あの後、泣いてしまった私に、先輩は「今日の夜空いてる?」と言った。思わず涙が引っ込んでしまうくらいには驚き、顔を上げ先輩と目が合った時、つい頷いてしまった。それは、先輩も私と同じように苦しそうな顔をしていたからだと思う。
薬を処方されて、一旦家へ帰ってきた。
「進行スピードは人それぞれだから、私生活にも今後影響してくるかもしれない。ご家族や職場の人に、できれば話してほしい。生きていくために、必要な事だから…」
伝えにくそうな表情で、先輩は最後にそう言った。この先、いつの記憶がなくなっていくのだろう。何の事が、覚えられなくなるのだろう。何を、忘れてしまうんだろう。
自分の病気の名前をインターネットで検索をしたい。どんなことがこの先起こるのか、把握しておかないと、と思う程に指が震える。そして次には、腹が立ってくる。腸が煮えくり返るとはこの事なのだろうか。フツフツと身体の奥から苛立ちが込み上げてくる。何で?!何でなの?!と山の頂上から叫びたい気分。
どうして私がこんなに若くして認知症にならないといけないの?健康には気を使い、落ちているゴミは拾い、捨て猫には餌をやり、クライアントには気を配り、妹達の誕生日には必ずプレゼントを買ってあげて、母の日には花を贈っているというのに。
幼稚園生の頃、転んだ女の子に声をかけて、手を貸したことがある。小学生の頃、身体障害を抱えているクラスメイトを、虐めてくる子達から守ったことがある。中学生の頃、学級委員だった私はクラスの問題を解決したことがある。高校生の頃、買い物かごを引っくり返したおばあちゃんを助けたことがある。大学生の頃、電車で痴漢を捕まえたことがある。
私は今まで、ただただ真面目に生きてきた。母の期待を裏切ることはしない。困った人には手を差し伸べる。弱いものいじめは勿論しない。人の気持ちを考える。
クソほどに真面目に生きてきたというのに、どうしてこんな目に遭わないといけないんだろう。
私の苛立ちは止まることなく、先輩との待ち合わせ時間まで続いた。
待ち合わせ時間を10分過ぎたくらいに先輩は駆け足でやってきた。先輩の顔を見たら、先程までの苛立ちがスっと軽くなった。
「遅れてごめんね、最後のオペが少し長引いちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ、行きましょう!」
秋の夜風が心地よく吹く中、私たちは12年振りに横並びで歩いた。
「……さっきみたいに気楽に話してよ、彩葉から敬語使われると、なんかむず痒い」
「うん…私もそう思ってた。診察の時、先輩敬語だったから」
正直、「先輩」と呼ぶこともむず痒い。12年前、2人きりの時は「冬磨くん」と呼んでいたから。ただ私は、12年振りに再会した相手を、簡単に下の名前で呼べるほど、まだ人間ができていないみたいだ。
「冬磨くん…じゃなかったっけ。彩葉、俺の事そう呼んでただろ?」
「そうだけど…だって12年ぶりだよ?いきなりはどうなんだろう…って思っちゃって」
「はは、彩葉は変わってないね~ホント考えすぎー」
「いやいや大人になったの!」
冬磨くんは私の横でニコニコしている。私が大好きだった彼の横顔が、今手の届く距離にー・・・
「あ…」
「ん?どうしたの?」
「いちごみるく…」
冬磨くんの目線の先を見ると、自動販売機にいちごみるくが売っていた。
「わー珍しい!最近の自販機にいちごみるく売ってないんだよね〜」
私が思わず駆け寄ると、冬磨くんは後ろでクスクス笑っていた。
「ほんと、変わんないね!彩葉は!」
「え?何が?」
「ううん。飲む?買ってあげるよ」
「あ!」
「なに?」
「レモンティーもある…」
「わ〜ほんとだ。て、レモンティーは基本どこでもあるから」
「そうなんだけど、一緒に売ってるの久しぶりに見たから…」
いちごみるくとレモンティー。私たちの始まりに無くてはならない物だ。あの頃の先輩はいつもレモンティーを飲んでいた。ペットボトルの日もあれば、紙パックの日もあって、密かに今日はどっちだろうと楽しみにしていたことがあった。
「今も好き?…レモンティー」
「ん?ああ、変わらず好きだよ」
冬磨くんがそう言っていちごみるくのボタンを押したから、
「私も好きいちごみるく」
と小さく呟き、私はお金を入れてレモンティーのボタンを押した。すると冬磨くんが、
「これじゃ意味ないじゃん!」
って笑うから、私は訳もなく泣きたくなった。
夕食の時間は、病気とは関係の無いなんでもない話をした。そして、冬磨くんが聞き上手だという事を途中で思い出した。12年前も2人でいるとつい私の方が多く話しちゃって、「ごめんね」と言うと「俺が彩葉の話聞きたいんだよ」と返してくれていた。
妹が2人居る長女の私には、聞いてくれる人がなかなかいなかった。お母さんは妹のお世話で精一杯で、学校での出来事を話しても空返事だったり、同じ話を3度しても何も言われない。そんな私にとって、冬磨くんは救いだった。「末っ子」と聞いていたのに、世の中の末っ子とは真逆の、聞き上手。自分語りと言うよりかは聞き専に回ることが多かった。
「ごめんね、私ぺちゃくちゃと色んな話…仕事の愚痴まで聞いてもらって…」
「いやいいんだよ、俺が彩葉の話聞きたいだけだから」
冬磨くんは昔と同じことを言った。ほんと、聞き上手と言うかお人好しというか…。
さっき私に「彩葉全然変わってないね」と言ったけれど、私はだいぶ変わってしまったと思う。肌が12年分歳をとったし、太ると痩せにくくなった。苛立つことも増えたし、甘党だったのに生クリームがダメになった。何より、私には冬磨くんがいなかった。冬磨くんがいた時の私といなくなった私は、だいぶ違う。好きが軽くなった時もあったし、体を簡単に許した時もあった。冬磨くんが知っている私から、ほんとだいぶ、変わってしまったように思う。
私たちはライトアップされている川沿いのベンチに腰をかけた。川の流れる音が心地よく聞こえる。お酒を飲み、お腹もいっぱいになったからか、なんだか眠たくなってきた。
「また、昔みたいに甘えてよ」
「え?」
「それにまた、おれは頼られたいし」
「いや…でもあれは」
「今思うと変なことしてたなって思うよ。でも、あれでよかったとも思うんだよ」
「…うん、私も。あの頃はあれのお陰で、救われてた」
「12年空いたけどさ、相変わらずでいよう。俺らの利害は一致してるんだから」
「そう、だね」
「……っと、よし。ちょっと水買ってくるよ!」
「え、あ!ありがとう」
冬磨くんはそう言って近くのコンビニへ行ってしまった。
相変わらずな関係か…。
先生と患者になるよりかはマシか…。
お互いの利害が一致した関係。それが私たちが12年前にしていたことだ。
私は1人、目をつぶりながら川の流れる音を聞くことにした。本当にこのまま眠ってしまいたくなるくらいに気持ちがいい。
幼稚園生の頃、家族でよく川沿いを散歩した。双葉を抱えた父と私の幼稚園バックを肩にかけた母の間に私が居て、歩いたり走ったりジャンプをしたり。あの頃が1番、甘えが許されていたと思う。懐かしいな。楽しかったなあ。
………あれ、私今何してるんだっけ。
目を開けると、ライトアップされている川沿いにいた。
冬磨くんとご飯を食べて、ここへ来て、ベンチに座ったところまでは覚えている。
…あれ、冬磨くんは?
…帰ったんだっけ?
辺りを少し探してみた。進めば進むほど明かりがなくなっていく。Uターンをしようとした時、後ろから大きな声がした。
「彩葉!!!!」
振り向くと、声の主は息を切らしている冬磨くんだと分かった。
「あれ、どこに行ってたのー?帰ったのかと思ったよ」
「……」
「ん?どうした?」
「いや、別に。…ベンチ戻ろう」
「うん、カバン置いてきちゃった」
「…取りに帰ろう」
さっきまでも一緒にいたのに、何故か急に、この現実が無性に嬉しくなった。冬磨くんが手の届く距離にいるということを何度も確認したくなる。認知症と診断されてしまったけど、冬磨くんに再会できた。冬磨くんに会う事の引き換えとして、認知症を患ってしまったとしたら、それはもう、受け入れていくしかないのだろう。
この時の私は、相変わらずな関係でいられるかもしれないという期待から、認知症と言う病気を軽く考えてしまっていた。背中を向けて歩いていた冬磨くんが、どれほど険しい顔をしていたかも知らずに。
薬を処方されて、一旦家へ帰ってきた。
「進行スピードは人それぞれだから、私生活にも今後影響してくるかもしれない。ご家族や職場の人に、できれば話してほしい。生きていくために、必要な事だから…」
伝えにくそうな表情で、先輩は最後にそう言った。この先、いつの記憶がなくなっていくのだろう。何の事が、覚えられなくなるのだろう。何を、忘れてしまうんだろう。
自分の病気の名前をインターネットで検索をしたい。どんなことがこの先起こるのか、把握しておかないと、と思う程に指が震える。そして次には、腹が立ってくる。腸が煮えくり返るとはこの事なのだろうか。フツフツと身体の奥から苛立ちが込み上げてくる。何で?!何でなの?!と山の頂上から叫びたい気分。
どうして私がこんなに若くして認知症にならないといけないの?健康には気を使い、落ちているゴミは拾い、捨て猫には餌をやり、クライアントには気を配り、妹達の誕生日には必ずプレゼントを買ってあげて、母の日には花を贈っているというのに。
幼稚園生の頃、転んだ女の子に声をかけて、手を貸したことがある。小学生の頃、身体障害を抱えているクラスメイトを、虐めてくる子達から守ったことがある。中学生の頃、学級委員だった私はクラスの問題を解決したことがある。高校生の頃、買い物かごを引っくり返したおばあちゃんを助けたことがある。大学生の頃、電車で痴漢を捕まえたことがある。
私は今まで、ただただ真面目に生きてきた。母の期待を裏切ることはしない。困った人には手を差し伸べる。弱いものいじめは勿論しない。人の気持ちを考える。
クソほどに真面目に生きてきたというのに、どうしてこんな目に遭わないといけないんだろう。
私の苛立ちは止まることなく、先輩との待ち合わせ時間まで続いた。
待ち合わせ時間を10分過ぎたくらいに先輩は駆け足でやってきた。先輩の顔を見たら、先程までの苛立ちがスっと軽くなった。
「遅れてごめんね、最後のオペが少し長引いちゃって」
「いえ、大丈夫ですよ、行きましょう!」
秋の夜風が心地よく吹く中、私たちは12年振りに横並びで歩いた。
「……さっきみたいに気楽に話してよ、彩葉から敬語使われると、なんかむず痒い」
「うん…私もそう思ってた。診察の時、先輩敬語だったから」
正直、「先輩」と呼ぶこともむず痒い。12年前、2人きりの時は「冬磨くん」と呼んでいたから。ただ私は、12年振りに再会した相手を、簡単に下の名前で呼べるほど、まだ人間ができていないみたいだ。
「冬磨くん…じゃなかったっけ。彩葉、俺の事そう呼んでただろ?」
「そうだけど…だって12年ぶりだよ?いきなりはどうなんだろう…って思っちゃって」
「はは、彩葉は変わってないね~ホント考えすぎー」
「いやいや大人になったの!」
冬磨くんは私の横でニコニコしている。私が大好きだった彼の横顔が、今手の届く距離にー・・・
「あ…」
「ん?どうしたの?」
「いちごみるく…」
冬磨くんの目線の先を見ると、自動販売機にいちごみるくが売っていた。
「わー珍しい!最近の自販機にいちごみるく売ってないんだよね〜」
私が思わず駆け寄ると、冬磨くんは後ろでクスクス笑っていた。
「ほんと、変わんないね!彩葉は!」
「え?何が?」
「ううん。飲む?買ってあげるよ」
「あ!」
「なに?」
「レモンティーもある…」
「わ〜ほんとだ。て、レモンティーは基本どこでもあるから」
「そうなんだけど、一緒に売ってるの久しぶりに見たから…」
いちごみるくとレモンティー。私たちの始まりに無くてはならない物だ。あの頃の先輩はいつもレモンティーを飲んでいた。ペットボトルの日もあれば、紙パックの日もあって、密かに今日はどっちだろうと楽しみにしていたことがあった。
「今も好き?…レモンティー」
「ん?ああ、変わらず好きだよ」
冬磨くんがそう言っていちごみるくのボタンを押したから、
「私も好きいちごみるく」
と小さく呟き、私はお金を入れてレモンティーのボタンを押した。すると冬磨くんが、
「これじゃ意味ないじゃん!」
って笑うから、私は訳もなく泣きたくなった。
夕食の時間は、病気とは関係の無いなんでもない話をした。そして、冬磨くんが聞き上手だという事を途中で思い出した。12年前も2人でいるとつい私の方が多く話しちゃって、「ごめんね」と言うと「俺が彩葉の話聞きたいんだよ」と返してくれていた。
妹が2人居る長女の私には、聞いてくれる人がなかなかいなかった。お母さんは妹のお世話で精一杯で、学校での出来事を話しても空返事だったり、同じ話を3度しても何も言われない。そんな私にとって、冬磨くんは救いだった。「末っ子」と聞いていたのに、世の中の末っ子とは真逆の、聞き上手。自分語りと言うよりかは聞き専に回ることが多かった。
「ごめんね、私ぺちゃくちゃと色んな話…仕事の愚痴まで聞いてもらって…」
「いやいいんだよ、俺が彩葉の話聞きたいだけだから」
冬磨くんは昔と同じことを言った。ほんと、聞き上手と言うかお人好しというか…。
さっき私に「彩葉全然変わってないね」と言ったけれど、私はだいぶ変わってしまったと思う。肌が12年分歳をとったし、太ると痩せにくくなった。苛立つことも増えたし、甘党だったのに生クリームがダメになった。何より、私には冬磨くんがいなかった。冬磨くんがいた時の私といなくなった私は、だいぶ違う。好きが軽くなった時もあったし、体を簡単に許した時もあった。冬磨くんが知っている私から、ほんとだいぶ、変わってしまったように思う。
私たちはライトアップされている川沿いのベンチに腰をかけた。川の流れる音が心地よく聞こえる。お酒を飲み、お腹もいっぱいになったからか、なんだか眠たくなってきた。
「また、昔みたいに甘えてよ」
「え?」
「それにまた、おれは頼られたいし」
「いや…でもあれは」
「今思うと変なことしてたなって思うよ。でも、あれでよかったとも思うんだよ」
「…うん、私も。あの頃はあれのお陰で、救われてた」
「12年空いたけどさ、相変わらずでいよう。俺らの利害は一致してるんだから」
「そう、だね」
「……っと、よし。ちょっと水買ってくるよ!」
「え、あ!ありがとう」
冬磨くんはそう言って近くのコンビニへ行ってしまった。
相変わらずな関係か…。
先生と患者になるよりかはマシか…。
お互いの利害が一致した関係。それが私たちが12年前にしていたことだ。
私は1人、目をつぶりながら川の流れる音を聞くことにした。本当にこのまま眠ってしまいたくなるくらいに気持ちがいい。
幼稚園生の頃、家族でよく川沿いを散歩した。双葉を抱えた父と私の幼稚園バックを肩にかけた母の間に私が居て、歩いたり走ったりジャンプをしたり。あの頃が1番、甘えが許されていたと思う。懐かしいな。楽しかったなあ。
………あれ、私今何してるんだっけ。
目を開けると、ライトアップされている川沿いにいた。
冬磨くんとご飯を食べて、ここへ来て、ベンチに座ったところまでは覚えている。
…あれ、冬磨くんは?
…帰ったんだっけ?
辺りを少し探してみた。進めば進むほど明かりがなくなっていく。Uターンをしようとした時、後ろから大きな声がした。
「彩葉!!!!」
振り向くと、声の主は息を切らしている冬磨くんだと分かった。
「あれ、どこに行ってたのー?帰ったのかと思ったよ」
「……」
「ん?どうした?」
「いや、別に。…ベンチ戻ろう」
「うん、カバン置いてきちゃった」
「…取りに帰ろう」
さっきまでも一緒にいたのに、何故か急に、この現実が無性に嬉しくなった。冬磨くんが手の届く距離にいるということを何度も確認したくなる。認知症と診断されてしまったけど、冬磨くんに再会できた。冬磨くんに会う事の引き換えとして、認知症を患ってしまったとしたら、それはもう、受け入れていくしかないのだろう。
この時の私は、相変わらずな関係でいられるかもしれないという期待から、認知症と言う病気を軽く考えてしまっていた。背中を向けて歩いていた冬磨くんが、どれほど険しい顔をしていたかも知らずに。