やがて夕飯を居間に運ぶと、着物に召し替えた慶がやって来た。盛り付けられたものたちを前に、慶は目を優しく細める。
彼の前には、夕飯を手伝った有志たちが鎮座し、「これは俺が」「これは俺が」と口々に指差し言い続けている。慶は食べ始められないが、それでも慶は優しい顔をして、二人の言葉を訊いていた。
杏はその様子を、縁側に座り見ていた。もしかしたら、慶の表情は出会ったときとあまり変わらないのかも知れない。それでも彼の顔が優しく見えるのは、彼の優しさを知ったからではないかと、ふと思った。
「二人とも、ありがとう」
慶はそう言うとご飯を箸でつまんで口に運ぶ。その仕草をじーっと見つめる二人は、まるで箸につられるように頭を動かし彼の箸の先を追う。
「どうだ? うまいか?」
「ああ、うまい」
慶の声に、狐鈴は喜び飛び上がる。それからその場でくるくると回り、小躍りを始めた。その横で、大流も嬉しそうに頬を赤らめる。
その後も狐鈴は喜び部屋内を駆け回るし、大流も堪えられずに慶の肩に飛び乗った。それに文句も言わずに食べ進める慶は、やはり優しく、子どもたちを大切にしているのだと杏は思った。
やがて食事を終えた慶は、杏をちらりと見た。不意に目が合い、杏はなぜか全身がこそばゆくなる。
「お善をお下げしますね!」
慌ててそう言うと、杏は彼のお善を運び出そうとした。
「俺はまだ仕事が残っている。狐鈴たちを先に風呂に入れてやってくれ」
下げ際に声をかけられ、もしかしたらまだ夕餉には早かったのかも知れないと縮こまる。
「いや、いいんだ。こんなに楽しい夕餉は初めてだった」
耳元で言われ、杏はぴくりと肩を揺らす。頬が熱い。きっと自分の料理を褒められたわけではない。だけど、なぜか慶の言葉が無性に嬉しかった。
杏はその後、風呂を温め子どもたちを促すと、お善を片して、明日の朝食の下ごしらえを済ませた。風呂場からは賑やかな声が聞こえていたが、やがて家中が静かになった。
杏は一息つこうと縁側へ向かった。途中で近くの部屋から寝息が聞こえ、子どもたちは寝入ったのだと悟る。
縁側には先客がいた。着物姿の慶が、月を眺めていたのだ。杏は恐縮し、踵を返そうとした。しかしそれより早く、慶が振り返る。
「申し訳ございません。お邪魔をしてしまいました」
杏は慌てて帰ろうとしたけれど、慶は杏を手招きした。主の言うことは絶対だ。杏は緊張しながら、慶の少し後ろに綺麗に正座をした。
「一日であの二人が、お前に懐いている。こんなこと初めてで、驚いた」
慶はそう言うと、腕を組んで月を見上げた。まん丸の月が、東の空にぽっかりと浮かんでいる。
「騒がしくしてしまい、申し訳ございません」
杏は頭を下げた。しかしすぐに、慶に制された。
「頭を上げてくれ。俺は嬉しいんだ」
慶は振り返り、杏を見た。その目は優しく細められ、初めて会った時とはだいぶ違う印象を受けた。
「前の女中も前の前の女中も、姉が連れてきたが長続きしなかった。だが、お前なら続けてくれるような気がする」
杏は優しい彼の声色にどきどきと緊張したが、頬はなぜか緩んだ。だけどすぐに、昼間子どもたちのおやつの為に、勝手に米を拝借してしまったことを思い出す。杏は慌てて頭を下げた。
「旦那様、一つ謝らなければならないことございます」
「何だ」
彼の声色は優しいが、その言い方に杏はひっと息を呑む。でも、伝えなければ。杏は、震えそうな声を絞り出した。
「狐鈴様と大流様のおやつを作るのに、お米を少し拝借してしまいました。私は夕飯を抜きましたので、その分――」
「なんだ、そんなことか」
怒られると思ったが、慶はくすりと笑った。
「構わない。確かに妖は飯を食わずとも生きていけるが、彼らが食いたいというなら食べさせてやればいい。お前が抜く必要はない」
「ですが……」
杏は自分の判断でしてしまったことに、どうしても負い目を感じてしまう。
「そんなに二人のことまで考えてくれた女中は、お前が初めてだ。だから、いいんだ」
その優しい口元のほころびに、杏の胸はとくりと甘く鳴る。それに戸惑い、ごまかすように、杏は慌てて口を開いた。
「私にとっては、狐鈴様も大流様も、主であることに変わりありませんから」
「お前は、怖くないのか?」
告げた言葉に疑問返され、杏はきょとんとする。何がが、だろう。
「異能者の家に妖の子ども。普通はそれだけで逃げ出す」
「怖くはありません」
杏はすぐに答えることができた。
「この家に来る前は、きっと異能者の旦那様は屈強な男で、子どもたちも異能者で……と考えて少し怖かったです。でも、実際お会いしてみたら、旦那様はお優しい方でした」
「優しい?」
慶は目を鋭く細め、杏を睨む。だけどすぐに、杏はそれが睨んでいるわけではないと分かった。訝しんでいるだけだ。
「美弥子様からお聞きしました。孤児になった妖の子どもを引き取っているのだと。それに、旦那様は私にお守りもくれたじゃないですか」
だから、怖くはない。慶は、優しい人なのだ。
「それに、あの子たちも。旦那様のために頑張るいい子たちです。きっと、旦那様のことを心から好きで、尊敬しているんだと思います」
言いながら恥ずかしくなって、杏は顔を伏せた。だけど、なかなか慶は口を開かない。しばらくして、不思議に思った杏は頭を上げる。慶は月を見上げていた。
「あの、なにかご不快なことを申し上げてしまったでしょうか?」
杏は慌てて口を開く。彼に見切られてしまっては、ここにはもういられない。それはなぜか嫌だと思った。あの子たちと、慶とまだ一緒にいたい。
「いや、そんなことはない」
慶の言葉に、杏はほっと胸を撫でおろす。
「杏は、なぜここに来たんだ」
慶がぽつりと言った。
「まだ若いのに、子どもたちの扱いも心得ている。優秀なお前なら、何もこんなちっぽけな主の元でなくてもよかったはずだ」
「優秀だなんて、勿体ないです。私はただの田舎者。たまたま通りかかった美弥子様に、お声を掛けて頂いただけですから」
杏は主の質問に、真摯に答えた。最初こそ身構えてしまったが、優しい主と子どもたちに仕えることができて、良かったと思う。
「家が火事に遭って、幼い弟妹たちを失いました。私が火の始末を疎かにしたせいで……」
杏はあの日を思い出し、拳を握った。燃えていく家、真っ赤に爛れた肌のまま亡くなっていた弟妹たちの姿。思い出すと自責の念に駆られ、生きていることが申し訳なくなってくる。
「それで、病気で療養中の母が家に戻れるようになった時に、帰る家が無くては困るので、どうにか家を再建したいと思っていた時、美弥子様に拾っていただきました」
杏はうつむき、涙を堪えた。泣いてはいけない。強く自分を持たなくては。
「すみません、こんなお話」
するとそんな杏の方に、すらりと長い影が伸びてくる。杏ははっと目だけを動かした。慶の手だった。
その細く綺麗な指が頭に触れ、杏はぴくりと肩を揺らした。しかし慶はそのまま、杏の頭にぽすりとその手を乗せる。
「お前も大変だったのだな」
「……はい」
彼の手はしなやかだが、大きくてごつごつとした、男性のものだった。彼の優しさと温かさが伝わってきて、杏の目からほろりと涙が溢れる。慌てて手の甲でぬぐったけれど、涙があふれて止まらない。
「すみません、こんな……」
「構わん。肩肘張ってばかりでは、心が壊れてしまう」
「旦那様……」
慶は杏の頭を優しくぽんぽんとあやすように撫でてくれる。杏は今だけはと、主に甘えてしまう自分の幼さに嫌気が差しながらも、涙が止まるまで、彼の優しさに身を委ねた。
優しい月明かりが、二人を照らしていた。
彼の前には、夕飯を手伝った有志たちが鎮座し、「これは俺が」「これは俺が」と口々に指差し言い続けている。慶は食べ始められないが、それでも慶は優しい顔をして、二人の言葉を訊いていた。
杏はその様子を、縁側に座り見ていた。もしかしたら、慶の表情は出会ったときとあまり変わらないのかも知れない。それでも彼の顔が優しく見えるのは、彼の優しさを知ったからではないかと、ふと思った。
「二人とも、ありがとう」
慶はそう言うとご飯を箸でつまんで口に運ぶ。その仕草をじーっと見つめる二人は、まるで箸につられるように頭を動かし彼の箸の先を追う。
「どうだ? うまいか?」
「ああ、うまい」
慶の声に、狐鈴は喜び飛び上がる。それからその場でくるくると回り、小躍りを始めた。その横で、大流も嬉しそうに頬を赤らめる。
その後も狐鈴は喜び部屋内を駆け回るし、大流も堪えられずに慶の肩に飛び乗った。それに文句も言わずに食べ進める慶は、やはり優しく、子どもたちを大切にしているのだと杏は思った。
やがて食事を終えた慶は、杏をちらりと見た。不意に目が合い、杏はなぜか全身がこそばゆくなる。
「お善をお下げしますね!」
慌ててそう言うと、杏は彼のお善を運び出そうとした。
「俺はまだ仕事が残っている。狐鈴たちを先に風呂に入れてやってくれ」
下げ際に声をかけられ、もしかしたらまだ夕餉には早かったのかも知れないと縮こまる。
「いや、いいんだ。こんなに楽しい夕餉は初めてだった」
耳元で言われ、杏はぴくりと肩を揺らす。頬が熱い。きっと自分の料理を褒められたわけではない。だけど、なぜか慶の言葉が無性に嬉しかった。
杏はその後、風呂を温め子どもたちを促すと、お善を片して、明日の朝食の下ごしらえを済ませた。風呂場からは賑やかな声が聞こえていたが、やがて家中が静かになった。
杏は一息つこうと縁側へ向かった。途中で近くの部屋から寝息が聞こえ、子どもたちは寝入ったのだと悟る。
縁側には先客がいた。着物姿の慶が、月を眺めていたのだ。杏は恐縮し、踵を返そうとした。しかしそれより早く、慶が振り返る。
「申し訳ございません。お邪魔をしてしまいました」
杏は慌てて帰ろうとしたけれど、慶は杏を手招きした。主の言うことは絶対だ。杏は緊張しながら、慶の少し後ろに綺麗に正座をした。
「一日であの二人が、お前に懐いている。こんなこと初めてで、驚いた」
慶はそう言うと、腕を組んで月を見上げた。まん丸の月が、東の空にぽっかりと浮かんでいる。
「騒がしくしてしまい、申し訳ございません」
杏は頭を下げた。しかしすぐに、慶に制された。
「頭を上げてくれ。俺は嬉しいんだ」
慶は振り返り、杏を見た。その目は優しく細められ、初めて会った時とはだいぶ違う印象を受けた。
「前の女中も前の前の女中も、姉が連れてきたが長続きしなかった。だが、お前なら続けてくれるような気がする」
杏は優しい彼の声色にどきどきと緊張したが、頬はなぜか緩んだ。だけどすぐに、昼間子どもたちのおやつの為に、勝手に米を拝借してしまったことを思い出す。杏は慌てて頭を下げた。
「旦那様、一つ謝らなければならないことございます」
「何だ」
彼の声色は優しいが、その言い方に杏はひっと息を呑む。でも、伝えなければ。杏は、震えそうな声を絞り出した。
「狐鈴様と大流様のおやつを作るのに、お米を少し拝借してしまいました。私は夕飯を抜きましたので、その分――」
「なんだ、そんなことか」
怒られると思ったが、慶はくすりと笑った。
「構わない。確かに妖は飯を食わずとも生きていけるが、彼らが食いたいというなら食べさせてやればいい。お前が抜く必要はない」
「ですが……」
杏は自分の判断でしてしまったことに、どうしても負い目を感じてしまう。
「そんなに二人のことまで考えてくれた女中は、お前が初めてだ。だから、いいんだ」
その優しい口元のほころびに、杏の胸はとくりと甘く鳴る。それに戸惑い、ごまかすように、杏は慌てて口を開いた。
「私にとっては、狐鈴様も大流様も、主であることに変わりありませんから」
「お前は、怖くないのか?」
告げた言葉に疑問返され、杏はきょとんとする。何がが、だろう。
「異能者の家に妖の子ども。普通はそれだけで逃げ出す」
「怖くはありません」
杏はすぐに答えることができた。
「この家に来る前は、きっと異能者の旦那様は屈強な男で、子どもたちも異能者で……と考えて少し怖かったです。でも、実際お会いしてみたら、旦那様はお優しい方でした」
「優しい?」
慶は目を鋭く細め、杏を睨む。だけどすぐに、杏はそれが睨んでいるわけではないと分かった。訝しんでいるだけだ。
「美弥子様からお聞きしました。孤児になった妖の子どもを引き取っているのだと。それに、旦那様は私にお守りもくれたじゃないですか」
だから、怖くはない。慶は、優しい人なのだ。
「それに、あの子たちも。旦那様のために頑張るいい子たちです。きっと、旦那様のことを心から好きで、尊敬しているんだと思います」
言いながら恥ずかしくなって、杏は顔を伏せた。だけど、なかなか慶は口を開かない。しばらくして、不思議に思った杏は頭を上げる。慶は月を見上げていた。
「あの、なにかご不快なことを申し上げてしまったでしょうか?」
杏は慌てて口を開く。彼に見切られてしまっては、ここにはもういられない。それはなぜか嫌だと思った。あの子たちと、慶とまだ一緒にいたい。
「いや、そんなことはない」
慶の言葉に、杏はほっと胸を撫でおろす。
「杏は、なぜここに来たんだ」
慶がぽつりと言った。
「まだ若いのに、子どもたちの扱いも心得ている。優秀なお前なら、何もこんなちっぽけな主の元でなくてもよかったはずだ」
「優秀だなんて、勿体ないです。私はただの田舎者。たまたま通りかかった美弥子様に、お声を掛けて頂いただけですから」
杏は主の質問に、真摯に答えた。最初こそ身構えてしまったが、優しい主と子どもたちに仕えることができて、良かったと思う。
「家が火事に遭って、幼い弟妹たちを失いました。私が火の始末を疎かにしたせいで……」
杏はあの日を思い出し、拳を握った。燃えていく家、真っ赤に爛れた肌のまま亡くなっていた弟妹たちの姿。思い出すと自責の念に駆られ、生きていることが申し訳なくなってくる。
「それで、病気で療養中の母が家に戻れるようになった時に、帰る家が無くては困るので、どうにか家を再建したいと思っていた時、美弥子様に拾っていただきました」
杏はうつむき、涙を堪えた。泣いてはいけない。強く自分を持たなくては。
「すみません、こんなお話」
するとそんな杏の方に、すらりと長い影が伸びてくる。杏ははっと目だけを動かした。慶の手だった。
その細く綺麗な指が頭に触れ、杏はぴくりと肩を揺らした。しかし慶はそのまま、杏の頭にぽすりとその手を乗せる。
「お前も大変だったのだな」
「……はい」
彼の手はしなやかだが、大きくてごつごつとした、男性のものだった。彼の優しさと温かさが伝わってきて、杏の目からほろりと涙が溢れる。慌てて手の甲でぬぐったけれど、涙があふれて止まらない。
「すみません、こんな……」
「構わん。肩肘張ってばかりでは、心が壊れてしまう」
「旦那様……」
慶は杏の頭を優しくぽんぽんとあやすように撫でてくれる。杏は今だけはと、主に甘えてしまう自分の幼さに嫌気が差しながらも、涙が止まるまで、彼の優しさに身を委ねた。
優しい月明かりが、二人を照らしていた。