薄暗い路地に、かすかに日が差し込む。朔太郎が居なくなり力が抜け、杏はよろけた。そんな彼女を、慶の腕がしっかりと支える。

「大丈夫か」
「はい……」

顔を覗き込まれ、杏はなんとかそう答えた。だけど思い出せば体が震える。自分はとんでもないものに恋をしていた。

「申し訳ございません、旦那様」

杏はまだ体が震えていたけれど、杏は小声で紡いだ。自分が彼を好きにならなければ、こんなことにはならなかった。

「悪いのは化け物だ。奴は杏に恋する術をかけ、惑わせここに呼び寄せた。狙った者を不安にさせ、そこに漬け込み、自分に恋をさせ、自分のものにして喰らう」

慶の声は冷たく、憎しみを感じた。だけど、慶の言葉に杏は違和感を覚えた。

「化け物というのは、理性を失った妖なのではないのですか?」
「ああ、以前はそうだった。だから、俺たちは〝仕方なく〟抹消させてきた。だが、奴は――」

慶は朔太郎の消えていった先に、睨むように鋭い視線を向けた。

「理性を持った化け物だ。最近帝都で増えている。人のふりをして人間の魂を喰らい、人をもぬけの殻にしてしまう。とんでもない化け物だ」

慶はそこまで言うと、奥歯を噛むような苦しい顔をした。

「以前はいなかった類の化け物で、軍も手を焼いている。対策も後手になり、奴らが増えた原因も未だ究明中だ」
「朔太郎さんは、抹消したのですか?」
「いや、奴は姿をくらませる術を使った。まだ何処かにいるはずだ」
「そんな……」

杏が呟くと、杏を抱くのと反対の慶の手が、ぽんと杏の頭に乗った。

「怖い思いをさせた。悪かった」

慶の眉がひそめられ、杏は慌てて口を開く。

「いえ、あの……、助けて頂いて、ありがとうございました」

杏がそう言うと、慶の顔が優しい笑みに変わる。

「杏が無事で、良かった。俺はお前を、失いたくないんだ」

慶の言葉は、杏の胸をときめさせる。だけど、それで杏ははっとした。

「旦那様、お見合いは! よろしいのですか!?」
「こんな時でも、お前はそんな心配をするのだな」

慶はそう言うと、優しく目元を細め、杏の頭に置いていた手で彼女の髪を優しく撫でた。

「俺にとっては、そんなものよりお前が大事なんだよ」
「旦那様……」

そんなことを言われたら、勘違いをしてしまう。杏は顔を伏せ、赤くなるのを隠した。しかし、彼はそんな杏の背を抱き寄せた。杏は息をのむ。

「お前が好きだよ、杏。子どもたちとも上手くやり、俺を優しいだなんて言うお前が、どうしようもなく愛しいんだ」

そう言うと慶の声色は優しい。近づいた彼の胸から自分と同じくらいに早まる慶の鼓動が聞こえ、杏はきっとそれが真なのだろうと思った。朔太郎に抱きしめられた時は、この音は聞こえなかった。

「旦那様……」
「杏っ!」

別のところから必死に叫ぶような声がして、杏はぴくりと体が震えた。慶が声のした路地の向こうを見る。杏も振り返り、顔をそちらに覗かせた。

「やはり杏なんだな!」
「お兄様……」

くたびれたスーツに身を包み、カメラを胸に下げこちらに駆けてくる人物。杏の今の唯一の家族、天悟だった。

「杏の兄上?」
「はい。帝都で新聞記者をされていて――」
「杏、そいつは異能者だ! 離れろ!」

天悟の声が背中に迫り、杏は言葉の途中でぴくりと震えた。慶は杏を抱く手を緩め、そのまま下ろした。

「こんな路地であやかし騒ぎ、記事になると来てみたら何で……杏が異能者に抱かれてるんだ!」
「違います、お兄様! 彼は私を助けてくださっただけで――」
「助けようが何だろうが、杏に触れるな! 異能者など、化け物と同じだ!」

天悟はそう言うと、杏の腕を引こうと手を伸ばした。しかし杏は体を引く。すると天悟はより近くにいた慶に手を伸ばし、その胸ぐらを掴んだ。

「お前が杏をたぶらかしたのか?」

天悟の訊いたことのないくらい低い声に、杏は思わず震えた。だけど、誤解は解かなければ。杏は決意とともに口を開く。

「お兄様、止めてください! 旦那様はお優しい方です。私を化け物から助けてくれたんです!」

すると天悟の冷たい視線が杏を向く。杏は思わず表情の変わらぬ慶の背に隠れ、顔だけ覗かせた。

「『旦那様』? 杏はコイツの所にいるのか!?」
「はい」
「百地のところじゃなかったのかよ!」
「お兄様がお母様の治療費を稼いでいるのなら、お母様が帰れる家を作るお金は私が稼ごうと……今は旦那様の所に女中としております」

杏がそう言う間に、天悟の目は見る見る怒りに満ちてゆく。そのまま、慶を睨んだ。

「母さんは、化け物に魂を抜かれた」

天悟はそう、怒りを孕んだ声でぽつりとこぼす。その視線は険しく、憎いものを見ているよう。

「母さんは病気なんかじゃない。それを隠すために、異能隊に連れてかれたんだ」

天悟の声が震える。彼の握りしめられた拳も、ぷるぷると震えていた。

「あ、あの……」

突然こちらを向いた天悟の瞳に杏が映る。杏は思わず慶の服の裾を引っ張り、握ってしまう。

「父さんだって死んでない。失踪したんだ。なのに、軍は全てを隠した。この異能者様たちがな!」

天悟は言いながら鋭い視線を再び慶に向ける。

「言い訳できないだろう。それが事実なんだから」

天悟はそう言い切ると、杏の腕を掴む。慶は何も言わない。それでも杏は、慶を信じたかった。

「待ってください、お兄様」

天悟に掴まれた腕を引っ込め、彼の手を振り払う。

「お母様のことはそれが事実かもしれません。でも、私は旦那様がお優しい方だと知っています」
「杏!」

ひどく怒りをはらんだ声で名を呼ばれる。それでも杏は、天悟をじっと見据えて言葉を紡ぐ。

「私は旦那様を信じます。お兄様の知っていることは、きっとなにか事情があってのことだと思います」
「杏……」

優しい声色で名を呼ぶのは、慶だった。彼は一度目を瞬かせ、それからすぐに杏に微笑む。

「ありがとう、杏」

その声色が、優しい笑みが、杏はたまらなく好きだと思う。

「杏の兄上、どうか、彼女が私の元にいることを許してはくれぬだろうか」

急に慶が口を開いた。

「兄上が杏のことを大切に思っているのは伝わった。兄上の申されたことは知らぬ存ぜずでは済まないと思っている。いつか必ず、真相を突き止め兄上に説明すると約束する。それから――」

慶はそこまで言うと、一度杏を見た。不意に目が合い、杏の胸がドキリと鳴る。

「杏の身の安全を約束する。杏が今後、このような事態に巻き込まれぬよう、私の屋敷にはより強固な結界を張るつもりだ。だから、どうか。杏が私の近くにいることを、許してはくれぬだろうか」

慶の言葉に、天悟は苦虫を噛み潰したような顔をする。そして。

「……分かったよ。杏が帝都にいても俺に知られなかったのも、今まで化け物に会わなかったもの、お前の屋敷にいたからだと思えば説明はつく。実際、俺のところにいるよりも安全だと思う」
「兄上の理解、感謝する」

慶はそう言うと、天悟に頭を下げる。

「ただし、杏に手を出したらただじゃおかない」

天悟はそう言うと、くるりと踵を返して去っていった。
やがて天悟の姿が見えなくなると、慶は杏を解放した。

「今はまだ混乱しているだろう。一旦家に帰ろうか」

そう言う慶に手を差し出され、杏はためらった。しかし。 

「嫌か?」

そう言う彼の優しい笑みに、自分がそれをとってもいいのだと思う。

「失礼、します」

そっと慶の手に自分の手を重ねると、慶が引き寄せるように杏を誘導する。杏はそのまま慶に手を引かれ、慶の家までの道のりを歩いた。