瀬田たちとも赤祢とも微妙な関係のまま夏休みに突入した。
 気まずさって、時間が経てば経つほど身動きが取れなくなっていくもので……。
 瀬田たちについても今更友達だと思っていると表面上取り繕ったところで、きっと信じてはもらえない。それに、俺はたぶん彼らにそこまで必死になれない。
 赤祢に関しても、向こうからの視線を感じても目が合いそうになっても顔をそむけてしまう。あの日以来、午前授業で終わるようになったから、待っているかもなんて余計な心配はしなくて済んだけど。もしも午後まで授業があったとしても俺は屋上に行けなかっただろう。
 昼に過ごす時間がなくなれば、赤祢と過ごす時間なんて皆無だ。
 瀬田たちとも話すことがなくなったせいで、俺は教室で居心地の悪い時間を過ごす羽目になった。
 好きな人との時間と自分の居場所を同時に守ろうとして、どっちも失った。
 二兎を追う者は一兎をも得ず、というのを身をもって体感した。
 それでも変わらずラジオは聴くし、あかねさんの番組も欠かさず聴いていた。ただ、メッセージは送らなくなっていたけれど。
『時刻は午後6時43分を回りました。さてさて、次のメッセージに参りましょうっ! リクエストをくれたのはココアマシュマロさん。「あかねさんこんばんちはっす!」こんばんちはっす! 「実は最近、彼氏ができました! 相手から告白してくれたのですが、私も前から好いていたのでとっても嬉しかったしトキメキました! あかねさんは恋人や好きな人はいますか? 恋バナ聞きたいです!」ということでメッセージありがとうございまっす!』
 ドキッとした。
 あかねさんの好きな人。いるんだろうか。知りたいような、知りたくないような……。いや、今の俺にはどうこう言える資格なんてないんだけど。
『えぇ~いいですね! 青春ですね! この話だけでこっちがトキメキますよねぇ。あははっ! えぇ~、おれですか? おれはねぇ、恋人はいません。でも好きな人はいるので恋はしてますよ。あははっ、恥ずかしい』
 あかねさんの答えに、俺は洗っていた皿を落とす。
「あっ」
 置いていたマグカップにぶつかってパリンッと甲高い音が響いた。
『やばいやばい、顔熱いです。普段こんな話誰にもしないですしね』
 落とした皿もぶつかったマグカップも割れていた。
 慌ててキャッチしようとした手に破片が飛び散り、ピリッとした痛みが指先に走った。
『そう、ちょっとだけ恋バナしていいですか? その好きな人の話なんですけどね。同じ学校の人で、最初は全然意識してなかったんですけど、』
 線のような切り傷ができ、遅れてぷくっと赤い丸が溢れてきた。
 徐々に血が浮き出してきて丸が崩れ、赤い線が指を伝う。
『ある時を境に、向こうから話しかけてくれるようになったんですよ。で、おれもだんだん気になり始めて。結構距離も近づいてたんです』
 どのくらい傷が深いのか気になって傷口を少し開く。
 ぱっくり開いた傷口からさらに血が溢れてきた。
『でも、夏休み前にちょっと気まずい感じになっちゃって。そのままどうにもできないままで夏休みに入っちゃったんですよね』
 傷口を開いたせいで反対の手にまで血が付いてしまった。
 水にさらすと傷口に水が染みた。血と水が混ざり合って流れていく。
『でも俺はまた距離を詰めたいなって思うし、あわよくば付き合いなぁなんて……あははっ! やばい超恥ずかしい!』
 血が溢れてなかなか止まらない。
『ところでですね。実はその好きな人、このラジオを聴いてくれてるんですって。もしかしたら今も聴いてくれているかも、とか思って話してるんですけどね。って、だいぶ私的なこと話してますよね、あははっ』
 いつの間にか流れていた涙も溢れて止まらない。
 傷口が痛くて泣いているんじゃない。
『言いたいこともありますし、また話せるといいんですけどねぇ。……さてさて、気を取り直してリクエストの曲いっちゃいましょう!』
 誰もいない家で鼻をすする。その音はさっきからずっと流れている水音が血と一緒に誤魔化してくれていた。
 そんなのズルいじゃん。
 俺のことだって思わずにいられないじゃん。
 知ってるもん。
 赤祢が学校で俺以外の人と話してないこと、知ってる。
 学校の外でそういう人がいるのかなって考えないわけじゃない。でも、ここまで俺と同じ状況になっている人が他にいるとも考えにくいし、そもそもそうやって逃げようとしている時点であかねさんに失礼すぎる。
「でも、でもさぁ……」
 そんなの、実質告白じゃん。
 俺、あかねさんの好きな人になれたってことでいいの?
 そんなの恐れ多い。
 それ以上に……。
「こんな嬉しいこと……夢みたいだ」
 涙が止まらない。
 膝から力が抜けてズルズルとしゃがみこむ。
 シンクに両手首を引っかけたまま、下の引き出しに額を付ける。止まらない涙と鼻水を拭うに拭えない。
 2曲の片思いソングが流れている間、俺は声を出して泣いた。

『ちょっと切ない片思いソング。その前はリクエストいただいた曲。こちらは同じ片思いソングでもとてもキュートでしたね。リクエストありがとうございました。メッセージもたくさんありがとうございまっす。おれが公開告白みたいなことしたからそれ関連のメッセージが多い、あははっ! いやぁ、お恥ずかしい』
 あかねさんの声が戻ってきたころには、少しは涙が収まっていた。
 まだ鼻をすすりながら、ずっと流れていた水を止めようと立ち上がった。血が付いていない腕で涙を拭った。
『しっぽさんからのメッセージ「あかねさん、こんばんちはっす!」こんばんちはっす! 「好きな人と連絡先は交換してないんですか? 思い切ってメッセージ送ってみるのどうしょう?」交換してないんですよね実は。後悔してます。「交換してないなら、今言っちゃいましょう!」おっと、メッセージと会話出来ちゃいましたね、あははっ。えぇ、今ですか? 個人的すぎませんかこれ。今おれ絶対顔赤い、あははっ』
 顔が赤いのは俺もだよ。
『えぇ、じゃあちょっと失礼して……。ラジオ、聴いてくれてるかな? おれ、いつもの場所で待ってるから。……うっわぁ恥ずかしい!』
 恥ずかしさを誤魔化すように、3連続のレゲエホーンの効果音が入った。だけど、おそらく俺に向けられたメッセージは、今までに聞いたことがないくらい真剣な声だった。それをイヤホンから一番近くで聴いたんだから、普通に聞くより心臓が痛いのは必然で。
 息が苦しい。心臓が痛いくらいにうるさい。顔が熱い。手が震える。
 今すぐに走り出したい衝動に駆られた。
 それを思いとどまれたのは、今家を飛び出したところであかねさんが……赤祢が屋上にいないと分かっていたからだ。
『みっちゃんさん「会えるといいですね!」やっぴーさん「想い届け!」コアンさん「聴いてるか、あかねさんの好きな人―! 伝われ!」みなさんありがとうございます。顔熱い顔熱い。ちょっと団扇ください、あははっ。応援ありがとうございます。届くといいなぁ』
 あかねさんの呟く声を残してCMに入った。
「届きましたよ……」
 いつ、とは言われなかった。
 明日、朝になったら学校に行こう。そしたら彼に会える気がする。
 溢れて止まらなかった血は、完全には止まっていなかったもののさっきまでより勢いは収まっていた。
 指の手当てをして、割れた食器を片付けた。