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 ミキの家は、いつだって清潔だった。
 時々キッシュの毛が服にくっついてるくらい。
 毛まで可愛いとは、猫とはなんと恐ろしい生き物か。

 そんな馬鹿げたことを考えながら、次の職をどうしようか考える。
 正社員を辞めてから、逃げ癖が付いてしまったようで、飲食店のバイトからも、また逃げてしまった。

 窓の外は薄暗い夜の色を、してる。
 はぁあとため息を吐き出せば、ふわりとカレーの香りが漂ってきた。

 キッチンにパタパタと飛び込めば、締め出されたキッシュが私の足元で「んにゃ」と泣き喚く。
 どうやらキッチンの主に追い出されたらしい。

「ごめんね」

 よしよしと頭を撫でれば、私も入れてくれないことに気づいたキッシュはぷんっと顔を背けた。
 危ないから閉め出されてるというのは、こちらの事情だし。
 キッシュが拗ねてしまうのもわかる。
 あとで、何かでご機嫌を取ろう。

 キッシュが入らないようにサッと扉を開けて入れば、キッチンにはカレーの匂いが充満している。

「あれ、起きてたの?」
「ニートですから」
「夏休み期間でしょ」
「で、今日はなんで作ってんの」

 大鍋いっぱいのカレーをぐるぐるとかき混ぜながら、ミキは汗を額から垂らす。
 何人前あるだろうかは、考えてはいけない。

 そして、時々作るという最初の約束は……私の想像よりも高頻度だった。
 ほぼ毎日のようにミキはキッチンに立っては、料理を作る。
 この量の料理は、滅多にないけど。

 しばらくは、カレー三昧だなと覚悟しながら鍋を覗き込む。
 シーフードカレーだったようで、ホタテやエビ、イカなどが目についた。

「聞いてくれる? あ、待って、よそってからにしよう」

 ぐつぐつと煮立つ鍋から、カレーをよそう。
 私は二人分のご飯をお皿に盛って、スプーンを吐き出しから取り出した。
 食卓に運べば、カレーの匂いにちょうどお腹が返事をする。

「よし、いただきます」

 スプーンを持ったまま両手を合わせてから、一口。
 スパイシーで、シーフードのうまみが溶け出してる。
 辛味はあるのに、後から旨みが口の中に広がって、辛さを抑えてくれている気がした。
 ホタテは、ほろりとなるほど柔らかいし、エビはプリッと弾けるようだ。

 二人で向き合いながら、とりあえず一皿分完食すればミキはごくごくと水を飲み干す。
 そして、二人分の皿を持ってキッチンに向かった。
 何も言わずとも、私のお腹の入る量を察してるようで、おかわりを持って戻ってくる。

 私の分だけ。

「食べながらで良いから聞いてよ」
「はいはい」

 決まりになってしまった私たちのやりとり。
 ミキのストレス発散はひたすらに野菜を切り刻むことや、無心で揚げ物をすることらしい。
 時々お菓子も異常な量作るけど。

 私は舌鼓を打ちながら、ミキのストレスの元凶を聞く。

「彼氏いないなら、俺がなってやるよとか、上から目線の理由を教えて欲しいー! こっちからお断りですー!」

 ふざけた口調の割に、眉間に皺が寄っている。
 最近は、毎回同じ人だ。
 どうやら会社の同僚に言い寄られてるようで、しかも何故か上から目線で。

「三十にも近い女を引き取ってやる俺、みたいな言い方ほんっと腹立つ。こちとら、結婚するつもりも、付き合うつもりもございませんって、だっる!」
「そうだねー」
「しかもだよ? 後輩から見せてもらったんだけど、後輩にも全く同じようなメッセージ送ってるの、あわよくばが強すぎて、ますます無理無理無理!」
「うんうん」

 カレーを一口分掬って持ち上げれば、チーズが忍ばされていたらしい。
 とろーりと白いチーズが、伸びていく。
 ますますまろやかになったカレーは、いくらでも胃の奥に入りそうな気がした。

「彼氏とかいらないわけ。私には、サトがいるってーの」
「そうだねぇ」

 うんうんと相槌を打ちながら、次はイカを食べる。
 むにっとした食感で、甘い玉ねぎが絡まっていた。
 やっぱりミキの料理はおいしい。

「それでね、お断りしますって笑顔で言ったら、遠慮しなくて良いですって、ずっと嫌だってこっちは言ってんだろ、勘違いやろーが」
「うんうん」
「はぁ、ずらぁぁあっと言い並べたら、ちょっと治った」

 ふぅっと一息ついて、お水をまたごくごくと飲み干す。
 ミキのこんな姿、最初はびっくりして、手を止めていた。
 それでも、今では慣れて、適当な相槌を打つだけになっている。
 そもそもミキは私からの答えは求めてないし、頷いてくれるだけで良いと最初から言っていた。

「でも、意外だったなぁ」
「なにが?」
「ほら、大学時代は、彼氏命みたいな感じだったじゃん」

 いつも彼氏と一緒に行動していて、彼氏がいない日だけ、友達と過ごしていたようなイメージだった。
 私がまだ、ミキと同じグループに居たときの記憶だけど。

 ミキは、全然わかってないと言う顔で、私をじとっと見つめる。

「あれは、あの時の彼氏が束縛ばっかりしてきて、一緒にいないと面倒だから一緒に過ごしてただけ」
「そうだったの?」

 ミキの彼氏とも同じ学部だったから、何度も顔を合わせてるはず。
 それなのに、全く顔が思い出せないのは、私が興味なかったからだろうか。
 多分それを口にしたら、ミキはゲラゲラ笑って、嬉しそうにすると思う。

「大学生くらいまでって、彼氏がいるのが当たり前でしょ」
「私はいなかったけどね」
「サトは変わり者じゃん」

 はっきりと言われると、ちょっと心臓が痛い。
 これでも、それなりに普通の大学生に擬態してるつもりではあったのだ。

「変わり者を隠してるつもりではあったけどね」
「全く隠せてなかったけどね?」
「言うと思ったわ」
「ごめんごめん、いい意味で」

 ミキは「いい意味で」といえば、なんでも許されると思ってる節がある。
 事実、許されてきたんだろう。
 愛嬌の良さとコミュニケーション能力で。
 まぁ、怒るつもりもないし、変わり者に見えていたのは、事実だろうから良いんだけど。

「で、だから、とりあえず私も付き合っておこうかなぁくらいのね、感覚だったわけ」
「いがーい」
「むしろ、サトがこんな話す方が私は意外だけどね」

 ぽつりとミキがこぼした言葉に、ふっと笑う。
 私だって意外だったよ。
 こんなに話せる相手がいるだなんて、思いもよらなかった。