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 このままなら定時であがれるな。そう考えながらナースステーションで看護記録をパソコンに打ち込んでいると、師長さんに声をかけられた。

眞木(まき)さん、話しかけていいかしら?」 
「はーい? なんですか」
「あなたの紹介で入ってくれた岸名(きしな)さんね、評判いいみたい。部長がほめてたわ」
「あー……食堂で私も聞きました」

 早織のことだ。
 
 あんなに悩んでいたわりに、決断した早織の行動は早かった。
 シェアハウス可能な物件の候補をリストアップし、内覧の予約をすぐに入れた。
 ついでに私と同じ病院への転職も決め、面接予約もいれた。これまでパートタイムで働いていた病院よりも私が勤務している病院の方が大規模で、夜間保育対応の託児所があるからだ。シングルマザーになった今、同じフルタイムでも夜勤手当のつく方が手取りは格段にいい。

「フルで働くなら病院変えなきゃと思ってて、退職の話はしてあるんだよね」

 あっけにとられた私に、早織はいたずらっぽく笑った。

 そんなこんな、ラザニアランチから半月たつかどうかで、私たちのシェアハウス生活は始まった。

 
 ついさっき食堂で会った看護部長の顔を思いだす。眉毛も口もへの字のことが多いのに、珍しく曲線を描いていてちょっと不気味だった。

「転職サイトを通してない分、前情報がなくてどうしようかと思ったけれど、紹介してくれた眞木さんは長く勤めてくれているでしょう? それに賭けて良かったわ」
「それは……良かったです」
 
 こんなにご機嫌なのは、転職サイトに払う紹介料が浮いたからだろうか。嘘か本当か知らないけれど、紹介料の支払いで札束一つ飛んでいくらしいし。
 しかも「シングルの人って後先ないから一生懸命働いてくれるのよ。助かるわ」と笑った。なんかヤな感じだけど、まあこれも事実ではあるんだろう。
 
 ここまででもだいぶモヤモヤしたけれど、その後もまた良くなかった。「あなた彼女と一緒に住んでるのね。なんていうか……今どきよね? まあ寿退職の可能性がなくなるなら、大歓迎よ」と言い捨てて行ったのだ。
 
 隠しきれてない好奇の目に、ゾワリと鳥肌がたった。
 あの人総務に提出した書類見たのか。いや別に管理者だから見るんだろうけども。個人情報保護は。守秘義務はないんか。
 

「岸名さんにも、部長が感謝してたって伝えてくれる?」

 師長さんの声に、昼の食堂から意識を戻す。
 
「分かりました」

 ――感謝、ねえ。
 会議があると病棟を出ていく師長さんを見送り、記録の見直しをして電子カルテからログアウトした。

「梢さんあがりですか?」
「うん、お先ね」

 うらやましそうな後輩に手を振って更衣室に急ぐ。
 携帯を確認すると、緊急入院の対応でお迎えが遅くなりそうだと早織から連絡が入っていた。
 私が迎えにいくと返事を送って、病院に隣接する託児所へ向かう。
 
 私と早織が同居しているのを、別に隠してはいない。
 どうせ部長のように書類を見られたら分かるのと、託児所へ行った初日に航希くんが「こずえちゃんもね、いっしょのいえ」と保育士さんに話していたと聞いて腹を括った。

「航希くーん、梢さんお迎えだよー」

 すっかり顔なじみになった保育士さんに挨拶をしていると、別の保育士さんが航希君の帰る支度を整えて連れてきてくれた。

「今日もお昼は完食です。うんちもいいのがたくさん出ましたし。公園ではまりかちゃんとドングリをたくさん拾っていましたよ」
「お昼寝は?」
「バッチリ2時間寝てます」

 保育士さんの屈託ない笑顔にホッとする。最初は同性の同居人が迎えにくることになんとなく戸惑いを隠せていない様子だったけれど、ずいぶん穏やかになった。
 それだけ慣れてくれたんだと思う。

 私が子持ちの同性と同居することを、表立ってどうこういう人はいない。
 ただ、じっとまとわりつくような、探るような視線を向けられることは予想より多かった。
 後輩なんかは純粋にシェアハウスいいなあと言ってくれる。子供ありは迷うかな、と最後は言葉を濁すけれど。
 

 保育士さんにお礼とさよならをして、航希君の手を引いて駐輪場までゆっくりと歩いた。

「ごはんなーに?」
「お魚焼いたのと、サラダと味噌汁かなあ」
「おさかないらない」
「えーご飯とまぜまぜすると美味しいよ?」
「やなの」

 なんてことだ。作りおきのおかずで目ぼしいものはあったっけ。困ったときの納豆さまかな。
 冷蔵庫の中身を考えると、冬に向かう風が余計に身にしみる。

「こう君カボチャすき」  
「そうだ。カボチャの煮付けあるよ」
「あまいの?」
「あまいよ! こう君あまいの好きだもんね」
「すき!」

 手をつないだまま、ブンブン上下に手を振られた。楽しい気持ちがそのまま発散されて、私に届く。このまっすぐさに心が洗われる。
 
 すっかり夕焼けに染まった電動自転車までたどり着くと、前の座席に抱っこで航希君を乗せた。
 早織と私は自分だけでなく互いの自転車の鍵も共有していて、航希君を連れて帰るほうが子供乗せ自転車に乗れるようにしている。

 極端に前へ重心がかかるのに驚いてこわごわ運転していたのも最初だけ。
 今はもうなんの問題もない。

「さか、シューってして」
「はいはい、シュー」
「おそい!」
「安全運転ですー!」

 そりゃ、早織みたいにスピード出す勇気はまだないよ。

 シェアハウスも、電動自転車と同じような要領で慣れた。
 大変だったのはほんの数日。あれこれ調整しつつ、互いのペースを守りながら毎日過ごすようになってきていると思う。

 
「ほね!」
「食べにくかったね。ほら取れた」
「ありあと」
「どういたしまして」

 嫌だと言っていたのをもう忘れてしまったのか、ほぐした鮭を混ぜたご飯を、航希君は器用にスプーンですくって食べ始める。もぐもぐと小さな口を動かしてから、おいしいと満点の笑顔になった。
 
 そこへただいまと早織が帰ってきて、取り置きしておいたおかずと汁物を温めながらご飯をよそう。

「帰ったらいい匂いたして、あったかいご飯がある幸せ……」
「毎日言っててよく飽きないね」
「だって本当にありがたいんだよ」
 
 大げさじゃないかと言うほど喜んでいまだに感動の涙を流す早織。それは私も同じだ。
 自分一人じゃない食卓をまぶしく思う。
 
 この数分後に眠気がピークになった航希君がお風呂に入りたくないとぐずり泣きしても、そんなの些細なことだ。
 
 幸せだなと素直に思う。
 
 周囲のもの言いたげな視線とか、探るような言葉は面倒くさいけれど。
 
 それらを間のあたりにするたび、婚活から逃げる口実を手にいれたかっただけじゃないか、とイマジナリー世間がささやくけれど。
 
 やっぱり、シェアハウスを始めて本当に良かった。

 ――そう思っていたのに。