【#憂月】
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
太陽の光がなければ輝けない月は
誰よりも光に憧れ光を憎む
心の光と影を映す憂い月
━━━☆・‥…━━━☆・‥…
静かな部屋に響く、やさしい歌声。
何度も何度も聴いているから、歌詞を見なくても自然と口ずさめる。
「またパパの歌聴いてたの?」
不意に聴こえてきた声。
視線を向けると、ドアを開けてママが顔を覗かせていた。
「うん。だってパパの歌大好きだもん!」
笑顔でそう答えると、
「たまにはママの歌も聴いてよ」
ちょっと拗ねたように言うママ。
「ママの歌も大好きだよ!」
「ホントに?じゃあママの歌も歌える?」
「歌えるよ!」
そう言って歌い出すと、ママも一緒に歌い始めて。
「あいかちゃん、上手!さすがママの子!」
歌い終えると、優しく頭を撫でて嬉しそうな笑顔で誉めてくれたママ。
「あいか、大きくなったらパパとママみたいな歌手になりたい!」
「そう? じゃあ今からいっぱいお歌練習しないとダメよ」
「だいじょうぶだよ!歌うの大好きだもん!」
「―――……」
目を開けると、そこはいつも通りの私の部屋。
……夢だったんだ。
でも、あれは夢であって夢じゃない。
幼い日の―私の記憶。
何も知らずただ歌うことが大好きだった頃の記憶。
ただ純粋に無邪気に両親に憧れて歌っていた私。
でも今は―…あんなにまっすぐな気持ちでなんて歌えない…。
ベッドから起き上がり、汗ばんだ体を引きずるようにして窓を開けると、夏の朝独特の少しひんやりしたが入り込んできた。
新鮮な空気を吸おうと深呼吸を繰り返す。
どこからか、ひぐらしの鳴き声が聞こえる。
さっき見た夢があまりにも優しすぎて、なんだか泣きたくなった。
無性に切なくなって、枕元のスマホに手を伸ばす。
画面には“涼夜”の文字。
耳元で何度も響くコール音。
だけど何度鳴っても涼夜が出ることはなくて。
【留守番電話サービスに接続します】というアナウンスの声が聞こえた。
通話終了のボタンを押して、ため息をつく。
今、声だけでも聞きたい―そう思ったのに。
いつから私はこんなに弱くなったんだろう?
ひとりで生きていくって決めたのに。
こうして誰かに助けを求めてる。
沈んだ気持ちを振り払う様に、バスルームへ向かってシャワーを浴びた。
今日はお昼から今後のスケジュールのミーティングがある。
しっかりしなきゃ。
お風呂から上がって、メイクをして、お気に入りのブランドの洋服に着替えて。
鏡に映った私は、人気歌姫の顔に戻っている。
「よし!」
気合いを入れて、事務所へ向かうために家を出た。
「来月は新曲のレコーディング、9月は新曲リリースとプロモーションでテレビ、ラジオ出演、11月からは全国アリーナツアーの予定だから、よろしくね」
事務所の会議室でのミーティング。
マネージャーの古賀さんからスケジュールを聞きながら、当分まとまったオフは取れないと覚悟した。
「それから新曲のレコーディングなんだけど、残念ながら遠坂さんはスケジュールが合わなくてお断りされたわ」
「…え、ダメだったんですか?」
「ええ。ちょうど鈴原さんのコンサートのリハと重なるからって」
古賀さんが申し訳なさそうに言った。
「…そう、ですか…」
結局今回もダメだったんだ。
「……そんなに鈴原さんの方がいいの?」
思わずそうつぶやいたその時、会議室に置いてある電話が鳴った。
「はい、会議室の古賀です。はい、わかりました」
「愛歌ちゃん、今から社長室に行ける?」
突然私に向かって尋ねた。
「社長室?」
なんで社長室?
思わず訊き返した私に、
「柴田社長がね、大事な話があるから社長室に来てほしいって」
古賀さんが真剣な表情で答えた。
大事な話ってなに?
不安に思いながら社長室へ向かう。
扉の前で一度深呼吸をしてノックすると、中から社長の返事が聞こえた。
「失礼します」
一言挨拶してから中に入ると、
「いきなり呼んで悪かったね。そこに座って」
そう言って社長がソファに座るように促した。
いかにも高そうな座り心地のいい黒い革張りのソファだ。
「愛歌。突然こんなことを訊いて悪いが、最近誰か男と会ってるか?」
「……え……?」
会ってる……けど、相手は絶対言えない。
会ってることを知られてはいけない人だ。
「実は、一部の記者が、愛歌が某人気ミュージシャンと密会しているんじゃないかって探り始めてるらしい。大ごとになる前に手を打たないといけない」
「………」
……うそ。
絶対バレないようにしてきたつもりだったのに。
「今の相手はうちにとっても、向こうにとってもマイナスイメージになる。当然、愛歌のご両親の仕事にも大きな影響が出る。大物アーティスト夫婦の娘のスキャンダルなんてメディアで大騒ぎになることは目に見えてるからね」
その言葉に、初めて自分がしてきたことの重さを感じた。
社長は敢えて名前を出さないけれど、相手が誰なのかまでもうわかっているんだ。
「愛歌は、最近遠坂さんと共演したがっていたね」
「…え?…はい」
突然遠坂さんの名前を出されて戸惑ったけど、共演したいのは事実だからとりあえず頷く。
「でも、遠坂さんは鈴原さんの……」
さっき古賀さんに言われたことを思い出して、思わずつぶやいた。
「愛歌、彼が鈴原さんにこだわる本当の理由を知りたいか?」
「本当の理由?」
って、どういうこと?
遠坂さんが鈴原さんを気に入っているのには、何か特別な理由があるってこと?
ひとりで考え込んでいると、社長が机に置いてあった本を私に差し出した。
表紙を見ると、卒業アルバムらしいことがわかった。
だけど、これがなんだって言うんだろう?
「中を見てごらん」
不思議に思いながらも社長に言われた通りページを
めくってみると…
「水沢 夏音?」
卒業アルバムの写真らしく、どこか緊張した面持ちで微笑んでいる水沢さんは、顔立ちや雰囲気がどことなく鈴原さんに似ている。
「…実は、その水沢さんは…」
そのあと社長から聞いた話は、衝撃の事実だった。
「今の話を上手く利用すれば、彼はきっと愛歌に落ちる。あとは愛歌次第だ。本気でやるつもりなら、舞台は整えるよ。どうする?やってみるか?」
社長の言葉が、まるで悪魔の囁きのように聞こえた。
遠坂さんを手に入れるためには、そしてこれからもこの世界で生きていくためには…やるしかない。
迷ってなんかいられない。
「やります」
「よし。じゃあ計画実行だ」
私の言葉に、社長が満足そうに頷いた。
それから、新曲のレコーディングやミーティングなどで慌ただしく涼夜と会うこともなく毎日が過ぎていったある日。
雑誌の撮影を終えて事務所に戻った私は社長室へ呼び出された。
「今から、遠坂くんと食事することになったから」
「…え…?」
「社長直々に話したいことがあると言ってマネージャーを通して会うことになってる。私は先に行くよ。愛歌は支度してあとからおいで」
それは、つまり “その時が来た” ということね。
支度を終えて、タクシーで向かった先は都内にある高級レストラン。
完全個室制で芸能人御用達のお店だ。
お店に着くと、すぐに部屋に案内された。
事前に柴田社長が予約をしてあった部屋。
「すみません、遅くなりました~」
急いで来た風を装って部屋の中に入ると、
「愛歌、お疲れ様。今、遠坂さんにライブのことを話していたところだよ」
社長が声をかけてくれた。
予定通り、先に社長から話をしておいてくれていたんだ。
「ありがとうございます~」
お礼を言いながら、社長の隣に座る。
「それじゃ、全員揃ったところで改めて乾杯!」
社長の言葉を合図にみんなで乾杯をして、早速注がれているカクテルを飲む。
遠坂さんは、私が来ることを聞いていなかったのか、かなり戸惑っているようだった。
でも、そんなことは気にせずに、社長が熱く語り始めた。
さすが社長だけあって、いかに私が遠坂さんのファンで共演を熱望しているかが伝わるような話し方だ。
隣で聞いていた私も思わず真剣に耳を傾けてしまうほどだった。
「じゃあ、あとはせっかくだからふたりでごゆっくりどうぞ。帰りはタクシーを呼んであるから、遠坂さん、愛歌を頼みます。うちにとって今一番大事な歌姫なので」
話が落ち着いたところで、そう言いながら社長が席を立った。
一瞬、私に向けられた視線。
“あとは任せた”と言われているような気がして、軽く頷く。
そう、本番はここからだ。
「改めてお疲れ様です~。乾杯」
ふたりきりになったところで、もう一度乾杯をした。
さっきからハイペースで飲んでいるせいか、少し酔いが回ってきたみたい。
だけど、これも計画のうちだ。
「ライブ参加の件、考えてくれました?」
「悪いけど、君と一緒に仕事する気はないから」
即答できっぱりと返されて、思わず一瞬言葉に詰まる。
だけど、ここであっさり引き下がるわけにはいかない。
「え~なんでですか?大手事務所からの仕事受けた方が、今の弱小事務所でサポートミュージシャン続けるより金銭的にも絶対いいと思いますけど」
遠坂さんが所属している事務所は業界の中でもかなり規模が小さいところだ。
正直、ギャラだってかなり低いはず。
ビジネスとして考えても、超大手であるうちの事務所と契約した方が賢明だと思う。
だけど、遠坂さんは動じる様子もなく淡々と答えた。
「金の問題じゃない。それに、弱小なんて言い方は失礼だ。そういう考え方をする時点で、俺は君とは一緒に仕事をしたくない」
明らかな拒絶の言葉。
どうして?
そんなに私と一緒に仕事したくないの?
それとも、やっぱり鈴原さんと離れるのが嫌なの?
もしそうだとしたら……
「鈴原さんって、そんなに魅力ある子なんですか?」
「え?」
「だって、鈴原さんとの活動の方がいいんでしょ?もしかして遠坂さんって鈴原さんのこと好きなんですか?」
「……は!?」
私の質問に、遠坂さんは心底呆れたような表情になった。
「好きは好きだけど、琴吹さんが思っているような好きじゃないよ」
相変わらず冷静に大人な答えを返す遠坂さん。
それはつまり鈴原さんに対して恋愛感情はない、っていう意味だよね。
だけど、この話をしても「違う」って言い切れる?
「……でも、鈴原さんって、水沢 夏音さんに似てますよね?」
「……!?」
水沢さんの名前を出したとたん、遠坂さんの表情が変わった。
やっぱり、社長の言っていた通りだ。
あの日社長から聞いた、遠坂さんが鈴原さんにこだわる理由。
それは―
「亡くなった恋人に似ている人がそばにいたら、好きになるかもしれない」
水沢さんは、遠坂さんの恋人だった。
そして鈴原さんは、水沢さんに見た目も雰囲気も名前まで似ているから。
今も忘れられずにいる水沢さんの面影を重ねているんでしょう?
「――……」
私の言葉に、遠坂さんは無言のまま考え込むようにうつむいた。
まさか私が水沢さんのことを知っているとは思わなかったのだろう。
初めてこんなに動揺している遠坂さんを見た気がする。
少しの沈黙のあと、遠坂さんはスマホをポケットから出して何かを確認すると、
「そろそろ店にタクシー来るみたいだから、出ようか」
何事もなかったようにそう言って席を立った。
まるで今の話はなかったことにしてほしいと言っているようだ。
少しふらつく足取りでお店の外に出ると、すでにタクシーが待っていた。
行き先を告げると、タクシーが夜の街を走りだす。
緑山ヒルズまでは車で約15分。
着いてからが計画の中で一番大事なところだ。
ここまで全て予定通りにきているんだから、大丈夫。
眠ったふりをしてさりげなく遠坂さんの肩に寄りかかりながら、自分に言い聞かせた。
「琴吹さん、着いたよ」
遠坂さんに声をかけられて、目を覚ます。
途中でいつのまにか本当に眠ってしまったみたい。
眠気と闘いながらタクシーを降りたけど、酔いのせいもあって、足元がふらつく。
そんな私の様子を見て、泉堂さんはタクシーの運転手に声をかけて私と一緒に部屋まで来てくれた。
さぁ、ここまで来たら、最後の仕上げだ。
「ちゃんと鍵かけなよ」
そう言って遠坂さんが部屋を出ようとした時。
「やだ…帰らないで」
わざと甘えた声でそう言って、遠坂さんの腕を掴んだ。
「私が、夏音さんを忘れさせてあげる」
人は弱い生き物だ。
どんなに強く見えても、本当は……
誰にも知られたくない傷や過去に囚われて生きてる。
私も、いまだに消えない傷を必死に隠して生きてる。
遠坂さんもそうでしょう?
過去を利用して誘うなんて卑怯?
だけど、こうでもしなきゃ手に入らないならやるしかないんだ。
私はなんとしてでも、ひとりでもこの世界で生きていくって決めたから。
私は鈴原さんみたいに綺麗な世界では生きられない。
闇に堕ちた人間は、光にはなれない。
今もまだ闇の中抜け出せずにいるなら……
一緒に堕ちてあげる―