翌朝、杏はいつもと同じように土間に立っていた。しかしその胸には、ある決意を抱いていた。
「おはよう」
不意に声をかけられ、振り返る。土間の入り口に、着物姿の慶が立っていた。
「おはようございます、旦那様」
杏はどくりと鳴った心臓を誤魔化すように、冷静を装って彼に頭を下げた。声をかけられるのは嬉しいが、これから彼が見合いに向かうのだと思うとやっぱり胸が痛い。杏は彼への恋心を捨てられない自分に、やり切れない気持ちになる。
「今日、見合いをするのだが、その前に少し仕事をしたくて軍の詰所に寄るんだ。少し早く出たい」
「では、急いで朝餉をお持ちしますね」
杏はいつも通りにと自分に言い聞かせ、食事をお善に盛り付ける。するとなぜか、慶が土間に下りてきた。彼はそのまま、杏の隣に立つ。
「お前の料理は、この手から生み出されているのだな」
なぜか慶はそう言って、彼女の手元をじっと見る。
「あ、あの、旦那様……」
あまりにも近すぎる距離に、どうしても彼を意識してしまう。杏は慌てて包丁を置き、切っていた卵焼きを皿に盛り付けると慌てて彼から距離をとった。
慶の目が杏を追う。それだけで杏は羞恥で顔が熱くなった。きっと、真っ赤になっているだろう。杏はそれを誤魔化すように、慌てて口を開いた。
「あの、もし、お見合いされるお相手の方が、女中がこの家に住み込みでいるのが嫌でしたら、おっしゃってください」
言いながら胸が痛くなる。だけど、彼の見合いは仕方のないことだ。杏は自分にそう言い聞かせ、頑張って言葉を紡いだ。
しかし、それを聞いた慶はなぜか杏の近くに寄ってくる。押し込めていた気持ちが溢れ出しそうになり、杏は慌ててきゅっと唇をきつく結んだ。
その瞬間。慶の大きな右手が、杏の頭にぽすんと乗る。
「お前はずっと、ここにいていいんだぞ」
「ありがとうございます、旦那様……」
彼の言葉は恋心じゃない。杏が家と家族を失くした孤児だから、だ。慶にとって、杏は狐鈴や大流と変わらない。彼の優しさは同情であって、恋じゃない。
それなのに勝手に高鳴る自分の鼓動を感じ、杏は辛くて仕方ない。こみ上げてきた熱いものが視界をぼやけさせる。ぎゅっと目を瞑ったその時、慶の手が杏の頭から離れた。
杏はほっと小さく息をつく。しかしすぐに、慶が口を開いた。
「俺の渡したお守り、見せてくれるか?」
「あ、はい」
杏は慌てて懐からお守りを取り出した。慶に手渡すと、途端に彼は顔をしかめる。
「どうかなさいましたか?」
「いや……、アイツらの悪戯が過ぎたのか、術が弱まっている気がしたんだ」
そう言うと慶はお守りに手をかざす。柔らかな黄色い光がお守りを包み、やがて光が消えた。
「これで少し強力になったはずだ」
「ありがとう、ございます」
杏は返されたお守りを素早く懐にしまった。彼の手の温もりが、お守りに残っていたのだ。
慶はそれを見届けると、土間から出てゆく。杏は急いでお善を居間に運ぶ準備をした。
その日、杏は洗濯と掃除を終わらせると、急いで身支度を整えた。昨夜に決めたことを、実行するために。
「出かけるのか?」
外行に着替えた杏が玄関へ向かうと、居間で大流と戦っていた狐鈴がひょっこりと顔を出した。ふたりの戦いは可愛いじゃれ合いのようなものだ。杏はこの家に来てまだ数十日なのに、そう思えるくらい馴染んでしまったことに気づいた。
「はい。調味料を切らしてしまったので、買ってまいります」
「そうか。気を付けてな」
「一人で平気か?」
大流も居間から顔を出す。杏はクスリと笑みをこぼし、そのまま「はい、行ってまいります」と家を出た。
玄関の戸を閉めると、杏は懐から紙切れを取り出した。上質な硬い紙。そこに書かれた、【環朔太郎】の文字。
杏はこれから、彼の元へ向かう。慶への恋心を、忘れるために。朔太郎にもう一度、恋をするために。
*
帝都の大通りや小道には、都市部らしく案内板がいくつもある。杏がそれらと朔太郎の紙切れを頼りに辿り着いたのは、丘の上。いくつかの洋風なお屋敷が立ち並ぶ、お洒落な街だった。
杏は見慣れぬその街を、〝環〟の表札を探しながら歩いた。
「杏さん」
不意に背後から声をかけられ、振り向く。
「朔太郎さん……!」
杏は彼のもとに駆け寄る。朔太郎は優しく微笑み、杏に両手を広げた。
柔らかい風が丘に吹く。真冬だというのに、小春日和のように温かい風。まるで杏に恋の始まりを感じさせる。
「おいで」
「い、いえ、それは」
杏は彼の腕の直前で立ち止まった。朔太郎は複雑そうに微笑み、両手を下ろす。
しかしなぜか、彼に会ったら無くなっていたはずの彼への恋心が蘇った。胸に手をあてるとその早さが分かるし、彼の顔を見たらその優しい顔つきに恥ずかしくて仕方なくなる。
――ああ、忘れていた。私は、朔太郎さんが好き。
杏がそう思った時、朔太郎が口を開いた。
「来てくれたということは、僕がもらってもいいってことだよね」
朔太郎の瞳は優しく、熱がこもっている。杏は恥ずかしくなったが、彼から目を逸らせずに、そのまま、こくりと小さく頷く。
すると彼の両手が杏の背に回る。包み込むように優しく抱きしめられ、杏の鼓動は最高潮に達した。
「好きだよ、杏さん」
「私も、あなたが――」
言いかけて、杏ははっとした。杏の頭に、なぜか慶の姿が浮かんだのだ。
『そいつから離れろ!』
頭の中で、慶がしきりに訴えてくる。
杏は慌てて彼の抱擁から逃げようとした。しかし、優しいはずの抱擁から、杏はなぜか逃げることができない。
「どうしたの、杏さん」
彼の瞳が、細められる。だけど、彼への気持ちは綺麗さっぱりなくなっていた。むしろ、なぜ自分が彼に惹かれていたのか分からない。
「離してください」
杏は体をくねらせ、逃げようともがいた。しかし体は捕らえられたままで、胸はどくどくと嫌な音を刻む。
「離さないよ。君から来てくれたんだから」
杏は目を見開いた。朔太郎の笑みが深くなる。そのほくそ笑む顔に、杏の体は震えた。
「もっと美味しくいただけるはずだった。でも仕方ないから、このまま食べてあげる」
朔太郎はそう言うと、杏と唇を合わせようと自身の唇を近づける。杏は逃げたいのに、体が硬直して動けない。怖い。恐怖で脳天まで凍てつき、涙が溢れてくる。
「杏……!」
その時、慶の声が聞こえた。すると途端に異国風の街は消え、杏はどこかの薄暗い路地にいた。
目の前の朔太郎の頬を何かがかすめ、血が出るはずのそこからは黒い煙のようなものが吹き出した。するとその瞬間、杏を束縛していた抱擁が解ける。杏はよろけてしまったが、すぐに何かに包まれ、そのまま体が高速で背後に動くのを感じた。
杏が包まれていたのは黒い着物に薄紫色の羽織。優しく温かく、がっちりとした腕。見上げた先にいたのは、朔太郎を鋭い眼光で睨む慶だった。
「彼女を返せ、異能者」
「杏はお前には渡さない。化け物などに渡してたまるものか」
慶の声は凍てつくほど怖く、低く、それでいて杏の胸を締め付ける。
「僕が育てた〝食事〟だよ。横取りは許さない」
「杏は食事などではない。血の通った、生身の人間だ」
杏はそっと朔太郎の方を見た。そこにいたのは、茶色く大きな、蛇のような鬼のような、なんとも形容しがたい〝化け物〟だった。
あれが、朔太郎の正体――。
杏は恐怖に目を見開く。化け物はそんな杏を見て、青い舌で舌なめずりをした。
「汚れを知らぬ、美しい魂。彼女は上質な〝食事〟だ」
体がぶるりと震えた。彼と口付けていたら、一体どうなっていたのだろう。慶の杏を抱く手に力が込もった。すると、杏の震えは徐々に落ち着いてゆく。
「杏を喰わせなんてさせない。俺がいる限りは」
慶はそう言うと、化け物に向かって手をかざす。鋭い閃光が放たれ、化け物に当たった。
「うっ……、さすが、異能隊の小隊長だ」
朔太郎だったそれは軽くうめき、それからすぐに全身を黒く霧散して消えた。
「おはよう」
不意に声をかけられ、振り返る。土間の入り口に、着物姿の慶が立っていた。
「おはようございます、旦那様」
杏はどくりと鳴った心臓を誤魔化すように、冷静を装って彼に頭を下げた。声をかけられるのは嬉しいが、これから彼が見合いに向かうのだと思うとやっぱり胸が痛い。杏は彼への恋心を捨てられない自分に、やり切れない気持ちになる。
「今日、見合いをするのだが、その前に少し仕事をしたくて軍の詰所に寄るんだ。少し早く出たい」
「では、急いで朝餉をお持ちしますね」
杏はいつも通りにと自分に言い聞かせ、食事をお善に盛り付ける。するとなぜか、慶が土間に下りてきた。彼はそのまま、杏の隣に立つ。
「お前の料理は、この手から生み出されているのだな」
なぜか慶はそう言って、彼女の手元をじっと見る。
「あ、あの、旦那様……」
あまりにも近すぎる距離に、どうしても彼を意識してしまう。杏は慌てて包丁を置き、切っていた卵焼きを皿に盛り付けると慌てて彼から距離をとった。
慶の目が杏を追う。それだけで杏は羞恥で顔が熱くなった。きっと、真っ赤になっているだろう。杏はそれを誤魔化すように、慌てて口を開いた。
「あの、もし、お見合いされるお相手の方が、女中がこの家に住み込みでいるのが嫌でしたら、おっしゃってください」
言いながら胸が痛くなる。だけど、彼の見合いは仕方のないことだ。杏は自分にそう言い聞かせ、頑張って言葉を紡いだ。
しかし、それを聞いた慶はなぜか杏の近くに寄ってくる。押し込めていた気持ちが溢れ出しそうになり、杏は慌ててきゅっと唇をきつく結んだ。
その瞬間。慶の大きな右手が、杏の頭にぽすんと乗る。
「お前はずっと、ここにいていいんだぞ」
「ありがとうございます、旦那様……」
彼の言葉は恋心じゃない。杏が家と家族を失くした孤児だから、だ。慶にとって、杏は狐鈴や大流と変わらない。彼の優しさは同情であって、恋じゃない。
それなのに勝手に高鳴る自分の鼓動を感じ、杏は辛くて仕方ない。こみ上げてきた熱いものが視界をぼやけさせる。ぎゅっと目を瞑ったその時、慶の手が杏の頭から離れた。
杏はほっと小さく息をつく。しかしすぐに、慶が口を開いた。
「俺の渡したお守り、見せてくれるか?」
「あ、はい」
杏は慌てて懐からお守りを取り出した。慶に手渡すと、途端に彼は顔をしかめる。
「どうかなさいましたか?」
「いや……、アイツらの悪戯が過ぎたのか、術が弱まっている気がしたんだ」
そう言うと慶はお守りに手をかざす。柔らかな黄色い光がお守りを包み、やがて光が消えた。
「これで少し強力になったはずだ」
「ありがとう、ございます」
杏は返されたお守りを素早く懐にしまった。彼の手の温もりが、お守りに残っていたのだ。
慶はそれを見届けると、土間から出てゆく。杏は急いでお善を居間に運ぶ準備をした。
その日、杏は洗濯と掃除を終わらせると、急いで身支度を整えた。昨夜に決めたことを、実行するために。
「出かけるのか?」
外行に着替えた杏が玄関へ向かうと、居間で大流と戦っていた狐鈴がひょっこりと顔を出した。ふたりの戦いは可愛いじゃれ合いのようなものだ。杏はこの家に来てまだ数十日なのに、そう思えるくらい馴染んでしまったことに気づいた。
「はい。調味料を切らしてしまったので、買ってまいります」
「そうか。気を付けてな」
「一人で平気か?」
大流も居間から顔を出す。杏はクスリと笑みをこぼし、そのまま「はい、行ってまいります」と家を出た。
玄関の戸を閉めると、杏は懐から紙切れを取り出した。上質な硬い紙。そこに書かれた、【環朔太郎】の文字。
杏はこれから、彼の元へ向かう。慶への恋心を、忘れるために。朔太郎にもう一度、恋をするために。
*
帝都の大通りや小道には、都市部らしく案内板がいくつもある。杏がそれらと朔太郎の紙切れを頼りに辿り着いたのは、丘の上。いくつかの洋風なお屋敷が立ち並ぶ、お洒落な街だった。
杏は見慣れぬその街を、〝環〟の表札を探しながら歩いた。
「杏さん」
不意に背後から声をかけられ、振り向く。
「朔太郎さん……!」
杏は彼のもとに駆け寄る。朔太郎は優しく微笑み、杏に両手を広げた。
柔らかい風が丘に吹く。真冬だというのに、小春日和のように温かい風。まるで杏に恋の始まりを感じさせる。
「おいで」
「い、いえ、それは」
杏は彼の腕の直前で立ち止まった。朔太郎は複雑そうに微笑み、両手を下ろす。
しかしなぜか、彼に会ったら無くなっていたはずの彼への恋心が蘇った。胸に手をあてるとその早さが分かるし、彼の顔を見たらその優しい顔つきに恥ずかしくて仕方なくなる。
――ああ、忘れていた。私は、朔太郎さんが好き。
杏がそう思った時、朔太郎が口を開いた。
「来てくれたということは、僕がもらってもいいってことだよね」
朔太郎の瞳は優しく、熱がこもっている。杏は恥ずかしくなったが、彼から目を逸らせずに、そのまま、こくりと小さく頷く。
すると彼の両手が杏の背に回る。包み込むように優しく抱きしめられ、杏の鼓動は最高潮に達した。
「好きだよ、杏さん」
「私も、あなたが――」
言いかけて、杏ははっとした。杏の頭に、なぜか慶の姿が浮かんだのだ。
『そいつから離れろ!』
頭の中で、慶がしきりに訴えてくる。
杏は慌てて彼の抱擁から逃げようとした。しかし、優しいはずの抱擁から、杏はなぜか逃げることができない。
「どうしたの、杏さん」
彼の瞳が、細められる。だけど、彼への気持ちは綺麗さっぱりなくなっていた。むしろ、なぜ自分が彼に惹かれていたのか分からない。
「離してください」
杏は体をくねらせ、逃げようともがいた。しかし体は捕らえられたままで、胸はどくどくと嫌な音を刻む。
「離さないよ。君から来てくれたんだから」
杏は目を見開いた。朔太郎の笑みが深くなる。そのほくそ笑む顔に、杏の体は震えた。
「もっと美味しくいただけるはずだった。でも仕方ないから、このまま食べてあげる」
朔太郎はそう言うと、杏と唇を合わせようと自身の唇を近づける。杏は逃げたいのに、体が硬直して動けない。怖い。恐怖で脳天まで凍てつき、涙が溢れてくる。
「杏……!」
その時、慶の声が聞こえた。すると途端に異国風の街は消え、杏はどこかの薄暗い路地にいた。
目の前の朔太郎の頬を何かがかすめ、血が出るはずのそこからは黒い煙のようなものが吹き出した。するとその瞬間、杏を束縛していた抱擁が解ける。杏はよろけてしまったが、すぐに何かに包まれ、そのまま体が高速で背後に動くのを感じた。
杏が包まれていたのは黒い着物に薄紫色の羽織。優しく温かく、がっちりとした腕。見上げた先にいたのは、朔太郎を鋭い眼光で睨む慶だった。
「彼女を返せ、異能者」
「杏はお前には渡さない。化け物などに渡してたまるものか」
慶の声は凍てつくほど怖く、低く、それでいて杏の胸を締め付ける。
「僕が育てた〝食事〟だよ。横取りは許さない」
「杏は食事などではない。血の通った、生身の人間だ」
杏はそっと朔太郎の方を見た。そこにいたのは、茶色く大きな、蛇のような鬼のような、なんとも形容しがたい〝化け物〟だった。
あれが、朔太郎の正体――。
杏は恐怖に目を見開く。化け物はそんな杏を見て、青い舌で舌なめずりをした。
「汚れを知らぬ、美しい魂。彼女は上質な〝食事〟だ」
体がぶるりと震えた。彼と口付けていたら、一体どうなっていたのだろう。慶の杏を抱く手に力が込もった。すると、杏の震えは徐々に落ち着いてゆく。
「杏を喰わせなんてさせない。俺がいる限りは」
慶はそう言うと、化け物に向かって手をかざす。鋭い閃光が放たれ、化け物に当たった。
「うっ……、さすが、異能隊の小隊長だ」
朔太郎だったそれは軽くうめき、それからすぐに全身を黒く霧散して消えた。