【#8】
「はい、最終リハーサル終了です」
その言葉が聞こえた瞬間、一気に全身の力が抜けたような気がした。
「お疲れ様でした」
スタッフが言ったその言葉に、周りから自然と拍手が起きた。
クリスマス・コンサートの最終リハーサルが無事終了した。
「本番も結音ちゃんの歌楽しみにしてるわね」
リハーサルスタジオから出ると、篠崎さんが笑顔でそう言ってくれた。
「お疲れ様。今日の歌もすごく良かったよ」
そして、篠崎さんのあとに続いてそう言ってくれたのは…由弦さん。
「結音、このあと予定ある?」
「えっと、篠崎さんと軽くお茶しようかなって……」
由弦さんに訊かれて、戸惑いながらそう答えると、
「すみませんけど別の日にしてもらって、このあと結音借りていいですか?」
私の言葉が終わらないうちに、由弦さんが篠崎さんに言った。
「私達の大事な歌姫に手を出さないって約束してくれるならいいわよ」
「わかってますって」
ちょっと、ふたりしてなんて会話をしてるの……!?
わけがわからずにいると、
「結音と一緒に行きたいところがあるんだ」
由弦さんが言った。
私と一緒に行きたいところ?
心当たりがなくて不思議に思いながら由弦さんのあとについていくと、リハーサルスタジオの駐車場に出て、そのまま停めてある車に乗り込んだ。
一体どこに行くつもりなの?
「あの、どこに行くんですか……?」
私が尋ねても、
「着いたらわかるよ」
由弦さんはそう言ってすぐには行き先を教えてくれなかった。
車は郊外へ向かっているらしく、窓の外はオフィス街や高層ビルから緑の多い景色へと変わっていく。
「―ここだよ」
スタジオを出て30分程経った頃、由弦さんがそう言って車を停めた。
目の前には“霊園”の看板。
霊園って、もしかして……。
「夏音が眠っている場所だよ」
由弦さんが静かに言った。
つまり、この霊園に夏音さんのお墓があるということ。
「今日は、夏音の月命日なんだ」
「月命日?」
「そう。だから、結音にも夏音に会ってほしいと思って」
「……わかりました」
ちょっと緊張しながら、夏音さんのお墓へ向かう。
お墓の前に着くと、由弦さんとふたりでお花とお線香を供えた。
冬の澄んだ青空に、白い煙が吸い込まれていく。
17歳という若さで断たれた命。
幸せな毎日を、人生を、ある日突然失ったら…―。
想像するだけで胸が苦しくなる。
「俺、夏音が亡くなってつくづく思うんだ。誰にも明日が来る保証なんてないって。今自分が生きているのは偶然で…奇跡なんだって」
不意に由弦さんが言ったその言葉は、今まさに私も思っていたことだ。
いつか死が訪れることはみんなわかっているけれど、それはずっと遠いことのように錯覚してしまっている。
でも本当は、“死”ってすごく遠いようで、限りなく身近にあるものなんだ。
明日が来ることは、決して当たり前のことなんかじゃない。
私が今ここにいることは、明日を迎えられることは、きっとたくさんの偶然が重なり合った奇跡。
だからこそ、毎日を大切に生きていかなければいけないんだ。
「だから、決めたよ。俺は、生きている限り音楽を続けていく」
「…え…?」
「これからも結音と一緒に音楽活動を続けていきたい」
それはつまり、活動休止しないということだよね。
「私も、ずっと由弦さんと一緒に音楽を続けたいです」
「良かった。これからも、よろしく」
由弦さんが笑顔でそう言って、手を差し出した。
「こちらこそ」
私も、笑顔で差し出された手を握る。
私たちは、夏音さんに見守られながら、“音楽を続ける”という約束の握手を交わした。
夏音さん。どうか、これからも天国で由弦さんを見守っていてください。
あなたの分まで、私も由弦さんも毎日を一生懸命生きていきます。
そして、音楽を心から愛し、これからも音楽活動を続けていきます。
だから、これからは私が由弦さんのそばにいることを許してくれますか?
そう心の中で問いかけた時、優しい風が吹き抜けて……夏音さんが「はい」と答えてくれたような気がした。
* * *
12月24日、クリスマス・イブ。
クリスマス・コンサート当日。
真っ白なドレスを着て、ステージに立つ。
パイプオルガンの荘厳な音色が響く。
―天国にいるお父さん、お母さんと夏音さんにも届きますように―
祈りを込めて歌う。
歌い終わると、大きな拍手が響いた。
「今日はクリスマス・イブということで、クリスマスソングを中心に歌っていきたいと思います」
そんなMCのあとに披露したのは、毎年クリスマス・シーズンになると街中で流れている定番のクリスマスソングたち。
最初の神聖な雰囲気から、会場中が一気にクリスマスムードに染まっていく。
そしてあっという間に時間は過ぎて…気がつけば、次がラスト・ソング。
由弦さんとアイコンタクトをして、由弦さんがギターでイントロを弾き始める。
由弦さんのギターを聴きながら、目を閉じて、意識を集中させる。
そして、呼吸を整えて、歌い始める。
由弦さんと出会うきっかけになった、始まりの曲を。
歌いながら色々なことが甦って、目頭が熱くなる。
胸の奥から熱い想いがこみ上げて、メロディーになって溢れだす。
「ありがとうございました」
心からの感謝の気持ちを込めて、ステージの中央で礼をする。
温かな拍手が教会の中に響いてコンサートは無事に終了した。
「お疲れ様。今日の歌もすごく良かったよ」
楽屋へ戻る途中、由弦さんが笑顔で声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
由弦さんに誉めてもらうのが一番嬉しい。
「それじゃ、またあとで」
そう言って自分の楽屋に戻ると、
「鈴原さん、お疲れ様」
突然そんな言葉と共に目の前に花束が差し出された。
顔を上げると、花束を持っていたのは予想外の人だった。
「……琴吹さん?」
あまりにも意外過ぎて、一瞬見間違いかと思ってしまった。
だって、あんなに私のことを嫌っていた琴吹さんが、花束まで持って私の楽屋に来るなんて信じられない。
「事務所の人に頼んで、関係者席取ってもらったの」
私が動揺しているのを察して、琴吹さんが説明してくれた。
「……そうなんですか」
わざわざ事務所の人に頼んだということは、もしかして敵情視察のつもり……?
「…あの時はごめんなさい」
「え?」
またイヤミのひとつでも言われるのだろうと身構えていたから、まさか謝られるとは思わなかった。
“あの時”というのは、事務所の社長と手を組んでヤラセで由弦さんと熱愛報道を流したあと、私と番組収録で会った時のことを言っているのだろう。
「日本を離れる前に、一度きちんと謝っておきたくて」
真剣な表情で言葉を続けた琴吹さんの言葉の意味がわからなくて、
「どういうことですか?」
思わずそう訊き返した。
「まだ公式発表してないんだけど、私、来年から音楽活動を休止して留学するの」
「留学…?」
予想外の言葉に驚いていると、
「うん。最低一年はいるつもり。それで、いつか世界で通用する歌手になりたい」
琴吹さんはまっすぐに私を見てそう答えた。
その瞳と表情は真剣そのもので、琴吹さんの揺るがない強い決意を感じた。
何があったのかはわからないけれど、3か月前に会った時より確実に琴吹さんは変わっている。
あれからきっと琴吹さんは琴吹さんなりに自分のこれからの道を考えたんだろう。
真剣に悩んで出した答えだということは、今の琴吹さんを見ればわかる。
「琴吹さんならきっと大丈夫です。頑張って下さい」
琴吹さんだって、きっと本当は歌うことが好きなはず。
だから、同じ夢を持つ仲間として、今は琴吹さんの選んだ道を応援したい。
私が差し出した手を、琴吹さんは遠慮がちにそっと握った。
「いつか、また共演出来る日を楽しみにしてます」
琴吹さんが今より更に実力をつけて本当の意味で“歌姫”になった時、私もまた同じステージに立ちたい。
「ありがとう」
一瞬、琴吹さんの瞳が潤んでいるように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「それじゃ、また」
「今日は来てくれてありがとうございました!」
足早に楽屋のドアへ向かった琴吹さんに慌ててそう声をかけると、
「遠坂さんとお幸せに」
琴吹さんが振り向いて笑顔でそう言ってくれた。
「ありがとうございます」
思いがけない祝福の言葉。
もう気づかれていたんだと思うと恥ずかしいけれど、同時に嬉しくもある。
いつか、琴吹さんにも幸せが訪れますように。
琴吹さんの背中を見送りながら、私は心からそう願った。
琴吹さんが私の楽屋を出てすぐ、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
私が返事をすると、扉を開けて顔を覗かせたのは…
「お疲れ様」
由弦さんだった。
「今、琴吹さんとすれ違ったんだけど…」
「あ、はい。さっきまでここで話してました」
「大丈夫か? 何か嫌なこと言われたりしなかった?」
「大丈夫です。琴吹さん、この前のこときちんと謝ってくれたから」
「え? 」
「来年から、音楽活動休止して留学するらしいですよ」
「そうなんだ。だからさっき俺にあんなこと言ったのか」
「あんなこと?」
琴吹さん、由弦さんにも何か言ったの?
「“鈴原さんのこと、大切にしてあげてください”って。“言われなくてもそのつもりだ”って返しておいたけど」
「……」
今さりげなくすごいことを言われたような気がするんだけど……。
「その衣装で歌ってる姿、地上に舞い降りた天使みたいだったな」
由弦さんが、改めて私の姿を見て言った。
「今回のコンセプトが“聖夜に舞い降りた天使”だから……」
『クリスマスイブの教会で歌うなら天使の衣装で』と、スタイリストさんが用意してくれた白いドレスは、私も気に入っている。
「いや、見た目だけじゃなくて心もって話。結音はいつも綺麗な心で歌ってるから」
「…えっ…」
由弦さん、さっきからどうしちゃったの!?
そんなストレートに優しい言葉ばかり言われたら、どうしたらいいかわからない。
恥ずかしくてうつむいていると、
「結音」
由弦さんが静かに私の名前を呼んだ。
顔を上げると目の前に由弦さんが立っていて。
ためらいがちに伸ばされた手が、私の頬に触れようとしたその時、
――コンコン
再びドアをノックする音が聞こえて、
「結音ちゃん、着替え終わった?」
という言葉と共に、マネージャーの篠崎さんがドアを開けた。
「……って、あら、お邪魔だった?」
「あ、いえ、もう話は終わったので」
篠崎さんの言葉に由弦さんはそう言って、楽屋を出て行った。
閉じられたドアに視線を向けたままでいると、
「…ごめんね、結音ちゃん」
篠崎さんが申し訳なさそうに言った。
「…いえ…」
そう言いながら、さっきのことを思い出して急に鼓動が速くなる。
だって、もしもあの時篠崎さんが入ってこなかったら、由弦さんは―…
「せっかくのクリスマスイブだから、ふたりきりにさせてあげたいけど。このあと関係者参加の打ち上げでお店予約しちゃってるのよ。車出すから、着替えたら駐車場に来てね」
「…はい」
篠崎さんが楽屋を出ると、私は急いで衣装から私服に着替えて駐車場へ向かった。
その後、関係者も含めた打ち上げパーティーではみんな盛り上がって楽しい時間を過ごした。
由弦さんとふたりきりで過ごせなかったのは少しだけ残念だったけれど。