「やっぱり雪穂って押しに弱いよねー」
「今回も騙し打ちみたいなもんだったろうが…!」
「夏祭り行こって言ったじゃん。俺の性格知ってる雪穂なら日付の下調べくらいはしてると思ったんだけどね」
「イベントに一切興味が無いんだよ」
「まあその興味の無さで騙されるんだからチョロ」
「おい今チョロいって言った上に騙したの認めたな⁉︎」
「まあ事実そうだし。ていうかそんな大きい声出して大丈夫?」
「こんのクソ野郎…!」

 カラコロと鳴る下駄にいつもより狭い歩幅。生地はそれなりに通気性が良いはずなのに夏の湿気がどうしたって敵になる。
 周囲は暗く街灯によって薄オレンジに所々が染まっていて、その中を同じ様な音を立てて歩く人波に合わせて紛れる様に歩く。
 そう、今日は夏祭りだ。

「…おかしいと思ったんだよ、コンタクトとカツラの時点で気付けば良かった」
「ウィッグって言ってよ、カツラじゃ色気ないからさ」
「カツラはカツラだろ、これクソ暑い」

 僕の髪は一般的な男子に比べたら長いけれど、今日の髪型はどう見たって女子だ。視線を胸元に下ろせば毛先がふわりと巻かれた長い髪が目に入る。ロングのカツラをハーフアップにした物で、後頭部でお団子になっている場所には浴衣に合う髪飾りが付けられている。薄い青系の浴衣に濃い紫の帯、小ぶりな巾着に白に青が散らされた鼻緒の下駄。
 今日の僕の格好は桐生渾身の浴衣コーディネートだ。
 この前まで人をピエロにする腕前だった筈なのにいつの間に練習したのか僕の顔は今日ちゃんとしているし、髪だって桐生がやった。「好きな事するのって楽しいから」なんて理由で腕を上げたらしい。こいつは一体どこに向かっているんだろう。

「…うん、外でも完璧に可愛い。でももうちょっとアイライン長くしても良かったかも、雪穂きれいだからきっと似合う」
「うるさい触るな」

 頬を撫でる桐生の手を軽く叩き落とした。
 僕達は今夏祭り会場に向けて歩いている。
 桐生の家からそう遠くない神社で開かれる夏祭りでお盆前のこの時期にやるものだ。規模はそう大きくないけれど近隣住民は楽しみにしているイベントの一つで夜の8時を回れば花火が上がるのも大きなポイントになっている。
 その祭りに向かっているのだ、僕と桐生は。

 完全生活圏内で行われるイベントに女装で行くなんて気でも触れたかと思ったが、今日のコーディネートの完成を鏡で見た時僕は自分でも「誰だこいつ」と思った。それくらい今日の僕は他人の様だ。「暗いから大丈夫。何があっても俺が守るから一緒に行こ」最終的に僕の背中を押したのは桐生のこの言葉だった。後もう純粋に好きにしてくれと諦めていたところもある。

「雪穂は夏祭りとか来た事ないの?」
「…子供の頃は来てた。でも小学の中学年まで、そこからは行ってない」
「なんで?」
「僕がこういうイベント好きだと思うの」
「いや、全然」

 周りは家族連れや友人同士、カップルが歩いている。神社に行く人の方が多いけれどまだ日の高い頃から屋台は出ていたから楽しみ尽くした祭り客が流れに逆らって歩いて来る姿も見える。
 どこからか流れてくる祭囃子と人のざわめきが混ざり合って懐かしい空気に目を細めた。

「──桐生は誘われてたんじゃないの、お祭り」
「まあそれなりに」
「今日絶対声掛けられるでしょ」
「そうだろうね」

 僕達は肩が触れるくらいの距離で歩いている。理由はその方が自然だから。

「でも俺が一緒に行きたいのは雪穂だから」
「…ホント変態だよね、お前って」

 僕みたいにメイクをしなくても、着飾らなくても、桐生はただそこにいるだけで人目を惹く。だって桐生は電光掲示板みたいなやつなんだ。背だって高くて顔も雰囲気も華やかで、僕と同じ年のはずなのにまるで大人みたいな空気感を醸し出している。
 隣を歩くそいつを見上げると視線に気が付いたのか桐生も僕を見た。薄いオレンジの光に当てられて煌めく桐生の目はとても綺麗だ。

「雪穂、お面買おうか」
「は?」
「良いじゃん、浴衣にお面って可愛いし」

 左手が温もりに包まれた。気が付いた時には規則的な人の波から外れて、屋台列のほぼ先頭にあったお面屋に向かって桐生が歩いていく。手を引かれるままに屋台の前に到着すると裸電球の強い光に少し目が眩む。

「いらっしゃい、デートかいおにいちゃん!」
「そうなんです。雪穂、どれにする?」
「な、なんでもいい…っ」

 どれだけメイクと髪型で変わっていると理解していてもこんな明るい場所で堂々と出来る勇気は僕には無い。だから出来るだけ暗がりにいようと桐生の背中に隠れると屋台の強面のおじさんが派手に笑った。桐生も僕を見て楽しそうに口角を上げて「じゃあこれにしよっか」って明らかに女児アニメのキャラクターのお面を指差したから僕は目を丸くした。

「それは、やだ」
「じゃあこれ?」
「狐面とか厨二病感満載じゃん絶対やだ」
「わがままだなぁ、じゃあこれね」

 そうして桐生が手に取ったのは白猫のお面。確かに一番地味なデザインのそれに反対する理由なんてなくて仕方がないと頷けば繋いでいた手が離されて桐生が会計を済ませた。
 こっちと指差された屋台と屋台の間に移動して向き合うと桐生が慎重な手つきで買ったばかりのお面を僕の頭に掛けた。

「かわいい」

 まるで宝物を見つけた子供みたいな顔で桐生が笑う。

「…っ、馬鹿じゃないの」

 どんって心臓が大きく脈打った。血液が全部顔に集まってくる気がして、僕は買って貰ったばかりのお面で顔を隠した。

「あ、なんで顔隠すの」
「うるさい馬鹿、こっち見るな…っ」

 ああ、もう。
 桐生のせいで、どんどん「普通」がわからなくなる。

「そのままだと前見えないでしょ」

 桐生が僕の手を握る。片手はお面を押さえたまま、ほんの小さな隙間から見える景色にまた目が眩みそうになる。
 伝わる体温が熱くて柔らかい。確かに桐生が僕の手を握っている、その事がどうしようもないくらい僕の心を掻き乱すんだ。

「何食べる? 雪穂甘いの好きだからかき氷にしよっか、いちごでいい?」

 当然のように僕の好みを知っているところだとか。

「…今日はメロンにする」
「じゃあ俺がいちごにするよ。メロン後で一口ちょうだい」

 天邪鬼な僕の性格を知ってて、こうやって甘やかして来るところとか。
 ああどうしよう。
 顔がずっと熱いままで、きっと今かき氷を食べたって味なんてわからない。心臓が左手にあるんじゃないかってくらいそこだけの感覚が鋭敏で、もう周りの音なんて聞こえない。
 こんなイレギュラー大嫌いなのに、どうしようもなく嬉しいと思っている自分がいる。
 だけどそんな時間も一瞬で現実に叩き戻される。

「あー! 桐生じゃん!」

 あれだけうるさかった心臓が一瞬で止まった気がした。
 大袈裟なくらい肩を跳ねさせて固まった僕の背後から誰かが近付いてくる気配がする。これが誰かなんて考えなくてもわかる。

「お前行かないって言ってたのに結局いるじゃん」
「田中と行かないって言っただけで祭りに行かないとは言ってないよ、俺」
「うわ出た屁理屈。あーそうそう、こいつが桐生。メチャクチャイケメンだろー」

 桐生と同じ、いわゆるカースト上位にいる田中という男が僕は苦手だ。お手本のような陽キャで声も態度も大きくて、それなのに憎めないバカっぽさのおかげで教師からも何故だか一目置かれているやつだ。謎のカリスマ性まで持ち合わせていて、田中の周りにはいつだって男女関係なく人がいる。
 その田中の意識が一緒に来ている人達に向いたところで桐生が僕を背中に隠してくれた。たったそれだけの事なのに僕は無意識に止めていた息を吐き出して少しだけ体から力を抜く。

「あーーー‼︎」

 貫くような大きな声に僕がまた体を跳ねさせるのと桐生が低い声で「うるさい」と呟くのは一緒だった。

「お前、お前…⁉︎」

 田中がずかずかと近づいて来ている気がする。太陽が迫ってくるみたいな、そんなあり得ない危機感に冷や汗が止まらない。そんな僕を知ってか知らずか桐生が僕の手を握り直した。

「いつ彼女出来たんだよ⁉︎ なんで教えてくれねえの! だいぶ可愛い気配察知してるよ俺。てかなんでお面してんの? てか猫じゃんめちゃ可愛いね。桐生が買ってくれたん? ねえねえちょっと顔見せ」
「田中」

 僕は情けない程完全に陽キャの圧にビビっていた。僕はそもそも人付き合いが苦手だ。田中みたいな太陽の塊みたいなやつは一番苦手だ。太陽光に焼き殺されそうになる。

「人見知りなんだよ、グイグイ来んな」
「ヒトミシリ…?」
「何お前人見知りって言葉も忘れたの?」
「違うわ! 俺が驚いてんのはお前がヒトミシリの子と付き合ってる事だよ! へー…お前でもそんな距離の詰め方出来たんだな」
「田中は俺をなんだと思ってんだよ」
「顔だけいいポンコツ」

 ポンコツ、桐生を形容するのに全く当て嵌まらない言葉に僕はお面をしたまま思わず顔を上げる。するとその気配に目敏く気付いた田中が「お」とどこか嬉しそうな声を上げた。

「見ないで、減る」

 少し上げた視線の先、もう少しで田中の顔が見えるという所で僕の背中に手が添えられて、そのまま引き寄せられる。気が付いたらすごく近くで桐生の匂いがして、体温だって感じられる距離にいて、抱き締められているのを悟った。

「はぁ〜〜⁉︎ キャラ違くねえ〜〜⁉︎ 桐生クンは〜そういう事しないタイプだと思ってました〜〜‼︎」
「じゃあ今日からそういうタイプ。田中いたらこの子逃げかねないからさっさとどっか行って」

 呆れ半分、本音半分、そんな声色で紡がれた気のする言葉に確かにそうだなと思うのに面白いくらいに体が固まってしまって動けない。心臓があまりにうるさくてこのままだと聞こえてしまうと思うのに、まるで自分の物じゃないみたいに指先一つも自由にならない。

「へいへい、邪魔者は退散しましょうかね〜。悪い待たせた、行こうや」

 田中が今どんな顔してるのかはわからないけれど声からして面白がってるのはわかる。でもようやくこの場から離れてくれるらしく僕は早く行けと念じた。

「彼女ちゃん、コイツポンコツだけど良い奴だから仲良くしてあげてね」
「余計なお世話だよ」

 呆れを含んだ声で桐生が突き放すみたいに言って田中達の気配が去って行く。賑やかな彼らの声は少しの間聞こえていたけど徐々に祭囃子と雑踏と混ざり合って完全に聞こえなくなる。
 そうなって僕の背中に回っている腕が離れて、自然と半歩だけ距離が出来た。

「ごめん、暑かったよね」
「や、だい、じょぶ、です」
「片言になってるよ雪穂。あ、もしかして照れ、いったあ!」

 桐生が不愉快な言葉を言い終える前に下駄で足を踏ん付けてやった。

「かき氷、奢れ。むしろ今日の屋台全部奢れ」
「え、最初からそのつもりだけど?」
「むかつく」
「理不尽!」

 もう一回踏ん付けてやろうとしたけど桐生も学習したのかさっと足を引いてしまった。それに舌打ちをすると僕はようやくお面から手を離して少しだけ位置をずらした。夏の夜とはいえ空気は蒸し暑いのに、解放された途端の空気は驚くくらい涼しくて思わず息を吐く。

「…ねえ雪穂」
「なに」
「ぜーんぶ奢るからさ、かき氷最後に買おうよ。先にたこ焼きとか買ってさ、最後にかき氷買ってちょっと離れた場所に行こ」
「…いいけど、なんで?」
「田中みたいなのがまた来たら面倒臭い」
「なるほど、賛成。じゃあとりあえずたこ焼きと焼きそばときゅうり」
「はーい」

 田中と話していた時の桐生の空気感が僕はそんなに得意じゃない。こうして一対一で話している時は居心地の悪さなんて感じないのに、田中や他の陽キャ達と一緒にいるときの桐生はどこか温度が感じられなくて、何を考えているのかわからなくて嫌だ。
 今も何を考えているかなんてわからないけれど、僕の手を握ったまま歩き出した桐生の横顔はどう見たって楽しそうで、それにこんな女装した男と手を繋いで嬉しそうにするなんて変態だなって思いもするけど、でも今の桐生の方が僕は親しみ易い。

 カラコロと下駄を鳴らしながら一つ一つ屋台を回って食料を調達する。重ねられる物は袋に入れて貰って、きゅうりは途中で見つけた牛串に変わった。荷物のほとんどは桐生が持ってくれて、今僕の手にあるのはメロンに練乳の掛かったかき氷だ。桐生の腕には食料が入ったビニール袋が掛けられ手にはいちごに練乳がかかったたかき氷がある。
 手を引かれるまま歩いていると僕達はどんどん雑踏から離れ、神社の本殿へと向かう長い階段から少し外れた場所にある、ただ土を掘って階段状にした場所をゆっくりと進んでいく。

「く、暗くて見えないんですけど…!」
「ゆっくり行ってるから大丈夫だよ。ていうかやっぱり浴衣だと階段とか登りにくいっぽいね」
「お前が手を離してくれたら浴衣の裾上げれるんだけどな」
「でもそうしたら暗い中一人で歩く事になるよ?」

 暗闇か多少の不便かを天秤に掛け、そのままという選択をして桐生に手を引かれるままに階段を上がって行く。本殿に続く階段には提灯や幟があったのもあって人が大勢いたが少しそれたこの道には人どころか灯り一つも付いていない。
 背後からほのかに照らす祭りの明るさと、木々に多少邪魔されてはいるものの微かな月明かりのある道を一歩一歩進んで行くとやがて開けた場所に出た。

「…なにここ」
「小さい神社みたいなのがある場所。結構穴場なんだよね」

 生憎暗がりで全体はわからないけど桐生が慣れた様子で歩くから僕の足も勝手にそっちに向かう。言葉通り何を祀ってるのかわからない小さな神社の少し逸れた場所には丁度人が並んで座れるくらいの岩があった。
 そこに並んで座って息を吐く。

「あっつー…」
「浴衣にウィッグだもんね、髪貼り付いてる」
「…お前は涼しげな感じでむかつく」

 当然の様に桐生の細くて長い、それでも僕より随分男っぽい指が慣れた手つきで髪を払う。もうこんな触れ合いにも慣れたものだと言いたいが、そんな訳はない。変な音が出そうになるのを必死で抑えて平静を装って、少しでも暑さを誤魔化そうとかき氷を食べた。

「え、飯食う前にかき氷?」
「暑いし、僕食べる順番とか気にしない。桐生は……なんか気にしそうだよね、そういうお行儀的なやつみっちり叩き込まれてそう」
「そんな事ないと思うけどな」

 そう言って桐生は岩の空いている場所にかき氷を置いて袋の中からたこ焼きを取り出した。きちんとお手拭きで手を拭いて、割り箸をきちんと真ん中で綺麗に割って、両手を合わせて口の中でいただきますと言ってから綺麗な所作でたこ焼きを一つ摘む。
 少し時間が経ったおかげかそこまで熱くなかったみたいだった。

「ん、美味い」
「よかったね」
「うん、ほら雪穂もあーん」
「自分で食べる」
「でも今かき氷で両手塞がってるよ」

 ああ言えばこう言う桐生に僕はもう勝てっこないのだ。
 渋々口を開くとそれなりの大きさのたこ焼きを一口で口内に納める。それに驚いた気配がしたけれど特に気にはしない。

「…そんな口開けれたんだ」
「お前何を思ってるのか知らないけど僕普通に男だから。これくらい一口で食べるし、ラーメンだってすするし」
「……ギャップじゃん⁉︎」
「本当ブレないよね桐生って」

 ソースとマヨネーズの濃い味をかき氷で中和する。僕的には全然違和感はないけれどその様子を見ている桐生の目は驚いていた。いつも連んでいる陽キャ連中もきっと僕と似たような物なのではと思ったのだが、もしかしたら違うのかもしれない。
 たこ焼きを食べ、焼きそばを食べて、牛串も食べた。いつもならぺろりといけそうな量も帯で胃の辺りを圧迫しているから全然食べられなくて、大半は桐生の腹に収まってしまう。けれど夏祭りという雰囲気がそこまで空腹を感じさせないし、なんだか非日常感があって楽しいとまで思っていた。
 どうせこの浴衣とメイクと髪型のおかげできっと誰にもバレないし、今に至っては僕達しか居ない。遠くから祭りの気配はするけれど、どちらかと言えば夏虫の声の方が良く耳に届く。

「上見てて」

 スマホで時間を見ていた桐生の言葉になんの疑いも無く顔を上げる。
 満月ではないけれどちょっとふくよかな月が出ていて、金星が綺麗に輝いているのがわかる。普段意識的に夜空なんて見ないからそれだけでも新鮮だったのだが、不意に訪れた腹の底に響く衝撃音に目を見開いた。
 ドン、と大砲の様な音がした僅かコンマ数秒後、夜空に大輪の花が咲く。

「ほら、穴場だって言ったでしょ」

 呆然としている僕に桐生が得意げに語り掛ける。
 確かに、そう、確かにここは穴場だった。
 始めの花火の余韻が消えそうになった瞬間、甲高い打ち上げの音が聞こえる。また大砲の様な音がして、今度は小さな花火が一気に横這いに広がって空を埋める。

「…きれい」

 こんな景色、一体いつぶりだろう。
 夏の夜空を彩る花火に魅入っていた僕は気が付かなかった。

「うん、綺麗だ」

 そう囁いた桐生の声が近かった事に。
 僕の視界を遮るみたいに顔が寄せられた違和感に。

「──ぇ…」

 ドン、と鮮やかな色彩の花火が上がった。

「きれいだね」

 練乳みたいな声の余韻が消える前に、僕の視界は桐生で埋め尽くされた。