杏は帝都から少し離れた田舎町にある、小さな家で生まれ育った。優しい父と母、それに面倒見の良い兄と弟が二人。しかし、一番下の妹が生まれてすぐに、父が化け物に襲われて他界し、母は同じ頃に病に倒れた。
 
母が軍の施設で療養することになると、他に身寄りのなかった都木沢家では杏の五歳年上の兄、天悟(てんご)が帝都の中心部に働きに出ることになった。そして杏は家に残り、弟妹たちの面倒を見ながら、兄の留守を守ることとなった。

「朝焼け雲に星一つ。人参、大根、食べよかな」

それから三年が経つ。ある寒い冬の朝、十七歳になった杏は母がよく歌っていたわらべ歌を歌いながら、朝日の差し込む炊事場で朝食の準備をしていた。

こんなに寒いのに、心は浮足立っていた。考えていたのは、数日前、買い物に出かけた時に出会ったとある青年、(たまき)朔太郎(さくたろう)のことだ。

杏はその日、七つ下の弟である優悟(ゆうご)に留守番を頼み、調味料の買い出しに出た。その時、杏は派手に転んでしまったのだが、そんな彼女に朔太郎はさっと手を差し伸べてくれたのだ。

茶色の背広に白色のシャツを来た英国風の装いの彼。この辺りでは見かけない顔だったこともあり、杏は彼のことを強く覚えていた。

目を瞑ると、朔太郎の笑みが脳裏に浮かぶ。眉目秀麗な彼の、優しい笑み。思い出すだけで、鼓動が高鳴る。

「ねーちゃん、朝ご飯なに?」

その声に、杏ははっと振り返った。まだ五歳の下の弟、成悟(せいご)がそこに立っていた。

「今日は大根よ。お隣の百地(ももち)さんに頂いたの」
「えー、大根嫌いー」

成悟がそう言うと、優悟がやってきてコツンと成悟の頭を叩いた。

「わがままを言うな。姉さんが一生懸命作ってくれているんだぞ。天悟兄さんのお給金の賜物だぞ」
「天悟兄ちゃん!」

成悟はそう言うと、途端に「大根食べるー」と奥の座敷に走っていく。

「優悟、ありがとう。千子(ちこ)も起こしてきてくれる?」

杏はまだそこに残っていた優悟に言った。彼は十歳ながらもしっかり者で、よく三歳の末っ子、千子の面倒も見てくれる。まだ幼い弟妹がいる中でも杏が安心して炊事に挑めるのは、彼の存在も大きい。

「ああ、分かったよ姉さん」

優悟はそう言うと、炊事場から去ってゆく。杏は贅沢ができないながらも少し幸せなこの時を生きることを、大切にしていた。

――ここにもし、彼がいたら。

数日前に出会ったばかりの朔太郎と寝食を共に過ごす未来を想像する。杏はまた鼓動を高鳴るのを感じながら、出来上がった朝食を居間へと運んだ。

それから数時間後。すっかり日の昇った昼間、成悟と千子が昼寝をするのを見届けると、杏は買い出しに出ることにした。朝食を作っている間に、ちょうど醤油を切らせてしまったのだ。今夜は冷えそうだから、味噌も買って煮込み料理を作りたい。

「行ってきます」
「姉さんのいない間、都木沢家は僕が守ります」

たった数時間、買い物に行くだけだ。杏は大げさだと思いながら、優悟に「よろしく頼みます」と伝え背を向けた。

目的のものを買い、商店を出る。今日は朔太郎に会えなかったと気落ちしながら帰路を歩いていると、なにやら周りが騒がしいことに気付いた。

「火事だ! 水を持ってこい!」
「あっちの道の向こうだ!」

杏は声の主が指さした方角を見た。自宅の辺りに、黒煙が上がっているのが見える。

――まさか、そんなはずは。

杏は慌てて、家までの道のりを走り出した。

「嘘……」

杏は足を止め、目の前の炎を見上げた。真っ赤な炎が隙間なく杏の生まれ育った家を包み込み、めらめらと燃えていた。しかし杏はすぐにはっとした。弟たちは、無事だろうか。

「優悟!? 成悟! 千子!!」

声を張り上げると、反動でツンとしたにおいの煙を吸い込み、噎せてしまった。だけど、弟たちがまだこの中で、助けを待っているかもしれない。そう思い、杏は手にしていた風呂敷を地面に放ると、火の中に飛び込もうとした。

「杏ちゃん!」

隣の家の百地がそんな杏の腕を掴んだ。

「離してください! まだ中に弟たちが……っ!」

涙ながらに訴えるけれど、百地は離してくれない。力の強い壮年期の男性の力に、杏は敵わない。

「今行ったら杏ちゃんもろとも焼け焦げちまうよ!」

浴びせられた怒号のせいで、杏の脳裏に炭のように黒くなった幼い三兄妹の姿が浮かんだ。それだけで、胸が張り裂けそうな気持ちになる。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。
火消したちが走り、水をかけられてゆく我が家を前にしながら、杏はやるせない気持ちでうつむく。そんな杏を見かねたのか、百地が声をかけてきた。

「きっと、化け物の仕業だ」
「……違います」

杏はぽつりとつぶやいた。

「私のせいです。私が、火の元をちゃんと確認しなかったから」

先日、朔太郎に抱いた淡い想いに気を取られ、かまどの火の処理をおろそかにしてしまったことを思い出した。その時は優悟が気付いて水をかけたため難を逃れたが、杏はこんなではいけないと自分を戒めた。
にも関わらず、今日も朝から戒めを忘れ、彼を想って浮かれていた。

家を出る前に火の元をきちんと確認していれば、こんなことにはならなかっただろう。だけど買い物に出たらまた彼に会えるかもしれないと恋心に気を取られ、それをすっかり忘れていた。

情けなさ。憤り。燃え盛る炎の音を聞きながら、杏は幼い弟たちに胸の内で懺悔を繰り返す。浮かれていた自分だけが無事でいるのが、杏は悔しくて仕方なかった。

その日の、すっかり日の沈んだ夜のこと。百地家に身を寄せていた杏の元に、天悟が飛び込んできた。

「杏だけでも無事でよかった」

天悟はそう言いながら、靴を脱ぐのも忘れて杏を抱きしめた。くたびれた背広は、彼が帝都で働く者であることを示している。

「お兄様……。留守をお預かりしているのに、こんなことになり申し訳ございません」

杏は火事が自分のせいであることに憤り、苦しくなった。

「何を言っているんだ。火事は天災、もしくは化け物の仕業。杏はこれっぽっちも悪くない」

天悟の言葉が、杏の胸を余計に苦しめる。

「お兄様もお仕事がお忙しいのに、わざわざ駆けつけてくださって……私、本当に自分が不甲斐ないです」

思わず泣きそうになる。だけど、泣いてはいけない。全ての元凶は、自分だ。杏は苦しくなる胸を必死に押さえ、奥歯を噛んで涙をこらえた。

「一人でよく頑張った。これからのことも不安だろうけれど、今は百地さんのところでな。本当は俺と一緒に来られたらいいのだけど……」

天悟は言葉を濁す。彼は帝都の新聞社で、記者として住み込みで働いている。共に帝都に行けば杏の存在が迷惑だろうことは、想像に容易い。
しかし、住む場所がなければ生きてゆけない。天悟の言葉に、杏はやるせなさを押し込めて頷くしかない。

翌日、神社の神主により土葬された弟妹たちを見送り、天悟は慌ただしく帝都へ戻っていった。

 *

それから一週間。杏は百地の家で家事手伝いをしながら過ごしていたが、時間ができればなくなってしまった自分の家の前に立ち、その更地を見て悔しさに震えていた。

全部、自分のせい。冷たい風が吹き、杏の心を余計に冷たくさせる。いつか母が戻ってきたら、また家族で楽しく暮らせると思っていた。だけどもう、それも叶わぬ夢だ。

「ごめんなさい、みんな……」

冷たい涙が頬を伝う。すると、百地の奥さんがやってきて、杏の肩を優しく叩いた。

「杏ちゃん、生きるってことはね、辛いことも乗り越えなきゃいけないのよ。夢を持つのよ。そうすれば。きっといつでも大丈夫」
「夢……」

自分の夢とはなんだろう。杏はしばし考える。

「私、いつかこの場所に家を建てたいです。母が病気から戻ってきた時に、住める家を」
「あら、いいじゃない」

奥さんの作り笑いは杏の心を慮ってのもの。だけど、杏の心はそれで決まった。

「百地さん、私、働きます。働いて、お給金を貯めて、ここに家を建てます!」
「そ、そう……」

百地の奥さんは狼狽えた様子だったが、杏の気迫に押し黙ってしまう。

「帝都に行ったら、お仕事ありますよね。私でも働ける、お仕事が!」

その時、道の向こうの方から聞き慣れぬブオンブオンという音がして、自動車がこちらに走ってくるのが見えた。車はなぜか、杏と百地の奥さんの前で止まる。

「あなた、仕事を探しているの!?」

車から降りてきた女性は一番に杏に駆け寄ると、そう言って目を輝かせた。艷やかな黒髪は断髪。その斬新な短い髪型も印象的だが、その瞳の色に杏は見入ってしまった。薄紫色の瞳。初めて見るその色は、とても美しかった。

「仕事、探しているんでしょう!」
「え、あの……」

戸惑っていると、百地の奥さんが「どちら様?」と怪訝な顔をして会話に入ってくる。

「私、春雨(はるさめ)美弥子。春雨一尉の妻なのだけれど」

一国を守る軍人様の奥方。杏と百地の奥さんは、慌ててひれ伏せた。

「そういうのはいいわ。それより! 今ね、住み込みで働ける女中を探しているのよ」
「住み込みで、ですか?」

杏が思わず顔を上げると、美弥子はそんな杏の顔をじっと覗いてくる。杏は思わずのけぞった。彼女の美しい紫の瞳に、杏が映る。

「そう! 今さっき、今日まで勤めてくれていた女中を送り届けていたところなのよ。急に辞めるっていうから、困っちゃって。あなた、家事や育児はできる?」
「はい、それなりには。幼い弟たちの世話をしていたこともあるので」
「じゃあ、ぴったりだわ! これも運命の巡り合わせね!」

彼女は胸の前で手を組むと、その場でくるりと一回転した。

「お給金はたっぷり支払うわ。してほしいことは家事と育児。もちろんあなたの寝食も保障する。ねえ、やらない?」

もう一度顔を覗き込まれ、杏の胸に希望が生まれる。

「お待ち下さい。この子は働いたことなんて一切ありません。いきなり軍人様のお家でなんて、つとまるかどうか」
「大丈夫よ! ちょーっと手のかかる子どもたちがいるけれど、それ以外は普通の家と一緒だから!」

百地の奥さんは恐縮しきっていたが、美弥子が朗らかな声でそれを説得する。

「私の弟もやんちゃだったので分かります。私も、よく手を焼いていました」
「あら、ならぴったりじゃない!」

美弥子の目はキラキラとしている。その薄紫の輝きに、杏は心を動かされていた。

「でも本当に私などで、つとまるでしょうか?」
「全然大歓迎よ! 不安なら、とにかく一度働いてみたらいいわ!」

美弥子の勢いは止まらない。『とにかく一度』その言葉が、杏を取り込んでゆく。

「お願い。どうか助けてほしいの」

そんなことを言われたら、断れない。

「分かりました。私でよろしければ」
「本当!?」

美弥子はこちらがびっくりするくらいに目を瞬かせ、杏の手を取るとぶんぶんと上下に振った。