「原因が分からない…?」
 
 28歳の誕生日を迎えた1ヶ月前頃から、私は自身の体の異変に気がつき始めた。初めは、カフェでコーヒーを飲んでいたらいつの間に5時間も経っていて、記憶からすっぽり抜け落ちた時間は、ちょっと居眠りをしてしまっていたのかと思うくらいだった。
 決定的だったのは、久しぶりに実家へ帰った時。幼い頃よく通った道を懐かしく思い散歩をしていたら、太陽が出ていて明るかったはずの街並みが、突如として暗くなり、気がついたら、夜の10時になっていたこと。母親には「どこ行っていたの、連絡くらいしなさい」と怒られ、「どこ行っていたの」の、質問には答えられなかった。

 どこに行っていたのだろう。私は何時間も何をしていたの?

 怖かった。けれど、それ以降何も起こらなかった。だから気にしてなかったのに。

 「あれ…どっちだっけ」

 地元から戻ってきて数週間が経っていた頃、駅を出てからの自宅への帰り道が突如として分からなくなった。もう何年も毎日通っている道なのに、どうして分からないの?
 携帯で住所を調べて、なんとか家に帰った私は、震える手で病院の予約をした。




すると、原因が分からないと言われてしまったのだ。

 「はい。一時的な記憶障害というのは確かですが、MRIでも特に異常は見当たりませんし、もしかしたら、ストレス性の何かが関係しているのかもしれません」
 「…ストレス」

 夢だったインテリアデザイナーになって早5年。毎日の残業と、新人の育成に追われ、上司と部下の板挟みに悩む日々。実家に帰れば、結婚はまだかと急かされ、祖父母から縁談を持ち込まれると言う始末。半年前に別れたモラハラ男は、お金を返してくれないし、私の私物を配送してくれと頼んであるのに一向に送ってくれない。確かに、毎日暇さえあればため息をついているほどには、ストレスを抱えている。

 「ただ、脳の記憶する機能に何らかの異変があることは確かです。私の知り合いに優秀な脳外科の先生がいます。紹介状を書いておくので一度受診してみてください」
 「分かりました」
 
 でもまあ、頻繁に起こっているわけではないし、ストレスが原因ならそこまで心配するようなことでもないのかも…。
 私は何も根拠のない『ストレス』と言うものに、無理やり原因を押し付け、安心することにした。まあ、死ぬわけではないから、なんでもいいやと思っていたのも正直なところ。


 風邪を引いた時とか、何らかで病院に行った時は、一人暮らしだといつも以上に孤独を感じる。家に帰りたくない一心で、私は親友の美羽を呼び出した。


 「どうしたの!彩葉からなんて珍しいじゃん」
 「別に!ちょっと飲みたくなっただけ!」
 
 大衆居酒屋だから二人ともいつもより少しだけ声を張って話す。

 「そういえば、モラハラ男からお金返してもらった?」
 「ううん、なんかもういいやって思えてきた」
 「えーでも結構な額じゃない」
 「そうだけどー、もう連絡取るのがめんどくさいというか、関わっていたくないというか…」
 「まあそれもそうか…あ、てかこの話の続きにアレなんだけど、杏果が結婚するってさ!」
 「えーーーー!あの警察官と?」
 「そうそう!でも、親には結構反対されたんだって〜」
 「あー、杏果のお母さん極度の心配性だしね、説得大変だっただろうな…なんか想像つく」
 「んね、私的には警察官とかちょーありだけどなー!」
 「何言ってんの、健くん聞いたら多分怒るよ?」
 「いやいや怒られても!私に養ってもらってる身で何を言うって話よ」
 「まあそれもそうだ」
 「でしょー?あ、でね、結婚式がなんと来月なの」
 「えー?!早すぎない?」
 「なんか、ずっと準備してたんだって。許可が降りなかったら駆け落ちするつもりだったみたい」
 「やばいねそれ」
 「招待状とか間に合わないから、身内だけでやるけど、私と彩葉には来てほしいってさ」
 「えー全然行くけど、私連絡貰ってないのにいいのかな」
 「なんか忙しいらしくて、彩葉には明日電話するって言ってたから出てあげて」
 「そう、了解」


 美羽は実家の佐倉医院の後継ぎであり、優秀な心臓外科医だ。彼氏の健くんの年齢は2個下の26歳。勤めていた会社が倒産し、再就職先が決まるまで美羽の家に転がり込んでいる。と、言ってももうすでに一年が経過し、ほぼ専業主夫状態。
 美羽は昔から、困っている人は見過ごせないタイプ。人の弱っているところを見ると、頼られているようで嬉しいらしい。いっそのこと、私の異変が心臓だったらよかったのに、なんて思う。そうとなれば美羽が必ず助けてくれるんだろうけど、残念ながら違うからか、無駄な心配をかけたくないし、なかなか正直に言い出せない。


 「それ絶対INFPだからだよ!」
 「絶対そう!」

 隣の席に座っていた大学生らしき女性達の会話が急に私の耳に入ってきた。それは多分、最近流行っているMBTIの話をしているから。

 「この子達MBTIに囚われすぎね」
 
 美羽が小さな声で女子大学生を横目に話す。最近、突如として現れた[MBTI]という、性格を16種類に分けることが出来る、性格診断というものが大流行りしている。聞くところによると、近頃は面接でも「あなたのMBTIは何ですか」と質問されるらしい。Eだったら外交的で、Iだったら内向的で…。えっと、あとは何だっけ。
 正直、こういう手のものにはうんざりだ。昔は血液型や星座で性格が分けられ、偏見があった。A型だと几帳面で、B型だと自分勝手で、O型だと大雑把で、AB型だと変わり者。偏見が激しく、でもそれが当たり前の世界だった。
 やっと落ち着いたと思っていたのに、最近流行り出したMBTIのせいで、また偏見が多くなった。昔も今もずっと偏見を抱かれているものには、家族構成も含まれる。長女、次女、末っ子。長女だとしっかり者で、次女だと自由人で、末っ子だと甘えん坊。
 私が学生の頃には「長女」というものに沢山悩まされた。「長女」と言うだけで、リーダーを任されたり、班長を任されたり、まとめ役を任された。


 「そういえば、朝倉先輩も来るみたいだよ、杏果の結婚式」
 「えっ?」
 「何でも、朝倉先輩と杏果の旦那が友人なんだってさ〜世間狭すぎだよ」
 「うん、ほんと…狭すぎる」
 「何、もう緊張してきた?」
 「いいや?別に何も思ってないから!」
 「嘘だー!彩葉嘘つく時耳触る癖あるんだから」
 「え!ちょっと待って何それ」
 「昔からずっとだよーその癖」
 「何それ恥ずかし!」

 朝倉先輩は、私の青春そのもの。私を救い、導いてくれた人。そして、私の好きだった人。何年も耳にしなかった名前を聞いた途端、あの頃の記憶が次々に呼び起こされる。
 記憶…。
 あれ、私の一時的な記憶障害って、過去の記憶が消えちゃうなんてことはないのよね。あれ、先生なんて言ってたっけ。…あれ、何も言ってなかったっけ。


 「彩葉?大丈夫?飲みすぎた?」
 「へ?ううん、大丈夫」
 「そう、ならいいけど」

 ていうか、私って、なんで朝倉先輩と会わなくなったんだっけ。最後、先輩に何て言われたんだっけ…。


 「…美羽」
 「ん?」
 「先輩って今何してるんだっけ」

  先輩の顔が、思い出せない。どうして…?あんなに好きだったのに…

 「えー?何って私と同業だよ!科は違うけど。確か…留川総合病院じゃなかったっけ働いてるの。てか、彩葉が何年か前に教えてくれたんじゃん!雑誌で見たとかで」
 「…そうだっけ」
 「やだ、何?やっぱ飲みすぎたんじゃない?すいませーん!」
 「はーい!」
 「お冷二つくださーい」

 私は、鞄からはみ出ている紙を、机の下でそっと取り出した。ここへ来る前にもらった紹介状。医院の名前は…『留川総合病院』医師の名前は…『朝倉冬磨』
 「私の知り合いに優秀な脳外科の先生が…」担当医がそう言っていたことは覚えている。紹介状をその場で貰った時、医院の名前も医師の名前も確認した。それなのに…。

 「ごめん美羽、そろそろ帰ろっかな」
 「え?もう?」
 「ごめん、明日朝早くて。お金ここ置いとく、また連絡する!」
 「ちょっと彩葉!まだ8時だよー?!」


 美羽の声は聞こえていたのに、一度も振り返らなかった。いや、振り返れなかった。美羽の目を見たら全て見透かされそうで、怖かった。ただ、自分の中での整理が必要だった。
 家に着き、パソコンを開いた。検索はもちろん、[留川総合病院 朝倉冬磨]
 見覚えのある顔が出てきて、経歴が次々に出てきた。記事やインタビュー動画も山ほど。
 そうそう…この顔だ…。
 私があの頃大好きで堪らなかった顔。12年の月日を重ねているのに、先輩は何も変わっていない。少し、顔が大人びたくらいだ。
 先輩はあの頃も、私からしたら十分な大人だった。2個上の先輩であり、お兄ちゃんであり、大好きな人だった。
 て言うか、来週会わなきゃいけないんだよね…。どうしよう。病気のこと、知られるんだ…。いや、もう担当医から話が行っているかもしれない。だとしたら先輩は、私のことを覚えているだろうか。名前を見て、私だと思い出してくれているんだろうか。…思い出してくれていると、いいな。
 私は小さな箱を開ける。これは、私の宝物ボックスだ。28歳にもなってこんなものがあるなんて言ったら引かれそうで、モラハラ男にもこの存在は言えなかった。中には、美羽と旅行先で作ったブレスレットと、幼い頃に妹達にもらった手紙と、高校生の頃に使っていたガラケーが入っている。そして、その一番下には、初めて撮った先輩とのツーショット写真が一枚と、私の大好きな先輩の横顔の写真が一枚。これの存在はずっと覚えていたのに、何で病院で先輩の名前を見た時に一番に思い出せなかったんだろう。私は自分の名前を見て、先輩に一番に思い出してほしいと願っているのに。留川総合病院に受診するまでの一週間、私は妙な緊張感を抱きながら過ごした。
 

 [留川総合病院]

 この名前が見えてくると、足がすくみ出した。
 どんな顔をして会えばいいの?だって、先輩との最後を結局思い出せなかったんだから。私が何かしちゃってたら…そっけない顔も失礼だし…。逆に先輩に原因があったら、明るく笑ってみせても怖いだけよね。
 そんなことを考えていたら、ついに目の前まで来てしまった。下を向いて俯いていると、心配をさせてしまったのか声をかけられた。

 「どうされましたか?」

 顔を上げると、声の主は可愛らしい看護師さんだった。

 「あ、別に大丈夫です、すいません…」
 「いえ!本日ご予約されておりますか?」
 「あ、はい…担当医の紹介で」
 「あー!もしかして夏目様ですか?」
 「そうです」
 「お待ちしておりました!私脳外科の看護師で、留川と申します!待合室までご案内致しますね!」
 「すいません、ありがとうございます」

 小動物のような可愛らしい看護師の背中の後を追い、病院へ足を踏み入れた。「留川」と名乗っていたから、この病院の娘なんだ…。と少し羨ましい気持ちを心の隅にそっと閉まった。

 「夏目さーん!お待たせしました、診察室へどうぞ!」

 待合室で待機して体感5分。診察室から看護師さんが出てきて、名前を呼ばれた。明らかに足取りが重い。出来るだけ診察室に入るまで時間を稼ぎたい。何て、目一杯頑張っても5秒くらいだ。
 看護師さんが開けてくれている扉の前まで来て中に入ろうとした時、あの横顔が目の前にある現実に足を止めた。

 「夏目さん?」
 「あ、すいません」

 立ち止まった事に驚き、看護師さんが不思議そうに私の顔を覗いた。私は咄嗟に足元を見て、中に入った。

 顔が上げられない…。不審がられる…。
 椅子に座り、恐る恐る顔を上げると、微笑んだ顔の先輩がいた。

 「久しぶりだね、彩葉」
 「…うん」
 
 思わず、昔の名残なのかタメ口が出てしまった。それにしても、名前…。久しぶりに男の人に下の名前を呼ばれた気がする。

 「もう、あれから12年?経ったか…」
 「ですね…」
 「あれ、先生と夏目さんお知り合いなんですかー?」

 隣にいた看護師さんが踊るような声色で聞いてきた。先輩は、何て答えるんだろう。

 「ああ、学生の頃の友人で」
 「あー!すごい偶然ですね!」
 「そうなんだよ、本当びっくり。な?」
 「はい…びっくり」

 『友人』と紹介されただけなのに、何故か眉間にしわが寄る。別に、こう紹介して欲しかったという具体的なものはないけれど。

 「早速だけど、田所先生から今までのことは聞いています。本日は今までのより、より精密な検査を受けていただきたいと思っています。一度検査を受けて頂いて、もう一度診察と言う形です」
 「はい」

 唐突な敬語に、仕事をしているんだと思わされる。当たり前なのに、先輩から敬語で話をされたことは初めてで、緊張する。

 「その前に、記憶について、この一週間変わったことはありましたか」
 「えっと…」

 先輩との最後の記憶が思い出せません…なんて言えるわけがなく、私はそれ以外に起こったことを話した。
 牛乳を買ってきていたことを忘れて、いつも買ってしまうこと。
 ネット注文で何度か同じものを頼んでしまったこと。
 でもこれは、正常な人でも有り得ることだと思う。と言うことも伝えた。

 「分かりました、ありがとうございます。では早速検査していきましょう。留川さん案内お願いします」
 「はい、では夏目さん行きましょうか」
 「はい」

 診察室を出る時に一度振り返ってみたけれど、先輩はすでにパソコンを見ていて、私のことなんて、気にしていないようだった。何だか、悔しい気持ちになった。


 「学生の頃って大学とかですか?」

 留川さんが廊下を歩いている時にふと質問を投げかけてきた。

 「え?ああ、高校です」
 「高校生の頃のお知り合いなんですね!」
 「…はい」
 「朝倉先生人気だっただろうな〜」
 「はい、それはもう、ものすごく。今もですか」
 「はい、患者様からとっても人気です!小児科が隣の塔にあるんですけど、子供達からも人気で」
 「…なんか想像つきます」
 「先生とは親しかったんですか?」
 「え?いや、別に」
 「なんだ〜さっきの空気何かあったのかと思っちゃいました!…ではこちらへお願いします!」

 話の途中で検査室へ着き、何とか先輩の話をしなくて済んだ。にしても、結構聞いてくる看護師さんだな…。少し、苦手かも…。と、留川さんの背中を見て思った。
 

 「お疲れ様です」
 「どう…でしたか」
 「少しではありますが、脳の萎縮が確認されました」
 「脳の萎縮…と、言うと?」
 「[若年性認知症]の可能性が高いです」
 「……」
 「留川さん、一度席を外してもらえるかな」
 「え、でも」
 「いいんだ、頼むよ」
 「はい…」

 心臓の鼓動が大きくなっていく…頭も何だか、殴られたように痛い。若年性認知症?前にテレビで見たことがあるし、映画でも見たことがある。…あれに私がなったってこと?…本当に?

 「彩葉…」
 「先輩、何かの間違いってこともありますよね、萎縮って言っても少しでしょう?明日になったら戻ってたり…」
 「脳は、一度萎縮したものは戻らないんだ」
 「いや、いやいやいやいや…私、小さい頃から健康にだけは気をつけてて、野菜中心の夕飯に、早寝早起き、朝一には乳酸菌を体に入れて、適度な運動もしてる。脂には気をつけて、タバコも吸わないし、お酒だって一年に数回程度。お陰で学生の頃から無欠席で、今も無欠勤。…それなのに、認知症?私が?まだ28なのに?…ありえない」
 「彩葉…」
 「やめてよ!そんな優しい声で、名前呼ばないで…」
 「……」

 垂れ下がった眉に、下唇を噛んだ表情。先輩のこの表情は、12年前にも一度見たことがある。
 覚えている。あれは、私が人生で一番わがままを言った時だ。
 そうだ、私と先輩は、私のせいで終わったんだった。さっきまで忘れていた事をちゃんと思い出した。私は忘れていたことを思い出せた。大丈夫。大丈夫だ。

 「や、大丈夫!ごめんなさい、治療をすればいいんだもん。向き合えば必ず元の健康な体に…」
 「若年性認知症は、現時点では根本的に治す薬がない」
 「…え?」
 「でも、症状を改善させる薬はある…それで経過観察するしかない」
 「…それって、記憶は、無くなっていくってこと?」
 「…その、可能性がある、いや、その可能性が高い」
 「……」

 ねえ、笑ってよ。私の大好きだった先輩の笑った顔が見たい。
 本当はずっと、先輩に会いたかった。
 1秒でも早く、顔が見たかった。
 この12年、何度も会いたいって思った。 
 どうしてもあの写真が捨てられなかった。
 会えるって分かって嬉しかった。
 そんな顔なんて、見たくなかった…。