翌日、杏は朝早くに起きて朝餉の支度をしていた。

「おはよう」

不意に背後から慶に声をかけられ、杏の体はぴくりと震えた。無理もない。昨夜、彼の前で過去を思い出し、思い切り泣いてしまった。恥ずかしくて仕方ない。

「お、おはようございます旦那様」

杏は頬が赤くなるのを感じながら、恐る恐る振り返る。優しく微笑む慶が、土間の入り口に立っていた。
朝日に照らされた慶は、昨夜より格好良く映る。目が合うとその目が一層優しく細められ、杏の胸はどきどきと高鳴った。

「も、申し訳ありません! 急いで支度をしますね」

杏は慌てて鍋に向き直った。味噌を溶かし入れれば、完成だ。

「今日は軍が休みだから買い物に出ようと思うのだが、何か足りないものはあるか」

慶の声に、杏ははっとする。彼はそれを聞きに来たわけで、自分の様子を見に来たわけではない。うっかり胸を高鳴らせてしまったが、彼は主で自分は女中だ。それを弁えていなければならない。

杏は気持ちを入れ替えるために両頬を両手でぺちっと軽く叩くと、小さく深呼吸をして慶の方に向き直った。

「お野菜が少ないので、葉物を買いに行きたいです」
「今の時期だと白菜、長ネギ、ほうれん草……」
「そうですね。お味噌汁もおいしいですが、お鍋や洋風のスープにしても美味しいです」

杏の言葉に、慶はこくりと頷いた。

「では、朝餉を取ったら出かけよう」
「はい」

杏が答えると、慶は土間から去ってゆく。どっと体から力が抜けて、杏はそれだけ気を張っていたのだと気付いた。

こんなで、共に買い物に出かけるなど大丈夫だろうか。杏は不安になったが、同時に慶とのお出かけは嬉しくもあった。

 *

朝食を取り、杏は慶について家を出た。狐鈴が「俺も行く!」と言い張ったが、耳も尻尾を隠せない未熟な妖を連れて帝都の街を歩くわけにはいかない。

「留守の間、家をお願いできるか」

慶にそう言われると、狐鈴は手のひらを返したように「もちろんだ」と頷いた。

だがそもそも、あの家に誰かが訪ねてくるのは無理なこと。慶が結界を張っており、慶が許可した人しか中に入れないのだと教えてくれた。

「逆に、狐鈴や大流が出ようとしても弾かれて外に出ることはできぬ。そうやってしか、彼らを守れないのは不甲斐ないがな」
「仕方のないことだと思います」

杏は少し前を歩く慶の背中に向かって呟いた。
妖は現在、人の姿をして生きているが、変体は人々を襲う。だから、妖だと知られると子どもでも恐れられたり、嘲弄したりする者もいる。
異能者は帝から与えられた特級身分のおかげで揶揄する者はいないが、妖はそうでないのだ。

その点、慶は妖に住処を与え、養い、結界を張って人々から守っている。その行為さえ彼の優しさなのだと、杏は思う。

「旦那様は子どもたちを見捨てないでいらっしゃるので、それだけでとてもお優しい方です」
「変り者だとは言われるが、そう言ってくれるのはお前だけだな」

慶は黒い着物の上に羽織った、瞳と同じ薄紫色の羽織をひるがえし、杏を振り向く。その優しい笑みに、杏はぽっと顔に火がついたように感じる。慌てて両頬を手で包み、その冷たさにほっとした。

やがて杏が目当てのものを買い終えると、慶は用事があるからと、杏を連れて帝都の街へ向かった。人通りの多い帝都の街は、きらきらとしていた。洋装の人も多く、道行く女性も皆おしゃれだ。

杏はすす汚れた桃色の着物に黒と赤の羽織を着ていた。田舎者らしいその格好に、羞恥がこみ上げる。

「旦那様、私、先に帰ってもよろしいでしょうか」

いたたまれなくなって、ついそんなことを口走ってしまった。主の意志にそぐわないなんて、女中としてあるまじき行為だというのに。

「狐鈴たちのことが気がかりか? それなら、心配はいらぬ」

慶は淡々とそう言って、どんどん先を行く。やがて女性ものの小物を扱う商店の前で立ち止まった。

「うわぁ……」

杏はその店の、ガラス窓から見える中の小物たちを見て思わず声を漏らした。
黄楊の櫛、ガラス製のかんざし。綺麗な光沢のある細長い布きれは、その横に『リボン』と書かれていた。これもきっと、髪を結うのに使うのだろう。

「女性はやはり、こういうのが好きなのか?」

慶も同じものを見て、ぽつりと言った。

「はい。とても綺麗で、見ているだけでわくわくしてきます」
「『見ているだけで』か。おかしなことを言うのだな」

慶はくすりと優しく笑う。杏は恥ずかしくなって、視線を街中に戻した。すると、見覚えのある茶色い背広の男性と目が合った。

「あれ、杏さん?」
「朔太郎さん……」

彼がこちらに駆けてくる。杏は彼に会釈して、それから慶の方を向いた。

「知り合いか?」
「はい、以前助けていただいたことのある方です」
「そうか。私はこの店で買い物をしてくるから、少し待っていてくれるか」

それが慶の気の利かせ方なのだと、杏は気付いた。やはり慶は、優しい人だ。慶が店の中に入っていった時、駆けてきた朔太郎が杏の前で立ち止まった。

「杏さん、家が火事に遭ったと聞いたよ。大変だったね」
「はい」

朔太郎が杏の瞳を覗く。杏は答えながら、何か自分の中に違和感を覚えていた。

「彼は何者? もしかして、恋人?」
「ち、違います!」

店の中に目をやった朔太郎に、慌ててかぶりを振る。同時に頬が熱くなり、それで先ほどの違和感の正体に気づいた。少し前まで慕っていた彼のことを、何とも思わなくなっていたのだ。

「そう、良かった」

朔太郎はそうこぼすと、再び口を開いた。

「異能者には近づかない方がいい。君も知っているだろう、異能者はその能力で化け物を退治する。そんな力があるなんて、彼らも化け物と変わらない」

静かな声で朔太郎は言った。その瞳は、お店のガラスの中に鋭く向けられている。

「でも、旦那様はお優しい方です」

杏は言いながら、頬が再び熱くなるのを感じた。

「君は随分と、彼に入れ込んでいるようだね」
「まさか、そんなことはありません! ただ、今は彼が私の主なので……」
「そう」

ただの主従関係なら、こんなに胸は騒がない。それは分かっているのに、杏はどうしても鼓動が加速するのを止められない。
恥ずかしさに俯いていると、朔太郎の手が杏の肩に置かれた。視線を上げる。朔太郎は複雑な笑みを浮かべていた。

「僕は君のことを、好きだったんだけどな」

以前ならこんなことを言われたら、浮かれ切って天にも昇る心地だったろう。だけど今は、それでも慶のことで頭がいっぱいだった。

「ごめんなさい、あの……」

何と言っていいか分からない。しどろもどろになっていると、朔太郎は優しく口角を上げた。

「僕は、君を困らせたくはない。だけどもし、気持ちが変わるようなことがあったら、ここに来て」

朔太郎はそう言うと、胸ポケットから小さな、しかし上質な厚手の紙を取り出した。帝都の街の住所と、彼の名前が書かれている。
それをじっと見ているうちに、朔太郎は「じゃあ」と手を挙げ行ってしまった。

「もう良いのか?」

その声に、体がぴくりと震えた。買い物を終えたらしい慶が、そこに立っていた。

「はい。主に気を使わせるなど、申し訳ないことを――」
「いいんだ。俺もこの店で買い物ができて良かった」

慶はそう言うと、来た道を歩き出す。帝都の街へ来たのは、本当にこの店が理由だったらしい。慶は他の店に立ち寄ることもなく、淡々と少し先を歩く。

慶には、あの店のものを贈りたい相手がいるのかもしれない。そう思うと、杏の胸はちくりと痛んだ。
元想い人を想えなくなるほど、彼のことを好いているらしい。そのことに改めて気が付いてしまい、杏はため息をこぼした。

彼は主だ。それに、特級身分の異能者様で、しかも軍の異能隊の、隊長様である。自分とは身分が違いすぎる。
だから、この恋が報われる訳がない。好きになってはいけない相手なのだ。

杏は慶の後ろを歩きながら、そっと胸に手を当てる。この気持ちは決して彼にバレることがないよう、胸のうちに仕舞わなくては。
そう、誓いながら。