俺は、逃げた。間宮の気持ちを聞くのが、向き合うのが怖かったのだ。俺は中学の時から何も変われていない。自分の気持ちにすらちゃんと向き合うことの出来ない弱虫だ。
 そして夏休みが終わり、今日から新学期が始まる。

「間宮、起きろ。遅刻すんぞ」
「んー……あと五分だけ」

 間宮は逃げた俺に対して何も言わなかった。
 あの後も『ちゃんと寮に帰れててよかったわ』と胸をなでおろしたように笑っただけ。

逃げた俺を責めることはせず、今までと変わらずに接してくれて底なしに優しさを臆病な俺に与え続けてくれるのだ。その優しさに俺はずっと甘え続けている。

「無理、早く起きて。俺、今日は早めに行かねえとダメだから」
「もー、わかったって〜〜ふぁ〜〜……ねむ」

 やっとベッドから起き上がって制服に手をかけた間宮を確認してから俺は部屋を出た。そこまで確認しないと間宮のことだから二度寝するとわかっていたからだ。この数ヶ月でそこまでわかるようになった、とふっきーに言ったら『おー、なんか心で会話するって感じ?』と意味不明なこと言ってたっけ。

 まだまだ暑さが残る気温の中、汗を流しながら学校まで歩いて教室に入ったものの、室内の空気が明らかにいつもと違っていた。いや、正確に言えば俺に対しての視線が夏休み前とは違っていたのだ。
 この視線は過去に経験したことがある。それはたぶん――。

「ねえ、水瀬くんって男の子が好きらしいよー」
「えー!それってゲイってこと?」

 俺の方を見ながらコソコソと小声で話す声が耳に届く。
 あー、やっぱり。どこから洩れたのか知らないけれど俺が隠し続けていた秘密がみんなにバレてしまったようだ。これでまた俺の学校生活は地獄に変わってしまう。気にしていないように振舞って机と机の狭い間にすり抜けて自分の席に向かっていると、突然クラスメイトの西前が目の前に立ち、俺の行く道を塞いだ。

「お前さ、男が好きなんだって?」
「……」
「いやー、まじびっくりしたわ。夏休みにお前と同中のやつと仲良くなって教えてもらったんだよねー。お前どんな気持ちで学校通ってたわけ?」

 なるほど。そういうことだったのか。俺と同じ中学のやつが喋ったってわけね。まあ別に口止めとかしてなかったし、仕方ないか。
 俺は、中学三年生の時に好きな人がいた。それは同性で叶わないことがわかっていたから告白もせず、ただ友達としてそばにいたいだけだった。
 それなのに他のやつが冗談で俺がその人のことが好きなんだってふざけて言った時に笑って流せばよかったのに俺はバカだったから黙り込んでしまったのだ。
 そして本気だとバレてしまってからは気持ち悪がられ、友達はみんないなくなり、俺と話してくれたのは高梨くらいだった。
 どこかで人生をやり直したくて勉強を死ぬ気で頑張ってわざわざ知っている人がいない県外の高校を選んだのに俺はまた同じ失敗をしてしまったようだ。高校では恋や青春なんて封印しようって決めてたのに。そんなことしなくてもみんなに知られてしまった。

「なんも言えねーって?まじキモいんだけど」

 心無い言葉を投げつけられて視線を落としかけた時、

 ――バン!

 と、教室内に響き渡るくらい思い切り机を叩く音が聞こえた。

「お前らいい加減にしろよ」

 その声の主は、ふっきーだった。
 なんで……ふっきーまでなんか言われたらどうすんの。
 なんで俺なんかのために。

「え、なになに。お前らデキてんの?」
「やばー」
「やめろよ。ふっきーは関係ないだろ」

 その声は自分でも情けなくなるほど震えていた。これ以上、俺の大切な友達を巻き込みたくない。傷つくのも何か言われるのも俺だけでいい。

「うわ、庇いあってんのがリアル〜〜」

 教室内がクスクスとバカにするような笑い声やヒソヒソと小声で話し合う声でかなり騒がしくなってきて動悸が激しくなる。
 どうしよう。きっと俺が何を言ったってみんな聞いてくれない。せめて、ふっきーだけは巻き込まないようにしたいのに。
 その時、教室の扉がガラッと雑に開けられ、室内に入ってきたのは眠そうに欠伸をしながら後頭部をガシガシと掻いている間宮だった。
 間宮……お前はなんてタイミングで現れんだよ。
 教室中の視線が全て間宮に集中し、西前がニヤニヤと悪い笑みを浮かべながら彼の肩に手を回した。

「なあ、間宮。水瀬って男が好きらしいぜ。お前狙われてんじゃね?」
「は?」

 西前の言葉を聞いた瞬間、眠そうに目を擦っていた間宮の手が止まった。それもそのはず。自分と同じ部屋で生活している奴が男が好きなんて聞かされたらそうなるよな。
 でも、俺はその先の間宮の反応を知りたくなかった。できれば目を背けたかった。間宮に幻滅されるのがすごく怖くて辛かったからだ。あれだけ最初は嫌っていたのに今は幻滅されたくないなんて自分でも都合が良すぎて笑えるな。

「男が好きなんてキモいし、手とか繋ぎたくねえ〜〜。もしかして俺も狙われるかも」

 ズキン、と心にヒビが入って壊れていく音が聞こえた気がした。わかっていた反応だけど、いざ口に出されると結構しんどい。受け入れてもらえるはずがないのに。言葉にできない感情がこみ上げてきて爪がくい込むほどぎゅっと強く拳を握る。

「……お前さ、彼女と手繋いだことある?」

 しばらくの沈黙の後、間宮が真剣味を帯びた表情でゆっくりと口を開いて西前に問いかけた。
 いきなりどうしたんだ?そんなこと今は関係ないだろ?

「あるけど急になんだよ」
「じゃあ、キスは?」
「あるって」
「キモ」

 たった一言。

 間宮は地を這うような低い声でそう吐き捨てたのだ。普段の間宮からでは想像もできないほど、怒りを含んだその声色にその場にいた全員が動揺し、言葉を失ったせいで教室内はしーん、と怖いくらい静まり返った。

「は?なんだとてめえ」
「お前の真似しただけだけど」
「意味わかんねえ」

 西前は間宮が自分の思っていたリアクションを取らなかったことが不服なのかイライラしているようだった。それでも間宮は一歩も引かず、怯むこともなかった。

「好きな人がいるのが、手繋ぐのがキモいんだろ?」

 彼は声を荒げるわけでもなく、ただ無表情で淡々と言葉を発するだけ。だけど、西前を見下ろすその瞳に光は宿っておらず、背筋が凍ってしまいそうなほど恐ろしかった。

「それは、!」
「女だから?そんなの関係ある?男だろうが女だろうが誰かを好きになって会いたい、触れたい、話したいって思うのは普通だろ」

 ずっと、ずっとほしかった言葉が俺の胸を打つ。
 当たり前のように発された間宮の言葉は俺がずっと求めていたもので胸から熱い何かが込み上げてきて鼻の奥がツンと痛んだ。

 ああ、そうだ。初めて会った時から間宮はずっと優しかった。いつだって俺のためを想ってくれて、俺という存在を否定したことなんて一度もなかった。なんで今更そんなことに気づくんだよ。

 徐々に視界が歪んできて涙がこぼれ落ちそうになったけれど、唇を噛み締めてなんとか我慢する。

「なっ、」
「あと、男だからみんな好きってわけじゃねえし。水瀬にも選ぶ権利はあるから」

 間宮はそう言うと俺の方までずんずん向かってきて俺の手を掴むとそのまま教室の外へと歩き始めた。

「ちょ、おい。離せって!」

 教室から出ても間宮が歩みを止める気配はない。俺からは間宮の大きな背中しか見えないから今、コイツがどんな顔をしているのかわからない。でもきっと、悲痛に歪んだ表情をしているんだろうな。

「離せよ」

 しばらく歩いた人気のない廊下で俺は間宮の腕を振り払おうとしたけれど力の差とやらで振り払えなかった。すると、何を思ったのか足を止めた間宮が振り返り、強い意思を持った瞳でまっすぐに俺を見つめてくる。

「離さないし、もう逃がさない」

 その時に俺はようやく気がついた。間宮はあの夏の日のことを本当はずっと怒っていたのだと。それでも間宮は怒りや疑問に蓋をして俺と過ごしてくれていたのだ。

 でもさ、俺はお前と向き合うのが怖いよ。だって、お前はいつも真正面から俺にぶつかってくるから。その度に俺は逃げて逃げて。―――俺は、もう傷つきたくないんだよ。好きな人に蔑まれるような目で見られるのはうんざりなんだ。

「なんで俺に構うんだよ。あー……あれか?同性が好きなのが珍しいから1回くらいヤッ……」

 たった30秒ですら長く感じてしまうほどの沈黙に耐えられず、間宮からふいっと視線を逸らして自虐気味に乾いた笑みを浮かべながら話していると突然身体が温かいものに包まれ、呼吸を止めた。

「……お前、それ以上言ったら本気で怒るからな」

 耳元でぽつり、と紡がれた言葉。
 そこで初めて、俺は間宮に抱きしめられているのだと思考の鈍った頭でやっと理解した。だけど、理解した途端に心臓が胸の外へ飛び出すみたいに激しい鼓動を打ち始めて顔が熱を帯びていく。

 なんでとかやめろとか言いたいことはたくさんあるのに肌に触れている間宮の体温が泣きたくなるほどあたたかくてどれも声にならなかった。そして、身体が少し離れて澄んだ瞳と視線が絡み合う。

 ああ、やっぱコイツ綺麗な顔してんな、とか場違いなことを考えてしまうのはそうでもしないと心臓がもたないからだ。間宮は小さく息を吸ってゆっくりと口を開いた。

「前はちゃんと言えなかったけど、俺は水瀬のことが好きだ」
「っ、」
「男だからとかそういうの関係なく、俺は水瀬碧依だから好きになった。―――たとえお前が女でも俺はきっとお前に恋してたよ」

 少し照れくさそうに頬を赤く染め、愛おしさを滲ませながら優しくきゅっと目を細めた。
 その刹那、俺の鼓動は大きく跳ね上がり甘い音を奏でた。

 俺はさ、臆病だからずっと自分の気持ちから逃げ続けてきたんだ。それなのにいざ目の前で本人に真っ直ぐな言葉でぶつけられたら自分の気持ちとちゃんと向き合わないといけないなって思う。

 ほんとはわかってたよ。俺もとっくにお前が好きだってこと。間宮翠のことがどうしようもなく愛おしいんだってこと。
 でも言葉にしちゃったらお前がいなくなってしまいそうで怖かった。――――だって、俺お前がいないとダメなんだよ。

 言葉で伝えたいのにいっぱいいっぱいになってしまって代わりにぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。

「えぇ!?泣くほど嫌!?」

 俺が急に泣き出したから間宮が困ったように眉を下げておろおろとしている。困惑しているくせに俺の頬を伝う涙を親指でそっと拭ってくれるからこの男はどこまでもズルい。

「……違うし」
「じゃあ、なんで泣いてんの?」
「お前が……!お前が……っ」
「ん?」

 間宮が首を傾げながら俺に優しい眼差しを向けている。
 そんなふうに愛おしさを滲ませながら見つめられるのは俺だけであってほしい。お前が朝弱いことも家族思いなことも背中に黒子があることも、知っているのは俺だけがいい。なんて言ったら図々しいって、重いって引くかな?

「お前が好きだから泣いてんだよ……っ」
「!」

 間宮は驚いたように目を大きく見開いて信じられないとでもいう表情で「まじ……?」とぼそりと呟いた。

 まじだよ。俺、お前のことが好きすぎて死にそうだよ。胸が苦しくて、痛くて。でも、この痛みさえお前を想っている証なんだと思ったら愛おしく思えてくるほどお前のことが好きだよ。お前は知らないだろうけど、俺は重い男なんだからな。どうしてくれんの。

「俺は重いし、めんどくさいけどそれでもいいのかよ」

 キッ、と鋭い目で睨みつけると間宮はきょとんとした顔を浮かべた後にクスリと小さく笑った。

「そんなこと心配してんの? 俺はね、そんな水瀬も可愛いなって思うくらいにはお前に惚れてんのよ。なめんな」
「浮気は許さないし、傷つけたら許さないからな……っ!」
「肝に銘じておきます」
「ほんとにわかってんのかよ」

 俺はこんなにいっぱいいっぱいなのに間宮は少し余裕そうで悔しい。これが経験者の余裕かよ。

「大好きだよ、碧依」

 そう言いながら間宮は少し屈んで俺の頬に残った涙の跡にそっとキスを落とした。

「〜〜〜っ!」

 いきなりの名前呼びとほっぺにちゅーは反則だろ。そんなの、俺の心臓が死ぬ。今でも危なかった。あと少しで天に召されるところだった。

「はは、まじお前かわいすぎてクセになりそー」

 それなのに間宮はキャパオーバーになっている俺の反応をケラケラと笑いながらも俺の頭を優しく撫でてくれる。でもそんなのに騙される俺じゃないぞ。

「俺で遊ぶな!このピンク派手髪ヤロウ!」

 仕返しといわんばかりに俺も間宮の頭に手を伸ばして綺麗に染められたピンクベージュの髪の毛をわしゃわしゃと触ってやる。間宮は抵抗しているけれど、その頬は完全に緩みきっていて喜びが溢れ出ているのがわかる。

「あ、そうだ。なあ、知ってる?髪の毛を青に染めて色が抜けたら緑になるんだって」

 急に間宮が思い出したかのようにそう言い出して、俺と間宮みたいだな、なんて思いながら

「ふーん」

 とだけ返事をしたその数秒後、間宮は蕩けてしまいそうなほど甘い笑顔を浮かべたまま、俺の耳元にずいっと顔を近づけてそっと呟いた。
 
 ――――俺らって運命共同体みたいだな。
 
 俺は一生、この人に敵わない気がする。
 仕方ないから俺はこの先もお前と同じ運命を歩んでいくよ。

 性格も何もかもがチグハグな俺たちふたりの恋はこれからも続いていく――。