ラザニアランチから一週間後、お互いの休みがかさなった今日、私たちはお試し共同生活をしていた。
朝イチに早織の家にお邪魔して、早織と息子の航希くんと近所の公園で遊ぶ。
生まれたばかりに見たきりだった航希君は、もう立派な幼児だった。
小児科で勤めたことがあるから、子供の成長過程なんかは見聞きしてきたけれど、知り合いの子が大きくなっているのを見るのはなんというか、感慨深い。
小さな足で走り回り、一生懸命おしゃべりする姿にいちいち感動してしまう。
なにより可愛い。
あまり人見知りしないという航希くんは、ほぼ初対面の私でも物おじしない。
躊躇なく私の手を握って公園まで案内してくれたし、帰宅して電車の絵本を広げたかと思ったら、推し電車や新幹線について教えてくれる。新幹線のおもちゃをロボットに変形させ、驚く私に「けいたいへんか!」と胸をはった。
しかもだ。
「あー! ドクターイエローだー!」
新幹線を模したオムライスを作って見せたら、ものすごい食いついてきた。
しかも「おいしーね!」と完食してくれた。
なんかもう、胸がいっぱいだ。
自分のお腹をみたすだけじゃない食事なんて、いつぶりだろう。
おなじテーブルをかこんで、おいしいと笑ってくれるのが、こんなに幸せだったなんて。
そうだった。婚活をはじめたのも、誰かと食事や幸せを分かち合いたいのが動機だった。
どうやら私の幸せは、自分のつくった料理を食べてもらうのと密につながっているらしい。
「……航希くん、二十年後もフリーだったら、お嫁にもらってくれない?」
「やめてよ。全力で妨害する」
ふざけた私に、早織の低い声と冷たい視線が突き刺さる。
「早織ー冗談だって」
「おかわり!」
「はーい」
にぎやかな食事が終わり、疲れと満腹にとてもとても素直にしたがった航希くんは、リビングにしいた布団でお昼寝している。
布団もいちいち小さくて可愛いな。つい笑顔になってしまう。
ダイニングテーブルからほのぼのながめていたら、コーヒーの入ったマグが目の前におかれた。
お礼を言えば、「お疲れさま」と早織も腰かけて、自分の分のコーヒーをすする。
「いい疲れって感じ。航希くんや早織がご飯食べてくれてうれしいよ」
「だろうね。楽しそうに作るの見て、やっぱり才能だと思ったわ。私はダメ。毎晩なに食べさせるか考えるだけで面倒くさいもん」
「夕飯もつくろうか。なにがいい?」
「えー……まじで同居したくなるから困る」
「だから一緒に住もうって言ってるじゃん」
なんでそんなに踏みとどまるのかな。
テーブルに両肘をつき、早織は頭を抱えてしまった。そんなに悩まれると、なにか重要な問題を見すごしているんだろうかと不安になる。
そりゃあ私は独身貴族ですし、小児科での経験なんて、毎日の子育てで必要になるスキルの前では意味がないのかもしれない。
現に私は、ここまで航希君のご機嫌な様子しかみていない。世間でいう魔の二歳児な一面だってあるはずだ。そんな場面に一対一で直面した私が、きちんと対応できるかどうかは未知数だ。
それに結局は婚活から逃げる言い訳を探していたんだろうと指摘されたら、言い返すのは難しいかもしれない。
でも、でもさ。
この半日がずっと続くかと思うと、それはすごく魅力的だなって思ってしまったのだ。
気のおけない友人に、その子供との優しい時間。
公園なんて何年ぶりに歩いただろう。腰より低い位置から景色をながめたのも。
地面が近い分、土や野花の香りが届き、どんぐりの個性が分かり、聞こえる音が体に迫る。
お母さんの顔をしている早織も新鮮だった。キレイなお姉さんに、包容力を追加した感じ。
きっと、苦労や面倒はいろいろあって、もしかしたら尽きないかもしれない。私の見通しは絶対あまい。
だけど――結婚につながるお付き合いをというプレッシャーから解放されて、私はひさしぶりに深く息がすえた。
お金をつかい、時間もかけて気もはって。その結果がお断りメールを送ったり受け取ったりなんて、もうたくさん。
こんなふうに小さな幸せをひろって積み重ねるみたいな日々を送れるなら、そっちがいい。そう考えるのは、そんなに意外なことだろうか。
「私、恋愛がしたいんじゃなくて、家族がほしかったんだって気づいたんだよね」
そこに至るには恋愛を経由しないと、と思いこんでいて。まあ世間的にもそうなんだけど。
恋愛にこだわらなければ届きそうと分かった今、手をのばすのは当然じゃないか。
「病院の寮もそろそろ出てくれって急かされてたし、ちょうどいいよ」
……ほかにあるかな。私の不利益にならないよってアピールすること。
腕をくんで考えていると、深く長いため息をついた早織が顔をあげた。
まっすぐ私に向ける視線には、力がこもっている。
「……よし、そこまで言うなら梢も覚悟決めてよ。次に休みが合う日は親御さんへ挨拶しに行こう」
「え!? 別にいらなくない? 結婚するんじゃないし」
「いるよ。むしろ結婚よりハードル高いから。婚活してるはずの娘がバツイチ子持ちと同居しますって言われて、はいそうですかとはならないよ 」
「うちの親あんまり気にしないと思うけどな」
それでも、と早織に念押しされる。
根回ししておいた方がいいのはなんとなく分かるけど――。
「大げさじゃない?」
「結婚みたいに契約はないけど、だからこそ梢にも責任は自覚してほしいの。一緒に住んでいた人がいなくなると、航希に……自分のせいだと思わせちゃうから」
「あ……」
あわてて振りむいたけれど、航希君はまだ夢のなかだった。
そうだった。
幼い子は、物事の因果関係がすべて自分にあると考えてしまう。小児科勤務で幾度となく遭遇したことがある。
病気になってしまったのは、お母さんの言うことを聞かなかったからだ。自分が悪い子だから入院するはめになった、というように。
航希君もそうなんだ。
こんなに小さくても、お父さんが家から出て行ったのは自分のせいだと抱えてしまうんだ。
大人二人なら、一緒に住んでみたけどダメでした、だからシェアハウス解消です……が通用する。
だけど私たちがそれをすると、航希君に対する裏切りになる。始めてしまったら後戻りはできないのだ。
「でも、それでも……シェアハウスをしない理由にはならないよ」
「……分かった」
「なにかあっても話し合えばいいと思……え、いいの!?」
「いいよ……て、私が言うのも変なんだけど。そのかわり、梢はいい人がいたら遠慮せずに結婚するんだよ。ためらわないでね」
「ん? 話が矛盾してない?」
「幸せになってくれるなら大賛成。ドレス姿見たら航希も納得するよ。プリンセスになるんだねーって」
「それはちょっと……かなり恥ずかしいけど」
航希君のイメージするプリンセスに比べたらだいぶ年増になるんだけども――まあ現実になってから悩むことにしよう。