家に帰ると、その日も杏は狐鈴や大流と共に夕餉の支度をした。食台を居間に運ぶと、子どもたちがすぐに慶を部屋から連れてきてくれた。

昨夜と同じように、食事する慶の目の前で子どもたちが小躍りをするのは可愛らしかったが、杏は慶のことは目に入れないようにした。

彼はきっと優しい顔をして、子どもたちを愛でている。その顔で目が合ってしまったら、自分の胸が高鳴ってしまうことは分かっていた。この恋は叶わないのに。

杏はそっと、縁側から空に目を向けた。昨日と同じように、月がぽかりと空に浮かんでいる。すると今度は昨夜彼に頭に触れられ大泣きしてしまったことを思いだし、ため息がこぼれた。

慶は自分のことを、きっと子どもだと思っているだろう。昨夜はきっと、不遇な杏の運命を案じ、労り、優しくしてくれたのだろう。
自分がいかに恋心を抱こうと、彼はそうではない。彼にとって自分は、狐鈴や大流と同じ〝不運な子ども〟なのだ。

「おい、善を下げろ」

狐鈴に目の前でそう言われて、杏は我に返った。慶の食事は終わっていたらしい。

「すみません、只今」

杏は慌てて立ち上がる。

「構わない。お前は今日、慣れない帝都の街を歩いたんだ。疲れているのだろう」
「いえ、それに疲れていてもいつも同じようにできなければならないと心得ております。申し訳ございません」

杏は慶の前で頭を下げ、善を手に立ち上がった。するとその時、大流が大人びたように盛大なため息をこぼした。

「女がぼうっとするのは大抵、恋煩いだ。そんな気持ちで業務に励むなど、以ての外だ」

杏は大流のその声に、ぴくりと肩を揺らした。

「杏、好きなやつがいるのか!?」
「狐鈴、それではデリカシーがないぞ」
「デリカシーってなんだ?」
「し、失礼します!」

杏は続けられる狐鈴と大流の会話を押し切るように、慶にもう一度頭を下げてから居間を後にした。
頬を真っ赤に染めた自分を、慶が物憂げな表情で見つめていたことに気づかずに。

 *

次の日もその次の日も、狐鈴は杏に「好きな人がいるのか」と、しつこく訊いてきた。杏は気持ちを入れ替え家事に励もうとするのに、狐鈴に問われ「いない」と答える度に顔がほてり、慶のことを思い返して仕方ない。おかげで、慶への気持ちを考えずにいることも難しかった。

慶はこのところ、仕事が忙しいらしい。朝餉を食べたらすぐに軍の宿舎に向かい、夜に帰宅する。泊まり込みになる日もあるが、彼がどんな業務をしているのか、異能隊が実戦に出ているのかなど、杏には全く分からない。しかし、慶と面と向かって顔を合わせなくて良い日が続いているのが、杏にとっては好都合だった。

そうして、十日ほどが過ぎた頃。いつものようにおやつの米菓子を作り、子どもたちと食べていた時のことだった。

「そろそろ教えてくれよ。杏は好きなやつがいるんだろう?」
「い、いませんっ!」

狐鈴は毎日この様子だ。それに慣れれば良いのだろうけれど、杏は慣れずにいつも脳裏に慶の優しい笑みを思い浮かべてしまい、顔が火照ってしまう。

しかも最初はそれを「デリカシーがない」と止めていた大流も呆れ、何も言わなくなる始末だ。

「減るもんじゃないし、いいじゃねーか」

狐鈴がそう言った時、大きなため息が廊下から聞こえた。

「狐鈴、相変わらずその話をしているんだな」
「だって、杏が教えてくれねーから」

そこに立っていた慶を振り返り、狐鈴が米菓子を頬張りながら答える。

「それは、彼女の想い人をお前たちが知らないからだ」
「俺たちの知ってるやつじゃないのか?」

慶の声に反応したのは大流だった。その角が、ぴくぴく揺れている。

「ああ。俺はこの前会った。帝都にいる、優しそうな青年だった」
「ちぇ、そうかよ」

狐鈴が唇を尖らせてそう言ったが、それよりも大きな声が慶の後ろから聞こえて杏はぴくりと震えた。

「そうなの、杏ちゃん!?」

声とともにバタバタと足音を響かせ、部屋に顔を覗かせたのは美弥子だった。彼女は杏がまだ何も言わないうちに、なぜか杏の目の前に座り、うっとりとして空を眺める。

「恋人がいたのね。そう、素敵じゃない」
「いや、彼とはまだそういう関係では――」

杏が言い終わる前に、美弥子は振り返り居間の入り口に立ったままだった慶に向かって口を開いた。

「ほら、あんたも杏ちゃん見習いなさい。いい加減身を固めるべきよ。そのために、明日お見合いを用意したんだから」
「お見合い、されるんですか?」

杏は思わず口を開いた。美弥子が杏の方を向き直る。

「ええ。今度こそ、うまくいくといいのだけれど」

美弥子がため息混じりそう言って、杏の胸は鈍く痛んだ。だけど、仕方のないことだ。異能者は異能者と結ばれるのが世の常。彼らは特級身分であるし、彼らは後世に異能者を残さなければならない。

まさか自分が慶と結ばれるなんて天地がひっくり返ってもありえないことだ。分かっているのについ反応してしまう自分に、杏はため息をこぼしかけた。
が、杏はそれを飲み込んだ。きらきらとした美弥子の瞳と声が、杏に向けられたのだ。

「ねえ、これ杏ちゃんが作ったの?」

美弥子の指差す先には、杏が作った米菓子があった。

「はい。狐鈴様と大流様もお手伝いしてくださって、皆で作りました」
「そう。すごいわね、こんなお菓子まで作れてしまうなんて。お料理上手なのね」

自分は、料理をしたり家事をするのが役割だ。美弥子の言葉に、杏は改めてそう思わされた。

 *

杏はその晩布団に入っても、目を閉じてもなかなか眠れずにいた。

明日、慶は見合いをする。見合いをするということは、結婚をするということだ。そう思うだけで、胸が嫌な感情に支配される。
彼は自分とは結ばれない相手だと分かっているのに、どうしても慶が他の女性と結ばれることを考えたくない。

それに、もしそうなったら、自分はここにいて良いのだろうか。慶にとって自分は〝子ども〟かもしれない。しかし、相手の女性にとってはそうではないかも知れない。
自分の結婚相手の家に、若い女中いる。そんなの、杏だったらとても嫌な気分になる。

ぐるぐると同じことを考え、考えるたびにため息が溢れた。
帝都に共に出かけたときは逢瀬みたいだと思ってしまった。だけど彼の目的は、女性ものの店だった。慶はきっと、明日の見合いで相手に送るための品を買ったのだろう。

しかしそんなことを思い出しながら何度目かのため息をこぼしたとき、不意に昼間、慶の言った言葉が脳裏に過った。
『それは、彼女の想い人をお前たちが知らないからだ』
『俺はこの前会った。帝都にいる、優しそうな青年だった』
彼は、杏の想い人を朔太郎だと思っている。そして、先日帝都で会ったときに朔太郎に言われた言葉は――。
『もし、気持ちが変わるようなことがあったら、ここに来て』

自分が、朔太郎を好きになればいい。彼と恋仲になれば、きっと慶への気持ちも忘れられる。朔太郎の元に住めば、通いでお勤めすることもできるだろうし、私に恋人がいるならば見合いの相手も安心するだろう。

杏はかつて好きだった朔太郎への気持ちを思いだそうと、頭の中に彼を思い浮かべる。しかし、優しい彼の笑顔は浮かぶのに、以前のように胸はときめかない。
それでも杏は必死に自分に言い聞かせた。

――私は、朔太郎が好きなのだ。