大嫌いなあの子とシェアハウス

 空になったお皿をミキがすっと持ち上げて、おかわりを取りに行こうとする。
 さすがにもうお腹いっぱいだ。
 ミキの手を掴んで止めれば、驚いた顔をした。

「もうお腹いっぱい?」
「いっぱい」

 ぽんっとお腹を叩けば、良い音がする。
 正社員で働いていた時は、実際もっと食べていたと思う。
 ミキは「そっか」と小さく呟いてから、うんうんと頷いた。

「なに?」
「もっと大食いだったのになぁと思って」
「食べさせがい無くなっちゃったら、追い出される?」

 ふと不安になって口にしてみれば、ミキは髪を振り乱して首をブンブンと横に振った。
 そして、私の空のお皿をテーブルに置き直して、目の前に座る。

「出ていくとか言わないで」

 まるで恋人に縋られてる気分になるような、言い方だった。
 出ていくつもりはさらさら無いし、こんなに条件のいい部屋は見つけられないだろうし。
 新しい正社員の職もまだ、見つけられていない。

「出ていくわけないじゃん。おいしいご飯が食べられて、キッシュがいて、こんなに安い家賃でいいんだよ?」
「サトが居なくなったら、私また我慢しなくちゃいけなくなっちゃう」
「私が来るまでは、料理どうしてたの?」

 疑問が浮かんで問い掛ければ、ミキは目を逸らす。
 答えにくいのだろうか。

「いっぱい食べられる彼氏を作ってた……」
「えー、えぇ?」

 そういう付き合い方もありなのか。
 いや、ありじゃないから、こんな言いにくそうなのか?

 恋人が居たことがないわけではないけど、経験は多くない。
 それに、あまり好きと言う気持ちも分からなかったから、それで良かった。

「でもみんな最後には、私の料理に殺されるって逃げちゃって」
「ひっどい言い方」
「でしょ? 塩分だって、油だって気にしてるんだよ! 量が多いだけで」

 ミキは私の言葉に大きく頷いて、うるうると瞳を潤ませる。
 これで今までの食べる役の彼氏を捕まえてきていたんだろう。

「もうね、生きがいなの人に食べさせるの。ストレス発散もあるけどさぁ」
「ミキのごはんは、本当においしいもんねぇ」
「あ、珍しいデレじゃん」
「うっさいな」

 ぷいっと目をそらせば、キッチンに入れてもらえなくて拗ねてるキッシュが目に入った。
 小さく呼べば、ぴくりと耳が動く。

「キッシュ、おいで」

 近くの棚のおやつを取り出せば、ガサガサという音にそろりと近づいてきた。
 ミキが飼ってるのに、私ばかりおやつをあげてるからか、懐いてくれていると思う。

「なーん」

 トンっと軽々しく、私の腕めがけて飛び上がる。
 キャッチすれば、ふわもこの毛が腕に触れた。

「なーん」

 おやつを出して口に入れてあげれば、必死にちゃむちゃむと食べる。
 そういえば、ミキはキッシュのごはんは作らないのだろうか?
 食いしん坊だし、まぁ、人間ほど大量に作るわけにはいかないけど食べてくれる相手ではある。

 振り返って話しかけようとすればいない。
 ミキはいつのまにか、洗い物に行ったようだった。

「キッシュはえらいこですねぇ」

 ふわふわの毛に顔を埋めれば、非難するように「ヴァッ」という鳴き声が聞こえた。
 吸うのは許されないらしいので、すんっと一回だけ息を吸い込んでから顔を離す。
 パタパタと足音を鳴らして戻ってきた、ミキの方を振り向く。

「キッシュのごはんは?」
「今日はあげたよ」
「そうじゃなくて、作ったらいいんじゃない?」

 ミキは、パチパチと瞬きをして、一瞬だけ悩んだ。
 そして、私の手の中のキッシュをわしゃわしゃと撫でてから、ふうっと一息ついた。

「グルメなのよキッシュ」
「あー、カリカリは決まったやつしか食べないもんね」
「好きなものは好きみたいだけど、嫌いなものは本当に見向きもしないからこの子」

 キッシュに「ねっ」と話しかけながら、顎の下をうりうりと撫でる。
 キッシュは満更でもなさそうな顔で、「うなーん」と鳴いていた。

「今日は一緒に寝ようね」

 キッシュに私も話しかければ、ぷいっと顔を背けられる。完全におやつをくれる人としか、認識されてないなこれ。

 おやつを食べ終わったら、私の腕をペンっと蹴り上げて、手から飛び降りていく。
 そんなとこも、可愛いから許す。

 ちゃっちゃっとフローリングの上を、音を鳴らしながら走っていく後ろ姿さえ、可愛いから。
 なんでも許せてしまう。

「ココア淹れたから飲もうよ」

 ミキは今日は、まだ話し足りないらしい。ピンク色のマグカップと、私の猫が描かれたマグカップがテーブルに置かれる。

 スマホでゆったりとした音楽を掛けて、ミキはゆっくりと揺れた。音楽を聴くのも癖になってきたな、と思う。

「なんかさぁ」
「うん?」

 あつあつのココアをちびちびと、飲み込む。
 ミキは遠い方を見つめて、ゆらりゆらりと揺れながらつぶやくように、選ぶように言葉を続けた。

「婚約破棄しちゃったらしいの、同僚がね」
「それは……しんどいねぇ」
「しかもその意味がわからないらしくて、まぁそれはいいんだけど」

 パンっと手を叩いてから、ふぅふぅとココアを冷ます。
 唇を突き出した姿さえ美しいと思った。
 私は、実はミキのことがずっと嫌いだった。
 それは、コンプレックスだったと今ではわかるけど。

「家族が欲しかったのに、今更捨てられてどうしたらいいかわからないって、初めて泣いてるところを見たの」

 それは、私だったらなんと声をかけていいかわからなくて、きっと黙り込んでしまう。
 優しい言葉も、いい声かけも、元気を出させる術も、持ち合わせていない。
 ミキだったら、明るい声をかける気がする。

「何も言えなくなっちゃってさ、ただの同僚だから、もっと軽く励ませると思ってたんだけど。こうズーンっと凹んじゃってさ」
「なんで?」
「ずっと羨ましかったんだよね、その子のこと。その子キレイなのよ。それに、イキイキしてたのいつも。いい女なの、ほんとに」
「イキイキ、ねぇ」

 私にとってミキがいつだって、イキイキしてるように見えるけど。
 ミキにとっては、その子が羨ましいんだろう。
 でも、ミキがそんなことを思うなんて、想像もしてみなかった。

 一緒に暮らし始めて、知ることばかりで、驚き疲れが起きそうだ。

「だから、私の憧れが凹んでるのが、思ったよりもショックだったみたいで。今は全然、もう立ち直ってるんだよその子も。もう吹っ切れた! って、ね」
「ふぅん?」

 珍しく要領の得ないミキの話に、小さく相槌を打つ。
 そして、少しだけ冷めたココアを飲み込んだ。
 じわりと、甘さが口の中に広がって、身体が温まっていく。

「だからサトと再会して、割と強引に誘ったのは自覚してる」
「なに、そんな前の話なわけ?」
「そう、サトにも話しておきたいなって」

 ミキはもしかしたら、家族が欲しかったのだろうか?
 実家に帰れば、仲の良い家族がいるのに?

 ミキの家庭が仲良しなのは、有名だった。
 大学内でも噂になる程。
 若々しくて、友達のようなお母さん。
 包容力のあるお父さん。
 そっくりな弟たち。
 幸せそうに歩いているのを見かけたこともある。