ぽつぽつ、ぱらぱら。足元を見たらアスファルトが見る間に水玉模様になっていく。そのあとはもう、すごい勢いで大粒の雨が落ちてきた。

「うわあっ、雨」

 朝から雲行きが怪しかったけど、天気予報よりずっと早い降り出しだ。
 真秀(まほろ)は慌てて本の入った袋を胸に抱え走り出す。中身を絶対に濡らしたくなかったので、目についた喫茶店のひさしの下に逃げ込んだ。
 間一髪、本も自分も守れたが、傘がないのでは当分ここで立ち往生だ。厚く垂れこめた鈍色の空のせいであたりはどんどん暗くなっていく。風もどんどん激しさを増してきた。まだまだ暑いと思っていた秋空は気まぐれで時折風に乗って当たる雨が冷たくて堪らない。屋内に入りたいなあと、後ろを振り返るとそこには店のショーケースがあった。

 いかにも喫茶店らしいパフェや色鮮やかなクリームソーダにナポリタンなんかの食品サンプルが並んでいた。朝昼兼用のつもりでパンを少しだけ食べてきただけだからお腹がクーっとなる。そのままガラスに映った自分の姿を見た。
 中学生でも通るかもしれない目ばかり大きな童顔に、影を落とす重たい前髪。長袖シャツにダボっとしたズボン。スニーカーはおしゃれ雑誌を見て親に強請って買ってもらった通学用だが、今日のファッションでイケてる部分といったらこれぐらいだろうか。どう見ても高校生かそれ以下にしか見えない。残念ながら分煙していない喫茶店は未成年は入れないのだ。

 店に入るのは諦めて、真秀は空を見上げた。どのくらいで止む雨なのだろう。袋を片手に抱え直したまま、 真秀は雨雲の行方を確認するためスマホの画面をスクロールする。残念ながら当分止みそうもない。土曜日の今日、待ち望んでいた新刊コミックを手にしたら即帰宅して、最新刊に目を通したのちすぐ全巻を読み返すつもりだっだ。ひっそりため息をつくと、斜め後ろでカランっと扉についたベルが鳴った。
 音に反応して首を巡らすと、喫茶店のガラス戸を開け外の様子を伺う端正な横顔に見覚えがあり、真秀は「あっ」と大声を上げかけて慌ててそれを飲み込んだ。
 
(日比野君だ。なんでこんなところに?)

 日比野侑斗は今年入学した高校でクラスメイトになった少年だ。長身で何等身だろうと思う程頭が小さく、大人びて完成されたルックスをしている。目鼻立ちも整っていてとにかくビジュがいい。いわゆるクラスのカースト上位で賑やかな集団の中にいても、すんっと澄ましたクールな雰囲気が逆に人目を惹いていた。
 だが真秀にとっての彼の印象はそれだけではない。入学式後、教室で間近で彼を見た時、心臓が止まるかと思った。なぜなら彼はまさに今真秀が胸に抱えている漫画の推しキャラ、アイドルの『アキ』とものすごく似ているのだ。
 『アキ』は『ボーイズ☆ステージ』というアイドル漫画の中でデビューした七人組の一人で、主人公『ミツキ』とはオーディション番組の時から苦楽を共にしてきた相棒的な存在だ。
 歌もダンスも初心者ながら、熱い思いでアイドルを目指すミツキにとって、ライバルでもあり一番の理解者でもある。親元を離れての寮生活の中で主人公がくじけ迷いそうになった時、いつでも傍に居て励まし助けてくれる。だがアキにとってもミツキは同じ夢を目指す同い年の仲間で、二人は固い絆で結ばれているのだ。
 その推しであり憧れのキャラと真秀は見た目だけで勝手に日比野を重ねていた。

(やばい、ああ、今日もイケメンがすぎる。なんでこの顔でアイドルデビューとかしてないんだろ。世の中に見つけられてないの奇跡すぎ。特典しおり欲しさにわざわざ遠くの本屋まで来たかいがあったとしかいえん。まさか最新刊買った帰りに日比野君に会うとか、ボク得すぎて死にそう)

 少女漫画からそのまま抜け出てきたような、目元が涼し気な綺麗系な顔が似ている。だが骨格はしっかりしていて長身でスタイルがいいところも似ている。日比野の方が真秀より席が前の方だから、ちらちら見てもバレにくいのが嬉しい。だからいつも制服風ステージ衣装を来たアキが近くにいるという妄想でつまらない授業も乗り切っている。

 漫画のような偶然の出会いに真秀は瑞々しく柔い頬をぽおっと上気させ、密かに心をときめかせていた。
 日比野は喫茶店の扉から雨の様子を眺めているようだ。一瞬声をかけようかと思ったが迷って止めた。
 陽キャ集団にいる日比野と陰キャまでは行かないが平凡な真秀とでは同じクラスメイトとはいえ顔見知り程度、取り立てて親しいわけではないのだ。
 だが教室にいるときと違って、誰もいないこのほんの一瞬だけは彼が自分だけの為にそこにいるような錯覚を起こす。

(じっと見られるのってきっとやだよな。だけど今だけ、この一瞬だけだから許して)

 そんな風に心の中で詫びながらも、額から顎のラインまでが超絶に綺麗なその横顔をそっと盗み見た。シンプルな服装にエプロンを付けただけの姿でも、まるでこういうドラマの一部を見ているみたいに様になっている。
 絵になる人というのは何をしていても、どこにいてもこんな風に人の心を打つのだなあと、真秀は妙に感心してしまった。
 しかし至福の時間はあっけなく終わりを告げた。不意に突風が吹いて、店の前の看板に置いてあったメニューがかかれた看板が凄い勢いで音を立てて倒れた。風の勢いに押された看板は止まらない。倒れた状態で、がりがりがりと音を立てて信号の方まで動いていく。

(やばい。車道に飛んでったら大変だ)

 真秀はスマホをポケットに押し込むと、濡れるのも構わずに看板を追って駆け出した。短時間で水たまりができるほど局地的な大雨だ。真秀は先日下ろしたばかりのスニーカーでバシャバシャとアスファルトを蹴り、看板をまずは片手で抑え込むと、後ろから追いかけてきた日比野が隣から助太刀するように看板に両手をかけた。
 もうその場所は横断歩道の直前で、往来する人に当たったりはしなかったものの、赤信号で止まっている車にはあと一歩の距離だった。

「危なかったあっ」
「危なかった。ありがとうございます」

 二人同時に同じ言葉を言って顔を見合わせる。日比野が大きな目を見開いて「佐倉?」と呟かれた。

「ひゃっ、あ、ああ。はいっ」
(うそ! 僕、推しに認知されてたあっ) 

 流石に顔は知っているとは思っていたが、きちんと名前を憶えて貰っていたとは驚いた。
 どんな顔をして何を言ったらいいのか分からず、真秀は大きな目をしばたたかせながら「こんにちは」とだけ呟いた。
 身体を起こしながら木の小さな看板を持ち上げた日比野は真秀に向かって手を差し出した。

「立てる? ずぶ濡れだな」 

 そう言われて初めて自分が咄嗟にびしゃびしゃの地面に片膝をついてしまっていたと気が付いた。真秀はこくんっと頷く。
 日比野に向かって手を出そうとしたが、地面について汚れた手を出すの事が気が引け躊躇する。すると日比野がもっと腕を伸ばして迷いもせずに真秀の手を掴んだ。

「きて」

 そのまま力強く引き起こしてもらうと手を引かれ、喫茶店まで駆け足で戻ってきた。

(なに、このシチュエーション、漫画じゃん)

 なんて思って真秀は自分より大きな手とその先の綺麗な背中を穴が開くほどじっと見つめてしまう。
 日比野が扉を開け、そのまま中へと入っていこうとしたから、真秀はびっくりして泥除けのマットの上で足を止める。怪訝な顔で振り返る日比野を見上げて、真秀はおずおずと上目遣いに呟いた。

「喫茶店って未成年は入っちゃダメなんじゃ……」
「いいって。今、閉店作業中だし。客は誰もいないよ」

 言われるがまま初めて足を踏み入れたそこは、テレビドラマで見かけるような典型的な喫茶店だった。初めて入る空間が物珍しくて、真秀がきょろきょろと店内を見渡す。実際見たことがあるわけじゃないけれど、きっとこれが昭和風というのかもしれない。どこか古めかしい匂いと、染みついたたばこの香りが店全体に漂っている。大人の世界に急に迷い込んだ気がした。
 煉瓦色のソファーが並び、くすんだ白い天板のセンターテーブルの上には小さなガラスの器に赤い花が差してある。見覚えがあると思ったが、店の前に咲いていたゼラニウムだと納得した。

「クシュっ」

 結構濡れてしまって、雨のせいか気温がぐっと下がったようだ。薄手の長袖一枚では寒い。すると日比野がすっと背後に回った。

「これ着てて」

 ふわっと身体が温かなもので包まれてから、それが日比野がさっきまで着ていたパーカーだと気がつく。
(イケメンかよ……、なんかいい匂いするし。流石モテ男は違う)
「ありがとう」

 ダボダボのパーカーに袖を通し、暫し推しから手厚いファンサを受けたような心地でぼーっとしていたら、日比野はいつの間にかどこをどう通ったのかカウンターの向こうにいて「こっち来て」とタオルを手にして真秀を呼び寄せた。

「頭、とりあえずこれで拭いて」

 カウンタの前まで行くと、どこか知らない会社の名前と電話番号が書かれたタオルをカウンター越しに手渡された。その後すぐ、目の前に氷の入った水とおしぼりとを置いてくれた。濡れて汚れた手を拭くと、遠慮なくコップに口をつける。ただの水ではなくレモンの爽やかな香りが口の中に広がる。
 ほっとして席に座った瞬間、真秀は抱えていた袋の事を思い出す。血相を変えて袋の中から単行本と雑誌とを取り出してカウンターの上に広げておいた。
 単行本はビニールがかかっていて無事といえたが、雑誌の方は角が水が沁み込んで、慌てた拍子に真秀の髪からもさらに表紙の『アキ』が泣いているみたいに雫が垂れてしまった。

「あああ、やっぱ濡れちゃってる」

 自分の事は二の次にして必死に雑誌の表紙を拭いていたら、カウンターの向こうから長い腕がぬっと伸びてきて、頭の上をふわっと乾いたタオルで覆われた。

「風邪ひくだろ。まず自分の頭ふけって」

 視界がタオルで遮られたから分からないが、感覚的に大きな手で頭を両側から覆われてわしゃわしゃと頭を拭かれている。クールな見た目と違って、意外と面倒見がいいようだ。そういえば先ほど推しに手を引かれてここまで来た上、今は丁寧に頭を拭かれている。優しい仕草にぼっと頬が熱くなる。
 表紙をタオルで包むと手を止め、頭を差し出しされるがままになっていたら「うちのワンコみてぇ」と朗らかに笑われた。

「ひ、日比野君……」
「あー、よかった。お前、俺の名前知らないのかと思ってた」
「し、知ってるよ。同じクラスになってもう半年経つだろ」
 食い気味に応えてタオルを頭に載せられたまま顔を上げたら、日比野自身も頭にタオルを載せた姿でこちらを流し目で見た。まるでコミック4巻のシャワー上がりの色気漂うアキみたいでドキドキが止まらない。
「看板止めてくれて、ありがとな。なんで早く看板しまわなかったんだって、姉貴にどやされるとこだった」
「姉貴?」
「ここ、姉貴の嫁ぎ先のじいちゃんの店。普段閉店した後の掃除に姉貴が手伝いにきてんだけど、甥っ子が熱だしたっていうから俺が代わりに来たんだ」
「そうなんだ」

 日比野は何気ない仕草で濡髪をかき上げる。額が出ているのがまた、いつもと違ってちょっと雄みがましてワイルドだ。

(ひう、濡髪、ちょっと乱れてた姿もカッコいい)

 思わず声に出して色々称賛の声を上げてしまいたくなったが、ぐっとこらえた。

「それ、ごめんな。看板追いかけた時に濡れちゃったんだろ?」

 明らかにファンシーな色合いの漫画雑誌の表紙が視界に入って違った意味でお腹の当たりがひゅっとなった。

(や、やばい、すげぇ見られてる。少女漫画が好きって引かれてるかも)

 雑誌もそうなら単行本もどこをどう見ても少女漫画だ。土曜日の男子高校生が大事そうに抱えていたアニメ漫画グッズ専門店の袋の中に少女漫画、言い逃れができると思えないが、イマジナリー妹をでっちあげてここを乗り切るか、はたまた母のおつかい、などと苦しい言い訳が頭の中をぐるぐる巡る。まさか君に似たイケメンが登場する少女漫画を愛読して日々ときめいています、なんて口が裂けても本人の前では言えなかった。ちょっと間があって、日比野が長い指ですっと表紙の端っこを指さした。

「もしかして日比野も『スーパーノヴァ』好きなの?」

 そこには実在するボーイズグループの写真が載っていた。

「え、ひゃい?」
「え、あ。違うか。俺、勘違いして、はずっ」

 照れで口元を拳で覆う仕草も格好が良くて、新しいスチルを見たみたいにそっちに感動してしまったが、よくよく表紙を見たら確かに『スーパーノヴァ』が載っていて納得した。
 漫画『ボーイズ☆ステージ』の作者の先生が大人気ボーイズグループ『スーパーノヴァ』の大ファンで、最近など絵柄も彼らの顔面に寄せているのでは、と噂が囁かれていたほどだ。今月号では単行本の帯と雑誌のシールを一緒に送ると有償ではあるが彼らと『ボーイズ☆ステージ』のアキとミツキが一緒に載った新規絵のクリアカードがもらえるのだ。真秀は普段は単行本派だが今回それ欲しさに雑誌を買ったといってもいい。

「あ? あ、ああ。『スーパーノヴァ』」

 一瞬意外な相手からその名前を出されたせいで、何を言われたのか分からなかったが、色々多い情報量を整理し、気持ちを落ち着けるために濡れた顔までタオルでごしごしっと擦ってすっきりさせてから顔を出した。

「『スーパーノヴァ』好きだよ。楽曲どれもいいし、デビュー曲のあのエモい奴とかプレイリストの先頭にいつもおいてて通学中聞いてるよ」
「俺もいつも最初にあれきく」
「おんなじだあ」

 まさかこんなところで憧れの相手との接点があるとは思わなくて、さっきまで声をかけようかどうかと悩んでいたことなど忘れて真秀は意気揚々としゃべり始めた。普段はこういう風に食い気味に話すとひかれると思って抑えているのだが、今日はもう嬉しくてテンションが上がってしまった。

「みんな背も高くて顔も爆イケだし。ダンスのスキルもすごいよね。年上のメンバーも年下のメンバーもみんな仲良くて和気あいあいとしているの和むし、最近CMでも雑誌でも見ない日ないし」

 すると日比野が教室では見たことがない程、クールというより人懐っこい笑顔を浮かべた。

「そうなんだよ。日本だけじゃなく、世界中にファンが増えてるし、こないだ出たアルバムのコンセプトも神がかってたし、次のツアーでこっちきたら、絶対に行こうと思ってたんだ。こんな身近に『スーパーノヴァ』の話できる奴がいるとは思わなかった。俺、実は『ステラ』なんだ。小さい頃から姉貴と母親の影響で色んなグループのコンサート行くことが多かったんだけど、最近じゃ家族で『スーパーノヴァ』に嵌ってる。オーディション番組の時から」

 ステラとは『スーパーノヴァ』のファン名のことだ。日比野が本物のファンなのだと納得してしまった。それと共に生き生きと目を輝かせて好きなものの事を語る日比野に触発されてしまった。高校の同級生には少女漫画が好きなことを黙っていようかと思ったのだが、思わずうんうんと大きく頷いた。

「実はさ、僕は『ボーイズ☆ステージ』から『スーパーノヴァ』知ったんだよね。先生が『スーパーノヴァ』を輩出したオーディション番組からヒントを得て漫画を描いたって言ってたから、デビューまでの道のりが分かる番組も全話みたし。最後とか泣きそうになった」
「俺もたまに見返すほど見てる。こないだオーディションの時の番組の主題歌の曲やったSNSライブみた?」
「見た! もうさ、レイ君あの頃より、パフォーマンスすごく上手くなってたよね」
「身体が大きくなってて、ボーカルも安定してたな。成長期だし」
「だよね。番組参加した頃って、今の僕たちと年同じかもしかしたらちょっと下だよね」
「たしか、そう」
「僕が同じ立場だったら、あんな風に年上のライバルたちの中で一発勝負のライブにかけて、ふるい落とされないように必死で練習してってできるのかなあって思う。見ると胸がぎゅうっと苦しくなったり、熱くなったり。仲間がいるっていいなあ、夢を追いかけられるっていいなあって思うんだ。特にさ、絶対的に相手を信頼し合ってる、アキとレイとか、他にも相性のいい二人の仲良しライブとかああいうの、見守るのが好き。なんか胸がぽかぽかしてくるんだ。で、すげぇ羨ましくなる。僕もああいう人が欲しいなあって思う」

 高校に入ってからも中学生の時も、そこそこ仲の良い友達はいたけれど唯一無二の存在というのはいなかった。
 学区域ぎりぎりの中学校に入学したせいもあって、周りはもう関係性が出来上がっていたからというのもあるだろう。部活に入らず、打ち込めるものがなかったり、そこで仲間づくりができなかったせいもあるかもしれない。
 今も昔も小さな教室の中で、その時だけなんとなくしゃべる友人達とは話が合わず、趣味の仲間ができたこともなかった。
 ただ真秀は小学生の頃から地元のダンスサークルには所属していて、女の子ばかりのチームの中で地域のイベントで踊ったりはしていた。そこで女の子たちが嵌っていた『ボーイズ☆ステージ』を貸してもらい、ドはまりしたのだが。それも受験生だった去年は一年休んでしまい、ごく最近復帰したばかりだ。そこで気の合う男子メンバーがいてくれたなあと思う。

「分かる。俺もそう思う。佐倉が言葉にしてくれて良く分かった」
「分かる? あーよかった。伝わって。でも、日比野君はさ、クラスの中でも陽キャ集団に馴染んでるじゃん。女子とも気楽に話してるし。僕はちょっとあのノリ無理。楽しそうだなって思うけど、中には入れない」
「馴染んでるように見えるか? 会話が合わなくて、いまいちかみ合わんから喋ってないだろ。あいつら二言目にはやりたいだの、女子と遊びに行くからお前も来いとか」
「あー。確かに。日比野君来たら女子の参加率高そう」
「面倒だろ、そういうの。だからまあ、興味ある話しか喋らん」
「なるほど。だから無口なんだ。ずるいな、イケメンは。喋んなければクールっていって女子にキャーキャー言われて、男子に一目置かれるなんて、顔面強つよのやつはこれだから」
 日比野がもう一度すっと腕を伸ばしてきた。タオルを受け取ろうとしているのかと思って顔ごと差し出したら、頬を指の背でなぞられた。
「ひぎゃ?」
「なんて声出してんだよ。ここ。さっきタオルで擦っただろ。ちょっと赤くなってる。あんま柔らかくないタオルでごめんな」

 すまなそうに少しだけ眉をひそめてそんな風に言われたら、顔面の暴力にはたかれて血でも吐いてしまいそうになる。

(前言撤回! 顔面だけじゃない。多分こういうこと無自覚に女子にしてるんだろうな。沼だ、沼。こいつまだ高一のくせして沼男要素がありすぎ)

 だが、嫌じゃないから困ってしまう。多分真秀はちょっとだけ、女子より男子の方が好きだという自覚が自分でもあるから重ための前髪で表情を隠そうと俯いた。

「お前こそ大分喋るとイメージ変わるな。すげー喋るじゃん。面白い」
(しまった。べらべらと喋りすぎた)

 中学も高校も当たり触らず、人から嫌われることもなければ取り立てて死ぬほど好かれることもなく、どこにでもいそうなモブキャラとしての自分を自覚してきた真秀は、今初めて自分自身の持ちうる全てでもって、人と喋っている気分になった。

「……なんかねずっと周りの男子でこういうの話せる相手って中々いなかったからさ。女子とは喋れたけど、女子は大体女子の友達が一番になるだろ。男子はなんか、みんなもっとなんかけっこう生々しい恋バナばっかしてるし、少女漫画好きとか言えなくて。あんなの読んで面白いのとか言われたら……、俺怒って相手との関係悪くなるかも」
「佐倉って大人しいんだかはっきりしてるんだかわかりづらいね」
「よく言われる。明るいんだか暗いんだかわからないって。でもそんな風にどっちかで割り切れないだろ、人間は」
「急に哲学的だな。お前面白い」
「あー、でました。面白い奴貰いました。イケメンがいうとやばすぎる」
「あはは、なんだそれ。でもさ、いいだろ。別に今どき少女漫画が好きなぐらいで誰も引いたりしないだろ。引くならそいつが駄目だって」
「でもさ、『ボーイズ☆ステージ』はさ、ちょっとあの……」
 少年同士の熱い絆を描いているというとそれまでだが、お互いの事を想いすぎて時には嫉妬をしてしまうことまである描写が、いわゆる少しだけBL寄りだと言われているのだ。少女漫画でさらにBL要素にも萌えて居るとは流石にちょっと言いにくい。説明が難しい。男子高校生が少女マンガ好きでBL要素に萌えているって、ひっくり返って寝転んでまた立ちあがって右向いて、見たいにややこしい。

「BLっぽいってこと? 別に姉貴の部屋いったらそういう漫画沢山あったから慣れてる」
「ああ、そうそう。そうなんだけど……。その単語日比野の口から聞くとなんか衝撃強すぎ」
「なんで?」
「だってさ、だって……」

 改めてまた顔を見たら、まるで自分が『ミツキ』で『アキ』に話しかけられているような妄想に囚われたのはオタクの妄想力のたまものだ。まあミツキみたいに『きゅるん』と擬音が付くような顔では日比野を見つめていないと真秀は思うが。

「と、ところで。『ボーイズ☆ステージ』ってか、『スーパーノヴァ』で誰が一番推し?」
「それ聞かれると難しいな」

 日比野は癖なのか口元に拳を置くと思案気な顔つきになり、その後雑誌の表紙にあるグループの写真の上を指先でぐるっと輪を描き囲った。

「基本箱推し。みんな好き」
「分かる~、全員キャラが立ってて誰一人かけても『スーパーノヴァ』じゃないって思うし、二人ずつの組み合わせでもカラーが変わって別の魅力がでてくるよね。モデルチーム、ダンサーチーム、バラエティーチームみたいに。でも僕はやっぱり不動のエース「アヤ」かな」

 何しろアヤは『ボーイズ☆ステージ』の真秀の推し、アキのモデルになった人物だ。グループで年齢も上から二番目、年下のメンバーへの気遣いも素晴らしくて優しく見守り時には励まし、みんなの精神的な支えになっている。気遣い上手でまさに漫画で言うところの「スパダリ」属性がある人物だ。

「俺もしいて言うならやっぱ『アヤ』だな。あんな風に自在に身体を動かせたら気持ちいいだろうなって思う」

 そう言われて、すかさず「同担」と深く頷くと、「日比野君、アヤに似てると思う」とぽろっと口を滑らせてしまった。
 すると日比野は耳の先を赤くして、さっき真秀がそうしたように頭に乗せたままだったタオルの端で顔をごしごし擦り始めた。

「……髪型アヤ意識してるの、バレたか。佐倉には恥ずかしいとこばっかバレるな。周りは女の子のアイドルグループ好きな奴ばかりなのに、男子グループが好きとか」
「えー! 男子グループカッコいいじゃん。憧れる気持ちわかるよ! それに日比野君、そもそもビジュがアヤに似てるんだもん。寄せて何が悪いの? 僕入学した時からずっと思ってたよ。何にも悪くないよ。日比野君は俺にとってどっちかっていったら『ボーイズ☆ステージ』のアキの2.5次元って思ってたんだから。あー言っちゃったよ。本人の前で。すげぇ恥ずかしい」

 恥ずかしいついでにかましてやれとばかりに、真秀は背の高い椅子から飛び降りた。

(僕の持ちうる全てをつかって表現して、こいつの視線、今度は僕に向けてみたい)

 借りたパーカーを脱いで椅子の座面に置くと、ズボンが張り付いて気持ち悪いが肩を上げ下げしたり、足を伸ばしたり縮めたりして軽く身体を動かし始める。
 そんな真秀の姿を日比野はカウンター越しに次は何をしでかすのか、といった顔つきで見守っている。

「そうそう。アヤはさあ、アイソレーションの神だからさあ。あれ、ハートアタックのサビのとこ、わかる?」

 スマホを取り出した日比野がすぐに『スーパーノヴァ』のニューシングル『ハートアタック』をかけてくれた。カウンターの端っこにあったCDラジカセをブルートゥース接続させ、小さなスピーカーから音楽が流れる。
 狭い店内だがカウンターとソファー席の間にちょっとだけ通路がある。
 真秀は観客を煽るような仕草をしながら笑顔で身体を動かす。サビのフレーズに差し掛かった瞬間、真秀は曲のコンセプトである魅惑的な死神を彷彿とさせる嫣然とした笑みを浮かべた。
 悩ましいくいっとした腰つきや、しなやかに腕を振る仕草、全身の流れを途切れさせないぬるりと官能的なダンス。たった一人の観客の為に、雨音と大好きな曲をバックに、憧れの人の前で踊る恍惚感はどこか夢の中にでもいるような心地に真秀を誘う。
 ダンスの師匠がいつも口にしている『ダンスの名人は髪の毛の先まで操る』動きを踏襲し、指先はおろか髪の毛の動きにまで神経を行きわたらせる。

(ああ、やっぱダンス楽しい。久々に人前で踊る)

 途中からはもう、楽しくてたまらず、日比野がカウンターをでてこちら側まで来ていることにすら気が付かなかった。

「佐倉!」

 音楽が終わるや否や、足元が浮いてしまう勢いで長身の日比野に力いっぱい抱き着かれた。

「お前、すげぇ。完コピしてた」

 そのまま身体を腰の腰のあたりに手を回して持ち上げられて、勢いをつけてぐるぐる回られた。ソファーや机ぎりぎりだから怖くて参ってしまう。

「ひいい」

 真秀は踊り終わった後だけでない心臓のばくばくに、文字通りハートアタックを起こしてしまいそうになって、顔を真っ赤にしたままぱしぱしと日比野の背中をはたいた。

「おろして」
「ダンス習ってるのか?」

 足裏はついたものの、そのままお気に入りのぬいぐるみにでもするように真秀より逞しい腕にぎゅうぎゅうっと抱きしめられてから、アイドル顔負けの美貌で覗き込まれた。
 さっき『スーパーノヴァ』の話をしていた時と同じぐらいに輝いた笑顔を見せられて、きゅーんとしてしまう。学校でこんな顔を日比野にさせる相手が他にいるだろうか。

(一瞬、僕が日比野君の視線独り占めできてたんだ)

 盗み見るのではなく、真っすぐに正面から。
 アイドルのステージを見ていた時みたいに、胸が高鳴る。
 この胸の高鳴りは誰から与えられ、外からノックされたものではない。自分の内側から沸き起こってドンドンと叩いたリズムだ。ダンスの後で観客から拍手をもらった時にだけ起こってきた達成感や満足感、そしてちょっぴりの自信。忘れていた感覚を思い出して真秀は唇をむぐむぐっと引き結んで泣きそうになるのを耐えた。
 そのあとわしゃわしゃと頭をかき乱されて興奮気味に両頬を掌で包み込まれた。

「佐倉、お前。前髪ないと顔の印象大分変るんだな? 凄く可愛い顔している」

 またそんなことを言って人を揺さぶってくると思いつつ、真秀ははっと正気に返ると、乱れた前髪を整えようと必死に手を額にやる。

「みないで! ニキビできてるから」
「別に気にならないけどな?」

 せっかく直したのにまた額を出させようとするから、真秀は眉を吊り上げて自分も手を伸ばして日比野の頬っぺたをやわやわとつねって応戦した。

「こんな綺麗な肌してる奴に言われたくない! デコにニキビできやすいから前髪下ろしてるだよ。察しろよ」
「前髪があると刺激で余計にニキビできやすい気がするけどな。もう一人の姉貴が美容師で、そんなこと言ってた気がする。」
「そうなの? どうしたら日比野みたいな綺麗な肌になるかな……。」
「俺は元々肌が強い方だけど、姉貴たちが買ってくるやつ適当に使っている」
「肌まで強い……」
「今度姉貴の美容室一緒に行ってみるか?」
「うん」

 はあ、神様は不公平だと呟き項垂れたら、顎をくいっとすくわれた。
 そして教室では見かけたことのなかった日比野の蕩けるような満面の笑みが視界に飛び込んでくる。

「なあ、佐倉、俺もさ。心から信頼出来てなんでも……、好きなものも、嫌いなものも何でも話せる相手が、ずっと欲しかった」
 
 まるでキスでもされるようなゼロ距離感から繰り出される、日比野の本心。腕の中から上目遣いに見上げた真秀はその顔をしっかり見つめたいと、自ら前髪をかき上げる。背中に回った腕が温かいから自分も背中に腕を回した。外は雨が上がっていたのか、光が窓から差し込んできた。

「ならないか、俺たち、そういうのに」

 そういうのの中にはどこまでが含まれているのだろう。

(キスはしちゃ駄目だろうな。でもなんかしたいなあ。こんな距離で抱き合って見つめあうって、これは恋なんじゃないかと思うんだけど)

 しかし今、確認しなくてもいいかなとも思った。アキとミツキだってオーディション編を通して色んな試練に立ち向かいながら少しずつお互いの存在を認め合っていったのだから。

「いいよ。なろう。そういうの」
 
 日比野がニコッと微笑んだ年相応の笑顔は可愛くて、真秀はアキの分身みたいに思い込んでいた日比野を、その時初めて自分と同じように悩んで好きなものを全力で楽しんでいる同い年の少年だと自覚した。

「じゃあ、僕らのちょっとした試練編としてさあ。日比野、僕と一緒に文化祭のステージ立ってみない?」
「え?」
「さっきの曲。僕がダンスの先生ともうちょっと簡単に二人用にアレンジした振りつくるからさあ。僕と一緒に踊ろうよ」
「また、急だな」

 日比野の呆れた声にもどこか楽しそうな響きがこもっていた。

「ステージに立ってみたらわかるよ。僕等はアイドルじゃないけど、表現は出来る。見るのも楽しいけど、踊るのもやっぱすげぇ楽しいんだ。うちの高校の卒業生が、うちのダンスのサークルに居てね、僕は中学生の頃にステージを見に来てた。それからずっと、文化祭で僕もステージ立ちたい、でもやめようかどうしよか、そう迷ってたんだ。一人で踊るんでもいいんだけど……。やっぱり誰かと踊ってみたい。誰かとこの湧き上がる感じ、共有したいんだ。それで今日、日比野と話して、目の前で踊ってみて決心がついたんだ」
「俺と?」
「やりたいことや表現したいこと、好きなことを好きっていうこと、そういうの我慢しない方がこんなに楽しいんだって。どっかで誰も僕を理解してくれる人はいないって諦めてた。ダンスだって、僕が躍らなく立って世の中には上手い人が沢山いるし。だけどそうじゃなかった。こんな身近に理解して応援してくれる人がいたんなら、世界に向けて発信したらきっともっと沢山いるよ。僕らみたいな人」
「そうだな」
 
 日比野は真秀を抱きかかえていた腕を離すと、カウンターの上に置いていたスマホの画面をタップする。
 もう一度ハートアタックが鳴り響いた。真秀は全身を揺り動かしながら、嬉しそうに日比野に目を合わせた。お互い向かいあってリズムにのる。
 サビに差し掛かる手前で、日比野が長い手を上に振り上げて合図をした。

「え!」

 向かい合わせで鏡を見るように、日比野がハートアタックの振り付けを難なく踊りだす。
 推しのパートなだけあって、雄々しくもセクシーな魅力あふれる動きを良く表現しきれている。窓の外は急に晴れ渡って、店の中も明るくなったから、そこに浮かび上がる日比野を見て、ああこいつはやっぱり天性のスターなのではないかと真秀は胸が熱くなってきた。
 
 それは日比野にとっても真秀も同じで、クラスの窓側の席でつまらなそうに欠伸をしている彼の姿からは想像もつかぬほどに生き生きと踊る猫のようにしなやかな肢体から目が離せない。
 言葉はなかったお互いを映す目を見つめあって、心が躍った。湧き上がる何かがそこにはあった。
 踊り終わった後、今度は真秀の方が日比野に向かってジャンプして飛びついた。

「なんだよ! お前踊れるんじゃん!」

 真秀は興奮から無意識に大分砕けた口調になりながらすっぽりと日比野の腕の中に納まった。

「ここだけ、アヤがソロパート踊っているみたいに毎回カメラで抜かれるから覚えたんだ。ダンスは元々興味があって、高校からはダンス部にはいろうかとも思ったんだが……」
「言わなくていいよ。女子の間でお前を巡る争いが勃発したんだろ? 想像つくよ」

 日比野は困ったような顔で微笑んだが、そんな表情だってさせたくて仕方ないぐらいに格好がいい。
 もしも自分が所属しているサークルに呼んだとしてもそれが起ってしまうかもしれないが、元々少人数のサークルでもあるし、みな彼氏持ちだから大丈夫だろうと高をくくってみた。

「よし、じゃあ真面目に。三週間後の文化祭までにこのダンス仕上げて発表しよう!」

 キラキラの光の中、真秀がアイドル顔負けの眩い笑顔を見せたあと、クシュっと真秀はくしゃみをした。

「うわ、身体冷えそう」

 日比野は思わず真秀の肩に手をやると、眩惑されたようにそっと身体を引き寄せた。

「なんだろうな、この気持ち。初めて感じる」

 そのまま温めるように腕の中に閉じ込めると真秀は「温い」と呟いてほっそりした首筋を見せつけるように倒して、頭を日比野の胸にぐりぐりと擦り付けた。

「みんなに佐倉の事を、見せたいような。自分だけのものにしておきたいような感覚」
「僕は何度か感じたことがある。これが多分キュンってするってやつだと思う。こういうの何度も味わいたいから、少女漫画読んじゃうんだよなあ。アキ様カッコいいし」
 
 そう言って顔を上げてたら、日比野が秀麗な顔をむすっとさせた。

「なんだその顔、そんな顔でもイケメンかよ」
「そのうち佐倉に、推しより俺のがカッコいいって言わせてやる」

 そんなヤキモチみたいな台詞を言われたら、特大のきゅうんっをもよおしてしまうに決まっている。

「それはこっちの台詞だよ。日比野君の視線、推しより沢山奪ってやる」
 
 潤んだ目で見上げたら、少しずつ日比野の顔が近づいて来た。土曜の、喫茶店の、雨上がりの、二人っきり。
 互いに雰囲気に流されまくり、目を閉じようとしたその時、カランっと扉が鳴った。

「あー。ユウにい、キスしようとしてる~」

 額に保冷シートを張った幼児が母に抱っこされたまま二人を指さしてきたから、続いてかかった推しグループの明るいラブソングが流れる中、日比野は慌てて真秀を腕の中に隠して扉に向かって背を向けたのだった。

 二週間後、文化祭でハートアタックを完コピした二人の動画が「イケメンすぎる男子高校生コンビ『ハートアタック』踊ってみた」と生徒の一人に拡散されて大評判となり、そこに推しから「いいね」と『楽しく踊る姿がいい』とコメントを貰えることになり、事務所からお声がかかったりとかしたのだが……。
 それはまた別のお話。




                                                  終