翌日の昼休み、俺は4時間目の終わりの号令と共に鞄から弁当を出した。
「夜川、そんな腹減ってたの? 今日の俊敏さやばくね?」
 教室を出る前に、瀬田が振り返って言った。
 瀬田は染めていない暗い茶髪を遊ばせ、上部が銀縁のスクエア型眼鏡をかけている。勉強が出来そうな見た目だが、あながちそうでもない。
「違うって。今日は……」
「まぁまぁ落ち着けって。俺も準備するからさ」
 俺はいつも瀬田と(やなぎ)常盤(ときわ)と一緒に昼飯を食べている。
 赤祢と屋上で約束したことばかりが頭にあったけれど、よくよく考えればこの3人には何も言っていなかった。
「お、夜川そんなに腹ペコ? いつもオレらが来てから弁当出してたのに。今日は準備万端じゃぁん」
 柳と常盤が俺たちの席に近づいてきた。
 柳は茶色のメッシュが入ったマッシュヘアが特徴で、よく廊下で女子をナンパしている。
 無口な常盤は、染められた明るい茶髪のくせっ毛をぴょこぴょこ揺らしながら、柳の言葉に賛同してこくこくと頷いていた。
「そんなんじゃなくて……」
 屋上に行くと言い出せないまま、柳と常盤も近くの席から椅子を借り、いつものようにご飯を食べる態勢が整ってしまった。
「はいおててを合わせてー、いただきます!」
「いただきます」
 柳の掛け声に瀬田も常盤も手を合わせる。お前も言えよ、と3人に視線だけで促され、手を合わせざるを得なかった。
「い、いただきます」
 チラッと視線を送った赤祢の席には誰もいなかった。
 もしかしたら、俺が昨日言った約束を守って先に屋上に行ったのかもしれない。
「早く弁当出したくせに食わねぇの? オレがもらってやろうか?」
 柳が勝手に俺の弁当を開ける。
「あ、から揚げ! うまそー、もーらいっ」
「あ、ちょ、おい勝手に……!」
 常盤も無言で俺のから揚げを奪っていった。
 そのから揚げは、赤祢との話のタネになるかと思って作ったもので、断じて柳たちに奪われるために作ったものじゃない。
 それなのに俺はこいつらに強く言えない。
 それでもしも関係が壊れたなら、俺の居場所がなくなるようなことになったら……。
 ……俺はこんな情けない奴なのに、赤祢を……あかねさんを呼び止めたのか。
「え、そんな顔する? から揚げ2つ取っただけじゃん。怒んなよ」
 柳が俺の顔を覗き込みながら笑う。
 常盤も人のから揚げを美味しそうに頬張りながら頷いている。
 だけ、じゃないんだよ。俺にとってそれは、だけ、じゃないんだ。
「は、はは。いや別に、怒ってないから」
 俺は乾いた笑いを返して200ミリリットルの牛乳パックにストローを突き刺した。
 俺って奴は……俺って奴は……。

ーー
 弁当を空にした俺は、トイレと嘘をついて教室を出た。
 屋上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がり、ドアを開ける。
 屋上には誰の姿もなかった。
 赤祢はここにいたんだろうか。俺が来なくて諦めてどこかへ行ってしまったんだろうか。
 せめて最初から来ていなければいい。待たせることもなかったってことだから。
「やっと来た」
 そんなことを考えていた俺の耳に、少しくぐもった柔らかい声が聞こえた。
「あ、かね……」
 日陰になっている入り口のすぐ隣の壁にもたれかかって座る赤祢がいた。
「そんなに驚く? 呼んだのはそっちなのに」
「それはそう。でも、だって……」
 まさか待ってくれていると思ってなかったから。
「教室出るとき、友達とご飯食べようとしてるとこだったから、昨日のは揶揄われてるだけかと思った」
「そんなつもりじゃ……!」
 でも、そう思われても仕方ないことをしたと思う。
 あいつらとの昼飯を断るべきだったのに。
「でも、友達って大事だもんね」
 前髪に遮られているせいで、赤祢の視線がどこにあるのかよく分からない。
「……怒ってる?」
「なんで? 夜川ちゃんと来たじゃん」
 顔がこっちを向いている。
 前髪の隙間から、眼鏡越しに目が見えた。
 きれいな二重だった。
「ほんとは、一緒にご飯食べたいなって思って。でも……ごめん、なさい。俺から声かけたのに」
 赤祢の目を見たら、ただただ申し訳なくて。俺はほとんど意識しないままに口を開いていた。
「怒ってないって。いいよ、気にしてないから」
 赤祢は自分の隣の地面を叩き、俺に座るよう促した。
 その反対隣りには弁当袋が置かれていた。
「ひとりで、食べた?」
「うん」
「ごめん」
「いつものこと。場所が変わっただけ」
 赤祢は何でもないことのように話す。淋しそうな感じもないけれど、やっぱり申し訳なく思った。
 あかねさんが好きなのに。あかねさんの言葉を胸に自分も変わりたいと思ったのに。俺は表面上の付き合いを優先して、自分の学校生活を守ることを優先して、好きな人を、赤祢を待たせた。放置した。
 最低だ。最低で心底ダサい。
 こんな俺が、あかねさんと話なんてしていいんだろうか。
 赤祢があかねさんと知らないふりをしたままで、隣に座っていいんだろうか。
「座らないの?」
 赤祢が俺を見上げる。マスクの下では不思議そうな顔で首を傾げているのかもしれない。
「し、失礼、します」
 ここから逃げ出すこともできなかった俺は、赤祢の隣に腰を下ろした。
 しばらく無言が続く。
 赤祢も口を開かないし、俺も話題に困っていた。
 気まずい。居心地が悪い。
 ……バツが悪い。
「それで、おれはなんで呼び出されたの?」
 先に沈黙を破ったのは赤祢だった。ずっと俯いて黙っている俺にしびれを切らしたのかもしれない。
 隣を見れば、赤祢もこっちを向いていた。
「あ、その」
 赤祢があかねさんだと思って……なんて言えない。言えるわけがない。
「き、昨日ぶつかったときに、赤祢と同じクラスなのにあんまり話したことないなって思って。はは」
 瀬田たちに向けるような乾いた笑いを浮かべる。俺今すごくダサい。こんな顔、あかねさんに見せたくないのに。
「……そう」
 短く答えた赤祢は、俺に向けていた視線を逸らした。
「でもおれ、あんまり人と話さないから」
 知ってる。DJの時と普段では全然違うって前に話していたのを聴いているから。
 DJの時のあかねさんが素だってことも知ってる。
「でも、さっきちょっと話しただけでも、赤祢は話しやすいなって思ったよ」
「それはどーも。……夜川は友達いるんだし、べつにおれじゃなくてもいいでしょ」
「それは……」
 違う。
 向こうがどう思ってるかは知らないけど、俺にとっては友達じゃなくて。表面上だけの関係で。
 話を無理やり合わせて、乾いた笑いを浮かべるだけの相手なんだ。
 なんて……赤祢に言えるわけがない。
「でも友達なんて何人いてもいいだろ?」
 俺は笑みを張り付けて、諦め悪く赤祢との接点を持とうとした。
 自分が最低な人間で、赤祢に合わせる顔がないとしても。好きな人だと気が付いた以上、こんなに近くにいると知った以上、このチャンスを手放したくない。
「昼、一緒に食べるだけでいいから。次は赤祢と約束してるってちゃんと言うからさ」
「友達は大事にした方がいいと思うけど」
「俺が赤祢と食べたい。ダメか?」
「……おれといても、いいことないって」
 その声は、今まで聞いたことがないほど小さな声だった。いつもひとりでご飯を食べていると言ったときにもなかった淋しさが滲んでいた。
「……赤祢?」
 俺は赤祢の顔を覗き込む。マスクと前髪と眼鏡で表情なんて全然分からなかったけれど、そうしないではいられなかった。
「なんでもない」
 赤祢はすぐにあの耳心地のいい声に戻った。
「いいけど、後悔しても知らないから」
「後悔なんてしない! 約束な!」
 俺はぱっと笑って小指を立てた。
 胸にくすぶっていた罪悪感がその時だけは嬉しさにかき消されていた。

ーー
 あの約束以降、俺は昼休みは屋上で赤祢と過ごすようになった。
 瀬田たちには「今日の弁当は失敗して見せられない」とか「先生に呼ばれた」とかいろいろ言って誤魔化した。
 赤祢といると言えばいいだけと分かってはいたけど、一緒に来ると言われると困ると思った。
 俺の醜い独占欲だ。
 俺はこんなに近くに好きな人がいることにドキドキしながら、同時にいつか自分の汚い面がバレるんじゃないかという後ろめたさにもドキドキした。
 そんな俺の汚い感情に気付かない赤祢は、俺と一緒にご飯を食べてくれた。
 マスクを外した赤祢はとても整った顔立ちをしていた。目が隠れていても分かる。これはイケメンだ。
「もしかして赤祢ってわざと顔隠してる?」
「……あー、うん」
「なんで?」
 ただの興味だった。だけど赤祢は黙り込んでしまった。
「あ、ごめん」
 謝ってこの話題を終わらせようとしたら、赤祢は理由を話してくれた。
「小学生の時から、顔目当てで告白されることがよくあったんだよ。知らないうちにファンクラブみたいなのが出来てて……。おれは告白されても全部断ってたからか、いつの間にかおれへの告白は禁止、みたいな暗黙の了解ができてたみたいで」
 モテる話なんて自慢話っぽい内容なのに、赤祢の口から出てくる話は全然自慢じゃなかった。
 俺は黙って赤祢の話を聞く。
「暗黙の了解を知らなかったらしい女子がおれに告白して、そしたらファンクラブの子と大喧嘩に発展した。先生が止めに入って、親が出てきて謝罪し合う、みたいな喧嘩」
「……うわぁ」
「その子の告白も断ったけど、もう女子とか煩わしくなって。顔目当てなんだったら顔隠せばいいかなって思って髪伸ばして、眼鏡かけて、マスクして顔隠すようになった。俯いて過ごしてるうちに男女問わず人が寄り付かなくなったって感じかな」
 赤祢はそんな生活にももう慣れた、というような顔をしていた。
「この眼鏡も伊達」
 赤祢は眼鏡をはずしてレンズ越しに人差し指を立てる。レンズの向こうのきれいな長い指は歪みなく見えていた。
 あかねさんがラジオで話していた『普段とラジオでは全然違う印象の人間』って、きっとこういう過去があったせいなんだろうなと思った。
 本当は話すことが好きなのに、それをやめて地味男を演じ続けてたんだ。
 でも、DJは赤祢が素で居られる場所なんだと思うと、そういう場所が彼にあることが嬉しかった。

ーー
「赤祢はさ、好きなおかずとかないの? 弁当で」
「から揚げかな。卵焼きも好きだけど」
「卵焼きはいつも赤祢の弁当に入ってるよな」
「うん」
 DJのあかねさんが話しているときより、高校生らしさを感じる話し方をする赤祢が可愛い。
 脳内で悶えながら、俺は自分の弁当を差し出す。
「もしよかったら、から揚げ食べる?」
「え、いいの?」
 ちょっとだけ赤祢の声に期待がこもっているのを感じた。
「いいよ」
 赤祢はいただきます、と呟いて俺の弁当箱からから揚げを1つ持っていった。
 口に合うだろうか。まずくないだろうか。失敗はしてないけど。美味しいって言ってくれるかな。
「おいしっ。これは店で出せるよ!」
「ふはっ、なにそれ。そこまでは無理だろ」
 赤祢の言葉に安心して表情が緩む。
 好きな人に美味しいって言ってもらえるだけで満足だよ、俺は。
 だけど薄汚い自分が作ったものが赤祢の中に入ったんだと思うと、それはそれで申し訳なくて。同時に、心を許してくれている気がして嬉しくもあった。
 禍々しいものが自分の中で渦巻いている。自分で自分が気持ち悪い。
「……」
 前髪と眼鏡の向こうで、赤祢がじっとこっちを見ている気がした。
「赤祢? どうかした?」
「それ、手作り? 親が作ってくれたとか?」
「ううん。これは俺が作ったやつ。うち親が共働きだから、料理は俺の担当というか。教えてくれたのは祖父ちゃんだけど」
「そうなんだ。お祖父ちゃん、料理上手なんだ?」
「そう。もういないけど」
「あ、ごめん……おれ」
 赤祢が気まずそうに顔を逸らした。
 俺は自分が口を滑らせて余計なことを言ったことに気が付いた。暗くなってしまった雰囲気を振り払うように、明るい声を出す。
「あ、俺にラジオを教えてくれたのも祖父ちゃんなんだ!」
 俺はスリープ状態のスマホを見せる。
「え、ラジオ? 聴くの?」
「めっちゃ聴く! 正直これだけで一日なくなることもある」
 一番好きなのはあなたの番組です、とは言えなかったけれど。
 赤祢は今までに見たことがないくらい表情を明るくした。
「おれもラジオ好きだよ。どこの聴く?」
 ここまで俺が振った話題に食いついてくれたのは初めてだった。
 本当にラジオが好きなんだな。
「赤祢はなんでラジオが好きになったんだ? きっかけとかあんの?」
「母親がラジオ好きでさ、それ聴いてたらいつの間にかハマってた」
 それがきっかけでDJになったのかな。そういう話も聞きたいのに、俺は自分があかねさんの番組のリスナーであることをいつまで経っても明かせない。
 昼休みは赤祢と過ごしているけれど、他の休み時間は瀬田たちと表面上の付き合いを続けて自分の居場所を守っているのだから。
 俺は本当にズルい人間だ。