「お兄ちゃん! ほら、起きて! 今日はキャンプだよ!」
GW初日のよく晴れた朝、住宅街からは少し外れたその家に元気な声が響く。
「ぅん……、あと5分……」
「だーめ!」
「ゲフッ」
中学生である少女に腹へ飛び乗られた彼は、流石に目を覚ます。
きっと、世界中で起きるだろう、ありふれた一日の始まり。
「ゲホッゴホッ。はぁはぁ、おい、紗。それやめろって言ってるだろ」
「起きないお兄ちゃんが悪い!」
まだ少し寝ぼけている兄は川上弘人。一見すればごく普通の高校一年生だ。
紗と呼ばれた少女は弘人の妹である川上紗音。今年で中学二年生になった。
「ほら、もうご飯できてるよ! 早く降りて来てね!」
ドタバタと階段を駆け下りていく妹に呆れながら、弘人は洗面所へ向かう。
なんだかんだ言いつつ、彼も今日のキャンプは楽しみにしていた。
◆◇◆
諸々の準備を済ませ、両親に朝の挨拶をしながら弘人がダイニングに現れた頃にはもう紗音は食事を終えていた。
「あ、やっと来た! ほら、早く早く!」
「そんなに急かすなって。ジジイとの約束の時間はまだ先だぞ」
呆れながらそう言いつつも朝食を急いでかき込む弘人。兄妹の仲は非常に良好である。
「それじゃ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい。紗をよろしくね」
「お義父さんによろしくな。あと紗も」
「わかってるって」
「むー。お父さんもお母さんも私を子供扱いして!」
「子供だろ?」
「お兄ちゃんまで!」
膨れる最年少の家族に、玄関先が笑いで満たされる。いつも通り、変わらない日常だった。
◆◇◆
「おじいちゃん!」
「おぉ、紗。今日も元気じゃのう」
「ジジイ、デレデレしすぎだろ」
「んん? 弘人、お主妬いとるのか? ん?」
「ちげぇよ!」
目的地である森の中で待っていたのはどこか浮世離れした老人。二人の祖父である源龍斎だ。
孫娘に飛びつかれてデレデレしているが、見る人が見ればきっと顎が外れ目玉が飛び出すほどに驚くだろう。
弘人は今日何度目かわからない呆れ顔を向けている。
「ほら、さっさといくぞ」
「弘人はせっかちじゃのう?」
「ホントだよねー」
そんなやりとりはいつもの事だ。気にせずずんずん歩く弘人を、二人も慌てず追いかける。
この森はいくつかの県に跨る霊山の麓に広がっており、なかなかに広い。毎年行方不明者が出るくらいだ。
しかし三人にとっては庭のようなもの。その足取りに迷いはない。
テントなんかが入った重たい荷物を背負って歩くこと一時間。目的地に着いた。
波のない水面が陽光を反射し煌めいている。辺りには鳥の歌声が響き、温暖化に悩まされる昨今では考えられないほど澄んだ空気に満ちている。
上空からは発見がほぼ不可能なほど深く木々が生い茂る小さな湖のほとりであるが、不思議と明るい。
毎年来ている場所であるので、特に相談なくそれぞれ手分けしてキャンプの準備を進める。
十分後には、岸から十メートル離れた場所にテントが二棟建てられ、竃が組まれ、薪がつまれた。
「うしっ、こんなもんか」
「だね! お兄ちゃん今何時?」
妹に問われて兄は空を見上げる。
樹海のど真ん中であるそこでは、時計は用を成さないのだ。
「んー、十一時ってとこだな。今年は父さんたちがいない分時間がかかったな。つーか、紗もいい加減分かるようになれ」
「普段は時計あるから別にいーじゃん」
「そーじゃのう!」
にししっ、と笑う紗に源龍斎がうんうんと頷く。
「おい、ジジイ! 俺には分からんと話にならん! とか言ってただろーが!」
「カッカッカ! 当然じゃ、当然」
このジジイは、とぶつくさ言いつつも、弘人はどこか楽しげだ。修行ではなく純粋な娯楽のキャンプであることもあるが、なにより彼は家族が好きなのだ。
「ほれ、そろそろ何か獲ってこんか」
「はいよ」
「はーい! さっき足跡見つけたから、あっちいってみよ!」
元気な妹様に手を引かれ、兄は続く。今日の獲物は何かと期待しながら。
◆◇◆
(あ、いたよ)
(アイツだな)
二人は藪に身を潜め、今夜の晩御飯を見つめる。昼の分は源流斎が魚でも釣っているだろう。
(うーん……、この時期のここのはあんまりうまくないんだよなぁ)
(そこは私の腕の見せ所だよ!)
(ま、いいか。他探すのも面倒だし、任せたぞ?)
(もちろん! 期待して)
そこで会話をやめ、二人は視線の先の黒い影に意識を集中する。
空気が変わった。先ほどまでの和気藹々したわたあめの様な気配は消え失せ、よく研がれたナイフの様な鋭く冷たい四つの眼光が暗い森の中に光る。
一対の光が上方の枝葉に消えた。音もなくその獣の頭上に移動して、事前に拾っておいた枝を落とす。
当然、それは枝が落ちた音に気づき、視線を先ほどまで二人の人間が隠れていた茂みと逆方向に向ける。
その瞬間飛び出したのは小柄な影。両手に一本ずつ棒状のものをもっている。
其れが影の接近に気付いた時には、既に棒が届く位置。少女は一呼吸の間に獣の両足の膝裏を両手の剣で切り裂く。
堪らず獣は倒れこみ、その首を差し出した。ーーまるで、ギロチンにかけられる死刑囚の様に。
紗が剣を鞘に収めて振り返ると、頭部を失い首から血を噴き出す熊と、納刀しながら近づいてくる兄の姿が見えた。
「ふぅ、お疲れ」
「一瞬だったけどねー」
「血抜きはここでやってしまうか?」
「んー、湖まで戻るよ。ほら、お兄ちゃんはそっちの足もって!」
「了解」
熊を倒したところで、二人に感慨はない。それも、日常でしかないのだから。
◆◇◆
「ん? 遅かったの」
「今日はコイツだからな。途中香草を探しながら戻ったんだ」
弘人の説明に納得したらしい源龍斎は、竃の魚に目を戻す。
「さっき焼き始めたばかりじゃから、まだまだかかるぞ」
「りょーかい、解体しながら待ってるよ」
「お兄ちゃん、いつものとこね」
二人の話を聞きながら手際よく香草を種類ごとに分けていた紗が先導し、一本の枝の下に向かう。湖からやや離れた位置にある大木から伸びるその太い枝は、熊数頭を吊り下げるのにも耐えうるほど丈夫だ。また、湖に注ぐ川のすぐ傍でもあるので都合がよく、獲物を解体する時によく使っている。
手慣れた手つきでロープを熊の足首に結びつけ、逆さ向きに吊るす。
どちらかと言えば細身のその身体のどこに熊一頭を軽々吊り上げる力があるのか、などということを思うものはいない。力ではなく体の使い方だ。これくらいは紗なら問題ない。
「途中で結構抜けたみたいだね。三十分もかからないよ」
「だな、その間に刀の手入れを済ましておこう」
道中は熊の足を掴んで運んだため、かなりの血が抜けていたらしい。血を撒き散らすなど、本来であれば愚行極まりないが、間違いなくこの場にいる三人は例外だろう。例え新たな獣が寄ってきたとしても朝食のメニューと家族への土産が増えるだけだ。そもそも本能の強い野生の獣は彼らに近づかないだろう。
◆◇◆
各々の武器の手入れが終わる頃には熊の血も抜けきっていた。魚が焼けるにはまだ一時間くらいかかりそうなので、予定通り解体を進める。
「お兄ちゃん、そっちよろしく」
「はいよ」
楽しそうに作業を進める二人だが、年頃の男女が笑顔で手際よく大型の獣を解体するというのは些か奇妙な光景ではある。それでも、二人の姿を眺める老人の眼は優しく、温かな空気が流れていた。
「うし、こんなもんだな。後は任せた!」
「まっかせて!」
「終わったか。こっちもご飯が炊けた。魚はもう少し待たねばじゃが、そろそろ食べ始めるぞい」
時刻は一時過ぎといったところか。解体で汚れた手を洗い、食事を始める三人。
「やった! おじいちゃんの炊き込みご飯!」
「……相変わらず美味いな」
「カッカッカ! 当然じゃ」
孫二人に褒められておじいちゃんもご満悦。こんなジジイ、他の人が見たらどうなるだろう? そんな思考は弘人の中に留められていた。
◆◇◆
「おまたせ〜」
ちょっと気の抜けた声を出したのは水浴びを済ませた紗だ。
「お、来たか。こっちもちょうど一局終わったとこだ」
「じゃ、今年もやろーか!」
その声を合図に碁盤を片付ける二人。
熊肉は既に彼らの腹のなかにあるため、今日最後のひと時だ。
「今年こそはお前に勝つ!」
「ふっふっふ〜! まだまだ負けませんよ! お兄様!」
「弘人はまず儂に勝たんとのぅ?」
「ぐぬぬぬっ」
そして出てきたのはすごろくのような盤にルーレットがついたもの。人生ゲームだ。
きっとこの場を彼らの関係者の一部がみれば、これは夢だと自身の体に剣を突き立ててみる事だろう。
「囲碁じゃ負けたが、コレはほぼ運だからな!」
「そーいって毎年最下位じゃん?」
「う、煩い! 始めるぞ!」
そうして夜は更けていく。……ちなみに今年も弘人は最下位だった。
◆◇◆
「ふわぁぁ、おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
「相変わらず普段は寝坊助じゃの」
「うるせぇぃ……」
その声に覇気はない。今年も例年通り泣き寝入りした弘人は、基本朝に弱い。
逆に謎の豪運で毎年トップを飾る紗は朝にも強く、既に熊肉の下拵えを終えていた。今日の昼食である。
「ほれ、味噌汁もできた。食べなさい」
そう言って椀に味噌汁をよそる源龍斎。狙った数字をほぼ100%だすチートな爺さんだが、何故か紗には勝てない。本人も毎年首をひねっている。
「今日お昼食べたら帰るんだよね?」
「ああ。今朝は釣りでもするか」
「そうだね」
やっと目が覚めた兄の提案に頷く妹。まあ、例年のことではあるのだが。
「儂は散歩に出てくる。あまり釣りすぎてはいかんぞ?」
「わぁってるって」
そうして朝食を終え、各々の目的地へ。
「ねぇ、ここって主が居るらしいよ?」
「へぇ、じゃあどっちが釣るか勝負するか?」
「受けて立つ!」
そうして早速釣り糸を垂らすこと五分ほど。二人の竿に獲物がかかった。
「お、きた」
「こっちもきたよ!」
大きくしなる竿。激しく波打つ水面。かなりの大物のようだ。
「くっ、なんだこの引き。湖での引きじゃねえだろ」
「っ、やっばいね。竿折れないかな?」
そう言いながらも徐々に釣り糸の先は岸へと近づく。
「てか、おかしくないか?」
「……だね。糸が同じようなとこに伸びて、同じように動いてる?」
「……まさか、な?」
「……まさか、ね?」
その瞬間跳ねた巨大な影。その口に伸びるのは二本の透明な糸だ。
「「えぇぇぇぇぇ!!!!」」
「んなことあんの!?」
「いやいや、お兄ちゃん! それよりさっきの魚、大きすぎでしょ!」
右へ、左へ。魚の動きに合わせて竿をふる二人だが、相手も負けじとどんどん動きを激しくする。
「とりあえず、釣るぞ!」
「おじいちゃん驚くね、きっと」
身の丈を超える怪魚を前にして、呑気な事だ。激闘であるのに、気が抜ける。
「もうちょい!」
「せーのでいっきに引き上げよう!」
「オーケー、合わせろよ?」
「うん!」
「「せーのっ!!」」
――ザバァーーン!
ザーーーー……………
◆◇◆
「ふむ、仕掛けには掛かりましたが、成果はなし、と。まったく余計な邪魔が入りましたね。彼女があの様な事を言うから、態々用意してみたのですが」
アルジェのいる世界であって、その世界ではない場所。真っ黒な紳士は呟く。
「それにしても、管理者レベルとはいえ、我々の同胞が恐怖するご老人ですか……。興味深いですね」
楽しげな口調とは裏腹に、眼は一切笑っていない。
「まあ、もう消えました。次の仕掛けでも用意しておきますか。……一応、念のために」
そう言って、そのものは姿を消した。