(見間違い、か……?)

 翌日。教室に入って真っ先に視界に入ったのは、机に向かって読書をしている千蔵の姿だった。

 本を読んでいるだけでも絵になるやつだと思うが、俺の脳裏にはどうしたって昨日の光景が重なって離れてくれない。

 舌の上の異質な存在。忘れろと言われても一晩では到底無理なものだが、それ以上に胸の奥に残ったのは、千蔵もあんな風に笑うのかという事実だ。

(そりゃ、普通に笑うんだろうけど)

 千蔵のことなんて何も知らない俺だって、あの男がああいった笑い方をする人間ではないという印象がある。

 少なくとも王子と呼ばれるだけあって、校内では口元に手を当てて”こぼす”という表現が正しいような笑い方をする。

 だから余計に強烈で、俺はつい千蔵のことを目で追ってしまっていた。自分が今日一日をどんな風に過ごしていたかなんて記憶にないほどに。

(かぶち)、一緒に帰ろう」

「……は?」

 放課後になると、塚本よりも先に俺の名前を呼ぶ声があった。顔を確認するまでもなく穏やかな声は、千蔵のものだ。

 彼の行動を意外だと感じたのはなにも俺だけではなく、教室内に残っていたクラスメイトの半数以上がこちらに視線を寄越しているのを肌で感じる。

「帰るって、なんでおまえと……」

「いいじゃん。それともなんか予定ある?」

「いや、別にねえけど」

「じゃあ決まり、行こ」

 断るための上手い理由が見つからなくて、俺は半ば腕を引っ張られる形で千蔵の後に続くことになった。

 昨日も駅にいたのだから千蔵も電車通学なのは間違いないのだろうが、方角が同じだという人間ならばいくらでもいるだろう。わざわざ俺に声を掛けた理由があるのだとすれば、昨日の一件以外には考えられなかった。

「どういうつもりだよ?」

「ん? なにが?」

「とぼけんな。今までロクに話したこともねえだろ」

 通りすがりの女子生徒から挨拶を受けた千蔵は、見慣れた王子スマイルで言葉を返すと俺の方へと顔を向ける。

「それならオレも橙に聞きたいけど」

「なんの話だよ?」

「今日一日、オレのこと見てたでしょ」

「ッ……」

 つい目で追っていたのは事実だが、まさか気づかれているとは思わなかった。それほどまでに、俺は千蔵を見てしまっていたらしい。

 肯定するのも悔しくて視線を泳がせるが、結果的にその反応が肯定に繋がってしまっていることは考えるまでもない。

「やっぱ、コレ(・・)のせい?」

 そう言いながら千蔵はべえっと悪戯に舌を出して見せる。その中央には間違いなく昨日目にした異物が乗っていて、俺の見たものが紛うことなき現実なのだと教えられた。

「おまえ、それ……っ」

「あはは、見られてたかあ」

 呑気な様子で笑う千蔵は普段通りに見えるのだが、悪いことをしている気分になるのは目の前の男が王子と呼ばれているせいなのだろう。

 ピアスなんてものは珍しくもないけれど、それを千蔵がしているとなれば話は別になる。

「……いつから開けてんの」

「ん-、中学卒業してすぐくらいかな」

「毎日してきてたのかよ」

「まあね。意外とバレないもんだよなぁ」

 バレないという言葉の通り、おそらく千蔵の舌にピアスがあることなんて俺以外のクラスメイトは知る由もないだろう。

「秘密にしてくれる?」

 向けられた問い掛けには困惑の色は見られない。千蔵自身知られたところで問題はないと思っているのかもしれない。だからといってわざわざ誰かに言いふらす気にもなれなくて、俺は素直に頷いた。

「別に、おまえがピアスしてようが刺青入れてようが、俺が困ることじゃねーし」

「はは、刺青はさすがに入れてないかなあ」

 そんなことを話しているうちに、駅の改札を抜けて最寄り駅の方角へと向かう電車のホームに辿り着く。特に尋ねることもなくいつもの場所に来てしまったけれど、何も言われなかったので千蔵も同じ方角なのだろう。

(まあ、昨日も同じ電車乗ってたわけだしな)

 そうしていつもの癖でヘッドホンに手を掛けた俺は、そういえば千蔵が一緒にいるのだと思い直してそれを首元にかけ直す。

 横目にその仕草を見ていた千蔵は、疑問を抱くかと思いきや不自然な挙動について特に尋ねてくることもなかった。

「あ、電車きた」

 ホームに滑り込んできた電車の扉が開いた時、俺は一瞬動きを止めてしまう。扉のすぐ向こうに、分厚い眼鏡の中年男性が立っていたからだ。

(っ、昨日の……!)

 音漏れ警察と呼ばれていたその男も、俺の顔を見て昨日の奴だと気がついたらしい。物言いたげな顔をしていたが、どちらかが動くよりも先に千蔵が俺の腕を取って、そのまま電車に乗り込んでいく。

「おい、千蔵っ……!」

「あ、向こうの席空いてるね。座ろっか」

 電車内はそれほど乗客はいないようで、優先指定ではない端の席には誰も座っていないらしい。

 そちらを目指して歩き出した千蔵は、学校でよく見る王子スマイルを中年男性に向けて会釈をしつつ、何でもない顔をして傍を通り過ぎた。

 俺を端に座らせた千蔵が隣に腰を下ろしたことで、音漏れ警察の姿は俺の視界から見えなくなる。そこまで考えての行動なのかはわからないが、スマートな奴だと思った。

「……聞かねえのな」

「ん?」

「昨日のこと」

 わざわざ一緒に帰ろうなどと言い出した時に、てっきり昨日の件について尋ねられるんじゃないかと予想していた。

 もちろん千蔵のピアスのこともあったのだろうけど、ヘッドホンのことといい、一切触れてくる様子が無いことが不思議でならない。

「聞かなくても、オレは困らないから」

 まるで千蔵に対する俺の発言を真似したみたいな物言いに、思わず隣に抗議じみた視線を送る。

 対して向けられた瞳は蜂蜜みたいに蕩けていて、不本意にも甘く絡め取られてしまうせいで、吐き出そうとした言葉を見失う。

(ムカつくのに、なんか……)

 千蔵という男の持つ独特の空気感のせいなのだろうか。妙な居心地の良さを感じてしまって、知らず知らずのうちに毒気を抜かれる。

「…………中学ン時にさ」

「うん?」

「好きだった奴がいたんだけど」

「え、なに、橙の恋バナ?」

 少しだけ茶化すように上がる語尾に肘で隣にある脇腹を小突くが、千蔵は大袈裟に痛がる真似をしつつもこちらに耳を傾けているのがわかる。

「好きなのがバレて、全否定されたんだよ。電車ン中で」

 思い出そうとすればあの日の光景はいつでも鮮明に脳裏に蘇ってきて、吐き気すら催しそうになるほどだ。

「そん時から、まあ電車が多いんだけど。注目される場が苦手になっちまってさ」

「そんなに目立つ金髪してるのに?」

「これは荒療治……のつもりだったけど、あんま効果なかったな。結局過呼吸っぽくなるのは変わんねーし」

 前髪をひと房摘まんで持ち上げれば、それまで真っ黒だった髪を初めてブリーチした日のことを思い出す。

 予想以上に色が抜けて焦りはしたものだったが、今になってはこの色もすっかり見慣れたものだ。

(……って、こんな話されても困るよな)

 同情が欲しいわけでも共感されたいわけでもないが、これまで友人の誰一人にも話すことのできなかった話だ。

 自分の中だけで消化していくべきことだったはずなのに、近しい人間ではない千蔵だからこそ、逆に抵抗なく話すことができたのかもしれないが。

「そっか」

「いや、変なこと聞かせて悪……」

「だから、ヘッドホンがあると安心するんだ」

 落とされた言葉に隣を見れば、千蔵は一人納得した様子でうんうんと頷いている。

「今は平気なの? ヘッドホンしてなくて」

「え、ああ……今はおまえが一緒にいるし」

 基本的に注目を集める場であっても、親しい友人が傍にいたりすれば過呼吸を起こすこともない。

 だからこそ一人で電車に乗ったりする際には、周囲を気にしなくて済むようにヘッドホンを装着するようになったのだ。

「そうなんだ。けど、音漏れ警察に目をつけられるとしばらく面倒だと思うよ」

 言葉と共に千蔵が身体をずらすと、彼の肩越しに見つけた中年男性とばっちり目が合う。

 すぐに視線は逸らされたものの、どうやらこちらを気にして見ているらしいことは明らかだった。

「う……まあ、しょうがねえ。どうにかする」

音漏れ警察がいるとはいえ、自転車で通学するには距離がありすぎる。電車に乗らないという選択肢がない以上、自身でどうにかするよりほかないだろう。

「じゃあさ、オレと一緒に登下校しようよ」

「え?」

 だからこそ、千蔵の提案してきた内容を理解するのに一瞬頭が追い付かなくて。

「オレが一緒なら、ヘッドホン無しでも大丈夫なんでしょ?」

「そう、だけど……」

「他に頼める友達がいるなら、無理にとは言わないけど」

 友人はいるが方角も違うし、頼むとしたら事情を最初から説明しなくてはならない。過呼吸の話をしたことすらないというのに、わざわざそんな手間をかけようとは思えなかった。

「いや、けど……俺と一緒にいたら変な噂立てられるかもしんねーぞ?」

 自業自得ではあるのだが、金髪にしたせいで不良扱いされることも少なくない。それ自体を気にしたことはないけれど。

 そんな俺と優等生たる王子が一緒に行動していたら、意図せずとも千蔵に悪い噂が立てられてしまう可能性も十分にあるだろう。

 第一、そんなことをしてもらうほど千蔵と親しいわけでもないというのに。

「上等。噂立てる奴らなんて好きにさせとけばいいよ」

「っ……」

 そう言って笑う千蔵の顔は、昨日のそれとは全然違っていて。王子と呼ぶには程遠い、まるで悪事を企んでいるかのような悪い男の顔をしていた。

 それからとりとめのない話をしつつ無事に帰宅をした俺は、自室に荷物を放り投げてから家族不在のリビングへと向かう。

 壁際に置かれた猫ちぐらの中では、茶トラ模様の我が家の愛猫が丸くなって健やかな眠りについていた。

「ただいま、きなこ」

 返事は無いが構わずに毛並みを撫で付けると、小さな鼻がプゥと鳴って口元が緩んでしまう。同時に頭の中に浮かんできたのは、これまで見たことのない千蔵の笑う顔だった。

 これまで王子と呼ばれる男と距離を置き続けてきたが、ふたを開けてみればなんとも居心地のいい空間だったことは、もはや認めざるを得ない。

(……アイツ、ああいう顔してた方が王子よりよっぽどいいと思うけどな)