俺が高瀬と初めて会ったのは、高瀬がまだ中学生で、俺が高一の時だった。
あの時の俺は、今以上に素行が悪く、常に誰かと殴り合っては、体中に傷を刻んでいた。
まあ、そんな俺が、他校の不良グループに絡まれるのは必然なわけで。
複数人で押し寄せてきては、俺を傷みつける日々だった。
体はもう、あざだらけ。
そしてあの日、俺はしくじった。
後ろから振りかぶる鉄バッドに気がつけず、その鉄バッドが俺の頭を命中した。
頭からドクドクと血が溢れ出て、目が眩んで、気がつけば倒れていた。砂の匂いが鼻腔をつく。

「ははっ。よえー」

もう一度俺にバッドを振る男。
その動きがスローモーションに見えて、終わりだと思った。
けれどその時に小さく、か弱い声が響いたんだ。

「やめてください……! その人、血が出てます!」
「あ?」

身長が低くて、この世界に足を踏み入れたことのなさそうな男だった。メガネの下の瞳は小刻みに震えていて、怖そうにギュッと拳を握っている。
そう、それが高瀬。

「何だよ、中学生かよ」

俺の前に立ちはだかる男が高瀬をギロッと睨む。その殺意に満ち溢れた瞳は、俺でさえもゾクっと、怖気ついた。
口の中が切れて話せなかったけど、俺は逃げろと唱え続けた。
純粋なやつが踏み入れていい世界じゃない。
でも、

「やめてください!」

高瀬は再び叫んだ。
俺の血を見て、顔を青ざめて、心配するように。
通行人でさえも、こんな俺を軽蔑していたのに。殴られても、血が吹き出ても、見て見ぬふりをしていたのに。
親でさえも、先生でさえも諦められていた。
けれど、高瀬だけが、俺を見てくれたんだ。
この時の嬉しさは、きっと一生忘れられない。
眩む視界の中で、高瀬だけが鮮明に映った。

「わ、分かったよ。うるせえな」

高瀬の声は高く、意外と大きかった。
たくさんの人が行き交う、この街の中に響き渡り、大人たちも、とうとう見て見ぬふりを出来なくなった。
次第に俺を庇うやつが増えて、俺が殴ったやつは責められた。
いい気味だと思ったよ。
負け犬みたく、そう言い放ってきびすを返した背中を見届ける。
完全に去ったことを確認してから、俺は立とうと足に力を込める。
けれど、俺は立つことができなかった。
ぼやけていく視界と、手のひらには拭った血がついていて、まともに立ち上がることなんて、無理な話だった。

「ははっ。ダセェ」

まんまとやられて、中学生に守られるような自分が情けなかった。
落ち着くまで待っていよう。
大人しく、この公園の隅で。
こんな俺のことなんか誰も見てないんだから。
けれど、そんな考えは一瞬にして崩れ去る。
高瀬が僕に手を差し伸べてきたからだ。
潤んだ瞳で、小さな手のひらで、俺を心配するように、顔を覗き込んで。

「大丈夫ですか? 立てますか?」
「……は?」
「血が出ています。は、はやく手当しないと」

ここは夢なのか?
そう思ってしまうくらい、綺麗な顔をしたやつが目の前にいて、俺を怖がる様子も一切見せない。
その時俺は、体の底から熱い血液が駆け巡ったと思う。
嬉しかった。
普通の人間にするように対等に扱ってもらえたのは、この日が初めてだった。
俺に近づく物好きなやつなんて、一人もいなかったから。
けれど、俺は素直になれなかった。ぶっきらぼうに言い放つ。

「俺に構うな」

小さな手を振り払った。

「俺と絡むと、お前も色々言われる。だから構うな」
「……」

高瀬は、すぐに顔を歪めた。
傷ついたように眉を顰めた顔を見て、後悔が湧き上がる。
高瀬の優しさにも、勇ましさにも感謝することなく、最低な態度を取った。
でも、これでいい。
俺と関わってもいいことなんかないんだから。
真面目なやつが多いこの街では、俺の頭は一際目立っている。
子供を連れた母親が、俺から遠ざける様子を何度も見てきた。
これが最善の選択だ。
純粋で手を差し伸べてくれた高瀬は、そんな視線を味わってほしくない。

「はあ」

けれどまた後悔が押し寄せる。
きっと今頃、最低なやつだと、俺の前からいなくなっているに違いない。
ああ、俺だってこんな自分が大嫌いだ。
けれど……。

「僕のことを考えてくれたんですか。やっぱり、優しいんですね」

高瀬は当たり前のようにそこにいた。

「……は、は!? 何だよ、それ!」

少し幼い、だけど綺麗な顔で、俺に微笑みかける。
予想もしていなかったその言葉に、俺は思わず叫んでいた。
優しいんですね、と言われたことも、誰かから笑いかけられたことも初めてだった。体が内側から火照るように熱くなって、もうすっかり痛みなんてなくなっていた。

「だって」

高瀬がしゃがみ込んで、俺と同じ目線になる。
穴が開くほど見つめられて、体が痒くなる。
こんなの、初めてだ。

「お腹を空かせた猫に、ご飯あげていましたよね? 僕、その様子をたまたま見てて。だから優しい人なんだなぁって、ずっと思っていたんですよ」
「……は、はああああ!?」

驚きすぎて、情けなく口をパクパク動かす。
誰だって、そんなところを他人に見られてたなんて、思わないだろう。
俺は、たまたま俺に懐く猫がいたから、たまたま近くにあったコンビニでツナ缶を買って、たまたまあげてただけだ。
でも、それを見られていただなんて。
恥ずかしくなって、顔に熱が集まっていく。
俺自身でも止められない、不可抗力だ。

「だから、大丈夫ですよ。僕はそんなこと思ってないです」
「ち、違ぇよ!」

やわなやつに見られたくなくて、俺は意地を張る。
金髪で、ピアスだってたくさん開いてるのに、怖がらない高瀬が不思議で仕方がなかった。
こんな風に誰かと話すのも初めてで、いつも通りの俺でいれない。

「それに、怖くもないです。だから、ちゃんと家に帰って、治療してくださいね」

そんな俺を見ると、白い歯をニッと見せて可愛い笑顔を浮かべる。
その笑顔を見た途端、俺の心臓は変になった。
まるで喧嘩してる時みたいにバクバク動いて、痺れるような感じがして。
足の力が抜けるような感覚だった。
そして高瀬は、俺に小さな手を差し伸べる。
後ろにあった街灯の光が、そんな高瀬を照らして、輝いていた。
いつもなら、誰かの手を取ることなんてない。
けれど、その可愛い笑顔に吸い込まれるように、俺は恐る恐る手を伸ばした。

「でも、もう喧嘩はダメですよ? 体を大事にしてくださいね」

そう言って、高瀬は小さな体で俺を引っ張り上げる。高瀬の手は小さくて、柔らかくて、温かくて、俺の手とは全く違かった。

「お、おう」
「はい、約束です!」
「……」

小指を俺に差し出して、満面の笑みを浮かべる高瀬。
そして俺たちは、広い公園の一角で、小指を絡め合った。
目の前に起こっていることがあまりにも非日常で、俺はただ目の前の高瀬を見つけることだけで精一杯。喧嘩もしてないのに心臓が早くなって、手先が痺れて、一向に止むことはなかった。


 けれどそれが、恋だって気がついたのはつい最近のこと。
あの日以来、俺はあまり喧嘩をしなくなった。別にしてもよかったけれど、拳を握るたびに高瀬の顔がチラついたからだ。

「喧嘩はダメですよ?」

そんな言葉が、頭の中で反芻した。
そしてあの日から半年が経ち、俺にも後輩という存在が出来た。
そして、その新入生の中に高瀬がいたんだ。
俺より小さかった身長は、とっくに俺を追い越していた。あの日のような幼さは、どこかに消えてしまったみたいだ。けれど垣間見える可愛さは健全で、相変わらずメガネをつけていた。
高瀬を見た途端、荒ぶり出す心臓。
恋を知らなかった俺は、何か大きい病気じゃないかってスマホで調べた。
けれどそれは、大きい病気なんかじゃない。
──恋だったんだ。
でもそれが分かったところで、俺の世界は一変! なんてことはなかった。
学校一の優等生くんと俺なんて、接点すらないし、高瀬は俺のことも覚えてないだろう。
話しかけても、迷惑だろうし。
今度こそ、怖がらせるかもしれないし。
だからこうして、俺は密かに高瀬を想って、トラブルに巻き込まれないように、守ろうとしている。
だから今日も、そんな日常を送るつもりだった。