青い空に浮かぶは穢れの知らない白い雲。
 そんな空を見ていたらとてつもなく自分が責められている気がした。
「俺って……汚い人間だ……」
 学校の屋上の鉄柵に体を預けた俺は、頭だけ乗り出して項垂れた。空になった牛乳パックを握る手に力がこもる。
 中学時代の自分に嫌気がさして高校では絶対に同じことはしないと決めていたのに、俺は見事に同じ轍を踏んづけた。
 自己嫌悪だ。本当に最悪すぎる。
『早く秋になれよさんからのお便りです。「アランさんこんにちは~」はいこんにちは~。「中学生になって早くも2週間が経ちました。話せる人もできましたが、正直に言うとあまりその人とは気が合いません。愛想笑いでその場をやり過ごしてしまいます。そんな自分が嫌になります。でもやっぱり話せる人はいてほしいです。アランさんは学生時代、どうやって友人を作っていましたか?」というお便りで~す』
 耳に付けているイヤホンから、ラジオDJの声が聞こえてくる。
 このお便りは俺が出したものじゃないけれど、言いたいことは心底わかる。俺は今その状況にいる。
 知らない土地にいる見知らぬ誰かに親近感を覚えながら、アランさんの回答を待つ。
『ん~。ボクは自分で言うのもなんだけど、友達は多い方でした。まぁほら、外国からの転校生って珍しいんでしょうねぇ。いろんな人が話しかけてくれました。祖父が日本人だから日本語を話せたってのもあるんでしょうね。話せなかったらたぶんぼっちだったと思いますね、ははっ』
 アランさんは明るく笑いながら当時の話をしてくれる。
 クォーターのアランさんは、中学の時に日本の学校に転校したらしい。それまではフィンランドに住んでいたと以前に話していた。
『まぁね~。学校生活でひとりでいたくないって気持ちも分かりますよ。ボクだってひとりだったら心細かったと思います。でも無理して苦手な人といるのは疲れるじゃないですか。自分と話が合う人と仲良くなれたらいいですよね~。早く秋になれよさん、頑張ってください! 陰ながら応援しています!』
 なんも参考にならんでしたよ、アランさん……。
 いやでも言いたいことは分かる。アランさんが言う通り、話が合う人といる方が楽しいし、気も使わなくて楽だろう。
 でもそう簡単にはいかない。それができれば苦労しないと分かっていても……。
「いや……そうしようって、決めてたはずなんだけどなぁ」
 現実は上手くいかないものだ。
 自分が変われていないだけと言われればそうなんだけど。
 いつの間にかイヤホンからは最近話題のドラマソングが流れていた。
 さっきまで感じていた自己嫌悪の上に重なるように、自責の念が圧し掛かってきた。
 俺には大好きな推しDJがいる。この時間にDJをしているアランさんも好きだけど、夕方ごろに流れるDJあかねが特に好きだ。俺と同じ年でDJをやっているし、なんなら彼がDJを始めていたのはもっと前だ。
 俺が中学から聞いている彼は、声変わりをする前からいた。一時期声変わりのせいで休んでいたこともあるが、変声期を越えて復活したあかねさんの声は俺の好みにドンピシャだった。
 もうそれは恋と言っても過言ではないくらい、彼の声に惹かれていた。
 少し低くて穏やかで優しい声。時折笑った声がたまらなく胸を締め付けるくらいに甘くて、それでいて聞いているととても落ち着く。本当に同じ年の男かと思えるくらいに大人びた人という印象を持った。
 正直それまで恋なんてしたことがなかったから、自分の恋愛対象もタイプも知らなかった。それでも、あかねさんに惹かれていることに気付いても自分に驚いたりはしなかった。
 どんな人なのかもっと知りたくて調べたこともあるけれど、彼の情報はほとんど見つからなかった。
 写真もなくて、どんな顔かも分からない。分かっているのは年だけ。本名も明かされていないから、あかねという名前が芸名なのか本名から取っているのかも不明だ。
 俺にとって彼の素性など些末なことだけど。
 あんな声をイヤホン越しに聞いたら、恋をせずにはいられない。
 そんな彼の言葉で、ずっと心に残っているものがある。
――『今ここで話している自分と、普段の自分は全然印象が違う人間だと思います。でも今の方が自分の素に近くて、楽で、好きなことをしている自分が好きです。せめて好きなことの前では自分に嘘は吐きたくないですね。……普段は嘘つきってことでもありますけど、あははっ』
 たしかあれは、好きなことを貫きたいけど周りからは反対される、というようなお悩み相談のメッセージを読んだ時に話してくれたことだった。
 あかねさんはメッセージをくれたリスナーさんにこう続けた。
――『周りの意見より、自分が好きでいられる自分。納得できる決断。後悔しない選択をしてほしいなって思います』
 そして彼は最後に、すべてのリスナーへ向けてこう締めた。
――『他のリスナーさんもそうですけど、自分に胸を張れる人ってかっこいいとおれは思います』
 だからそうなれ、とは言わなかった。
『そんな報告があれば、ぜひメッセージください! お待ちしてまっす!』なんてちゃっかり宣伝をしていた彼の声が、ずっと俺の耳に残っていた。いや、今でも残っている。
 だから俺は変わろうと思った。自分に胸を張るというよりは、あかねさんに胸を張れる人になりたかった。
 それだと言うのに俺という奴は……。
「ってやべ! もう予鈴の時間過ぎてんじゃん!」
 俯いてため息を吐いた俺の視界に、予鈴の時刻を過ぎたデジタル時計が映った。
 イヤホンをしていたせいで予鈴を聞きのがしてしまったらしい。
 このままラジオを聞いていたくもあるけれど、授業に遅れて悪目立ちするわけにもいかない。
 外したイヤホンとスマホを、後ろ髪を引かれながらスラックスのポケットに突っ込んで駆けだした。
 階段を駆け下り、自分の教室がある3階で左に曲がったところで、階段横の渡り廊下がある方から飛び出してきた男子生徒とぶつかった。
「ぶへっ」
 顔面が相手の腕にぶつかり情けない声が出る。
 鈍く痛む鼻を抑えながら顔を上げると、相手は同じクラスの陰キャくんだった。
 普段から話しているところを見ない彼は、分厚い前髪と黒縁眼鏡、加えてマスクで顔を隠している赤祢(あかね)陸翔(りくと)。まるで名前のような苗字だなと思ったから覚えているが、そうでもなければ簡単に忘れてしまいそうな地味男くん。
「ごめん」
 上から降ってきたのは、マスクで籠った少し低く柔らかい声。
「あの、大丈夫? 鼻、そんなに痛い?」
 分厚い前髪と眼鏡越しに顔を覗き込まれて我に返った。こんな至近距離でも相手の目がよく見えない。
「あ、いや大丈夫。こっちこそごめん。怪我とかしてないか?」
「おれは平気」
 短い返答に俺の中で引っかかる何かがあった。
 この声、どこかで聞いたことある気がする。でも赤祢と話したことは今までにないと思うけど……。
 そこまで考えたところで、本鈴が校舎に鳴り響いた。廊下にいるのは俺と赤祢くらいだ。
「やべ! 急ぐぞ!」
 俺は咄嗟に赤祢の腕を掴み教室までダッシュした。
 まだ先生は来ていなかったおかげで遅刻にはならなかった。
「っはー、セーフ」
 先生が来ていないことをいいことに、教室内はまだ騒がしい。俺たちが走りこんできたことを特別気に留める人もいなかった。
「あ、腕、ごめんな」
「……いや」
 掴んだままだった赤祢の腕を放すと、赤祢は素っ気ない返事を残して自分の席へつかつかと歩いて行ってしまった。
 なんて不愛想な奴なんだ。
「お~い夜川(よかわ)羽世(はせ)~。いつまでそこで突っ立ってる。もうチャイムは鳴ったぞ、席に着け。他の奴らもそろそろ静かにしろ~い」
 背後の引き戸が開いたかと思うと、現代文担当の先生が入ってきた。内心では注意されたことに羞恥心でいっぱいになりながらも、顔には苦笑いを浮かべて「すいませーん」と軽い口調で謝った。
 ずっと握っていた牛乳パックをゴミ箱に捨て、自分の席に向かった。
 現代文の教材を出していると、誰かからの視線を感じた。
 廊下側の席の俺とは反対の窓際にいる赤祢が、こちらを振り返っていた。前髪越しに目が合った気がする。
 マスクのせいで表情は分からないけれど、申し訳なさそうな雰囲気を纏っているように感じた。俺の気のせいかもしれないけれど。
 授業が始まれば、彼はすっと前を向いた。
 俺はふとさっきの赤祢の声を思い出した。あの声、どこかで聞いたことがある気がする。しかし彼と直接話をしたのはさっきが初めてのはず。他に声を聞いたことがあるとすれば、4月の自己紹介の時。
 だけど……それ以外でも聞いている気が……。
 机に頬杖をつきながら、彼の斜め後ろ姿を盗み見る。
 不意に足を動かすと、ポケットの中でスマホがずれ動いた。
 その瞬間、俺の心臓が高鳴った。
「あっ!」
「やかましいぞ~」
 自分の中でスッキリしたまま声を出したせいで、クラス中の視線を集めてしまった。間髪入れず先生から本日2度目の注意を食らった。またヘラヘラと笑って「すいません、すいません」と平謝りした。
「何やってんだよ」
 前の席に座る瀬田(せた)が呆れたように俺を振り返った。瀬田の言葉にクラスメイトが俺を見てクスクスと笑っている。
「あはは、はは」
 注目を集めた恥ずかしさに、乾いた笑いを返すことしかできなかった。
「はいはいお前ら黒板に注目~。……で、何の話だっけ? あ、そうそうここね。この一文から読み取れるのは……」
 先生が授業に戻ると、みんなの視線も外れていった。瀬田もやれやれと言いたそうな顔で前を向いた。
 あの人も……あかねさんも、俺から黒板へと視線を移した。
 妙に確信があった。絶対にあの声はあかねさんだ。
 俺が好きな人の声を間違うわけがない。
 あかねさんの時間帯は、どれだけ面白そうなバラエティー番組がやっていようと断然ラジオを優先するくらいなのだから。
 恋をした声を間違えるはずがない。
 心臓が痛いほどはっきりと脈打っている。これが現実であると突き付けられる。
 驚きと嬉しさにペンを持つ手が震えている。
 赤祢がDJあかねさんだったことの驚きよりも、普通に会話ができるくらい身近にあかねさんがいたことの方が驚きだった。
 そっか、本当に俺と同じ年なんだ。
 ラジオで言っていた通り、ラジオの時と日常の時では随分と印象が変わるんだな。
 まるで手のひらを返したように、今まで根暗の陰キャだと思っていた赤祢の見方が変わった。
 すごい人だったんだ。
 俺の尊敬する推しで、俺の初恋の人がこんなにも近くにいる。それがとても嬉しくて、口元がだらしなく緩みそうになった。
 そして俺は、一転して恐ろしい事実に気が付いてしまった。
 俺は昼休みに自己嫌悪に陥っていたばかりだ。
 それは、自分が中学の時から何も変われていなかったからだ。
 俺が、自分にもあかねさんにも胸を張れる人間になれていなかったからだ。
 俺はひとりが好きだ。その方が落ち着く。だけど学校の中でひとりなのはいけないことのように感じて、周りに合わせて笑っていた。
 本当は根暗のくせに、根明を演じて愛嬌を振りまいて、陽キャのグループに属して安心していた。
 小学生の頃からずっとそうだった。
 中学の時、そんな陽キャグループで同じ高校に行こうなんて話もあった。俺は将来の目標も行きたい高校も特になかったから、もちろん、なんてへらへら笑って答えた。
 そんな時にあかねさんのあの言葉を聞いて、あかねさんに胸を張れる人間になりたいと思ったのだ。誰かに合わせて笑うんじゃなくて、誰かに流されて流行に乗るんじゃなくて、自分が好きでいられる自分でいたいと思った。
 ラジオが好きなことを隠して、愛想笑いをして、根明を演じて、息が詰まって……。そんなのは自分じゃないから。
 みんなで行こうと約束した高校を蹴った俺は、知り合いのいない高校に来て……そしてひとりでいることに怯えた。また愛嬌を振りまいて根明を演じて、クラスでも中心にいるようなグループに属して安心している。
 最悪だ。
 こんなに近くにいるのに、合わせる顔がない。
 後ろめたさしかない。
 あかねさんに憧れて、あの言葉で変わりたいと思えて、絶対にそうなってやると決めたのに。高校は知っている人がいない場所を選んだというのに。
 俺は中学の時と同じことを繰り返している。
 何も変われていない。こんな自分は好きじゃない。
 趣味はSNS? ドラマ鑑賞? アイドルが好き? そんなの俺じゃない。
 趣味はラジオを聴くことだし、流行曲はラジオでかかるけど追いかけるほどじゃない。
 もちろんいい曲は個人的にも聞くけれど、その曲が主題歌になっているドラマやアニメをすべて知っているわけじゃない。歌っているアイドルを知っているわけじゃない。
 俺は自分の現状に頭を抱えて机に突っ伏した。