杏はさっそく炊事場へ戻った。水浸しになった土間を掃除して、夕刻までにご飯を作らなければならない。
しかし、再び弧鈴と大流もついてくる。杏は気合を入れるために両頬をぺちぺちと叩き、土間に箒と雑巾を持ち出した。

「掃除すんのか?」

足元で狐鈴が訊いてきた。

「はい。このままでは、旦那様のお食事が作れないですから」
「こんなの、あっという間に乾かせるぞ」

狐鈴の言葉に、杏はまさかと目を見張る。すると案の定、狐鈴は大きく息を吸い込んで、巨大な火柱を吹き出した。

「きゃあ!」

杏は思わず叫んだ。火の勢いに先日の火事を思いだし、胸がバクバクと騒いだのだ。

「お前、もしかして火が怖いのか?」

狐鈴が訊いてきて、杏はこくりと頷いた。

「申し訳ございません。先日、家が火事に遭いまして、それで」
「そっかぁ。火、楽しいのになぁ」

狐鈴はつまらなさそうに言った。きっと、悪気はないのだろう。

「狐鈴様は、この土間を乾かしてくださろうとしたのですよね。なのに、申し訳ありません」
「いや、狐鈴のやり方じゃ土間の全てが燃えてしまう。悪いのは狐鈴だ。謝れ」

突然すました声が背後から聞こえた。大流だ。

「そもそもお前が水浸しにするからだろう!」
「お前がその美味そうな菓子を独り占めするからだ!」
「なんだとーっ!」

怒った狐鈴はぷうっと頬を膨らませ、大流めがけて火を吹く。大流はそれを打ち消そうと、こちらに向かって水を吹く。間にいた杏は避けることもできず、ただその場でぎゅっと目をつむった。

「あ、あれ?」

思ったような衝撃が来なくて、杏は恐る恐る目を開ける。それから、左右を順番に見た。火も水も、杏の真横で消えてなくなっている。

「旦那様の、お守り……」

杏は先ほど慶にもらったお守りを懐へしまっていたのだが、それが功を奏したらしい。
お守りに、こんな効力があるなんて。杏は改めて、彼の異能者としての能力とその優しさを思い知る。

「さて、お仕事しないといけませんね」

杏は立ち上がると、着物の袖をたすき掛けにして捲った。

「米、開けるか?」
「それはもうやるな、狐鈴」

きらきらした狐鈴の瞳が、大流の一言でしゅんとする。

「そんなに、あれがお好きなのですか?」

狐鈴が気の毒になって訊いてみる。

「もちろんだ! 米の膨らんだあれは、口の中でさくっとして溶けちまうんだ。絶品だぞ」
「じゃあ、作ってみましょうか」
「本当か!?」

狐鈴の顔が再び輝き出す。訊いてみてよかったと、杏は思った。しかしすぐに、大流が水を差す。

「俺たちは妖だから、人の飯を食っちゃいけない。慶様に言われていただろう」
「そうなのですか?」
「お前、そんなことも知らないのか? 妖は、飯なんか食べなくても生きられるんだ」

大流は得意げに鼻を鳴らしたが、杏は目を瞬かせた。しかし、すぐに美弥子にも『慶の分の朝と夜ご飯を作って欲しい』と言われていたことを思い出す。

「食べたら、悪いことがあるのですか?」

無知だから仕方ない。この子たちのほうが、妖については詳しそうだ。

「特にないと思うぞ。俺の(とと)(かか)も、人として生きていたときは普通に食ってた」
「そうですか」

狐鈴の言い方はあっけらかんとしていたが、彼の言葉で杏は思い出した。彼らは化け物の子ども。そしてそれを抹消させたのが、慶の率いる異能隊――。

複雑な事実を実感し、なぜだか胸が痛くなる。だけどこの子たちに罪はない。杏は余計に、何かしてあげたくなった。

「では、私がもらうご飯を少し分けて、お菓子を作りましょう」
「やった!」

杏の提案に狐鈴は喜び飛びまわり、大流はそっと口元を綻ばせた。

お鍋にお米を少し入れ、炒りながら弾けるのを待つ。火加減はかまどの下で狐鈴が調整した。どうやら、一気に高熱を加えると弾けるらしい。

「どうだ!」

ぽん。

「もういっちょ!」

ぽん、ぽん。

少しのお米はあっという間に弾け、鍋いっぱいのお菓子が出来上がった。しかしそのままでは熱いので、冷ます間に杏はそれに砂糖を振りかけた。

「出来上がりましたね」

皿に盛り付けてやると、二人は目を輝かせてそれを見る。居間に運ぶと、さっそくそれを狐鈴が口いっぱいに頬張る。

「甘ぇ! うめぇ!」

すると大流もそれを手に取り、口の中へ放った。

「なかなかだな」

二人はあっという間に平らげて、お腹をぽんぽんと叩く。

「眠くなっちまったなー」
「お昼寝、しますか?」

杏がそう聞いている間に、狐鈴はもう寝息を立てていた。杏は頬を綻ばせ、寝入ってしまった狐の少年を布団まで運び、そっと掛け布団をかけてやった。 

土間に戻ると、そこでは大流が一人、箒片手に水を掃き出していた。

「大流様、お手を煩わせてしまい申し訳――」
「違う、これは俺がやった。だから、俺が片付けるべきだ。お前がやる仕事じゃない」

大流はバツが悪そうにそう言うと、再びせっせと手を動かした。彼も、中身はいい子なのだ。杏はなんだかくすぐったい気持ちになって、掃除をする大流をお手伝いした。

やがて土間が片付くと、杏は夕飯の支度をし始めた。

「夕焼け雲に星一つ。人参、大根、食べよかな」
「なんだ、その歌」

高いところから必要なものを取り出し、包丁を手に大根の桂剥きをしていると、まだ土間にいた大流が訊いてきた。

「すみません、うるさいですね」
「そういうことじゃない。変な歌だな。星と野菜は関係あるのか?」

杏は困ってしまった。そんなこと、考えたこともなかった。

「分かりません。母が小さい頃に、お料理をするときは歌っていました」
「ふうん」

そう言うと、大流は杏の手元をじっと見つめる。

「やってみますか?」

あまりにもじっと見つめてくるから、杏は思い切って聞いてみた。

「いや、いい」
「そうですか」

打ち解けられたと思ったのに。杏は少しがっかりしたが、すぐに後ろから飛んできた声にピクリとした。

「大流だけズルいぞ! 俺も手伝う!」

狐鈴がぴょんっと飛びながら、杏の肩に飛び乗った。

「わあ、くすぐったいです狐鈴様!」

杏は思わずクスリと笑った。もふもふの尻尾が首に当たって、こそばゆくて仕方ない。

「狐鈴に手伝いなどできるものか」
「できる! そう言う大流は、見てるだけで何もしてないんだな」
「お、俺は別に手伝うつもりなど無かった!」
「へえ、逃げるんだ。やーい、龍神様の末裔はびびりー」
「何を、子狐のくせに!」

大流から水が吹かれそうになって、杏は慌てて大流の口を押さえた。

「みんなで作りましょう、ね。その方が早く終わりますし、私もとても助かります」

杏が焦って言うと、子どもたちは互いに顔を見合わせる。どうやら、休戦協定が結ばれたらしい。それで、杏はほっとした。

包丁はまだ二人には危ないだろうと思った杏は、先ほどと同じように狐鈴にはかまどの番を任せた。狐鈴は火の調節がとてもうまく、さすが妖だと杏は思った。
一方、大流ははじめこそ乗り気ではなかったが、米を洗うのに水を出してくれたり、調味料を量ったりしてくれた。

「夕焼け雲に星一つ。人参、大根、食べよかな」

三人で歌いながら、陽気に作る夕飯。杏は懐かしい気持ちになると同時に、ここに来て良かったと初めて思った。

やがて出来上がったご飯を器に盛り付けていると、不意に背後から声が聞こえた。

「賑やかだな」

その声に、三人で振り返る。

「旦那様! 申し訳ございません、お出迎えもせずに」
「構わん。狐鈴、大流、良い子にしていたようだな」

慶がそう言う間に、狐鈴と大流は慶の元まで駆け寄った。慶はしゃがんで、二人の頭を撫でる。

「俺、初めてお手伝いしたぞ!」
「味噌汁の味噌は、俺がやった」

得意げな顔をする二人に、慶は口元をほころばせる。

「そうか、夕飯が楽しみだ」

そう言うと、立ち上がり杏にも同じ顔を向ける。

「すぐに準備してお持ちしますね!」
「ああ」

慶はすぐに踵を返してしまったけれど、杏はじっと慶の後ろ姿を目で追っていた。なぜこんなに自分が彼を追ってしまうのか、その理由も分からずに。