途端に世界が色づいた、なんてことはなかったけれど。

 あの瞬間から俺は、少しだけ呼吸がしやすくなったんだ。



「か~ぶちっ、帰ろうぜ!」

「うわっ!?」

 教室の後ろで忙しなく行き交うクラスメイトの姿を眺めていた俺は、装着していたヘッドホンを奪い取られて声を上げる。

 見ればしたり顔でこちらを見下ろす友人の姿があって、わざと驚かせようとしての行動だと気がついた。

「リアクションでかすぎだろ」

「いや、ビビるだろ普通に!」

(かぶち) 真宙(まひろ)は見た目だけのビビりくんで~す」

「塚本シメるからちょっとそこに立て」

 揶揄する口調で俺から離れていこうとする塚本の手から、取り返したヘッドホンを首元に引っ掛ける。

 見た目だけ、というのは派手な金色をしたこの髪のことを指しているのだろう。

 こんなやりとりはいつものことなので、周囲には呆れた様子で笑う者や、塚本の言葉を気にした様子もなく談笑する女子グループがいるばかりだ。

「橙はいっつもそうやってヘッドホンしてるけどさあ、なに聴いてんの?」

「なんでもいいだろ、暇つぶし」

 俺の言葉を間違った方向に受け取ったらしい塚本は、ニヤリと口元を歪めたかと思えばこちらに近づいてくる。

「あー、わかっちゃった。エロいやつ聴いてるんだろ?」

「は!? ちげーっての、アホか!」

「いーっていーって。そうだよなあ、橙だって男だもんなあ」

 聞く耳を持とうとしない塚本は、一人納得したようにうんうんと頷いては「俺はすべてわかってるぞ」と言いたげな目線を寄越してくる。

 もちろんやましいものを聴いているわけじゃない。というか、その質問に対する答えを俺は持ち合わせていない。

 首元に掛けられたヘッドホンからは、なんの音も流れてはいないからだ。

(……別に、理由をわざわざ話すつもりもないし。勝手に納得してくれんならそれでいいんだけど)

 ただ、これ以上この場で騒がれるのも迷惑なので、俺は帰り支度を始めることにする。

千蔵(ちくら)くん! 先生が職員室まで来てほしいって」

 ふと、耳に届いた女子の声に視線がそちらへと向く。正確には彼女の口にした名前に反応してしまったのだが。

「わかった。知らせてくれてありがとう」

「ううん、役に立てて良かった!」

 愛想良く微笑む男を前に白い頬を色づかせた彼女は、教室の外で待っている友人たちのもとへと駆け出していく。

王子(・・)、やっぱ今日もかっこよかったねー!」

「顔面が国宝級すぎ。尊い」

「わたし喋っちゃったけど、今年の運使い果たしたかも」

 黄色に近い悲鳴と共に興奮気味の会話を交わす彼女たちは、何度か王子――千蔵紫稀(しき)を振り返りながら姿を消していった。

「ツラのイイやつはいいよなあ、笑っただけであんな騒がれんの」

 不満そうな塚本の呟きは、おそらくクラスの男子の総意に近いものがあるだろう。

 同じクラスの千蔵という男は同性から見てもとにかく顔がいい。穏やかな物腰も相まって、王子というあだ名で親しまれている。

 ハーフアップの黒髪に右の目元にある泣きボクロがまた色っぽいだとか、女子が話しているのを聞いたことがあった。

「そうかあ? 俺は別に騒がれたいと思わねーけど」

「おいおい、負け惜しみはよせって橙クンよぉ」

「ただの事実だっての。さっさと帰るぞ」

 もの言いたげな塚本を無視して鞄を持つと、俺は廊下へ向かって歩き出す。

(……?)

 一瞬、千蔵と目が合った気がしたけれど、おそらく勘違いだろう。同じクラスにいたってタイプが違いすぎて、言葉を交わしたことすらないのだから。









(……ミスったな)

 いつもなら座ることのできる帰りの電車内は中途半端に混み合っていて、仕方なしに吊り革を握った俺は不規則な揺れに身を任せている。

 最寄り駅まで約一時間。本来ならもっと近場に通える高校があったのだが、この距離を選んだのは俺自身だ。

 普段通りに帰宅すればどうということはないそれが、今日に限ってはいつもより遅い時間の電車に乗ることになった。

 そもそもの原因は塚本で、あいつが帰り際にカラオケに行こうなどと言い出さなければさっさと帰ることができたのだ。

(結局付き合うことにしたんだから俺も悪いんだけど)

 塚本はお調子者で鬱陶しいことも多い男だが、どこか憎めない奴で性別を問わず友人も多い。

 高校に入学して約二か月。最初にできた友人が塚本だということもあって、何かとつるむ機会が多くなっていた。

(それにしても、あいつの音痴はもうちょっとどうにか……)

「おい」

 十数分前の出来事を思い返していた時、向けられた声に気がついて俺は隣を見る。

 立っていたのは分厚い眼鏡をかけたスーツ姿の中年男性で、眉間に深い皺を刻んだ男は自分の耳元を指でトントンと叩いて示していた。

「音漏れしてるぞ」

「え……」

 男の指摘は俺の耳元を覆うヘッドホンのことを言っているのだと、すぐに理解することができたのだが。

「いや、音出してないスけど」

 あくまで装着しているだけで、教室にいた時と同じようにこの機械はなんの音も流してはいない。だから音漏れなどしようはずもないんだ。

 だというのに俺に反論されたことが面白くなかったのか、目の前の男はますます不快そうな顔をして声を荒げる。

「言い訳はいい。公共のマナーも守れないくせに口先だけは一丁前か!」

「いや、だから出してねえって……ッ」

 事実を証明して見せようとヘッドホンを外したところで、俺は周囲から向けられている視線に気がつく。

 途端に喉に蓋をされたみたいに言葉が詰まってしまい、冷たくなる指先にじんとした痺れを覚える。

(あ、ヤバイ)

 慌ててヘッドホンを元に戻すが、意識をしてしまった今ではそんなものは意味を成さない。

 ドクドクと脈打つ心臓の音がいっそ遮ってくれたらと思う男の声は、どうしてだかヘッドホン越しにも鮮明に聞き取れてしまう。

「そのバカみたいな色の頭じゃ、他人の迷惑も考えられないか!」

 男が騒ぐほどに何事かとこちらに向けられる視線の数は増えていき、俺の額に冷や汗が滲んでいくのがわかる。

(どうしよ、息の吸い方わかんね……っ)

 唇が震える。次の駅にはまだ着かないのか。この場でしゃがみ込んだら余計に注目を浴びてしまうだけなのに。

 ぐるぐると回転する思考の中で必死に打開策を探し出そうとしていた俺は、不意に暗転した視界に呼吸が止まりかける。

「っ、え……?」

「このヘッドホン、本当に音は出してないですよ」

 次いで耳元の圧迫感が消えたかと思うと、すぐ近くから覚えのある声が聞こえてくる。

 混乱する頭で顔を上げた先にあったのは、至近距離でも驚くほどに整った千蔵紫稀の顔だった。

「そっ、そんなわけがないだろう……!?」

「なら聞いてみてくださいよ、ほら」

「しっ、知るか知るか知るかっ!!」

 あくまで穏やかな笑顔でヘッドホンを差し出す千蔵に対し、男はようやく自分の勘違いに気づいたらしいが、己の非を認めようとはしない。

 電車が駅に到着したかと思うと、男は転がるみたいな慌てぶりでホームへと姿を消していった。

「あーあ、行っちゃった」

「え……っと、千蔵……?」

「オレたちも一旦降りようか」

 未だ混乱状態の俺を背後から抱き締めたままだった千蔵によって、自然な動作で電車の外へと連れ出されていく。

 ホームの隅に設置されたベンチに腰掛けると、千蔵は自販機で買ってきたお茶の缶を差し出してきた。

「……どーも」

「ふふ、災難だったね」

 笑いながら隣に座る千蔵の手には、コーヒーの缶が握られている。こいつもここで休憩していくつもりなのか。

 俺は首元にヘッドホンを引っ掛けてから、貰った缶のプルタブを起こして口をつける。胃に流れ込む温かさに少しずつ落ち着きを取り戻していく。

「あのおじさん、たまに出没する有名人だよ」

「そうなのか?」

「知らない? 音漏れ警察とか呼ばれてるの」

「知らねえ……」

 いつも電車に乗る時間帯が異なるからだろうか、友人からもそんな話を聞いたことはない。

「つーか、よく声掛けたな」

「ん?」

「ああいう時、普通は見て見ぬふりすんだろ」

 一般的にはトラブルに関わりたくない人間の方が多いと思うのだが、さすがは王子といったところなのだろうか。

「橙がすごい顔してたから」

 自分はそんなにひどい顔をしていただろうか。言葉を発する余裕もなかったのだから、どんな顔をしていたかなんて覚えているはずもない。

「……なら、スゲー顔しといて良かった。助かったし」

 現状の素直な気持ちではあるのだが、それを聞いた千蔵は意表を突かれたみたいな顔をした後に数度瞬きを繰り返す。

「っはは……!」

「……!?」

 珍しく大きな口を開けて笑った千蔵の表情に、俺の心臓がドキリと跳ねたのがわかる。いや、正確にはその表情に対しての反応ではなかったのかもしれない。

 なぜなら、優等生で王子の千蔵紫稀という男にはあまりにも似つかわしくないものが、俺の視界に飛び込んできたからだ。

 千蔵の舌の上に見えた、小さくて異質な銀色の存在。

(舌ピ……!?)

「……あ、バレちゃった?」

 そう言って口角を持ち上げた千蔵の笑みは、またしても見たことのない悪い色をしていた。