう。それなら今、今後も牽制できるような創作話を披露しておこうと、それこそ嘘くさい俺の恋愛物語(全て架空の話)を語ることにした。
「意外と俺、一途でさ。餓鬼の頃、近所の公園で良く遊んでくれたお姉さんにずっと片思いしてんだぜ。向こうは三つ年上で、最近は話す機会もないから進展もクソもないんだけど。でも、たまに駅とかで会って少し話すんだけど、その時間が楽しくてさ。…って、お前ら相手に何言ってんだろ。我ながら健気で笑っちゃうよな、忘れてくれ」
ぱっと思いついた偽装の初恋拗らせ男の話を二人にすれば、坂口は「新山…お前って意外と一途な男なんだな」と同情の目を向け、俺の肩に手を置く。矢島は「今はそういうことにしとくね」と意味ありげな言葉を残してきた。単純馬鹿で素直な坂口とは違い、絶妙な腹黒さと狡賢さを兼ね備えている矢島に俺の嘘はバレバレだろうが、矢島本人が特に気にした様子でも、更に突っかかってくる様子もないため、これ以上は自分から触れないでおくことにする。
チャイムが鳴り、矢島はのんびりと少し離れた自席へと向かい着席した。それに伴い坂口も、俺のほうに向けていた椅子を正しい向きに戻し前を向く。俺の席は窓側の一番後ろの席。坂口が言うには主人公席である。彼がそう呼ぶだけで、主人公らしいことが出来たかと問われれば、首を横に振るしかないのが悲しいが仕方ない。
意味もない和田の今日のニュースを聞き流しながら窓の外を眺めれば、もう新緑へと衣替えした桜の木に一羽、スズメが止まっているのを見つけた。あのスズメは何を想って生きているのだろう。意味なんて無い事を考えながらぼんやりとスズメを見ていると、コンコンと軽く机を爪で叩く音が聞こえた。スズメから一度視線を外し、音がした方に顔を向ければ、隣の席の女子、長野が此方を興味ありげだといった視線で見つめてくる。
「新山、何見てたの?」
一応HRの真っただ中だったため、、彼女はひそひそ声で俺に問いかける。
「んー、何見てたんだろうな。今から探す」
スズメが何を想って今生きているのか考えていた、なんて、長野に話しても理解はされないだろう。回答になっていない回答を伝えたが、彼女は俺が冗談を言っているのだろうと認識したようで、口元に手を添え、クスクスと笑いながら「なにそれ」と目を細めて楽しそうに言った。
女の子らしく控えめに笑う姿は非常に可愛らしいと思う。決して馬鹿にしているわけではないが、坂口だったら真っ先に惚れそうだ。
しかし、長野では俺の中の絶妙な位置に居座る退屈を駆除してくれる存在には値しない。目の前のことに盲目で、教師としてはどうかと思う節もあるが、分かり易く人生を楽しんでいる和田も、素直で純粋に人を好きになれて、天下一品の弄られる才能がある坂口も、のらりくらりとして自分が感じる楽しい事に忠実な矢田も、正直羨ましい。
「平穏が消えぬまま、退屈だけ消えてくれねぇかな」
小さい声で呟いた独り言は誰の耳にも届かなかったが、微かに聴こえたスズメの鳴き声が退屈な日常が終わると返事をしてくれたような、そんな気分にさせてくれた。
実際、世界のどこかで起きている紛争なんてものは、少なくとも俺の周りでは起こっていないし、人が突如、銃に撃たれて死ぬ、なんて気配も全く感じない。退屈な日常をそれなりに謳歌していたら、もう高校三年、十八を迎える年になっていた。
毎朝、同じ時間に起きて、同じ時間に二番乗り場に来る電車の三両目に乗る。十二分間電車に揺られ、HR開始の十五分前には教室に入り、出席番号で割り振られた席から、一度の席替えを経た、新たな席へと座った。前の席の男はすでに着席しており、俺の気配を感じたのか勢いよく振り返って口を開いた。
「おはよ、新山。昨日、お前急に寝落ちただろ」
「おはよう。悪い悪い、気づいたら朝になってて流石に驚いたわ」
HRが始まるまで、普段つるんでいる連中と適当に駄弁りながら過ごす。流行りのスマホゲームが最近の俺たちの話題の八割を占めていた。昨夜も自室のベッドに寝転がりながら、彼と通話を繋ぎ、一緒にプレイしていた。しかし、俺は眠気に抗えず、なんの断りもなくゲーム中に寝落ちてしまったようだ。朝起きた時、ゲームが起動したままだったため、スマホが熱くなっていたのは言うまでもない。
俺たちの中では寝落ちなんて日常茶飯事であり、目の前の男も俺が寝落ちした事を特に気にしていなさそうだ。けらっと笑いながら、また口を開く。
「昨日のボス戦だけどさ、彼奴の弱点が…」
「どれ?」
今年度、最初の席替えで見事俺の前という特等席をくじで引き当てた、高一からの親友である坂口修二は、スマホをズボンのポケットから出すと、話題のゲームのアプリを開いた。期間限定で登場しているボスの攻略法を、武器や装備を見ながら話していれば、いつの間にか時間は過ぎていく。そろそろチャイムが鳴る頃かと教室の壁に備え付けられている時計を確認すれば、後五分ほど時間があった。このクラスの担任は、既に教室の中で生徒たちと交流を深めている。予鈴前には必ず登場する担任の和田は、今年で三十五になるらしい。若作りかは知らないが、たいして似合ってもないレッドブラウンに染まったマッシュは、頭部から約3センチは元の黒髪が顔を出している。和田は紺色のネクタイを軽く緩めつつ、教卓周辺に集まって話をしていた女子生徒に視線を向けると、自然を装いながらその輪の中に入っていった。
「アイツ、絶対山本のことお気に入りだろ」
坂口は、俺の視線を追うように和田を軽く睨みつけた後、同意を求めるように言った。
先ほどまで楽しくゲームの話をしていた坂口は一体どこへ消えたのか、眉間には皺が寄っていて、元から切れ長な目を更に鋭くしながら、和田の態度が気に食わない、といいたげな視線で見詰めている。
坂口が名前を出した山本美紗は、このクラスの学級委員であり、艶やかなセミロングの黒髪に、丸くて大きい瞳が特徴の、贔屓目無しに美人と属される部類にいる女だ。真面目な彼女は教師からの信頼も厚く、一目置かれている存在なのだろう。和田の山本を見る視線は、他者を見る目とは全く違い、獲物を狙う猛獣のようにギラギラとしているように感じる。無論、俺の目の前にいる不機嫌そうな男も、現在進行形で彼女に魅了され、熱い眼差しを送っていた。
「彼奴さ、生徒のこと女として見てるだろ」
「まあ…和田はあからさまだな」
ほぼ反射的に返答をしていた。俺は和田に対して坂口ほどの嫌悪感を持ち合わせてはいないが、擁護してやるほどの信頼もない。和田という担任教師の分かり易さといったら、オチが最初からバレバレのB級ドラマを見ている感覚に近い。たった一ヶ月半しか共に過ごしていないのに、何か頼み事があれば山本。総合学習で意見を求めるとき、真っ先に和田が指名するのは山本。資料配布を手伝ってくれ、と頼む相手も山本。この前は、十分休憩の間にこっそり山本だけにチョコレートを差し出しているのを偶然にも見てしまった。いくら山本が学級委員だとしても、流石に可笑しいと誰もが思うだろう。きっと、山本に密かに想いを寄せている坂口に聞けば、[担任教師和田、クラス委員長山本美紗にガチ恋説]に対するデータが山ほど出てくるだろうが、聞きたくもないため必要以上に触れることはしない。坂口のお望み通り、和田はヤバい奴だ、俺もお前と同じでそう思ってるよ、と同意のみを示す。俺の同調をお気に召した坂口は、「だよな~」と相槌を打ちつつ、またも視線を和田へと向けた。
「学級委員だから和田と話す機会多いんだろうけど、和田の事どう思ってんだろ」
「山本は優しいから、あんま不審に思って無さそうだよなあ。そこは俺もちょっと心配」
「良い年のおっさんが痛々しいよな。生徒に恋とかマジ笑えねえ。山本も迷惑なら迷惑って言えばいいのにさ」
坂口は拗ねたように唇を尖らせ、次は山本を視界に向ける。
俺は坂口と違って山本を眺める趣味は無いため、ぼんやりと教室の入り口へと視線を向けた。直後、暑いと制服をパタパタ仰ぎながら、サッカー部の連中が朝練から戻って来る。その集団、といっても俺たちのクラスにはサッカー部は三人しかいないのだが、そのなかの一人とばっちり目が合うと、彼は悪戯な笑みを浮かべて「しー」と人差し指を口元に当てながら、山本に夢中になっている坂口にそっと近づいていく。
「おっはよ~」
坂口の肩を狙って振りかぶった手と共に、呑気な挨拶とバチンと痛々しい音がほぼ同時に聞こえた。
「痛ってぇな!」
全く気配に気が付いていなかった坂口の肩を、いつもギリギリの時間で朝練から戻ってくるもう一人の親友、矢島浩太が勢いよく叩いた。痛がっている坂口を労わる様子も無く、矢島はにやにやとした笑みを浮かべながら、揶揄うように坂口の肩付近を肘で何度か突きながら口を開く。
「山本さんのこと見てたんでしょ」
「べ、別に?」
坂口は必死に誤魔化そうとするが、正直無意味だ。嘘をつくのがとことん下手な奴だと、俺も矢島も呆れたように笑う。
「気持ちはわかるよ~、山本さん優しいもんね」
矢島は一瞬、山本を視界に入れながら口にした。
山本が褒められて嬉しかったのか、坂口は叩かれた肩のことは気にもせずに、少し得意気な顔をして見せる。
「そう。この前も小テスト散々だった俺に、最初の問題から難しかったよね、って声かけてくれてさ」
坂口の声に少しずつ張りが出てきた。本当に単純な奴だ。
「美人だもんね~」
矢島の揶揄いも、終わる様子がない。
「マジで美人。授業受けてる時の真剣な横顔と、普段友達と楽しそうに喋ってる時の笑顔とギャップがすごくて」
思い通りの返答をする坂口に、矢島の口角がみるみる上がっていく。
「修二は山本さん大好きだもんね~」
「そうだな、すげぇ好……って矢島お前ふざけんな!別にそんなんじゃねーよ!」
言わされた、と悔しそうに嘆き、俺の机にうつ伏せる坂口の耳はほんのり赤い。それに気づかないわけもなければ、見ないふりをするなんて優しさも持ち合わせていない矢島は、更に楽しそうにケラケラと笑いながら耳の赤さを指摘する。俺もこのノリに便乗し、笑いながら坂口の短い黒髪をわしゃわしゃと犬のように撫でた。
「恋してんだな、坂口くん」
「新山まで揶揄うんじゃねーよ!」
俺の手を払いのけながら顔を上げて吠える坂口を、矢島と二人で宥める様にしながら、結局しょうもない事で笑いあう。傍から見れば平凡なこの日常が、俺は割と気に入っていた。
「いいよな、イケメンは恋の悩みなんかなくてさ」
坂口がまた口を尖らせ、此方に視線をやりながら嫌味ったらしく言い放つ。
容姿を褒められることは素直に嬉しい。格好いいだの可愛いだの、言われすぎて嫌だと言う贅沢者もこの世にはいるが、俺は誰に何度言われても喜べるタイプである。皮肉のようなっものや、揶揄いまじりのものは除外するけれど。
得意気に上がりそうになる口角を何とか抑え、俺は口を開いた。
「それ、俺に言ってる?」
視線が合っているにも関わらず、白々しく坂口に確認を取った俺は、ふざけ半分の顔をつくり、首をかしげた。
坂口はなんとも嫌そうな顔をして、はあ、とため息を吐くと、頬杖をつきながら俺を軽く睨む。
「お前しかいないだろ、新山。そろそろぶん殴ろうか?」
「あはは、彩季性格悪~。修二暴力反対~」
本気で殴る気もない坂口も、どちらの肩を持つ気もない矢島も、平和な世界に必要不可欠なのは確かで、これ以上を望むなんて烏滸がましいのかもしれない。
「彩季はさ、顔もいいし、ノリもいいし、俺と違って普通に優しいしモテるはずじゃん。なんで彼女作んないの?」
今更って感じだけど、と付け足す矢島の瞳には濁りも嫌味もない。純粋に疑問に思って投げ掛けてきたのだろう。坂口も「それ、俺も気になってた。なんで?」と便乗してくる。
彼女が居ないことに対し、理由は必要なのだろうか。ぱっと出てきた答えは、本気になれない子と付き合っても退屈なだけだろ、なんていう綺麗ごとだ。
試しで付き合ってみたら、優しくて可愛くて、いつの間にか好きになってた!なんて結果論にすぎない。相性が最悪だった時のリスクが大きすぎる。時間は有限。無駄にするべからず。心から惹かれない相手のために時間を割き、何かしてやれるか、といわれると難しい話だ。この平穏な毎日に、態とストレスを与えるなんてことを俺はしたくない。理想ばかり並べているからか、結局本気で人を好きになることもなく、俺の人生はまもなく十八年目を迎えようとしていた。若者は青春を謳歌せよ、というが、この青春に恋愛要素は必須事項と化しているような風潮がある。親友たちと馬鹿騒ぎする毎日も楽しいが、胸が締め付けられるような刺激があるかと問われたら答えはNOだ。
矢島の問いかけに有耶無耶に回答しても、後々しつこく訊かれるだけだろう。それなら今、今後も牽制できるような創作話を披露しておこうと、それこそ嘘くさい俺の恋愛物語(全て架空の話)を語ることにした。
「意外と俺、一途でさ。餓鬼の頃、近所の公園で良く遊んでくれたお姉さんにずっと片思いしてんだぜ。向こうは三つ年上で、最近は話す機会もないから進展もクソもないんだけど。でも、たまに駅とかで会って少し話すんだけど、その時間が楽しくてさ。…って、お前ら相手に何言ってんだろ。我ながら健気で笑っちゃうよな、忘れてくれ」
ぱっと思いついた偽装の初恋拗らせ男の話を二人にすれば、坂口は「新山…お前って意外と一途な男なんだな」と同情の目を向け、俺の肩に手を置く。矢島は「今はそういうことにしとくね」と意味ありげな言葉を残してきた。単純馬鹿で素直な坂口とは違い、絶妙な腹黒さと狡賢さを兼ね備えている矢島に俺の嘘はバレバレだろうが、矢島本人が特に気にした様子でも、更に突っかかってくる様子もないため、これ以上は自分から触れないでおくことにする。
チャイムが鳴り、矢島はのんびりと少し離れた自席へと向かい着席した。それに伴い坂口も、俺のほうに向けていた椅子を正しい向きに戻し前を向く。俺の席は窓側の一番後ろの席。坂口が言うには主人公席である。彼がそう呼ぶだけで、主人公らしいことが出来たかと問われれば、首を横に振るしかないのが悲しいが仕方ない。
意味もない和田の今日のニュースを聞き流しながら窓の外を眺めれば、もう新緑へと衣替えした桜の木に一羽、スズメが止まっているのを見つけた。あのスズメは何を想って生きているのだろう。意味なんて無い事を考えながらぼんやりとスズメを見ていると、コンコンと軽く机を爪で叩く音が聞こえた。スズメから一度視線を外し、音がした方に顔を向ければ、隣の席の女子、長野が此方を興味ありげだといった視線で見つめてくる。
「新山、何見てたの?」
一応HRの真っただ中だったため、、彼女はひそひそ声で俺に問いかける。
「んー、何見てたんだろうな。今から探す」
スズメが何を想って今生きているのか考えていた、なんて、長野に話しても理解はされないだろう。回答になっていない回答を伝えたが、彼女は俺が冗談を言っているのだろうと認識したようで、口元に手を添え、クスクスと笑いながら「なにそれ」と目を細めて楽しそうに言った。
女の子らしく控えめに笑う姿は非常に可愛らしいと思う。決して馬鹿にしているわけではないが、坂口だったら真っ先に惚れそうだ。
しかし、長野では俺の中の絶妙な位置に居座る退屈を駆除してくれる存在には値しない。目の前のことに盲目で、教師としてはどうかと思う節もあるが、分かり易く人生を楽しんでいる和田も、素直で純粋に人を好きになれて、天下一品の弄られる才能がある坂口も、のらりくらりとして自分が感じる楽しい事に忠実な矢田も、正直羨ましい。
「平穏が消えぬまま、退屈だけ消えてくれねぇかな」
小さい声で呟いた独り言は誰の耳にも届かなかったが、微かに聴こえたスズメの鳴き声が退屈な日常が終わると返事をしてくれたような、そんな気分にさせてくれた。