杏はすぐに美弥子に連れられ車に乗り込んだ。
移動しながら話して知ったのだが、どうやら女中として働くのは彼女の元ではなく彼女の弟のお屋敷らしい。しかも、彼女の弟も帝国軍下の軍人様で、それも、異能隊の小隊長だという。
異能者といえば、人間でありながら妖のような術を使い、攻撃や治療など様々なことをする人々ことである。妖との違いはその生まれが人間か否かであり、妖は人の姿に化け〝人として〟生活しているが、異能者は元より人間である。
異能者はその特異な才のせいで、杏のような〝普通の〟人間には妖同様に怖れられてきた。しかし、妖の変体である化け物から人々を救う唯一の対抗勢力として、彼らは時に崇められてもきた。
この国が築かれた時、帝が異能者に特級身分を与えたのもその為である。帝はこの国を化け物から守るために異能者に身分を与え、その代わりに軍人として生きることを強いたのだ。
特級身分の軍人様。それも、妖と直接戦う実戦部隊の小隊長。それだけでこれから従う主がとんでもない異能を持っていることは容易に想像できた。きっと屈強で、大柄な男なのだろう。
考えただけで杏を不安が襲う。自分は女中として、異能者の家の家事育児を、うまくやっていけるのだろうか。
「そんな顔しないで。うちの弟、愛想はないけど悪い人じゃないの。むしろ人として出来損ないで、でくのぼうだから」
隣に座っている美弥子が、不意に口を開いた。
「軍の隊長様が、でくのぼうなわけないと思います」
そこまで言って顔を上げ、杏ははっとした。彼女の薄紫色の瞳は、この国の人とは思えないほど美しい。異能者は瞳の色が、どうも他の人間と違うらしいという噂を思い出したのだ。
「もしかして、美弥子様も異能者なのですか?」
すると美弥子はくすりと上品に笑った。
「ええ、そうよ。私は他人の心の中が読めちゃうの。さっきから怯えているみたいだけど、安心してちょうだい。本当に困っているだけなの」
美弥子はそう言うとくすくすと笑い出す。杏は恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして俯いた。
やがて車を下りると、こじんまりとしたお屋敷が目に入った。軍人様や身分の高い方は洋装をしているから、お屋敷も洋風なのだろうと杏は思っていた。だから、目の前にある和風のお屋敷に、幾分ほっとした。
家の中からはバタバタと足音が聞こえる。子どもがそういう年頃なのだろう。杏は亡くしたばかりの幼い弟たちを思い出したが、今日からはここで頑張るしかないのだと身を引き締める。
療養中の母のために、自分のせいで失くしてしまった家を再建させるために。お給金をもらうために、生きるために。
杏は意を決して、美弥子の開いた引き戸から、そのお屋敷に足を踏み入れた。
*
そして今、目の前にいるのがこの家の主、武元慶だ。下げていた頭をそっと上げる。柔らかい日差しの入る座敷の文机の前に座る彼は、杏から手元の紙に目線を移した。その顔立ちは美しいが、杏は彼から冷たい空気を感じた。
彼の両肩に乗る、妖と思わしき少年二人は相変わらず杏を見ていた。だから、三人で見つめ合う形になった。するとしばらくして、ふわふわの耳と尻尾を持った少年が口を開いた。
「女中にしちゃ、若くないか?」
「怒られなくて済みそうだ。良かったな、狐鈴」
「俺ばっか怒られてるみたいな言い方――」
「事実だろう」
口々にそう言い合った少年二人は、やがて口から火と水をそれぞれ吹く。慶の目の前でそれは打ち消し合い、水が慶の目を通していた紙に落ちてゆく。杏はぎょっとしたが、次の瞬間、水は跡形もなく消え去った。
「あなたたちがそうやって喧嘩ばかりするから、前の女中さんも辞めてしまったんじゃない!」
杏は強い口調でそう言った美弥子を振り向く。彼女は呆れた様子で二人に手をかざしていた。
「だいたい慶も慶よ。手に負えないなら――」
美弥子がそこまで言ったところで、慶がちらりと顔を上げた。美弥子を見ている。すると美弥子は何か言いたそうなまま押しだまり、ため息をこぼした。
「仕方ないこと、だものね」
「あの……」
自分が喋っても良いものか。思案しながら、杏は恐る恐る口を開いた。
「なあに、杏ちゃん」
美弥子の視線が杏を向く。きらきらとした視線から、杏は彼女の期待を感じ取った。
「奥方様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「いないわ。慶は未婚だもの」
「え!?」
思わず大きな声が出た。
つまり杏は、この美しいが冷徹そうな異能者と、妖の子どもたちと、ひとつ屋根の下で暮らすということだ。
「ごめんなさい、言ってなかったわね」
美弥子は朗らかにそう言うと、「挨拶も済んだし、こっちよ」と杏を廊下に促した。
長廊下を歩きながら、美弥子が口を開いた。
「慶は実戦部隊にいるって話したでしょ。そうするとね、時々いるのよ。抹消させた化け物の落とし子」
「じゃあ、あの子たちは――」
「そう、化け物の子。その化け物だって、元々はこの帝都で穏やかに人間のフリをして暮らす妖だったのよ。何かの原因で、理性を失いおぞましい姿に変わってしまっただけ」
美弥子はそう言うと、ため息をこぼした。
「でもだからって、未婚の育児もできない男が拾うなって話よ。だからいつまでも結婚できないんだわ、慶は」
美弥子が急に怒り口調になる。それで、杏は少し笑ってしまった。
「お優しい方なんですね、旦那様は」
杏がそう言うと、少し先を歩いていた美弥子が振り返り目を見開く。それから、複雑そうな笑みを浮かべた。
「……そうね」
こじんまりとしたお屋敷は案内もすぐに終わり、最後に三畳ほどの小さな部屋に通された。
「杏ちゃんのお部屋はここ。元々物置だったからガラクタが置いてあるけれど、もうどれも使わないものだから杏ちゃんが必要だったら使っていいわ」
美弥子はそう言ったけれど、杏は恐縮してしまった。高級そうな桐の箪笥に丸い鏡のついた鏡台、それに屏風式の衣桁。ぱっと目につくそれだけでも、きっと値の張るものだと思う。
「お布団は押し入れに入っているわ。それから、お仕事のことね。慶の分の朝と夜ご飯を作って欲しいの。お買い物とかでお金が必要だろうから、それは慶に言ってね。お台所は和風の土間なんだけれど、問題ないかしら?」
「はい、大丈夫です。私の家も、土間でした」
杏が答えると、美弥子はほっとして続ける。
「それから、お洗濯とお掃除と、時間ができたらあの子たちと遊んでくれたら最高だけれど……そんなことなくとも、勝手に遊ぶわね、あの子たちは」
美弥子が急にもごもごとしたので、杏は首を傾げた。
「子どもたちの相手は適当でいいわ。この家は慶が結界を張っているから火が出ても燃えないし、それにあの子たちは結界の外には出られなくなっているの。あ、杏ちゃんは自由に出入りできるからね」
美弥子は早口でそう言うと、まだ首を傾げたままの杏に「よろしく」と去っていった。
杏はよし、と自分に気合を入れ頬を叩いた。すると部屋の入口に、青白い角とふさふさの耳がちらちら見えているのに気がついた。
「これからよろしくお願いいたします」
杏は丁寧に、深々と頭を下げた。妖の子どもだろうとも、この家に住んでいる彼らは自分の主だ。
「お前、本当に女中なのか?」
ふさふさな尻尾を揺らしながら、ひょこっと出てきた子どもが言った。
「はい」
「本当にできるのか?」
彼はなぜか挑発するように、杏にぐいぐいと近寄ってくる。杏は目をぱちくりさせながら、口を開いた。
「精一杯勤めさせていただきます」
「そっか。俺、狐鈴。狐の妖だ」
先ほど口から火を吹いたのを見たから、少しおどおどしてしまったが、ドヤ顔で名乗ってくる彼は可愛らしい。子どもらしいそれに、杏はくすりと笑みをもらした。
「狐鈴様、どうぞよろしくお願いしますね」
すると、狐鈴の後ろにひょっこりと、青白い角が見えた。
「こいつは大流。水龍の妖だ」
「誇り高き龍神の末裔と呼べ、狐鈴」
急に狐鈴の後ろから出てきた彼は、両腕を組んでふんっと鼻を鳴らしながら得意げに言う。
「大流様も、どうぞよろしくお願いいたします」
杏は二人に再度丁寧に頭を下げ、さっそく仕事に取り掛かることにした。
まずは炊事場へ。まだ昼だが、調理するのに必要なものがあるか、確かめなければならない。後ろから妖二人が着いてきて、杏はなんだか複雑な気持ちになった。
成悟と千子は、無事天に昇れただろうか。ふと、縁側から見上げた空は青く澄んでいる。杏はここでの暮らしを頑張ろうと、再び誓った。
しかし、土間についてすぐに、杏の決意は折れかけてしまった。土間には大量の食材が貯蔵されていて、しばらくは買い物に出なくて大丈夫だと思った。しかし、米櫃は想像以上に硬く閉ざされていたし、包丁やまな板などの調理器具も高いところに隠されるように置いてあって、探すのに一苦労だった。
だけれどすぐ、それがなぜかを思い知った。杏が手を伸ばし調理器具を取っている間、ポンポンっと何かが弾けるような音がした。振り返ると、空けっぱなしにしていた米櫃から米を握りこぶしいっぱいに取り出した狐鈴が、それをひと粒ずつ宙に投げては火を吹き、弾けたところを口に運んでいたのだ。
「やっぱりうめーな、これ」
するとその隣で、大流は狐鈴が弾けさせた米粒を狙って水を吹き、それを狐鈴に食べさせまいとし始めた。あろうことか、その下には蓋の開いたままの米櫃がある。
「ああ、お米がっ!」
米は、水に濡れてはかびが生えてしまう。昔、成悟に米櫃に水を入れられたことを思いだし、杏は思わず叫んだ。
しかし二人は杏を気にもとめず、互いに火を吹き水を吹く。狐鈴が逃げ回るので、土間はあっという間に水浸しになってしまった。
想像以上に大変そうな妖の子どもたちの世話に、杏は辟易してしまう。しかし、こんなところでめげている場合ではない。
今日使う分のお米を取り分けると、杏は米櫃に蓋をしようとした。しかし、蓋は閉めるのもやっぱり固い。それが彼らのいたずら防止であることを考えたら仕方ないのかもしれないけれど、これでは骨が折れそうだ。
ため息をこぼしかけたが、それではだめだと気合を入れ、もう一度蓋に力を込める。力んでいると、不意に頭上から低い声が飛んできた。
「大丈夫か?」
はっと顔を上げる。しかしそれより早く、子どもたちが声の主の方へ駆け寄る。
「慶様!」
「出かけるのか?」
濃紫色の軍服の袖釦を留めながら、慶が土間の入り口に立っていた。美しい人は、何をしていても絵になる。杏は彼の美しさに、思わずほうっと見惚れてしまった。
「ああ」
慶はそう言うと、しゃがんでふたりの頭を撫でた。顔色は変わらないが、その口角が少しだけ上がっているように見える。
「騒がしくして申し訳ございません」
杏は慌てて頭を下げた。すると慶は杏の手元に気付いたらしい。
「お前たち、また米をだめにしたのか」
声色は鋭いが、そこに込められた少しの温かみに、杏は敏感に気付いた。きっと彼は、この子たちのことが大切なのだ。なんとなく自分と近しいものを感じ、杏の心は凪いでくる。
「ごめんなさい、慶様」
弧鈴がしゅんとする横で、大流も申し訳なさそうに頭を垂れていた。慶はため息をこぼすと立ち上がり、杏の方へやって来た。
「見せてみろ」
「は、はい」
杏は慌てて米櫃の蓋を開けた。中に手を入れると、湿った米が纏わりついてくる。すると慶は米びつに手をかざし、なにか黄色い陽炎のようなものをかけてゆく。たった数秒で米はさらさらと杏の手からこぼれ落ち、だめになったと思っていた米はすっかり元に戻っていた。
「悪いな、手間をかけた」
「い、いえ。お手間をかけさせてしまったのはこちらです。私がもっとちゃんと――」
「お前は、怒らないのだな」
慶は杏の言葉を遮ってそう言う。変わらぬ冷たい表情の中に温かみを感じ、杏の胸はなぜか高鳴った。
それから、慶は腰の辺りのポケットから何かを取り出し、杏に差し出した。
「これを肌身放さず持っていろ。お前を、狐鈴や大流のいたずらから守ってくれる」
杏が差し出した手の平に乗ったのは、お守りだった。慶の瞳の色と同じ、薄紫色だ。
「術をかけてある。二人の妖術からは守られるが、物には効かないから、この米のようなことがあったら遠慮なく言ってくれ」
「はい、かしこまりました」
杏はお守りを握ると、慶は満足したのか土間を出ていく。杏はそんな慶を、慌てて追いかけた。玄関まで、お見送りしなくては。
三和土で靴を履く慶を、狐鈴と大流と共に見送る。靴を履き終わった慶は、一度こちらに振り返った。
「家のことは姉に訊いただろう。何か聞いておきたいことはあるか」
「いえ、大丈夫です」
「では、留守を頼む」
慶はそう言うと、濃紫の軍服の裾をひるがえし家を出てゆく。杏は深々と頭を下げ、この家の主を見送った。
「杏。言っとくけどな、留守を任されたのは俺たちだからな!」
なぜか狐鈴が得意げな顔をする。杏は少し、笑ってしまった。
移動しながら話して知ったのだが、どうやら女中として働くのは彼女の元ではなく彼女の弟のお屋敷らしい。しかも、彼女の弟も帝国軍下の軍人様で、それも、異能隊の小隊長だという。
異能者といえば、人間でありながら妖のような術を使い、攻撃や治療など様々なことをする人々ことである。妖との違いはその生まれが人間か否かであり、妖は人の姿に化け〝人として〟生活しているが、異能者は元より人間である。
異能者はその特異な才のせいで、杏のような〝普通の〟人間には妖同様に怖れられてきた。しかし、妖の変体である化け物から人々を救う唯一の対抗勢力として、彼らは時に崇められてもきた。
この国が築かれた時、帝が異能者に特級身分を与えたのもその為である。帝はこの国を化け物から守るために異能者に身分を与え、その代わりに軍人として生きることを強いたのだ。
特級身分の軍人様。それも、妖と直接戦う実戦部隊の小隊長。それだけでこれから従う主がとんでもない異能を持っていることは容易に想像できた。きっと屈強で、大柄な男なのだろう。
考えただけで杏を不安が襲う。自分は女中として、異能者の家の家事育児を、うまくやっていけるのだろうか。
「そんな顔しないで。うちの弟、愛想はないけど悪い人じゃないの。むしろ人として出来損ないで、でくのぼうだから」
隣に座っている美弥子が、不意に口を開いた。
「軍の隊長様が、でくのぼうなわけないと思います」
そこまで言って顔を上げ、杏ははっとした。彼女の薄紫色の瞳は、この国の人とは思えないほど美しい。異能者は瞳の色が、どうも他の人間と違うらしいという噂を思い出したのだ。
「もしかして、美弥子様も異能者なのですか?」
すると美弥子はくすりと上品に笑った。
「ええ、そうよ。私は他人の心の中が読めちゃうの。さっきから怯えているみたいだけど、安心してちょうだい。本当に困っているだけなの」
美弥子はそう言うとくすくすと笑い出す。杏は恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして俯いた。
やがて車を下りると、こじんまりとしたお屋敷が目に入った。軍人様や身分の高い方は洋装をしているから、お屋敷も洋風なのだろうと杏は思っていた。だから、目の前にある和風のお屋敷に、幾分ほっとした。
家の中からはバタバタと足音が聞こえる。子どもがそういう年頃なのだろう。杏は亡くしたばかりの幼い弟たちを思い出したが、今日からはここで頑張るしかないのだと身を引き締める。
療養中の母のために、自分のせいで失くしてしまった家を再建させるために。お給金をもらうために、生きるために。
杏は意を決して、美弥子の開いた引き戸から、そのお屋敷に足を踏み入れた。
*
そして今、目の前にいるのがこの家の主、武元慶だ。下げていた頭をそっと上げる。柔らかい日差しの入る座敷の文机の前に座る彼は、杏から手元の紙に目線を移した。その顔立ちは美しいが、杏は彼から冷たい空気を感じた。
彼の両肩に乗る、妖と思わしき少年二人は相変わらず杏を見ていた。だから、三人で見つめ合う形になった。するとしばらくして、ふわふわの耳と尻尾を持った少年が口を開いた。
「女中にしちゃ、若くないか?」
「怒られなくて済みそうだ。良かったな、狐鈴」
「俺ばっか怒られてるみたいな言い方――」
「事実だろう」
口々にそう言い合った少年二人は、やがて口から火と水をそれぞれ吹く。慶の目の前でそれは打ち消し合い、水が慶の目を通していた紙に落ちてゆく。杏はぎょっとしたが、次の瞬間、水は跡形もなく消え去った。
「あなたたちがそうやって喧嘩ばかりするから、前の女中さんも辞めてしまったんじゃない!」
杏は強い口調でそう言った美弥子を振り向く。彼女は呆れた様子で二人に手をかざしていた。
「だいたい慶も慶よ。手に負えないなら――」
美弥子がそこまで言ったところで、慶がちらりと顔を上げた。美弥子を見ている。すると美弥子は何か言いたそうなまま押しだまり、ため息をこぼした。
「仕方ないこと、だものね」
「あの……」
自分が喋っても良いものか。思案しながら、杏は恐る恐る口を開いた。
「なあに、杏ちゃん」
美弥子の視線が杏を向く。きらきらとした視線から、杏は彼女の期待を感じ取った。
「奥方様はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「いないわ。慶は未婚だもの」
「え!?」
思わず大きな声が出た。
つまり杏は、この美しいが冷徹そうな異能者と、妖の子どもたちと、ひとつ屋根の下で暮らすということだ。
「ごめんなさい、言ってなかったわね」
美弥子は朗らかにそう言うと、「挨拶も済んだし、こっちよ」と杏を廊下に促した。
長廊下を歩きながら、美弥子が口を開いた。
「慶は実戦部隊にいるって話したでしょ。そうするとね、時々いるのよ。抹消させた化け物の落とし子」
「じゃあ、あの子たちは――」
「そう、化け物の子。その化け物だって、元々はこの帝都で穏やかに人間のフリをして暮らす妖だったのよ。何かの原因で、理性を失いおぞましい姿に変わってしまっただけ」
美弥子はそう言うと、ため息をこぼした。
「でもだからって、未婚の育児もできない男が拾うなって話よ。だからいつまでも結婚できないんだわ、慶は」
美弥子が急に怒り口調になる。それで、杏は少し笑ってしまった。
「お優しい方なんですね、旦那様は」
杏がそう言うと、少し先を歩いていた美弥子が振り返り目を見開く。それから、複雑そうな笑みを浮かべた。
「……そうね」
こじんまりとしたお屋敷は案内もすぐに終わり、最後に三畳ほどの小さな部屋に通された。
「杏ちゃんのお部屋はここ。元々物置だったからガラクタが置いてあるけれど、もうどれも使わないものだから杏ちゃんが必要だったら使っていいわ」
美弥子はそう言ったけれど、杏は恐縮してしまった。高級そうな桐の箪笥に丸い鏡のついた鏡台、それに屏風式の衣桁。ぱっと目につくそれだけでも、きっと値の張るものだと思う。
「お布団は押し入れに入っているわ。それから、お仕事のことね。慶の分の朝と夜ご飯を作って欲しいの。お買い物とかでお金が必要だろうから、それは慶に言ってね。お台所は和風の土間なんだけれど、問題ないかしら?」
「はい、大丈夫です。私の家も、土間でした」
杏が答えると、美弥子はほっとして続ける。
「それから、お洗濯とお掃除と、時間ができたらあの子たちと遊んでくれたら最高だけれど……そんなことなくとも、勝手に遊ぶわね、あの子たちは」
美弥子が急にもごもごとしたので、杏は首を傾げた。
「子どもたちの相手は適当でいいわ。この家は慶が結界を張っているから火が出ても燃えないし、それにあの子たちは結界の外には出られなくなっているの。あ、杏ちゃんは自由に出入りできるからね」
美弥子は早口でそう言うと、まだ首を傾げたままの杏に「よろしく」と去っていった。
杏はよし、と自分に気合を入れ頬を叩いた。すると部屋の入口に、青白い角とふさふさの耳がちらちら見えているのに気がついた。
「これからよろしくお願いいたします」
杏は丁寧に、深々と頭を下げた。妖の子どもだろうとも、この家に住んでいる彼らは自分の主だ。
「お前、本当に女中なのか?」
ふさふさな尻尾を揺らしながら、ひょこっと出てきた子どもが言った。
「はい」
「本当にできるのか?」
彼はなぜか挑発するように、杏にぐいぐいと近寄ってくる。杏は目をぱちくりさせながら、口を開いた。
「精一杯勤めさせていただきます」
「そっか。俺、狐鈴。狐の妖だ」
先ほど口から火を吹いたのを見たから、少しおどおどしてしまったが、ドヤ顔で名乗ってくる彼は可愛らしい。子どもらしいそれに、杏はくすりと笑みをもらした。
「狐鈴様、どうぞよろしくお願いしますね」
すると、狐鈴の後ろにひょっこりと、青白い角が見えた。
「こいつは大流。水龍の妖だ」
「誇り高き龍神の末裔と呼べ、狐鈴」
急に狐鈴の後ろから出てきた彼は、両腕を組んでふんっと鼻を鳴らしながら得意げに言う。
「大流様も、どうぞよろしくお願いいたします」
杏は二人に再度丁寧に頭を下げ、さっそく仕事に取り掛かることにした。
まずは炊事場へ。まだ昼だが、調理するのに必要なものがあるか、確かめなければならない。後ろから妖二人が着いてきて、杏はなんだか複雑な気持ちになった。
成悟と千子は、無事天に昇れただろうか。ふと、縁側から見上げた空は青く澄んでいる。杏はここでの暮らしを頑張ろうと、再び誓った。
しかし、土間についてすぐに、杏の決意は折れかけてしまった。土間には大量の食材が貯蔵されていて、しばらくは買い物に出なくて大丈夫だと思った。しかし、米櫃は想像以上に硬く閉ざされていたし、包丁やまな板などの調理器具も高いところに隠されるように置いてあって、探すのに一苦労だった。
だけれどすぐ、それがなぜかを思い知った。杏が手を伸ばし調理器具を取っている間、ポンポンっと何かが弾けるような音がした。振り返ると、空けっぱなしにしていた米櫃から米を握りこぶしいっぱいに取り出した狐鈴が、それをひと粒ずつ宙に投げては火を吹き、弾けたところを口に運んでいたのだ。
「やっぱりうめーな、これ」
するとその隣で、大流は狐鈴が弾けさせた米粒を狙って水を吹き、それを狐鈴に食べさせまいとし始めた。あろうことか、その下には蓋の開いたままの米櫃がある。
「ああ、お米がっ!」
米は、水に濡れてはかびが生えてしまう。昔、成悟に米櫃に水を入れられたことを思いだし、杏は思わず叫んだ。
しかし二人は杏を気にもとめず、互いに火を吹き水を吹く。狐鈴が逃げ回るので、土間はあっという間に水浸しになってしまった。
想像以上に大変そうな妖の子どもたちの世話に、杏は辟易してしまう。しかし、こんなところでめげている場合ではない。
今日使う分のお米を取り分けると、杏は米櫃に蓋をしようとした。しかし、蓋は閉めるのもやっぱり固い。それが彼らのいたずら防止であることを考えたら仕方ないのかもしれないけれど、これでは骨が折れそうだ。
ため息をこぼしかけたが、それではだめだと気合を入れ、もう一度蓋に力を込める。力んでいると、不意に頭上から低い声が飛んできた。
「大丈夫か?」
はっと顔を上げる。しかしそれより早く、子どもたちが声の主の方へ駆け寄る。
「慶様!」
「出かけるのか?」
濃紫色の軍服の袖釦を留めながら、慶が土間の入り口に立っていた。美しい人は、何をしていても絵になる。杏は彼の美しさに、思わずほうっと見惚れてしまった。
「ああ」
慶はそう言うと、しゃがんでふたりの頭を撫でた。顔色は変わらないが、その口角が少しだけ上がっているように見える。
「騒がしくして申し訳ございません」
杏は慌てて頭を下げた。すると慶は杏の手元に気付いたらしい。
「お前たち、また米をだめにしたのか」
声色は鋭いが、そこに込められた少しの温かみに、杏は敏感に気付いた。きっと彼は、この子たちのことが大切なのだ。なんとなく自分と近しいものを感じ、杏の心は凪いでくる。
「ごめんなさい、慶様」
弧鈴がしゅんとする横で、大流も申し訳なさそうに頭を垂れていた。慶はため息をこぼすと立ち上がり、杏の方へやって来た。
「見せてみろ」
「は、はい」
杏は慌てて米櫃の蓋を開けた。中に手を入れると、湿った米が纏わりついてくる。すると慶は米びつに手をかざし、なにか黄色い陽炎のようなものをかけてゆく。たった数秒で米はさらさらと杏の手からこぼれ落ち、だめになったと思っていた米はすっかり元に戻っていた。
「悪いな、手間をかけた」
「い、いえ。お手間をかけさせてしまったのはこちらです。私がもっとちゃんと――」
「お前は、怒らないのだな」
慶は杏の言葉を遮ってそう言う。変わらぬ冷たい表情の中に温かみを感じ、杏の胸はなぜか高鳴った。
それから、慶は腰の辺りのポケットから何かを取り出し、杏に差し出した。
「これを肌身放さず持っていろ。お前を、狐鈴や大流のいたずらから守ってくれる」
杏が差し出した手の平に乗ったのは、お守りだった。慶の瞳の色と同じ、薄紫色だ。
「術をかけてある。二人の妖術からは守られるが、物には効かないから、この米のようなことがあったら遠慮なく言ってくれ」
「はい、かしこまりました」
杏はお守りを握ると、慶は満足したのか土間を出ていく。杏はそんな慶を、慌てて追いかけた。玄関まで、お見送りしなくては。
三和土で靴を履く慶を、狐鈴と大流と共に見送る。靴を履き終わった慶は、一度こちらに振り返った。
「家のことは姉に訊いただろう。何か聞いておきたいことはあるか」
「いえ、大丈夫です」
「では、留守を頼む」
慶はそう言うと、濃紫の軍服の裾をひるがえし家を出てゆく。杏は深々と頭を下げ、この家の主を見送った。
「杏。言っとくけどな、留守を任されたのは俺たちだからな!」
なぜか狐鈴が得意げな顔をする。杏は少し、笑ってしまった。