嫌がるポピーをどうにかキャリーバッグに入れて、今日もいけの動物病院にやってきた。
 あれから餌も少し食べたし、水も飲んでる。
 待合室で、もしかしたら検査の結果もいいかもしれない、なんて期待が胸に灯る。それと同時に、期待しすぎたらだめだと律する自分もいる。いや、でも飼い主が信じてやらないんでどうするんだ。不安になってそれが真実になったらどうする。自分の気持ちに押しつぶされそうになっていると「白國さん」と静かに呼ばれた。

 小さな丸椅子に着席を促される。獣医の先生は「検査の結果ですが……」と言い始め、自分の全身の筋肉が緊張していくのがわかった。

「ポピーさんは慢性腎不全です。ステージは3。昨日の状態は尿毒症からきたものでしょう」

 慢性腎不全。ステージ3。尿毒症。その単語が耳から頭に入ってきて、指先が冷たくなっていく。

「な、治るんでしょうか」

 何を言ってるんだ。昨日もそれ聞いただろ。だけど、聞いてしまった。

「慢性腎不全は基本的に一方通行で進行します。悪化し、ステージ4になると生命維持のための集中的治療も検討しなければなりません。白國さんの保護者の方にも相談して今後のことを考えた方がいいと考えます。急ぎでなくてもいいのですが、保護者の方は病院に来れますか?」
「は、はぁ……母はいます。ですが、聞いてみないとわかりません」

 僕が緊張していたのがわかったのだろうか。
 看護師さんがそっと隣に来てくれて、僕に一枚の紙を渡す。

「これ、慢性腎不全についての説明が書いてあるの。気持ちが落ち着いたらまた読んで。不安なことがあれば病院に相談しにきてくれてもいいし、電話してくれてもいいから」
「……ありがとう、ございます」

 この日もポピーは点滴をしてもらった。
 昨日より元気になったのは確からしく、点滴は今日までにするそうだ。あとは服薬と食事療法をして症状を和らげていく方針になった。支払いはどうにか足りた。でも、いつも食べてるカリカリから餌を変えないといけないんだけど、そのお金は工面できそうにない。

 病院を出る前、看護師さんはもう一度僕の近くまできて「大丈夫? 不安なことはない?」と声をかけてくれた。
 ポピーはどれくらい生きられるのか、治療費はどれだけかかるのか、何をどうすればいいのかすべてが不安なのに。僕は「大丈夫です」と笑うことしかできなかった。


 ポピーと一緒に家に帰る。
 ポピーはまたキャリーバッグから飛び出ると、ケージの前で自分の全身をぺろぺろと舐めだした。僕はその横で、さっき看護師さんからもらった紙を読む。猫には腎臓病が多いことや、病気で現れる症状について細やかに書かれている。
 腎臓病の進行にはステージとよばれるものがあって、一番軽いのがステージ1、一番重いのがステージ4とも書いてあった。ポピーはステージ3だから、腎臓の機能はかなり悪いのだろう。発症後の生存期間は中央値でおおよそ2年弱。ステージ4になると生存期間は100日くらいだそうだ。

 その数字を見た瞬間に、ポピーが死に直結するという病気なんだという実感が急に湧いた。
 鼻の奥がつんとして、目が熱くなって、数字がぼやけて、僕の涙が用紙に落ちていく。

 父親が家から出ていったときも、貧乏が原因でいじめられたときも、家の電気やガスが止まっても、泣くことなんてなかった。
 それなのにポピーのことになったら、なんでこんなにも涙が出てしまうのだろう。
 
「ポピー、死んじゃ嫌だよ」

 そう僕が呟くと、腕に柔らかいものが触れる。
 ポピーが僕の腕に、自分の額をこつんと当ててているのだ。

「ポピー……?」

 ポピーは鳴きは出さず、口だけを静かに開ける。エアニャーだ。
 そしてゴロンと床に寝転がり、「撫でて」とでもいうように僕に甘えてみせた。

「よしよし、かわいいね」

「かわいいね。ポピー」

 ポピーの額から背中、お腹、あご、全身を優しく撫でていく。
 涙は止めどなく溢れる。

 ポピー、ポピー、気づくのが遅くてごめんね。

 僕が今まで泣かずにいられたのは、ポピーのおかげだったんだね。
 ポピーの存在に僕はいつも助けてもらってたんだ。
 
 夕方のオレンジが少しずつ暗くなる。
 部屋の温度が冷たくなって、ポピーの体のぬくもりがはっきりしていく。
 このぬくもりを守れるのは、僕だけなんだ。