アラームが鳴る前に、自然と目が覚めた。
 喉がひどく乾いて、まだ重い体を引きづってリビングへと向かう。

 冷蔵庫から冷えたお茶を取り出すと、そのまま喉に流し込んだ。

 浅く息をはいて、吐き出し窓のカーテンを開ける。
 陽光が差し込み、リビングが優しい光で明るくなった。

 昨日はあまり眠れなかった。
 いつもと違う場所は、やはり慣れなくて。正直、今まで住んでいた家が頭に浮かんだりもしていた。

 長年住み慣れた家と家族を捨てて、自分でも思いきった選択をしたと思う。

 きっかけは、衝動的としか言いようがない。
 ふとSNSを見たら、桜と翠がルームシェアをしたと投稿していた。

 久しぶりに二人を見たら、一気に高校生までタイムスリップしたみたいに懐かしさが込み上げてきた。


「まさか、そのまま離婚届を置いて、家を出るとはね……」

 今回ばかりは自分の行動力に、私が一番驚いている。
 
 

 今日は私が朝ご飯作ろうかな……。
 朝食を当番制と決めたけど、誰からはじめるとか、細かいことまで決めていなかった。

 冷蔵庫とパントリーをチェックして、残り物がないか確認する。
 使えそうだと思った食材は、食パン、冷蔵庫に残った野菜、薄切りハム、チーズ。残っていた野菜にはアボカドと玉ねぎがある。

 勝手に使って怒られるかな。
 まぁ、そのときはスーパーが空いたら、買いなおせばいい。

 これだけあれば、アレが作れるな。
 すぐに思いついた朝食があった。

 閃いたまま、私はキャリーバックからあるものを取り出した。それは、鉄フライパン型のホットサンドメーカー。

「なつかし……」

 力なく口から気持ちが零れた。
 改めて見ると、あちこちに焦げ跡が残っている。誰が見ても使い込んでいるのがわかるほど、年季が入っていた。じっと見つめると、頭の中に古い記憶が蘇る。


「ママー! 今日の朝ごはんはホッとサンド!? やったー。僕ママのホットサンドが世界一好きだよ!」
 古い記憶は、幼い頃の息子の姿だった。ホットサンドは、息子の大好物。とは言っても、いつのことだろう。きっと私の中の記憶で、自分の都合の良いように記憶が止まってるんだと思う。

 中学生、高校生になってからも朝ごはんに出したことはあったけど。喜ばれるどころか、反応なんて全くなかったな。

 思い出したら、なぜだか泣きそうになった。歳をとってから、大したことじゃなくても涙腺が緩んで困ったものだ。

 桜と翠が起きてくる前に下準備は終らせないと。
 涙を拭って、背筋を伸ばした。

 今日作るホットサンドは、難しそうに見えて、実はとても簡単。
 だって、食材を食パンで挟んで焼けばいいだけだから。

 種類を楽しめるように、何パターンか作ろうと思う。
 用意する材料は、薄切りハム、チーズ、アボカド、玉ねぎ、ツナ缶。

 包丁で切る食材は2つしかない。
 まずは、玉ねぎをみじん切りにする。玉ねぎに包丁を入れると、目に染みて涙が出そうになった。
 なんとか堪えて作業を終える。

 つぎはアボカド。ぐるりと一周、皮に切れ目を入れる。切れ目をひねって種周りをゆるませ、身をはがす。そして、種を取り出した。あとは皮を手で剥がして、薄めに切っていく。この時、食パンで挟むので、はみ出ないように注意する。

 ツナ缶は水切りをする。水っ気が多いのはホットサンドと相性が悪い。
 まずはリングを立てる。蓋は全て開けずに、そのまま中の油だけを別容器に移すように傾ける。
 これが一番洗い物を増やさずに水切りできる方法だと思う。
 
 水切りされたツナと、みじん切りの玉ねぎを混ぜる。そこにマヨネーズを和えれば、ツナマヨの完成だ。
 具材の下準備はこのくらい。あとは食パンで挟んで焼くだけ。

「おはよぉ……」
 
 下準備が終わったタイミングで、ちょうど桜が起きてきた。寝起きのせいで少し声ががさついている。


「じゃじゃーん!」

 ちょっと自慢したくて、わざとらしく声を張った。

「こ、これは?」

 まだ開ききっていなかった桜の目は、ホットサンドメーカーをじっと捉えた。そして、興味津々といった感じで、目がぱちりと揺れる。

「おはよー。お腹空いたぁ」

 翠は肩をぐるりと回して、あくびをしながら起きてきた。きっと遅くまで、執筆作業をしていたのだろう。

「翠も見て―。今日の朝ご飯はホットサンドにしよう?」

 桜と同様に、ホットサンドメーカーを見た瞬間、翠の目は輝いた。
 
「えっ、カフェみたい……最高だよ」
「ホットサンドなんて、お店でしか食べたことないや」
「自分でも作ってみたいなぁとは思ったことあったけど、結局買わずに終わっちゃったのよね」

 どうやら2人は家でホットサンドを作ったことがないらしい。余計に食べさせたい気持ちが高まった。

「具材のリクエストある?」
 
 桜と翠は顔を見合わせて、少し考えているみたい。
 
「……お任せしたい」
「私も私もー」
「おっけー。任せて?」

 後は焼くだけなので、2人を朝の支度をするように促した。その間に作ってしまおう。気合を入れなおして、さっそく作業に取り掛かかる。

 まずは、ホットサンドメーカーに食パンを乗せる。そして、薄切りハム、アボカド、マヨネーズ、塩コショウ、チーズをのせた。あとはぎゅっと挟んで両面を焼くだけ。

 料理工程は、驚くほど少ない。
 じっくり火にかけ、こんがりと焼いていく。

 焼いている間に、進められる作業をする。何度も家族分のホットサンドを作ってたので、流れはバッチリだ。
 
 しばらくたつと、こんがりと香ばしい匂いが漂ってくる。
 きっとそろそろ良いころだ。長年の感は間違いないだろう。躊躇なくパカッと開けてみる。
 すると、香ばしい匂いがあたたかな空気と共にやってきた。

「ふぁ~~」

 小麦色に焼けた姿と、香ばしい匂いに、思わず吐息が漏れる。
 パンの焼けた匂いは、それだけで幸福な感じがするのはなぜだろう。

 この調子でどんどん焼いていく。
 次は、食パンの上にツナマヨをたっぷりのせて、さらにチーズをのせる。やはりホットサンドにチーズはマストだと思う。

「あー、私の好きな組み合わせも食べてほしかったなぁ」

 一番お気に入りの具材があった。それは手間いらずでとても簡単なのだけれど……。

「ねぇ、レトルトカレーってあったりする?」

 私は声を張り上げて質問する。

「あるよ~?」

 歯磨きの最中だった桜が顔を出した。

「あるの!? 使ってもいい?」
「……朝からカレー食べるの!? 別にいいけど」

 ちょっと驚いたのか、ぽかんと間があったような気がした。
 朝からカレーと聞くと、重く感じる気持ちもわかる。
 だけど……。嬉しくなって、反射的に微笑む。私がホットサンドの中で一番好きな具材は、カレーとチーズの組み合わせなのだ。

 さっそく、レトルトカレーを既定の時間レンジで温めた。そして、食パンの上にのせる。もちろんチーズも欠かさない。あとは、今までと同様挟んで焼くだけ。


「なんかシワが増えてるぅー」

 鏡を見たであろう翠が、両手で頬を抑えながら戻ってきた。

「大丈夫。そのシワ、昨日もあったから」
「それは、全然大丈夫じゃないのよー」

 大袈裟に悲観する翠に、桜は間髪入れずに答えた。
 学生の頃と変わらない2人の軽快なやり取りに、思わず口元がほころんだ。


「なにか手伝おうか?」
「じゃあ、コーヒーお願いしようかな」
  
 次々と焼いているうちに、桜と翠は準備が終わったようだ。
 桜は手際よくコップを準備すると、インスタントコーヒーを振り入れ、お湯を注いでいく。
 ふわりと立ち上る湯気と、ほろ苦い香りが広がった。

 最後の仕上げにこんがりと焼きあがったホットサンドに包丁を入れる。見栄えするように斜めに入れて、三角の形になるようにした。

 ――サクッ。
 包丁が入ると、こんがり焼けたパンの切れる音が響いた。次の瞬間、たっぷり乗せたチーズが溶けてあふれ出す。とろりと溶け出すチーズの威力は強い。思わずごくりと喉が鳴る。

 いよいよお腹が鳴りだして、早々とテーブルに運ぶ。
 今日の朝食、ホットサンドとコーヒーの完成だ。

 湯気の合間から見えるあたたかなコーヒー。
 白い皿に並べられた、三角形に切られたホットサンドはこんがり小麦色。切れ目から見える、チーズ、アボカドやハム。鮮やかなコントラストに目が離せない。

 揃って喉をごくんと鳴らした。待ちきれないといった様子で、うなずき合った。

「美味しそうすぎる……」
「美味しそうー」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」

 手を合わせて挨拶をする。

「わぁ……どれにしよう」
「おすすめはある?」
「えっとね、これは定番で間違いないハムチーズ。こっちはアボカドが入ってて美味しいよ?」

 指をさしながら、一通り説明をした。

 桜と翠は迷いながらも、ハムチーズ。アボカド入り。とそれぞれ好きな具材を選んでいた。
 私が選んだのは、一番好きなカレー。
 
 顔を見合わせてから、いよいよホットサンドにかじりつく。


 ――サクッ
 同時にかぶりついたので、香ばしい音が響き渡る。

「……うまッ」
「おいしいー。チーズがとろける」

 美味しい声がこだまする。
 翠と桜の美味しい顔を確認して、心がほっとあたたまった。

 続けて私も二口目を口に運ぶ。サクッとした感触の次にじゅわっとひろがるカレーの香辛料。噛み締めるたびにあふれ出てくるカレーとチーズの相性は抜群だ。
 
「やっぱりカレーのホットサンド、美味しい~~。幸せぇ~」

 吐息と共に吐き出すと、じっと見つめられていた。

「カレー重そうって言ったけど、この匂いはやばい」
「茜が食べてるホットサンドからの香りが、もうずっと食欲を刺激してくるよ」
「私も次、カレー食べたい」
「え、待って。私も食べようと思ってた」

 あれだけ朝からカレーは重いと批判していたのに。
 スパイスの香りを嗅いだら、この美味しさに取りつかれたみたい。
 

「ホットサンドなんて、洒落てるわよね。茜はよく作ってたの?」

 もぐもぐと頬張りながら翠が聞いてきた。

「……うん。息子がね、小さい頃好きだったのよ」

 また頭の中に古い記憶が蘇る。それはだいぶ昔のことなのに、瞳の中にフィルムカメラ存在するみたいに鮮明に映る。

「子供の頃の話ね……それも昔過ぎて、本当に好きだったのかも今では分からないまま。最近なんてずっと使ってなかったし。こうして供養できてよかったよ」

 しんみりしたくなくて、からっと笑ってみせた。

「あら、だったら電話して聞いてみればいいじゃない」

 翠は大人しそうに見えて、たまにとんでもないことを言ってくる。

「いいよー。わざわざ電話なんて」
「電話って気軽に話すための通信機でしょ?」
「あれ、この光景既視感感じるなぁ。そういえば、昔もこんなことなかった?」

 そういったのは、首をひねりながら考え込む桜。
 昔……? 同じようなことあったっけ。

 すぐには思い出せなくて、考えていると。

「わかった! 高校のとき。私たち同じセリフを茜に言ってなかった?」
「思い出した! あったね。そんなこと。岡部くんに電話してみなよって。背中押したのよね」

 私のことは置いてけぼりで、2人はキャッキャと楽しそう。
 岡部くんとは、高校時代に少しの間付き合っていた人。
 付き合ったといっても、高校時代の淡い恋愛だった。

「全く話が見えないんですけど~」
「高校のときね、茜いつもは破天荒なくせに。いざという時全然岡部くんに話かけなくてさ」

 桜の話を聞いて少しずつ思い出してきた。私はここぞというときに、勇気を出せないことがたびたびある。

「それで、私たちが何度も『直接が無理なら、電話してみなよ!』って言ったのよ」

 あぁ、思い出した。
 当時岡部くんに片思いしていた時の話だと思う。なかなか直接話しかけられなくて、2人が背中を押してくれたんだ。
 だけど、今更ながらに、電話の方がなかなかハードルが高い気がする。

「それで付き合うようになったのよね」
「……まぁ、2か月で別れたけどね」
 
 そういえばそうだった。口うるさく言われたおかげで、電話をかけて。
 それがきっかけで付き合うことになったんだ。

 昔話でつい盛り上がってしまったけど。
 岡部くんのことと、息子のこと。なんの関係があるのだろう……。

 しばらく考えて、不思議に顔をあげると、にこりと笑う翠と桜と目が合った。

「今、なんで岡部くんの話になったんだろうって思ってたでしょ?」

 ぎくりとする。図星だったからだ。桜はこういうことに、とても勘が鋭い。

「つまり……私たちに背中を押されたら、のっとけってことよ」
「ん?」

 きっぱりと言われたけど、ちょっと意図がわからない。

「息子くんに電話してみなよ。ってこと」
「あぁ……」

 そういうことか。返事の歯切れが悪くなる。
 息子と仲が悪かったわけではない。だけど、私はいきなり離婚届けを置いて家を飛び出した。一人暮らしをしている息子も、きっと元旦那から聞いているはず。

「なんか……かけずらいのよねぇ」

 そうポツリと呟いた時だった。

 テーブルに置いていたスマホが震えた。
 着信相手は、息子の雅樹。

「あら、噂をすればってやつ?」
「私たち離れてるからさ……」

 気を聞かせてくれたのか、翠と桜はその場からそっと離れた。

 
「は、はい……」
「もしもし? 家出てったって聞いたけど」
「あ、うん……」
「まぁ、俺がけしかけたしな? 良かったんじゃない? 今どこにいんの?」

 雅樹は特に気にしてなさそうに、からりと言った。 その様子にひとまずホッと胸を撫でおろした。

「友達のところ。ルームシェアすることになって」
「ルームシェア!?」

 よほど驚いたのか、雅樹は声のボリュームが上がった。

「高校時代の友達とね」
「ふーん。いいじゃん」
「そっ、これからは自分の人生楽しもうかなーって」
「そうだよ。その方がいいよ。あーあれだな。そうだ……」

 雅樹はなにか言いにくいのか、言葉を濁した。

「今度遊びに来れば? 俺のアパートに」
「ふふっ、こなくていいよっていうと思ってたよ」
「きた時はアレ作ってよな。朝ご飯に、俺の好きなやつ」
「え?」
「……昔作ってくれたホットサンド、また作ってよ」

 予想外の言葉に、数秒思考が停止する。

「お、覚えてたの!?」
「当然だろ。俺の好物なんだから」

 私は胸が詰まって何も言えなくなってしまう。
 困ったな。やっぱり涙腺が弱くなってる。
 たった一言で、涙が押し寄せてきた。
 
 そのあとしばらく話して、通話を切ると。
 ギュッとスマホを握りしめた。何かに力を注いでいないと、泣いてしまいそうだったから。

 
「茜……」
「大丈夫?」

 気を使って、離れた場所にいた翠と桜が戻ってきた。
 
「あ、ごめんね。気使わせちゃって。息子、ただの暇電だったわ」

 涙を引っ込めるように、精一杯自然に笑顔を作る。

「私たちが自分のことで精いっぱいに生きてる中、茜は子供を産んで、独り立ちさせるまで育てたって偉いよね」

 突然の優しい言葉に心臓がドクンと跳ねた。包み込むような労いの言葉は、私の感情を揺らしていく。
 
「……ちょっと、やめてよ」

 自分を偉いだなんて思ったことはない。だって、子供を育てるのは母親の勤めだから。

「ちゃんとママしてたんだもん。ほんと偉い」

 感情の波が押し寄せてきた。泣かないように、グッと歯を食いしばる。
 
「わざと、泣かせようとしてるでしょ……」

 拗ねたように言い返す。本当は膝から崩れ落ちてしまいそうなほど、嬉しい言葉だった。だけど、こういうとき、私は平気な素振りで元気なフリをしてしまう。
 

「18年間、お母さん業務、お疲れ様でした」
 
 その言葉は、まるで弾丸のように私の心を撃ち抜いた。心にまっすぐに染みて、今まで堰ためていた感情が一気に崩壊する。

「……ほらっ、ぜったい、泣かせようと、してるじゃん」

 涙がぐっとこみ上げ声を詰まらせる。
 お疲れ様だなんて、旦那にも親にも誰にも言われたことがなかった。静かに流れた涙は、やがて嗚咽に変わる。



「茜は偉いに決まってるでしょ。人間一人、立派に育てたんだよ? 私なんて自分のことだけで手一杯よ」
「そうだよ。今日が茜の離婚記念なら、盛大にねぎらおうよ」

 翠の言葉選びに、思わずくすっと笑ってしまう。

「離婚記念って……」
「間違えた。独り立ち記念にしようか」

 翠は慌てて訂正する。

 独り立ち記念。それはいいかもしれない。私にとって、今日から第二の人生になるのだから。


「まずは仕事探さないとなぁ」
「そうだねぇ、まぁ、急がずでいいんじゃない?」
「あ、もしかして。離婚記念として、最初の家賃まけてくれる?」
「離婚割引はありません。それはきっちりいただきます」

 いつの間にか、涙は引っ込み笑顔に変わっていた。
 桜と翠の優しさに、胸がじんわりあたたかくなる。

 誰かと笑い合ったのはいつぶりだろう。こうして、みんなで過ごせることに心から嬉しく感じる。


「私、思いきって決断してよかった」

 零れ落ちたのは本当の気持ち。これから私にとっての第二の人生は、素敵が詰まっている予感がした。