無邪気な声が、私の中によみがえった。あれはもう、ずっと遠い昔のこと――。


 五年生になっても、私はまったくのカナヅチだった。その鈍さに嘆いた母に、強制的にスイミングスクールに入れられた。週に二回も通わなければならなかった。
 温水プールのぬるさ、見なれないスクール水着、ほかの学校の知らない子たち、怒鳴るコーチ。
 すべてが怖ろしくて、何度通っても手脚が震えた。
 あまりの緊張から吐き気がするということを、あのころ私ははじめて経験した。
 
 二十五分乗らなければいけないスイミングバスは、もっと驚異だった。
 バスの行き帰り、車内の子たちはみんな騒ぎながら、おやつ交換をしていた。
 スイミングスクールにいくことを、まるで遠足のように楽しんでいるなんて、とても信じられなかった。
 
 乗りたくないバスに乗らなければ、あの恐怖のプールに入らなくてもすむ。
 そう気づいた私は、何回目かのスイミングの日、バス停まで牛歩で向かい、わざと乗り遅れた。
 あのときの罪悪感と達成感といったらなかった。
 
 そんなことを三度、四度と繰り返すうち、いんちきを見破った母がバス停まで一緒についてくることになってしまった。
 バス停で「いってらっしゃい」と手を振る母が、鬼に見えた。
 今思うと、あのころの私はまるで、護送車で収監される囚人の気分だったろう。
 
 バスの中では、毎回いちばん前の座席に、窮屈に縮こまって座った。早くこのバスから開放されたい一心だった。
 その〝護送車〟でただひとりの大人は、ななめ前に見える、顔なじみの運転手のおじさんだけだった。
 うるさい連中を注意してくれたり、やさしく声をかけたりしてくれるんじゃないかと、最初は期待をしていた。
 けれど、おじさんは毎度、ため息をついたり、舌打ちをしたりで、とても親しみを憶えられやしなかった。
 しょせん、救世主ではなかったのだ。
 
 車内でいちばん目立っていたのは、ひとりの女の子だった。
 ひときわうるさいその子の指定席は、こともあろうに私の真後ろだった。
 名前は……そう、トモカちゃん。いつだって元気に、はつらつと笑っていた。
 
 あるとき、トモカちゃんが大声で歌いだした。当時流行っていた、女性アイドルの歌だ。
 みんなは手拍子をとっていた。
 運転手さんを見ると、信号待ちのときに身体を揺らしていた。リズムを取っているのかと思いきや、貧乏ゆすりだった。