着ていく服に悩まない。婚活で得た成果だ。それが無性に悲しい。
くだらないことを考えながらたどり着いたターミナル駅の入り組んだ構内から外に出ると、もう冬が近いはずなのに太陽はあたたかかった。
晴れた日の矢野さんも爽やかで好感度高い。
連れてこられたのは、庭に咲いた季節の花が窓から見える、雰囲気のいいフレンチだった。一瞬気後れしてしまったけど、料理が美味しくて頬がゆるんだまま、矢野さんの豊富な話題に自然と相槌を打つことができた。
そのあとは映画を見て、カフェで感想を交えながら世間話をする。ここでもポンポンと話を振ってくれる。
楽だ。
そういえば、と矢野さんが言った。
「二次会のときに聞こえてしまったんですけど、シェアハウスされてるんですか?」
「え? ああ大学時代の友人と」
「相手のお子さんの面倒もみているとか?」
「そうですね」
そこまで聞こえていたなら、なんで私に声をかけたんだろう、この人。
てっきり、一人暮らしの人を狙った方が遊びにしろ結婚にしろ、成功率は高そうなのに。
……ここで、もしかして私のことを気に言ってくれたのかな、とか考えなくなった自分を成長したと褒めるべきか、夢がないとけなすべきか。
「いいですよね。そういう割りきった関係」
矢野さんの言い方は、なんとなく含みがあった。この人も内心はよく分からないものへの興味を満たすために話を振ってるんだろうか。
けどまあ、形式としてお礼を口にする。
「ありがとうございます。楽しいですよ」
「信じてないでしょう。本当にいいなと思っているんですよ。結局、好き嫌いの感情で繋がるのは、リスクが大きいじゃないですか」
「はあ……」
なんの話だろう。
「その点、利益がある同士であれば、最初の目的からブレずに済みますよね」
ますます分からない。でもロクでもない提案をされるような予感だけはある。
本当なら深入りしたくない。
それなのに、まだ受け取ってもらえない弁償代のせいで、安易に席を立つことができない。
「あの……つまり何がいいたんでしょう。矢野さんもシェアハウスしたいって話ですか?」
「いや、ああでも似たようなものかな。僕とも契約してくれませんか?」
「はい?」
「婚姻届にサインをして、パートナー同伴が必要な席に出てくれたら、それでいいです。今の生活は続けたままで、結婚の実績もできる。どうですか」
「……さっきから何の話ですか」
「友達の子供とも同居できる。それってすごいことですよ。理性的だ。なかなかできることじゃない。そんな眞木さんなら、理性的に僕と契約結婚してくれそうだと考えて提案しています」
「つまり……矢野さんは恋愛するのは面倒だけど、結婚すると有利になる……仕事の昇給とかに関係ある感じですか? だから契約結婚したいと」
「察しも良いのは助かります。その通りですよ。このご時世でも、適齢期に結婚しておくと上からの反応がいいんです。ただまあ、独身の方に契約結婚なんてそうそう受け入れてもらえるわけじゃない。個人的には恋人がいてくれても構わないんですが、もし周囲に知られたら外聞がよくないですよね。同性とのシェアハウスなら、なんとでも言い訳できますから」
「私にもきちんとした結婚願望があるかもしれませんよ? 相手の友人だって、再婚する可能性はあります。シェアハウスを解消した私が、矢野さんとの契約結婚は嫌だ、ちゃんと妻として扱って欲しいと言い出したらどうするんですか」
「そのときはそのときです。少なくとも、一度結婚したという事実は残りますから」
離婚するってことじゃないか。ずいぶん勝手な話だ。
矢野さんは婚活したことないんだろうな。自分の外見とお金があればなんとでもできると思っている。
こんな情報を初っ端からお出しされて、同意されると思い込んでいるんだもん。
「お断りします」
言い切った私に、矢野さんはポカンと口を開けたまま固まってしまう。イケメンなのに滑稽だ。
やっぱりこの人、婚活慣れしていない。
だから仕事で人を使うノリで相手のことを見る。形だけのエスコートばかりで尊重しないから、完璧にエスコートしてもメッキが剥がれてしまうんだ。
なめないでほしい。
こっちは何度もお断りしてるし、されてるんだ。きたえられてるんだから。
「申し訳ありませんが、私は矢野さんとは契約できません。これ、この前の弁償代です」
現金の入った封筒を目の前に置いてさようならと店を出る。
追って来ない。当たり前だ。契約を結べないなら私は用無しなんだから。
そして私にとっても、もう彼は最低な男でしか無くなったんだから。
***
電車に揺られながら脳内反省会が始まる。赤く染まり始めた空が哀愁を誘う。
とんでもない男だった。まあ下手にカモフラージュさせて、万が一こっちがのめり込む前でよかった。
顔は良かったからなあ。……一人暮らしの先月までだったら、ほいほい好きになってたかな。
いやそもそも相手が興味を持ったのは早織たちと住んでいるのがきっかけだったから、先月の私じゃお眼鏡に敵わなかったわけだ。
もう考えるのはやめようと頭を振った。
早織たちは元旦那さんと面会だ。夕ご飯まで食べて帰ってくると聞いているから、今帰っても誰もいない。
どうしようかな。帰っても虚しくなるだけだし、どこかで食べて帰ろうか迷う。
でも――。
『今帰ってる途中。軽く食べられるもの作っとくね』
メッセージを送ってレシピサイトを検索する。急げば、二人が帰るまでにケーキが焼けそうだと考えたからだ。
航希君はイチゴが好きらしいから、シンプルなショートケーキにしよう。
この時期でも駅前のスーパーならイチゴの扱いがあるかも。
家族三人で食べてくるだろうけど……私の気持ちだ。用意するくらいはいいだろう。
だんだん楽しくなってきた。
やっぱり、私は早織と航希君との暮らしが心地良くて楽しいんだ。
周りの目がなんだ。早織が再婚するかもしれない不安がなんだ。
先のことは分からないのはいつだって同じ。無くすかもと不安になるのは満たされている証拠。
だったら、この日々が続くよう、いつか終わることがあっても、楽しかったねと笑い合えるように努力すればいい。
だれかと生活するというのは、それを続ける努力をするということ。
矢野さんの身勝手な態度に接することで図らずも再確認できた、重要な気づき。
あ、もう矢野さんのこと思い出したくないのに。追い出すように、息を長くはいた。
すると、スマホが手の中で揺れた。早織からの電話だ。
ちょうど電車が最寄駅に着いて、転がるように空いたドアの隙間からホームに降りた。
頭と体がうまく噛み合わなくて、足がもつれて転びそうになるのを踏ん張る。
「早織? 何かあった?」
「梢! ちょっと聞いてよ! ありえないんだけど!」
あれと思ってあたりを見回す。ホームの出口へ歩く人並みから少し外れた、自動販売機の横に、早織と航希君がいた。
「こずえちゃん!」
駆け寄ってきて足元にぎゅうと抱きついてくれる。手を繋ぐのはお馴染みだけど、抱っこは必要なときに私からお願いしないとさせてくれなかった。
こんなに熱烈に、しかも強くしがみつかれたのは初めてで嬉しいやら驚くやらだ。
「航希くん! どうしたの?」
「あの男、女連れてきたの」
低く唸るような早織の声で全てを察する。
詳細を聞きたい気持ちをグッとこらえ「二人ともお疲れさま」と言うしかなかった。
ああ……なんでこう今日は男たちがロクなことしないんだ。世の中にはまともな人もたくさんいるはずなのに。
シェアハウスがうまくいきすぎている弊害なのか?
いや、それは私たちの努力が実っているだけで、外野は関係ない。
そうだよ。外野は関係ないんだ。
しがみついたままの両腕をとって腰を屈めた。泣きそうな航希君と向かい合う。
「お家に帰って、航希くんの誕生日パーティしよう」
「でも……」
「私はまだケーキ食べてないんだよねー。赤いイチゴがたくさんのってるのが食べたいな。ローソクふーってする航希君が見たいなあ」
ちょっとだけ、瞳に光が宿る。
「ドクターイエロー、つくってくれる?」
一番最初にふるまったオムライスのことだ。もちろんと大きく頷く。
「いいよ! 今日は中間車両も作ってさ、大きなお皿に並べてもっと本物っぽくしようか」
「ほんとう?」
「……だったら、私も手伝う!」
「ままも?」
いつの間にか早織もいつもの表情だった。
良かった。やっぱりこの三人がしっくりくる。
「よーし! みんなで作ろう! 卵たくさん買って帰ろうね」
「うん!」
結局オムライスを何個も乗せるようなお皿は家になく。
ありったけのお皿やまな板を並べた上にラップを敷き、新幹線のオムライスを走らせた。
ブロッコリーの森に、タコやカニウインナーのお客さん。
大人のつまみ用のタコさんチョリソーは、端の方で見物してもらうことにした。
お惣菜で買った唐揚げや海老フライなんかも乗せる。
お弁当用のピックは総動員だ。
「かんぱーい!」
航希君の音頭に合わせ、コップをかかげながら「お誕生日おめでとう!」の声が早織とそろう。
「おいしそう!」
「航希、お皿に」
オムライスの手づかみをとがめようとする早織に「いいじゃん」と目配せする。
「もともとお皿に載ってないようなものだし。今日ぐらいいいじゃん」
「うーん……まあ、いいか」
「よーし私もタコさん二匹一緒に食べちゃおう」
「こずえちゃんずるーい!」
お行儀なんて、今日は封印だ。
美味しいものを食べて笑いあうのが、一番大事なんだから。
「途中までは良かったのよ。室内の遊び場で遊んで」
航希君の寝かしつけを終えてから、二人だけの二次会を始める。
「航希も久しぶりに会えたパパに喜んでね。お昼に入ったレストランでは誕生日ケーキも出してくれて。養育費払う気配がないのはムカつくけど、こんなに喜ぶならいいかって思ったときよ」
こっちがドキドキしてくる。
「そのケーキを運んできたのがさ、アイツの不倫相手だったの!」
「え、不倫相手ってお店で働いてるの?」
「そうよ。二人が出会った店だったわけ。とんだ茶番よ。『アタシとも仲良くしてくれると嬉しいなー航希君』なんて! うちの子の名前を呼ぶ資格なんかお前に無い! って叫んで航希抱えて出てきちゃった」
「それは……お花畑だね」
「くだらないことするなら慰謝料増額してやろうかな。こっちも全然払う気配がないから弁護士と相談よ」
「お疲れ様……」
「だから……正直、梢が帰ってきてくれて助かった。私一人じゃ気持ちの切り替えできないまま、航希をもっと不安にさせたかもしれない」
「私も……途中までは良かったんだけどね」
「なにその嫌なシンクロ」
二人で静かに笑い合う。
「良さげな人っぽかったのにね。地雷だった?」
「地雷っていうか……世間知らずなのかもしれないんだけど……」
不思議だ。嫌なことは一人で消化するのはすごく苦労するのに、二人だと酒の肴にして笑い話にできる。
明日を生きる活力に変換できる。誰とでもできるわけじゃない、早織とだから可能なんだ。
***
「そういや学校のやつに二人ってどんな関係なのって聞かれた」
「え、航希君なんて答えたの」
「友情の最終形態なんじゃねって言っといた。知らんけど」
「知らんけどじゃないでしょ。断言しなさいよ」
「まあまあ早織。あー……のさ、改めて聞くのも変かもしれないけど、航希君はどう思う? 世間ではこういう家庭、あんまりないじゃない?」
「別に? 知らねーオヤジを父ちゃんて呼ばなくていいし、飯はうまいし、最高じゃん?」
にやりと微笑んでできるえくぼは、一緒に住み始めたころから同じだ。
もう背は抜かれてしまったし、ヒョロリとした体躯は日々太くがっしりとしてきているけれど。
こういう一面を見ると、まだまだかわいいなって思う。
そして今聞いた言葉が本音だろうということに安心する。
「はあー……趣味が料理でよかったー」
「それだけじゃないから。母ちゃんの精神安定的なとこでも? 梢さんいてありがたいと思ってたよ」
「航希君!」
なんてできた子なんだ。
まだ思春期真っ盛りのはずの14歳なのに。
いまだに私と早織の関係を好奇の目で見たり、的外れな質問をしてくる人は少なくない。
心無い言葉にいちいち傷つくこともない。それを開き直ってると呆れる人もいるけれど、私の人生に関係ない人の話hどうでもいい。
だけど――航希君が否定的な感情を抱いていないことには心底安堵した。
「その最終形態って表現いいね」
「たしかに……わが子ながらやるじゃない」
ニヤリと航希君が笑って手を差し出した。なんだろう。私の手を乗せたら、渋い顔で違うと言われる。
早織が大袈裟に肩をすくめた。
「調子いいんだから。お小遣いはもうあげたでしょ」
「え? あ、そういうこと?」
「ちぇ。じゃあ梢さんは? ほめてくれたでしょ」
「そうだねえ……多少なら」
「梢、甘やかさないで!」
早織が呆れている。でもさ、本当に私はいいなと思ったんだ。
ながく宙ぶらりんだった私と早織の関係が、これほどストンと腑に落ちたのは初めてだったから。
そうなのだ。
私たちは友情の最終形態なんだ。