【#1】
「由弦に新しい仕事のオファーが来てるんだけど」
レコーディングスタジオの一角にある休憩室。
缶コーヒーを飲みながら、マネージャーの一色さんが言った。
一色さんは5歳上で、3年前から俺の専属マネージャーとして一緒に仕事をしている。
「新しい仕事?」
「鈴原 結音ってシンガーソングライター知ってるか?」
「いや、知らないけど」
この業界にいれば新人の情報も早く耳にする機会が多いけれど、聞いたことのない名前だ。
「オーディション番組出演がきっかけでデビューが決まったアーティストらしい。その鈴原さんの新曲のレコーディングでギターを弾いてほしいって鈴原さんが所属する事務所から依頼が来たんだ。5月の連休中にレコーディングするらしくてスケジュール的にはかなり急だけどな」
「そうだな」
「うん。なんでも、楽曲の大型タイアップが決まって、急遽レコーディングがすることになったらしい。どうする?急な話だし、断っ
てもいいけど」
「いや、とりあえずレコーディングする曲聴いてから考えるよ」
確かに急な話だけど、せっかく依頼を受けた仕事だし。
それに、知らないアーティストだからこそ、まずはどんな歌を歌うのか聴いてみたい。
「そっか。じゃあ、あとでレコーディングする楽曲のデモバージョンのデータ送るよ」
「ありがとう。今日帰ったら聴いてみます」
今日の仕事を終えて、家に着いたのは夜の11時過ぎだった。
仕事柄、家に帰る時間はいつも不規則だ。
都内にある大きなマンションの1室が俺の暮らしている部屋。
「ただいま、夏音」
リビングに飾ってある写真に向かってそう声をかける。
『おかえり、由弦くん』
写真の中で優しく微笑む彼女が、そう答えてくれたような気がした。
夏音はもうこの世にはいない。
だけど、8年経った今でも、彼女の声も笑顔も温もりもはっきりと覚えている。
きっと、一生忘れることなんてできない。
いまだに過去から踏み出せずにいる自分を変えなければと思いながら、自室にあるPCをつける。
帰ってきてからの日課であるメールをチェックをしていると、新着メールが届いていた。
確認すると、一色さんからのメールだった。
さっき話していた、鈴原さんのデモ音源のデータだ。
早速再生すると、ピアノのイントロが流れた。
そして、歌が始まった瞬間―あまりの感動に、鳥肌が立った。
今まで仕事で色んなアーティストの歌を聴いてきた。
一世を風靡した大物と言われるアーティストと一緒に仕事をしたこともある。
だけど、歌を聴いてこんなに感動したことはもしかしたらなかったかもしれない。
それくらい、彼女の歌は心を惹きつける圧倒的な力を持っていた。
耳に心地よく響く透明感のある声。
澄み渡る青空のような、どこまでも突き抜けていくようなハイトーンボイス。
大地の底から響くような力強い低音。
安定した歌唱力と、豊かな表現力。
歌が上手いというのは、間違いなくこういうことを言うのだろう。
心からそう思った。
その感動と衝撃にいてもたってもいられなくなって、スマホを手にすると一色さんに電話をかけた。
「由弦、どうした?」
「一色さん、見つけた!」
「……は? 何を?」
勢い込んでそう言うと、一色さんに怪訝そうな声で訊き返された。
「本物の歌姫!」
「歌姫? あ、もしかして鈴原さんのことか?」
「そう!彼女、本当に実力ある。感動したよ!」
「わかった、わかったから落ち着けって」
興奮して早口で捲し立てた俺を、苦笑しながら一色さんがなだめた。
「つまり、鈴原さんの件はOKってことでいいんだな?」
「ああ、ぜひ彼女と一緒に仕事したいって伝えて」
「了解」
電話を切った後も、俺は一色さんからもらったデータの楽曲を何度も聴いた。
そう、俺は一目惚れならぬ一聴き惚れをしたんだ。
鈴原 結音の歌声に―。
* * *
レコーディング当日。
「初めまして、鈴原 結音です。よろしくお願いします」
鈴原さんがふんわりした笑顔を浮かべて、礼儀正しくそう挨拶してくれた。
彼女を一目見た瞬間、似ていると思った。
顔立ちや雰囲気や声の感じが……夏音に似ている。
数秒無言で鈴原さんを見ていたせいか、不思議そうな表情になった。
いけない、今は仕事中だ。
「それでは、始めましょうか」
スタッフに声を掛けられて、早速アレンジ構想のミーティングが始まった。
鈴原さんは事前に準備していたした音源に大満足してくれたようで、レコーディングブースに入ってスタッフに音源をかけてもらいながら歌い始めた。
慣らし程度で軽く歌っているはずなのに、すでに完成されたような安定した歌に改めて感心した。
予定よりかなり早く終わったこともあり、スタッフが歌録りを提案すると、鈴原さんは再びレコーディングブースの中へ入った。
歌い出しから、さっきとは全然違う迫力に圧倒された。
「こうして目の前で聴くと、すごい迫力ですね」
「でしょう? 私達も毎回感動してるんです。でも、結音ちゃんの歌は、コンサートで聴くともっと凄いんです。歌い直しが出来ない一発勝負のステージでこそ、本領発揮するんですよ」
確かに、彼女の歌はコンサート向きだ。
聴き手を歌の世界に惹きこむ圧倒的な歌力は、生演奏でこそ活きるものだろう。
機会があれば、彼女のコンサートにも参加してみたい。
ふとそんなことを思った時、周りから拍手が起こった。
もうラストまで歌い終わったらしい。
良い歌が歌えたらしく、鈴原さんは充実感に満ちた笑顔を浮かべてブースから出てきた。
スタッフに絶賛されて、少し照れた様子の鈴原さん。
鈴原さんもスタッフのみんなも、お互い信頼し合っているのが雰囲気で伝わってくる。
微笑ましい気持ちで見ていたら、
「今日は遠坂さんのおかげで、本当にいい歌が歌えました。ありがとうございました」
と鈴原さんがとても嬉しそうな笑顔で言ってくれた。
「いや、こちらこそ素晴らしい歌が聴けて本当に感動したよ。ありがとう」
彼女の素直な言葉が嬉しくて、思わず笑顔でそう返していた。