光桃日記、日日是好日


 シトラスの香りに包まれながら、ミコトは光香と出会ったときのことを思い出していた。

『安西先生。もしかして、なにかありましたか?』
『えっ?』

 それは、ミコトが以前香水を変えたときのことだ。当時ただの同僚でしかなかった光香が、ミコトに突然そう問うたのだ。

『なんで……』
『だって、女が香水を変えるのは、なにかあったときだから』

 驚くミコトに、光香は柔らかく微笑んだ。

『……実は、恋人と別れるか悩んでて』
『…………』
『彼、私に隠れて女の子と浮気してたんです。もうしないからって言われたんですけど……』
『…………』
『……すみません、いきなりこんな話。迷惑ですよね……(ぜったい変に思われた……)』

『……あの、安西先生。私、今からとても無責任なことを言います』
『! (ドキリ)』
『私は安西先生に、その恋人とは別れてほしいと思います』
『えっ……どうしてですか?』
『私も昔、似たような失恋をしたことがあるから』

『れい先生が!? (マジで!? 相手何者やねん!!)』

『そのとき、あるひとに言われたんです。じぶんを大切にしてくれないひとを大切にする意味があるのかって。そのひと曰く、人生ってすごく短いんだそうです。短い人生のなかで、私はじぶんを大切にしてくれない人間を大切にする時間なんてないって、言っていました。私そのとき、たしかにそのとおりだなって思って。それで気付きました。じぶんを大切にしてくれないひとといっしょにいたって、ぜったい幸せにはなれないんだって』
『…………(い、イケメン……!)』
『だからね? 私は安西先生のことが大切だから、安西先生を心から大切にしてくれるひとと幸せになってほしいんです』

『……れい先生……(一生着いていきますっ……!)』

※ミコトが新しい扉を開いた瞬間であった。

 某日。

「ううう。外出たくないよ〜」

「サイン会なんだから仕方ないでしょー! ほら、ファンのみなさん待ってるんですから、いつまでもわがまま言ってないで早く行きますよ!」

「歩く歩道が会場まで繋がってればいいのにな〜」
「それを言うなら動く歩道でしょ」

「おぉ。そうとも言う〜」
「そうとしか言いません(このひと、なんで作家になれたんだろ……)」

※モモは外出が超きらい。
理由:めんどくさいから。


 ***


「うわっ、見てみてあの子。めっちゃ美人」
「芸能人かな? お人形さんみたい!」
「あのとなりのひとだれだろ。お姉さんかな?」
「いや、似てないし単なる付き人とかじゃない?」

(モモ先生が美人の類だってこと、そういえばすっかり忘れてた……!)

※モモは黙っていると光香に負けず劣らず美人。

(納得いかねー!!)←スミィ。

(こうなったら、さっさとサイン会済ませて家に送り返してやる!)

「あっ! 猫だ!」
「ちょっ……モモ先生!? 会場はそっちじゃないですよ!?」
「ちょっとだけ〜」
「時間ないって言ってるでしょーがっ!」

※モモは基本、自由。

「まぁいいじゃん、スミィ。ほら見て! にゃんころ〜可愛いにゃん〜?」

 にゃあ〜。

「ぐっ……(たしかに可愛い)」
「にゃんころ、ウチくる〜?」

 にゃあ〜。

「はっ? ちょ、なに言ってんですか、モモ先生! 仔猫はいいから、早く会場行かないとですって!」
「よし決めた! 名前はおいもにしよう!」←無視です。
「おいも!? モモ先生、猫においもって付ける気ですか!?」
「え? うん」

※モモは以下略。

「もう! モモ先生〜っ! サイン会〜!!」
「あっ」

※あ、じゃない。
※結局、仔猫はモモんちで飼うことになった。
※もちろん世話は光香。


 無事原稿が終わったモモを労い、光香とモモ、鷲見は、お茶会をしながら談笑していた。

「そういえばずっと気になってたんですけど、光香さんって恋人とかいないんですか?」

 カボチャタルトをつつきながら、鷲見が光香に問いかける。

「なにいきなり。スミィキモいんだけど」←※モモ

 光香はモモをこら、とたしなめつつ、
「いませんよ」
 と答える。

「…………ずっと気になってたんですけど、光香さんはなんでモモ先生といっしょに住んでるんですか?」

「えっ、なんですか、急に」

「いやぁ……だってぶっちゃけ、モモ先生ってワガママだしぐーたらだし、今は小説家で成功したからいいものの、ついこのあいだまではガチのニートだったわけでしょ? いっしょに住んだって、良いことなんて一個もないと思うんですけど」

「失礼だな、おい」←※モモ。

「すみません(笑)」
「スミィのくせにムカつく〜」
「だってどーしても謎なんですよ。光香さんほどの美人なら、結婚して幸せな家庭を作っててもおかしくないのになーって」

「お前マジでそろそろ帰れ!」←※モモ

「いたっ! 痛いっ! モモ先生なにするんですか! ぎゃあ! 痛いっ!」

※スミィは常識人の面を被っているが、ハラスメント常習犯。

 ――光香ちゃんはとってもきれいな子だね。頭もいいし、将来が楽しみだ。

 私は幼い頃から、いつもまわりにそう言われて生きてきた。

 家のなかだけでなく、学校でも先生やクラスメイト、下級生たちにちやほやされるのが日常。

 だから、まわりの期待に応えるのは当たり前で、そのためにじぶんを犠牲にすることなんて、なんてことないと思っていた。

 大人になったら親が望んだ仕事について、そのうち私を好きって言ってくれる男性のひとりと結婚して家庭に入るんだろう。

 それが私の人生なんだと、そう信じていた。
 あの子に出会うまでは。

 これは、大学生の頃、私が運命(モモ)に出会った話。


 ***


 藤城光香、大学三年。二十歳。

「見て〜光センパイ、めっちゃ美人!」
「脚長〜」
「あたし昨日ハンカチ拾ってもらっちゃったんだ。家宝にするの」
「えっ、なにそれずるーい! ぜったいわざとでしょ!」
「えへっ、バレた?」
「もー! サイテーじゃん! でもあたしもやりたい……」

 ※光香、ガッツリ聴こえてます。

 私はひとよりきれいだ。
 昔から羨ましがられてきたし、みんなちやほやしてくれるから、じぶんは恵まれているのだと自覚している。

 私はじぶんの容姿が好きだし、感謝もしてる。……だけど、たまーに苦しくなる。

 ひとよりきれいだと、どうしたって期待される。
 少しでも期待はずれな面があると、幻滅される。
 だからずっと、みんなの理想を演じなきゃいけない。

 だけどこの気持ちを言ったら、それこそ贅沢だって笑われる。

 私は笑顔を崩さないまま、現在は使われていない大学構内の外れにある研究室へ向かった。
 
 鍵を開けてなかに入り、内側から鍵をかける。

 ようやくひとりになれた、と息を吐いた瞬間、目の前にひとがいた。

「――!?」

 驚きのあまり、思わず噎せ込む。

「だっ、だれ!?」
「いや、こっちのセリフでしょ。おねーさんこそ、だれ?」

 よく見ると、そこにいたのは少女だった。それも、とびきり可愛らしい美少女だ。
 ふわふわと柔らかそうなマロン色の髪に、目はぱっちりしていて、まるで人形だと言われたほうがしっくりくる。近くの公立中学校のセーラー服を着ているから、中学生だろうか。
 ふつうならこの時間は学校にいるはずだけど……。

 じっと彼女を見つめたまま考えていると、彼女が不意に瞬きをした。その瞬間、我に返る。

「あ……えっと、私は藤城光香。ここの大学に通ってる大学生だよ」
「ふぅん。私はモモ」
「モモちゃんか。可愛い名前だね」
「でしょ」
「……それでえっと、モモちゃんは中学生だよね?」

 おそるおそる訊ねると、モモちゃんは素直にうん、と頷いた。少し安堵して、続けて訊ねる。

「そっか。モモちゃんは、こんなところでなにしてたの?」
「見て分かんない? サボってるの」

 やっぱりか、と思いつつ、一応確かめる。

「学校を?」
「うんにゃ、受験を」
「ちょっと待って!?」

※その日は公立高校の受験日だったとさ。

「ダ、ダメじゃない! 学校とか保護者のかたに連絡はしたの!?」
「連絡したらサボりとは言わないよー」
「そりゃそうだけど!」

 どうしよう、こういう場合はどうしたらいいのだろう。
 軽くパニックになっていると、モモちゃんが私の肩に手を置いた。

「落ち着きなよ」
「逆になんであなたはそんなに落ち着いてるの……!?」

 とりあえず深呼吸をして、私はモモちゃんのとなりに座った。

「……それで、モモちゃんはなんで受験をサボったの?」
「は? そんなの高校に行きたくないからに決まってるよね?」
「……(そんな呆れた顔されても……)」
「おねーさんは、なんで大学入ったの」
「……公務員になるためだけど」
「ふぅん。なんで公務員になりたいの?」
「それはもちろん、ひとの役に立ちたいからだよ」
「なんでひとの役に立ちたいの?」
「え……だって、ひとの役に立てたら、みんな喜ぶし」
「なんでみんなに喜んでほしーの?」
「……なんで……? じゃあモモちゃんはなんで高校に行きたくないの?」
「今んとこ気分!」
「き……気分!?」

※光香は衝撃が強すぎて目眩を起こした。

「高校なんか行きたくないって言ってんのに、賢一(けんいち)が行けってうるさくてさぁ」

「賢一?」

「パパのことだよ」
「あぁ……パパね(今どきの子は父親を呼び捨てにするのか)」←そんなことはない。

「賢一、しつこいし頭が固くてさー。いくら話しても理解してくんないの」
「そりゃ気分で高校に行きたくないって言われてもね……。きっとパパは、娘の将来が心配なんだよ」

「違うよぉ! 私、人生設計もちゃんと話したんだよ?」
「人生設計? なにか夢でもあるの?」
「うんっ! 私、小説家になる予定なの!」

※パパの心配の理由が明確に分かった瞬間であった。

「なんで私の人生を他人に決められなきゃいけないの? じぶんで決めてなにが悪いの?」
「他人って……賢一さんは家族でしょ?」
「家族だからって、決める権利ないよね?」
「それはそうだけど、一応保護者としての責任があるし、モモちゃんはまだ未成年なんだし……」
「……じゃあ、おねーさんは親に言われて決めたんだ?」
「え?」
「公務員になるって」
「…………」

 咄嗟に私は、なにも言えずに黙り込んだ。
 それをたぶん、肯定と受け取ったのだろう。彼女は興味を失くしたように、私から視線を外した。

「おねーさんってすごくきれいだけど、つまんないひとなんだね」

 その言葉は、私の心臓を容赦なく貫いた。

 その後、モモちゃんはひとりで帰っていった。私はそのまま研究室に残って、物思いにふける。

『なんで公務員になりたいの?』

 彼女の言葉が頭から離れない。

 なんで。
 考えたこともなかった問いを、今になって考えてみる。

 親の期待に応えるため。
 ひとの役に立てるから。
 周囲が喜んでくれるから。

 考えて絞り出した答えのなかになにひとつ、私の本音は見当たらなかった。

「……本当に、私はつまらない人間ね」


 ***


 翌日。
 なんとなくあの研究室へ行ってみると、
「あっ、おねーさんだ」
「モモちゃん!?」
 セーラー服姿のモモちゃんがいた。

「学校は!?」
「先生に受験サボったってバレたら怒られそうだからサボった〜!」

 呆れた。

「怒られるのはいやなのね……」
「うん! いや」

 ならサボらなきゃいいのに、と苦笑しつつも、私はどこまでもじぶんに正直なモモちゃんに感心する。

「……モモちゃん、昨日はごめんね」
「んー? なにが?」
「昨日、いろいろうるさく言っちゃったから、わずらわしかったかなって」
「べつに〜? おねーさんの意見は嬉しかったし」
「え、そうなの? (ちょっと意外だ……)」

 きょとんとしていると、モモちゃんは無邪気な笑みを浮かべて、
「うん! 私はね、これでもひとの意見はちゃんと聞くようにしてるんだよ。でも、最終的にはじぶんでどうするか決めるの!」

 ハッとした。
 昨日はモモちゃんのことを、なんて世間知らずな子なのだろうと思ったけれど。

 違う。
 モモちゃんは、ぜんぜん世間知らずでも破天荒でもない。←そんなことはない。

 彼女はただ、ちゃんとじぶんを愛して、生きているだけなのだ。

「……ねぇ、モモちゃん」
「んー?」
「私ね、今進路で悩んでて」
「ふーん」
「このまま院に進むか、大学を卒業して公務員になるか」
「公務員になりたいのは、みんなが期待してくれてるからでしょ?」

 こくりと頷く。

「じゃあ、院に進みたいのはなんで?」

 モモちゃんに問われて、私はためらいながらも正直に打ち明ける。

「……研究がしたくて」
「なんで研究がしたいの?」
「好きだから。でも……」
「なんだ、ぜんぜん悩んでないじゃん」
「え?」
「好きなんでしょ? 研究。それなら院を選ぶ以外の選択肢なんてないじゃない!」

 そう言われた瞬間、胸のなかにずっとあった靄が、さあっと晴れていったような気がした。

 モモとの出会いを話し終えると、鷲見は感心したように言った。

「へぇ〜モモ先生って、昔からアホだったんすね!」
「お黙りスミィ。れいちゃんは今とてもいい話をしてたのよ」
「あれっ。でも、モモ先生って高校は出てましたよね?」
「うん。あのあとママにめちゃくちゃ怒られて私立に行った」
「ママの言うことは聞くんスね……」
「そりゃあそうだよ! ママはおっかないもん!」
「…………」

※光香とスミィ、賢一に同情。

「で、高校出て光香さんの家に転がり込んだと?」
「うい!」
「光香さん、なんであんなの入れちゃったんですか」
「だれがあんなのじゃい!」

※光香、失笑。

「……まぁでも、これがモモの良さだから。モモにはずっとこのままでいてほしいんです」

 光香が言うと、モモはふふん、と得意げに鷲見を見た。

「このままでいいって……それじゃモモ先生の生活能力ゼロのままですよ」
「いいの。そのあたりは私が手助けしていくから」
「光香さん優し過ぎですよ……」

 関心を通り越して、やや呆れ気味に鷲見が呟く。

『いっしょに住んでいいことないと思うんですけど』

 たしかに、他人から見たらじぶんたちの関係は少し歪に見えるのかもしれない。
 だが、少なくとも光香にとっては、そんなことはないのだ。

 光香がモモといる理由は、モモのことが〝大好き〟だから。本当に、ただそれだけ。

 あの研究室でモモは、好きだからとかそんな理由で進路を決めていいのかと悩む光香に、言ったのだ。

 ――〝そんな理由〟じゃないよ。〝いちばんの理由〟じゃん!

 彼女らしい、無邪気な笑顔で。
 あのときからモモは、光香にとって唯一無二の光なのである。

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