3年生の教室があるのは北校舎の3階で、私達1年生は滅多に足を踏み入れることのない所。行けば一瞬で注目を浴びるだろうし、ましてやあの朝倉先輩の所へなんて行けば、女の先輩たちに白い目で見られるに決まっている。名前なんて知られたら、今後何かよからぬ事が起こってしまいそうだ。

「ねえ、やっぱりいいよ。また今度にするって」
「何言ってんの!今日のことは今日終わらすの!」

 ただ相澤先輩に会いたいだけの美羽に、私は何故か手を引っ張られている。美羽は、昼休みにこっそりレモンティーを買いに行った私に気がつき、理由をしつこく聞いてきたからつい言ってしまった。朝倉先輩がいつもレモンティーを飲んでいると言うことを。そしたら、「今行こう」と、6限目の前にわざわざ3階へと足を運び、はるばるやってきたのだ。そして何故か、レモンティーを持っているのは美羽だ。私は無理やり腕を引っ張られて来ただけ。

 「確か…先輩たちは4組なはず」

 美羽の流石の情報通な性格が役立ち、私達が4組に一番近い階段を登ろうとした時、

 「あ!いちごミルクの!」

 と、目の前から声がした。不貞腐れていた私が顔を上げると、朝倉先輩ではなく、相澤先輩が目の前にいた。

 「昨日、冬磨が会いに行った子だよね?いちごミルクの!」
 「あー、えっと…はい!この子がいちごミルクです!」

 突然に憧れの人が目の前に現れた反動で、美羽はおかしな声でおかしなことを言った。どうやら、酷く緊張しているみたい。いつも底なしの笑顔でいる顔が固まっている。

 「あの、朝倉先輩は…」

 もういいやと半分ヤケクソになって言った。本当は2人っきりの時に渡したかったのに…。

 「あー、冬磨今職員室行ってんだよね〜何か用だった?」
 私はチャンスだと思った。そしてよかったと安心をした。

 「いえ!特には!…失礼します!」

 私は素早く美羽の腕を握り、来る時とはまるで逆の立場になって、駆け足で階段を降りた。
 その日の帰り道、私は美羽に忠告をした。

 「ああ言うことはもうしないでよね、自分で渡せるから!」
 「ごめん…」
 「いや、そこまで怒ってるわけじゃないんだよ?結局居なかったからよかったけど、居たら気まずくなってたよきっと」
 「そうだよね、何も考えてなかった…」
 「だろうね、相澤先輩を目の前にした途端に黙り込んじゃって」
 「だって……、かっこよかったんだもん!!!!!」

 美羽は急に大きな声をだした。

 「うるさ!」
 「だってあの時、上から降りてくる相澤先輩が、王子様に見えたの!!あんな素敵な人見たことないもん!あれは国宝級だよ!こんな田舎に居たら勿体無いよ!あ、でも芸能人になったらなったで、美人に囲まれてるの見るのは辛いーーーー」
 「いやいや、ちょっと話がぶっ飛びすぎだよ!ど緊張してたのは伝わってきてたけど」
 「ほんと何も言えなかったの、気まずい空気になりたくなくて何か気の利いたこと言えたら良かったんだけど、いざ目の前にしたら息するのも忘れてたよ…」
 「……惚れた?」
 「……分かんない」
 「なによそれ、早く認めなよ」
 「でもさーーーー、傷つくのは嫌なの。後ハードルが…高すぎる」
 「ハードル?」
 「だってもし、付き合えることなったらって考えてみてよ?!相澤先輩の隣を私が歩いてるんだよ?!完全にビジュアルも体型も間に合ってないよーーーーーー。おこがましいよ!私だって私が相澤先輩の隣歩いてるの想像すると嫌だもん!」
 「美羽は可愛よ?背は低いけど、それが可愛いんじゃん」
 「いや…いや…だめだ…」

 美羽はそう言って、橋の手すりに手をかけた。

 「え、何死ぬの?」
 「死んだ方がマシかもしれない…これ以上好きになる前に」

 そう言った美羽がいつもより真剣で、他人事では無いその思いに、私はただ隣にいる事しかできなかった。

 「これ以上好きになる前に」

 なんて情けない言葉なのだろう。好きを認めてしまっているではないか。既に抗えないことを知っておきながら、抵抗だけはしてみる。「だから好きになりたくなかったのに」と、この先気軽に言えるように。 

 「帰ろっか」
 「うん」

 しばらく2人で夕陽を見てから、私達はいつものように何でもない会話をしながら帰った。美羽が少し心配で2人の通学路の分かれ道である公園をそのまま通過した。途中で焼き芋のいい香りがして、それが妙に懐かしく思えたのは、いつも通らない美羽の家までの道を、2人で歩いたおかげだと思う。
美羽と別れた後、その焼き芋を買った。母が仕事で家におらず、妹達のお世話を「長女」の私がしていた時に食べた、甘い焼き芋によく似ていた。そして、大好きな焼き芋を、自分より妹達に多くあげた時の切ない気持ちも思い出した。美羽の切ない気持ちと焼き芋の切ない気持ちが重なって、何だか泣きたくなった。
朝倉先輩の事を私はまだよく知らない。私より歳が二つ上で、4組で、勉強ができて、お父さんがお医者さんで、レモンティーが好きと言う事くらいしか知らない。
好きだと決めつけるのはまだ早い。中学の頃、好きかもと思った人が、少ししたら違ったと言う事があった。好きだと気づき、認めるのは難しい。目に見えない気持ちをどうやって判断していいか分からないから。
それに、恋愛は別に私にとっては必須ではないからこそ、焦らない。美羽が言っていたように、私も傷つきたくはない。出来れば平凡で、普通の恋愛がしたい。そして、昔の父と母のように、お互いを見つめ合いながら手を繋いで歩きたい。長い人生の中で、そんな人は1人居れば十分だと思う。だからこそ、間違えたらダメ。好きだと勘違いしたらダメ。これ以上近づいたらダメ。好きになる前に、出来る事をしないと。出来ない事を出来ないままでいないと。

次の日、誰よりも早く学校へ行った。3年4組の教室のドアまで音を立てずに近づきそっと覗き込むと、まだ誰も来ていないみたいだった。…チャンスだ。
窓際の後ろから二番目の席。情報通の美羽に聞くと、「ちょっと待ってて」と言われて10分後、最近仲良くなった先輩に聞いたと返信が来た。

「ここが先輩の席か…」

私は今日の朝に[お返しです]と丁寧に書いて大事に持ってきた、レモンティーを机の上に置いた。
先輩の机の上は、意外にも落書きがされていた。勉強が出来る優等生なのに、こんなことするんだ…と少し笑える。ほんの少しだけまた先輩のことを知れた気がして嬉しくなった。
その時急に階段の方から笑い声が聞こえて、驚いた私は素早く教室を出ていった。先輩だけが気づいてくれますようにと願いながら。
って、わざわざ会わないようにしたのに、何嬉しくなっちゃってんの?ただの落書きじゃない。て言うか、机に落書きとかダメなことだし…。そんなことをぶつぶつと考えながら自分の教室に戻ると、既に何人かクラスメイトが来ていて挨拶をした。

「おはよ〜」
「あれ、彩葉ちゃん、今日早いね!」
「うんちょっと用事があって〜」

入り口に一番近い席の子と少しだけ話して、自分の席に座った。美羽はまだ来ていないみたい。何もする事がなくなってしまった私は、とりあえず勉強をすることにした。

[東京医療総合大学!絶対合格!]

さっき見た先輩の机の落書きを思い出す。

先輩、来年は東京行っちゃうんだ…。
それから、勉強をする手はなかなか進まなかった。残り半年の先輩の学生生活。どうして今更知り合ってしまったんだろうと、自分の運命に恨みを覚え、やはり気持ちを認めないようにしないとと思った。

 そう思っていた矢先だったのに。
 土曜の休日、部活に入っていない私は暇を持て余していて、母におつかいを頼まれ快く承諾した。すると、買い物の帰り道、駄菓子屋の前でベンチに座っている朝倉先輩に遭遇してしまったのだ。会わないようにしないと結構しんどいと言うのに。

 「あれ、夏目彩葉ちゃんだ」
 「朝倉先輩…どうしてここにいるんですか?」
 「あー、ここのおばちゃんと仲良くってさ、急にこのラーメンが食べたくなって、それで来たんだ」

 先輩の手元にはカップラーメンが置いてあった。これは私も食べた事がある。妹達と初めて食べて美味しくて驚いたのを覚えている。

 「そう言えばこの前ありがとね、レモンティー。でもお返しって!あれじゃただの交換だよ、俺が奢りたかったのに」
 「いいんです、あれは間違えて買ってしまったやつなので」
 「ふーん、そうなんだ。…最近自販機の前で会えなかったからお礼遅くなってごめんな」
 「いえ…」

  最近は学校へ来る前にコンビニでいちごミルクを買っていくようにしていた。先輩に会わないようにするため。仲良くならないため。先輩の笑顔を見ないようにするため。これ以上、好きにならないようにするため。

 「俺、ちょっと寂しかったよ。何回か会ってたから慣れちゃってて」
 「そんなこと簡単に言っちゃダメですよ」
 「でも本当にそう思ったんだよな〜まだ知り合ってどんだけも経ってないのに」
 「そうですよ、つい最近、それもたまたま!ぶつかっただけなんですから」
 「そうだ、彩葉ちゃんのこと教えてよ!」
 「え?」
 「俺ら、友達になろう!」
 
 驚いて先輩の顔を見ると、綺麗に口角が上がった顔で私を見ていた。
こんなに人気で、こんなにかっこいい人が、どうして私に…?

「先輩だから…友達というか先輩って感じがしちゃいます」
 「んー、まあそうか〜。じゃあそれでもいいからさ、もっと気軽に話そうよ。もう他人じゃないんだから」
 「……はい」

 ダメだ。嬉しくなるな私。他人じゃないなんて言葉でいちいち舞い上がるな!!!

 「教えてって言われても私つまらない人間ですよ?」
 「いやいやそんな人間いないって〜」
 「本当なんです!平凡な毎日をただ静かに生きてる、平凡な人間です」
 「何それ、それがもう面白いんだけど?」
 「面白くないです、母にも厳しく育てられて来ましたし、長女だから真面目なんです」
 「長女だと、大変?」
 「それはもう…私妹が2人いるんですけど、一番下の妹とは7個歳が離れてるんでほぼ育ててると言っても過言じゃないくらいです。うちは母一人なので…」
 「そっかあ。彩葉ちゃんは今までたくさん頼られてきたんだね」
 「はい、どこに行っても『お姉ちゃん』って呼ばれるくらいですから」
 「いいなあ…」
 「はい?」

 いつの間にか自分語りをしていた私自身にも驚いたけれど、何より、先輩が今の私の話を聞いて「いいなあ」と言った言葉に驚きを隠せなかった。

 「どこも良くないですよ!お姉ちゃんでしょ!お姉ちゃんだから!って言われるんですよ?みんな『長女』の私を求めてる。私だって……本当は甘えたいのに」
 「甘えたいの?」
 「なんか先輩に言うの恥ずかしいですけど、まあ…。ずっと『お姉ちゃん』してきてるんで、甘やかされてみたいです」
 
 先輩はきっと聞き上手だ。普段自分語りなんて滅多にしない私が、聞かれたことを素直に話してしまう。

 「甘えてみる?俺に」
 「へ?いやいやいや、そう言う甘えるじゃないですよ?私が言っているのは、『末っ子』として甘えることを許されてみたいな〜ってことで…」
 「うん、だから、兄妹ごっこしてみる?」
 「兄妹ごっこ…?」

 聞き馴染みのない言葉に戸惑う。先輩は何を言っているんだろう。

 「実は俺、彩葉ちゃんとは真逆なんだ。三兄弟の末っ子で生まれて、甘やかされて育ってきた。容姿を褒められるのも嬉しくないわけじゃないけど、それのせいで何でも許されてきた。みんな、『末っ子』の俺を求めてる。…でも俺は、頼られたいんだ。しっかりしてるって言われたいし、許されるんじゃなくて許したいんだよ」
 「……」
 「甘えることを許されてみたい彩葉ちゃんと、甘えることを許してあげたい俺。利害が一致してるって思ったんだ」

 先輩の突然の告白に言葉を失った。そして私と真逆だという主張が、ものすごく重たく感じた。私が知らないはずの、先輩の今までの苦しみが見える気がする。
 何でもない顔をしながら話した先輩が、私と重なって見える。今の先輩を一番分かってあげられるのは、もしかしたら私だけかもしれない。

 「やりましょう、兄妹ごっこ!何をするか具体的には分かんないですけど…」
 「うん、言った俺も分かってない」
 「えええ!」
 「まあそこら辺は追々と言うか適当でいいかなって。ただ、彩葉ちゃんは俺に甘えていいよってことだけだよ」
 「分かりました…良く分かんないけど、分かったってことにします」
 「ふっ、さんきゅー」
 「こちらこそ、私の長年の夢が叶います」 
 「…堅い!ちょっと前から思ってたけど、彩葉ちゃんお堅い子だよね」
 「すみません…『長女』なんで」
 「あはは、ごめんって」

 先輩は笑いながら、残りのラーメンを食べた。きっともう相当伸びきっているような気がする。私に遠慮して、会話の途中では食べようとしなかった。そんな所はもう、『長男』なような気がする。年齢が2個離れているせいか、私からしたら先輩がお兄ちゃんと言うイメージが簡単につく。
これから『兄妹ごっこ』と言う名前を借りて、私は先輩に甘えることを許された。いいような、悪いような…少しの胸の痛みに、私は気づかないふりをした。