【#3】


8月に行われる音楽イベントのリハーサルが始まった。

イベント前日、最後のリハーサルは夕方5時から。

全曲を通して演奏し、一段落したところで少し休憩をすることになった。

「私、飲み物買ってきますね」

鈴原さんがそう言って部屋を出た。

ひとりになった俺は、部屋の隅にあるソファに腰を下ろした。

今日は別件の仕事もあって朝からずっと慌ただしかったから、少し疲れたな。

静かになった部屋でひとり目を閉じると、それまで我慢していた眠気が一気に訪れた。

―――………

「……る……由弦…」

誰か俺の名前を呼んでる…?

今も忘れられない愛しい声。

「……夏音……?」

そっと呟いた声。

でも、そこに夏音はいるはずもなく。

ゆっくりと開けた目に映ったのは、楽器や機材だった。

そうだ、今はリハーサル中だったんだ。

慌ててソファから立ち上がると、ブランケットが床に落ちた。

誰かが持ってきてくれたんだろうか。

「あ、目が覚めました?」

不意にそんな言葉が聞こえて慌てて視線を向けると、キーボードの前に鈴原さんが座っていた。

「ごめん、もしかして俺かなり寝てた?」

「ほんの15分くらいですよ。遠坂さんもハードスケジュールでお疲れですよね」

「いや、ホントごめん。……これ、鈴原さんが持ってきてくれたの?」

いくら休憩時間とはいえ、仕事中にうたた寝してしまったうえに、夢まで見てたなんて恥ずかしい。

そんな気恥ずかしさをごまかすように、俺は床に落ちたブランケットを拾って尋ねた。

「あ、はい」

「そっか。ありがとう」

「どういたしまして。でも、なんか親近感わいちゃいました」

「え?」

「遠坂さんって、いつもクールに仕事こなしてる感じだから。眠くなって寝ちゃうこともあるんだなって思って」

「そりゃあ、俺も人間ですから」

「あはは。そうですよね」

そう言ってふたりで思わず顔を見合わせて笑い合った。

一瞬にして和やかな空気が漂う。

「じゃあ、明日に向けてもうひと頑張りしようか」

「はい!」

俺の言葉に鈴原さんが笑顔で頷いて、リハーサルが再開された。


* * *


イベント当日。

朝から綺麗な青空が広がっている。

会場となるのは、主催のNテレビ局敷地内にある特設野外ステージ。

中でも一番注目されているのは、今大人気の歌姫、琴吹 愛歌だ。

大手事務所とレコード会社に所属し、発売する曲は毎回ランキング首位を獲得している。

メディア出演も多く、音楽番組や芸能ニュースで彼女を見ない日はない。

当然、今日のイベントも撮影カメラが入っている。

明日の芸能ニュースで話題になることは間違いないだろう。

メディアで注目され、芸能ニュースで取り上げられるイベントに出演すれば、鈴原さんの知名度をあげる良い機会にもなる。

だから、鈴原さん本人を始め、事務所やレコード会社のスタッフもみんな張り切っていた。

でも、現実は甘くない。

リハーサル段階から、琴吹さんだけ特別待遇。

ファンが殺到してパニックにならないように、彼女だけは局内のスタジオでリハーサルだった。

イベントが始まってからも、集まった観客はほとんどが琴吹さんのファンらしく、他の出演アーティストのライブの盛り上がりもいまいちだ。

出演を終えたアーティストは、「やっぱりみんな琴吹さん目当てなんだ」と言いながらバックステージに戻ってきている。

そして、次は鈴原さんの出番。

「鈴原さん、スタンバイお願いします」

スタッフから声がかかった。

「はい」

かなり緊張しているのが、そばにいても伝わってくる。

出演時間が短いとはいえ、明らかに琴吹さん目当ての観客の前で歌うのは相当なプレッシャーだろう。

「大丈夫だよ。鈴原さんは鈴原さんらしく歌えばいい」

そう声をかけると、

「そうですよね。ありがとうございます」

鈴原さんは少し安心したような表情になった。

「さぁ、行こう」

「はい!」

ふたりでステージに向かい、ついに本番のステージを迎えた。


* * *


「お疲れ様です~。隣いいですか~?」

少し鼻にかかったトーンの高い声でそう言いながら、グラスを片手に琴吹 愛歌が俺の隣に座った。

ここはNテレビ局の近くにあるバーレストラン。

大きな窓から夜景が見られる有名な店だ。

現在、さっきまで行われていたイベントの打ち上げ中。

イベントスタッフや関係者、イベント出演者約40名が集まっている。

「私、遠坂さんの演奏、前から好きだったんですよ~!今日初めて生演奏聴けて感動しました!」

「そう。ありがとう」

やたらテンションの高い彼女を若いなと思う、そんな自分はオヤジ化してるなと思いながらとりあえずお礼を言うと、

「今度は私のライブにサポートで参加してくれませんか~?」

琴吹さんがさりげなく体を寄せて、上目遣いで甘えたように言ってきた。

甘い香水の匂いが鼻について、思わず一瞬顔をしかめる。

「……スケジュールがあえばね。難しいとは思うけど」

たくさんの関係者がいる手前、曖昧な言い方でごまかした。

正直言って、彼女と仕事をしたいとは思わない。

この業界にいれば、嫌でも色んなウワサが耳に入ってくる。

琴吹さんに関してのウワサは、印象の悪いものばかりだ。

もちろんウワサはあくまでもウワサであって、本当のことはわからない。

だけど今日のライブを見る限りでは、ウワサは本当なんじゃないかと思えた。

確かに、ルックスは可愛いし、歌もそれなりに上手い。

歌詞も、同世代に共感されやすいものを書いている。

でも、彼女の歌からは、本当に歌や音楽が好きだという気持ちが伝わってこない。

注目されるため、売れるため、お金のため。

両親が人気アーティストということで、大手事務所とレコード会社のゴリ押しで明らかに売れ線を狙って作られた歌姫だ。

20歳という若さでこれだけ稼いで世間やメディアからカリスマ歌姫ともてはやされれば、天狗になるのもわからなくはない。

さっきも、自分が人気歌手だから人が集まったと堂々と口にしてしまっていた。

だけど、それがいつまでも通用するわけじゃない。

今は人気絶頂気だから、ワガママを言っても許される。

でも、人気に陰りが見え始めたら…世間も関係者も手のひらを返したように冷たくなる。

この仕事は一生絶頂期でいられるような甘いものじゃない。

とてもシビアな世界だ。

そのことを彼女はわかっているのだろうか。

「……鈴原さんって、どんな人ですか?」

「えっ?」

突然、鈴原さんの話を振られて我に返った。

「私、今回のイベントで初めて鈴原さんのこと知ったから。一緒に仕事しててどうなのかな~って」

どこか探るような言い方だ。

鈴原さんも最近メディアに注目され始めているから、どこか敵対心があるのかもしれない。

「鈴原さんは一瞬で聴く人の心を惹きつける歌が歌える。天性のシンガーだと思うよ」

「へぇ。すごい実力と才能がある人なんですね」

誉め言葉のはずなのに、あまり誉めてるように聞こえない。

棘のある言い方だ。

「私、ちょっと鈴原さんに挨拶してきますね」

そう言って立ち上がると、琴吹さんは鈴原さんがいるテーブルへ向かった。

鈴原さんは、同じソロシンガーの音羽さんと意気投合したようで、すでに仲良さそうに話している。

そんなふたりの間に、

「お邪魔しまぁす」

と言って堂々と入っていく琴吹さん。

物怖じせず初対面の人達の中に入っていける社交性は、芸能界向きかもしれない。

ここからでは何を話しているかわからないけれど、一瞬鈴原さんが戸惑ったような表情をしているのが見えた。

そして数分話したところで、琴吹さんは別の人に声を掛けられて、最初にいたテーブルに戻っていった。

「お疲れ様」

鈴原さんがいるテーブルに行って声をかけると、

「あ、遠坂さん。お疲れ様です」

なんとなくホッとしたような笑顔を浮かべて、鈴原さんが言った。

「さっき、琴吹さんに何か言われた?」

琴吹さんに聞こえないように小声で訊いてみる。

「…あ…“遠坂さんと一緒に仕事ができるなんて羨ましいです”…って」

「…そう…」

「琴吹さんも一度一緒に仕事してみたいって言ってましたよ」

「それ、さっき本人にも言われた。でも琴吹さんとは音楽性違う気がするし、個人的にああいうタイプは苦手だから」

それが俺の本音。

鈴原さんと琴吹さん、ふたりのライブを同時に観て、改めて思った。

音楽性も人としてのタイプも、俺は鈴原さんの方が合うってこと。

「遠坂さんも苦手なタイプってあるんですね」

「そりゃ、俺も人間ですから」

って、前にも言ったな、このセリフ。

ふと思ったら、「それ、前も言ってましたよね」と鈴原さんに突っ込まれた。

さっき琴吹さんと話していた時とは全然違う、穏やかな空気。

肩の力がふっと抜けるような、心が安らぐ感覚。

鈴原さんは、“癒し系”という言葉がピッタリかもしれない。


* * *


「お疲れ。今日のイベントはどうだった?」

打ち上げ終了後、マネージャーの一色さんが車で迎えに来てくれた。

一色さんは、今日は別の仕事があってイベントを観ていない。

「あれは、完全に琴吹さんメインだったな。お客さんもほとんど琴吹さんファンだったし」

「やっぱりそうか。まぁ、琴吹さんは今が旬の人気歌姫だからなぁ」

「でも、今日のライブ観る限りでは歌の実力はイマイチだったな。確実に両親と事務所の力だ」

「ああ、もちろんそうだろうね。関係者の間ではワガママ歌姫で有名だし。由弦、あの子には気をつけろよ」

「気をつけるって何を?」

「売れるために色んな手を使ってるって話だし、おまえのこと狙ってるってウワサもある」

だから、やたら「一緒に仕事したい」って言ってたのか。

「心配しなくても、俺は関わる気ないから大丈夫」

そう言って俺は一色さんの言葉を笑いながら軽く流した。

「……だといいけどな」

でも、一色さんはどこか不安そうにつぶやいた。