まぶたの内側がほの明るくなり、芯はゆっくりと目を開けた。ぼんやりと見えた自室は荒れ放題に荒れている。
起きて、掃除をしなければ。
わかっていても起き上がる気にはならず、芯は枕を引き寄せて、もう一度目をつむる。部屋の明るさ的に、もう昼過ぎだ。
いつもだったら、サンドイッチを食べようと奏太に誘われるくらいの時間だろうか。しかし今日は、空腹は感じても、なにかを食べる気持ちにはならない。
洋館を飛び出してから今日までの四日間、胃のあたりで、強く握られたような痛みが続いている。その間ずっと、芯は奏太に会っていない。
会いたい気持ちはあるのに、体が動かないのだ。自分の体が思い通りに動かない様子は、まるで学校に行けない日の朝のようだった。
自分が突然来なくなって、奏太はどう思っているだろうか。
フラれたくらいでピアノを諦める、根性なしだと思われただろうか。
ごめんね、と謝られた時の、困ったような笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。ピアノのことも奏太のこともまだ好きなのに、あの表情を思い出すと、一歩踏み出すのがたまらなく怖くなる。
迷い、悩んでばかりの自分とは全く違う、強い意志の宿った瞳だった。奏太は奏太なりに、色々なことを考え、乗り越えて、ああ言ったのだろうと芯は思った。
だったらもう、会わない方がいいのではないか――奏太が決めた未来の邪魔をしないために。自分が寂しさで押しつぶされないために。
俺は三日坊主だから大丈夫、と、芯は自分に言い聞かせた。ピアノを弾きたいと思う気持ちも、奏太の柔らかい唇を恋しく思う気持ちも、ただ一時の衝動にすぎないはずだ、と。
この苦しさも、時が経てば、きっと綺麗さっぱり割り切ることができる。今までずっと、色々なものに興味をもっては、すぐに飽きて忘れてきたように。
母が迎えに来る日が、今となっては待ち遠しかった。ここにいる限り、自分は奏太に会いたくなってしまうから。
ままならない現実から目を逸らそうと、芯は強制的に、自らの思考を停止させた。どうせ自分には、予定などないのだ。寝れるだけ寝てやろうと、意味もなく開き直ってみる。
夕方、玄関の外から物音が聞こえてきて、芯は目を覚ました。じっと耳を澄ませると、一人分の足音に続いて、扉の開く音がした。
母かもしれない、と思い至り、芯は飛び起きた。荒れ放題の自室と同じく、一階もなかなかに酷い有様なのだ。母に見られたら、何時間お説教されるかわかったものではない。
芯は自室を出て階段を下り、気配を追ってキッチンへと向かった。短い廊下を進むと、ビニール袋同士が擦れる音が、部屋の中から聞こえてくる。
雷が落ちるのを覚悟して覗いた芯はしかし、そこにいた人物を見て目を丸くした。
「じいちゃん……?」
半信半疑の芯の呼びかけに、赤いチェックのシャツを着た、少し丸まった背中が振り返る。祖父は芯の姿を認めると、目元のシワを深くして懐かしそうに笑った。
「よう、芯。大きくなったなあ」
想像以上に親しげな声が返ってきて、芯は内心戸惑った。目を泳がせつつ、とにかくなにか反応しなければと思い、「ああ」とか「まあ」とか曖昧に返事をしてうなずいてみる。
祖父と最後にまともに話したのは、小学校低学年の頃だっただろうか。
七歳の時に祖母が亡くなってから、祖父とはめっきり疎遠になった。今も、「この家の鍵を持っている老人」という条件で脳内を検索して、目の前のこの人間を祖父だと思っただけである。
名乗る間もなく「芯」と呼ばれたことで、彼が本当に自分の祖父だということを、今ようやく信じたくらいだ。それほどまでに、芯の幼い頃の記憶は朧げだった。
「じいちゃんはあと一週間くらいは帰ってこないって、母さんから聞いたんだけど」
母の言葉を思い出して、芯はおずおずと尋ねる。聞いた話の通りにいけば、自分は祖父と入れ替えで東京の家に帰る予定だったはずだ。
「明日から一週間は、関西の友だちに会ってくるからなあ。宿代わりに、今日だけここに戻ってきたんだ。俺のことは構わなくていいぞ、芯」
そんなことを言われても、いくら身内とはいえ、これだけ交流がなければ他人も同然だ。しかも自分は、居候としてこの家に住まわせてもらっている立場なわけで。
困ったそばから、シワだらけの手が冷凍食品やカップラーメンのゴミを片づけていることに気がついて、芯は慌てて祖父の元へ寄った。
「ごめん、散らかして」
「ん? いい、いい。男なんてこんなもんだ」
「でも」
「じゃあ、風呂沸かしてきてくれや。飛行機乗ったら、体が痛くて敵わん」
そう言う祖父の手は、手伝う隙もないほどテキパキと動いている。仕方がないので、芯はキッチンを出て風呂場へ向かった。
普段はシャワーで済ませているのもあって、この家の浴槽をまじまじと覗き込むのは初めてだった。ホコリや水垢で汚れていて、とてもじゃないが、そのまま使える状態ではない。
掃除をしてからお湯を溜めることに決めた芯は、シャワーで全体をざっと濡らし、浴槽内の手すりに吊るしてあった洗剤とスポンジを手に取った。
スプレーで泡を吹きかけて、端から順に擦っていく。小さな浴槽とはいえ、頑固な汚れを取ろうと力を込めれば、少し汗をかくくらいには体力を使った。
不登校の判明から約二ヶ月半、こんなに集中して体を動かしたのは久しぶりだった。単純作業に没頭することで、寝過ぎでぼんやりとしていた意識がはっきりしてくる。
最後に泡を流すと、浴槽は見違えるほど綺麗になっていた。栓をして給湯器のボタンを押し、ささやかな達成感を覚えながらキッチンに戻ると、祖父は調理台でニンジンを切っていた。
「風呂、やってきたけど」
「おお、ありがとさん。夕飯、芯も食べるだろ」
恐る恐る覗き込むと、流しに溜まっていた箸やグラスは全て洗われ、水切りカゴに並べられていた。軽く磨いたのか、ステンレスのシンクも、部屋の灯りを反射して光っている。
「ごめん、じいちゃん。なんか他にやることある?」
ぐうたらの後始末をさせた上、夕食まで作らせてしまったとなれば、さすがにいたたまれない気持ちになった。自分一人ならいくらでもだらしなくするが、高校生にもなって身の回りのことを人にやらせるのは、ずいぶんと憚られた。
「大丈夫だから座っとき。そんな大したもんは作っとらん」
芯の訴えも虚しく、祖父はやはり、手出しのしようがないほどの手際のよさで、冷蔵庫から出した豚肉をフライパンに入れた。芯は諦めて、言われた通りキッチンの椅子に座り、料理の完成を待った。
五分ほどで完成したのは、シンプルな肉野菜炒めだった。祖父が肉野菜炒めを皿に盛っている間、芯は二人分の茶碗に白米をよそって、箸と飲み物を準備した。
母の作る料理よりはだいぶ簡素な夕食だが、久しぶりにレトルト以外の食材の匂いをかいで、芯の腹はにわかに空腹を訴えた。今度こそ、「食べたい」という明確な欲求を伴う、正真正銘の空腹感だ。
祖父と向かい合わせで座り、同時に手を合わせて「いただきます」と唱える。手に取った箸は、自然と中央の大皿に伸びた。豚肉とキャベツを同時に口に含んで、芯は思わず「おいしい」とつぶやく。
味がしっかりとついていて、胡椒の効き加減も絶妙だ。白米をかき込む芯を見て、祖父は嬉しそうに前歯を見せた。
「よかったよかった。芯は昔っから、これが好きだからなあ」
祖父の言葉に驚いて、芯は茶碗から顔を上げる。「俺、前にもこれ食べたことあるの?」と尋ねると、祖父はもちろんとうなずいた。
「お前が小学校に上がる前までは、 奈美恵はよくうちに来てたからな。ばあさんがいない時なんかは、俺が昼飯作ってやったんだぞ」
そんなこともあったのか、と芯は驚く。祖父といえば疎遠、というイメージが強すぎて、自分はどうやら、予想以上に色々なことを忘れているらしい。
「俺ってどんな子どもだった?」
好奇心から問いかけると、祖父は懐かしそうな表情で口を開く。
「芯は珍しい物があるとすぐに飛びついて、そのくせすぐに飽きてグズってたぞ」
ベビーベッドの上のモビール。新しいブランケット。見たことのない遊具。初めてやる遊び。初めて出会う人。
幼い芯はなんにでも興味を持つ子どもで、いつも目をきらきらと輝かせて動き回っていたそうだ。子どもらしい代わりに落ち着きもなく、興味の対象がころころ変わるので、母は当時から、芯の将来を案じていたらしい。
「こんなに飽きっぽくて大丈夫かしら、ってな。そんなこと今から心配したって仕方ねえだろって俺は言ってやったけど、あいつも昔っから、心配性だからなあ」
三つ子の魂百までってやつだ、とつけ加えて、祖父は豪快に笑った。「どうだい、奈美恵は元気かい?」と尋ねられて、「元気だよ」と答える。「相変わらず細かいか?」と聞かれて、芯は思わず沈黙する。
「はは、お前、いい子に育ったなあ」
芯は妙にくすぐったい気持ちになった。幼稚園児に向けられるような微笑みで見つめられるのは、ごく一般的な男子高校生としては、気恥ずかしいことこの上ない。
「そんなことない。母さんが心配した通りだ。俺、これから先やっていける自信とか、全然ないし」
照れ隠しついでに吐いた弱音は、予想以上に深刻な雰囲気をまとっていた。不登校になってから二ヶ月半、じめじめグルグル考えた結果を目の当たりにして、胃の辺りが再び痛み始める。
すっかりうつむいてしまった芯を前に、「ずいぶん弱気だな」と祖父は苦笑した。
「学校、行けてないって聞いたぞ。いじめか?」
この家を借りる話をした際に、祖父は母から、芯に関するだいたいの事情を聞いているはずだ。それでも尋ねてくるのは、芯の言葉を引き出して、相談にのろうとしてくれているからだろうか。
「違うよ。そうだったら楽だなって思ってるくらい」
祖父が意外そうに片眉を上げる。それに促されて、芯は箸を動かす手を止めた。視線を落として、テーブル中央の肉野菜炒めを見つめながら、ぽつぽつと言葉を落とす。
「なんで学校に行けないか、自分でもずっとわからないんだ。だけど母さんは、学校に行けない理由とか、どうやったら行けるようになるのかとか、すごい聞いてくるから。わかりやすい理由があれば、色々問い詰められなくて楽だなって……こんなこと、思っちゃいけないのもわかってるけど」
芯がそう打ち明けても、祖父は怒らなかった。
「まあ芯は、昔から自由だからな。ただでさえ人間なんて、自分のことなんか全然、わかっちゃいないんだから」
そう答えたきり、祖父はまた自分の食事に戻っていった。静かに米や肉を咀嚼する祖父に合わせて、芯も黙々と自分の食事を続けた。
塩胡椒の味や野菜の歯ごたえに集中していると、ここ数日の悶々とした気持ちが、少し落ち着いていく。ちゃんとご飯を食べるって大事なんだと感心してから、奏太はなにをしているだろうかと考えた。
奏太はもう、夕食は食べただろうか。それともまだ、粘ってピアノを弾いているのだろうか。
ギムナジウムの勉強って、日本の高校とどう違うのだろう。あの洋館の風呂はやっぱり、浴槽はなくてシャワーだけなのだろうか。
せっかく好きになったのに、そんなささいなことすらわからない。ずっと、自分のことばっかりだったな、と気づけば、芯の胸はきりりと痛む。
ピアノが上達したことを、奏太は「芯のおかげ」と言った。けれど、そんなのはやっぱり違うと、芯は思う。
自分は本当に、ただ好きなように振舞っただけだ。奏太の演奏をすごいと思ったからそう伝えた。ピアノや奏太を好きだと思ったから、足繫くあの洋館に通ったし、励ましたり協力したりしたいと思った。
むしろすごいのは――そんな芯を受け入れ、ピアノまで教えてくれたのは、他でもない奏太だ。
なのに自分は、まだ感謝の気持ちすら伝えていない。勝手に告白して、勝手に傷ついて、せっかく教えてもらったピアノさえ、中途半端なまま放り出して逃げ出した。
母のことを言えないくらい、自分は奏太に対して身勝手だった。そう気づいたとたん、喉の奥がぐっと詰まって、体温が急激に下がっていく。
俺はなんて駄目な人間なんだろう。
落ち着いて冷静になった頭でしみじみと考えてしまい、芯は大きくため息をついた。そんな芯の様子を見て、祖父は興味深々といった視線をよこす。
「なんだ、恋煩いか」
「えっ? ち、違うよ」
咄嗟に否定した芯に、祖父はにやにやと笑いかける。「男同士だろ。遠慮するなよ」と嬉しそうに言って、グラスに注いであった水を一気に飲み干した。
「いいか、芯。人生も恋愛も、楽しんだもん勝ちなんだ。生きてく上で一番やっちゃいけないことって、芯は知ってるか?」
突然問われ、芯は首を横に振った。そんな芯を見て、祖父はくつくつと愉快そうに笑うと、確信に満ちた口調で言い切った。
「できない理由を考えることだ」
少し白みがかった黒目が、芯の姿をじっと見つめていた。その目にはもしかしたら、芯には見えない色々なものが、鮮明に映っているのかもしれない。
学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。
アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
「そうやって生きていかないと、人生はできないことだらけになっちまう。そんなのお前、耐えられないだろ」
出口のない暗闇に、ひと筋の光が差す。思わず顔を上げると、目が合った祖父は少しはにかんで、「まあ全部、ばあさんの受け売りだけどな」と付け加えた。
「死に際に言ってたんだ。もっとああしたかった、こうしたかったって。だから俺は、ばあさんができなかった分まで、今自由にさせてもらってる」
全然かまってやれなくて悪いな。応援してるから、まあせいぜい頑張れや。
祖父はそう言って、自分の食器を流しに置くと、風呂に入ると宣言してキッチンを出ていった。すれ違いざまに二度、頭をぽんぽんと撫でられて、芯は小さな頃の記憶を思い出した。
――バスに揺られていた。隣には祖父が座っていた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、振動に体を揺らし、乗り降りする人々の服装や仕草を楽しんだ。
バス停を告げるアナウンスが、芯の耳を心地よく撫でる。思えば昔は、今よりもっと、世界には音があふれていた。低い走行音や後ろの席から聞こえる異国の言葉だけで、わくわくと胸が躍る時代があった。
道行く大人の真似をしては、なんにでもなれたような気がしていた。夢は無限に広がっていて、世界は芯を愛していた。
きっと世界は、あの頃も今も変わらない。先に裏切ったのは芯の方だ。意味や理由にとらわれて、そうしなければならないと思い込んで。
芯は唇を引き結んで、食べかけの夕食を見つめた。しばらくそうしてから、もう一度箸を持ち、米と肉と野菜を順番に口に運んでしっかりと噛む。
程よい塩味が味蕾を刺激し、胡椒の香りが、すっきりと鼻腔を通り過ぎた。その感覚と一緒に、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくような心地になる。
芯は残りの肉野菜炒めと白米を食べきってから、きちんと皿洗いをして風呂に入った。その日の夜は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。
起きて、掃除をしなければ。
わかっていても起き上がる気にはならず、芯は枕を引き寄せて、もう一度目をつむる。部屋の明るさ的に、もう昼過ぎだ。
いつもだったら、サンドイッチを食べようと奏太に誘われるくらいの時間だろうか。しかし今日は、空腹は感じても、なにかを食べる気持ちにはならない。
洋館を飛び出してから今日までの四日間、胃のあたりで、強く握られたような痛みが続いている。その間ずっと、芯は奏太に会っていない。
会いたい気持ちはあるのに、体が動かないのだ。自分の体が思い通りに動かない様子は、まるで学校に行けない日の朝のようだった。
自分が突然来なくなって、奏太はどう思っているだろうか。
フラれたくらいでピアノを諦める、根性なしだと思われただろうか。
ごめんね、と謝られた時の、困ったような笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。ピアノのことも奏太のこともまだ好きなのに、あの表情を思い出すと、一歩踏み出すのがたまらなく怖くなる。
迷い、悩んでばかりの自分とは全く違う、強い意志の宿った瞳だった。奏太は奏太なりに、色々なことを考え、乗り越えて、ああ言ったのだろうと芯は思った。
だったらもう、会わない方がいいのではないか――奏太が決めた未来の邪魔をしないために。自分が寂しさで押しつぶされないために。
俺は三日坊主だから大丈夫、と、芯は自分に言い聞かせた。ピアノを弾きたいと思う気持ちも、奏太の柔らかい唇を恋しく思う気持ちも、ただ一時の衝動にすぎないはずだ、と。
この苦しさも、時が経てば、きっと綺麗さっぱり割り切ることができる。今までずっと、色々なものに興味をもっては、すぐに飽きて忘れてきたように。
母が迎えに来る日が、今となっては待ち遠しかった。ここにいる限り、自分は奏太に会いたくなってしまうから。
ままならない現実から目を逸らそうと、芯は強制的に、自らの思考を停止させた。どうせ自分には、予定などないのだ。寝れるだけ寝てやろうと、意味もなく開き直ってみる。
夕方、玄関の外から物音が聞こえてきて、芯は目を覚ました。じっと耳を澄ませると、一人分の足音に続いて、扉の開く音がした。
母かもしれない、と思い至り、芯は飛び起きた。荒れ放題の自室と同じく、一階もなかなかに酷い有様なのだ。母に見られたら、何時間お説教されるかわかったものではない。
芯は自室を出て階段を下り、気配を追ってキッチンへと向かった。短い廊下を進むと、ビニール袋同士が擦れる音が、部屋の中から聞こえてくる。
雷が落ちるのを覚悟して覗いた芯はしかし、そこにいた人物を見て目を丸くした。
「じいちゃん……?」
半信半疑の芯の呼びかけに、赤いチェックのシャツを着た、少し丸まった背中が振り返る。祖父は芯の姿を認めると、目元のシワを深くして懐かしそうに笑った。
「よう、芯。大きくなったなあ」
想像以上に親しげな声が返ってきて、芯は内心戸惑った。目を泳がせつつ、とにかくなにか反応しなければと思い、「ああ」とか「まあ」とか曖昧に返事をしてうなずいてみる。
祖父と最後にまともに話したのは、小学校低学年の頃だっただろうか。
七歳の時に祖母が亡くなってから、祖父とはめっきり疎遠になった。今も、「この家の鍵を持っている老人」という条件で脳内を検索して、目の前のこの人間を祖父だと思っただけである。
名乗る間もなく「芯」と呼ばれたことで、彼が本当に自分の祖父だということを、今ようやく信じたくらいだ。それほどまでに、芯の幼い頃の記憶は朧げだった。
「じいちゃんはあと一週間くらいは帰ってこないって、母さんから聞いたんだけど」
母の言葉を思い出して、芯はおずおずと尋ねる。聞いた話の通りにいけば、自分は祖父と入れ替えで東京の家に帰る予定だったはずだ。
「明日から一週間は、関西の友だちに会ってくるからなあ。宿代わりに、今日だけここに戻ってきたんだ。俺のことは構わなくていいぞ、芯」
そんなことを言われても、いくら身内とはいえ、これだけ交流がなければ他人も同然だ。しかも自分は、居候としてこの家に住まわせてもらっている立場なわけで。
困ったそばから、シワだらけの手が冷凍食品やカップラーメンのゴミを片づけていることに気がついて、芯は慌てて祖父の元へ寄った。
「ごめん、散らかして」
「ん? いい、いい。男なんてこんなもんだ」
「でも」
「じゃあ、風呂沸かしてきてくれや。飛行機乗ったら、体が痛くて敵わん」
そう言う祖父の手は、手伝う隙もないほどテキパキと動いている。仕方がないので、芯はキッチンを出て風呂場へ向かった。
普段はシャワーで済ませているのもあって、この家の浴槽をまじまじと覗き込むのは初めてだった。ホコリや水垢で汚れていて、とてもじゃないが、そのまま使える状態ではない。
掃除をしてからお湯を溜めることに決めた芯は、シャワーで全体をざっと濡らし、浴槽内の手すりに吊るしてあった洗剤とスポンジを手に取った。
スプレーで泡を吹きかけて、端から順に擦っていく。小さな浴槽とはいえ、頑固な汚れを取ろうと力を込めれば、少し汗をかくくらいには体力を使った。
不登校の判明から約二ヶ月半、こんなに集中して体を動かしたのは久しぶりだった。単純作業に没頭することで、寝過ぎでぼんやりとしていた意識がはっきりしてくる。
最後に泡を流すと、浴槽は見違えるほど綺麗になっていた。栓をして給湯器のボタンを押し、ささやかな達成感を覚えながらキッチンに戻ると、祖父は調理台でニンジンを切っていた。
「風呂、やってきたけど」
「おお、ありがとさん。夕飯、芯も食べるだろ」
恐る恐る覗き込むと、流しに溜まっていた箸やグラスは全て洗われ、水切りカゴに並べられていた。軽く磨いたのか、ステンレスのシンクも、部屋の灯りを反射して光っている。
「ごめん、じいちゃん。なんか他にやることある?」
ぐうたらの後始末をさせた上、夕食まで作らせてしまったとなれば、さすがにいたたまれない気持ちになった。自分一人ならいくらでもだらしなくするが、高校生にもなって身の回りのことを人にやらせるのは、ずいぶんと憚られた。
「大丈夫だから座っとき。そんな大したもんは作っとらん」
芯の訴えも虚しく、祖父はやはり、手出しのしようがないほどの手際のよさで、冷蔵庫から出した豚肉をフライパンに入れた。芯は諦めて、言われた通りキッチンの椅子に座り、料理の完成を待った。
五分ほどで完成したのは、シンプルな肉野菜炒めだった。祖父が肉野菜炒めを皿に盛っている間、芯は二人分の茶碗に白米をよそって、箸と飲み物を準備した。
母の作る料理よりはだいぶ簡素な夕食だが、久しぶりにレトルト以外の食材の匂いをかいで、芯の腹はにわかに空腹を訴えた。今度こそ、「食べたい」という明確な欲求を伴う、正真正銘の空腹感だ。
祖父と向かい合わせで座り、同時に手を合わせて「いただきます」と唱える。手に取った箸は、自然と中央の大皿に伸びた。豚肉とキャベツを同時に口に含んで、芯は思わず「おいしい」とつぶやく。
味がしっかりとついていて、胡椒の効き加減も絶妙だ。白米をかき込む芯を見て、祖父は嬉しそうに前歯を見せた。
「よかったよかった。芯は昔っから、これが好きだからなあ」
祖父の言葉に驚いて、芯は茶碗から顔を上げる。「俺、前にもこれ食べたことあるの?」と尋ねると、祖父はもちろんとうなずいた。
「お前が小学校に上がる前までは、 奈美恵はよくうちに来てたからな。ばあさんがいない時なんかは、俺が昼飯作ってやったんだぞ」
そんなこともあったのか、と芯は驚く。祖父といえば疎遠、というイメージが強すぎて、自分はどうやら、予想以上に色々なことを忘れているらしい。
「俺ってどんな子どもだった?」
好奇心から問いかけると、祖父は懐かしそうな表情で口を開く。
「芯は珍しい物があるとすぐに飛びついて、そのくせすぐに飽きてグズってたぞ」
ベビーベッドの上のモビール。新しいブランケット。見たことのない遊具。初めてやる遊び。初めて出会う人。
幼い芯はなんにでも興味を持つ子どもで、いつも目をきらきらと輝かせて動き回っていたそうだ。子どもらしい代わりに落ち着きもなく、興味の対象がころころ変わるので、母は当時から、芯の将来を案じていたらしい。
「こんなに飽きっぽくて大丈夫かしら、ってな。そんなこと今から心配したって仕方ねえだろって俺は言ってやったけど、あいつも昔っから、心配性だからなあ」
三つ子の魂百までってやつだ、とつけ加えて、祖父は豪快に笑った。「どうだい、奈美恵は元気かい?」と尋ねられて、「元気だよ」と答える。「相変わらず細かいか?」と聞かれて、芯は思わず沈黙する。
「はは、お前、いい子に育ったなあ」
芯は妙にくすぐったい気持ちになった。幼稚園児に向けられるような微笑みで見つめられるのは、ごく一般的な男子高校生としては、気恥ずかしいことこの上ない。
「そんなことない。母さんが心配した通りだ。俺、これから先やっていける自信とか、全然ないし」
照れ隠しついでに吐いた弱音は、予想以上に深刻な雰囲気をまとっていた。不登校になってから二ヶ月半、じめじめグルグル考えた結果を目の当たりにして、胃の辺りが再び痛み始める。
すっかりうつむいてしまった芯を前に、「ずいぶん弱気だな」と祖父は苦笑した。
「学校、行けてないって聞いたぞ。いじめか?」
この家を借りる話をした際に、祖父は母から、芯に関するだいたいの事情を聞いているはずだ。それでも尋ねてくるのは、芯の言葉を引き出して、相談にのろうとしてくれているからだろうか。
「違うよ。そうだったら楽だなって思ってるくらい」
祖父が意外そうに片眉を上げる。それに促されて、芯は箸を動かす手を止めた。視線を落として、テーブル中央の肉野菜炒めを見つめながら、ぽつぽつと言葉を落とす。
「なんで学校に行けないか、自分でもずっとわからないんだ。だけど母さんは、学校に行けない理由とか、どうやったら行けるようになるのかとか、すごい聞いてくるから。わかりやすい理由があれば、色々問い詰められなくて楽だなって……こんなこと、思っちゃいけないのもわかってるけど」
芯がそう打ち明けても、祖父は怒らなかった。
「まあ芯は、昔から自由だからな。ただでさえ人間なんて、自分のことなんか全然、わかっちゃいないんだから」
そう答えたきり、祖父はまた自分の食事に戻っていった。静かに米や肉を咀嚼する祖父に合わせて、芯も黙々と自分の食事を続けた。
塩胡椒の味や野菜の歯ごたえに集中していると、ここ数日の悶々とした気持ちが、少し落ち着いていく。ちゃんとご飯を食べるって大事なんだと感心してから、奏太はなにをしているだろうかと考えた。
奏太はもう、夕食は食べただろうか。それともまだ、粘ってピアノを弾いているのだろうか。
ギムナジウムの勉強って、日本の高校とどう違うのだろう。あの洋館の風呂はやっぱり、浴槽はなくてシャワーだけなのだろうか。
せっかく好きになったのに、そんなささいなことすらわからない。ずっと、自分のことばっかりだったな、と気づけば、芯の胸はきりりと痛む。
ピアノが上達したことを、奏太は「芯のおかげ」と言った。けれど、そんなのはやっぱり違うと、芯は思う。
自分は本当に、ただ好きなように振舞っただけだ。奏太の演奏をすごいと思ったからそう伝えた。ピアノや奏太を好きだと思ったから、足繫くあの洋館に通ったし、励ましたり協力したりしたいと思った。
むしろすごいのは――そんな芯を受け入れ、ピアノまで教えてくれたのは、他でもない奏太だ。
なのに自分は、まだ感謝の気持ちすら伝えていない。勝手に告白して、勝手に傷ついて、せっかく教えてもらったピアノさえ、中途半端なまま放り出して逃げ出した。
母のことを言えないくらい、自分は奏太に対して身勝手だった。そう気づいたとたん、喉の奥がぐっと詰まって、体温が急激に下がっていく。
俺はなんて駄目な人間なんだろう。
落ち着いて冷静になった頭でしみじみと考えてしまい、芯は大きくため息をついた。そんな芯の様子を見て、祖父は興味深々といった視線をよこす。
「なんだ、恋煩いか」
「えっ? ち、違うよ」
咄嗟に否定した芯に、祖父はにやにやと笑いかける。「男同士だろ。遠慮するなよ」と嬉しそうに言って、グラスに注いであった水を一気に飲み干した。
「いいか、芯。人生も恋愛も、楽しんだもん勝ちなんだ。生きてく上で一番やっちゃいけないことって、芯は知ってるか?」
突然問われ、芯は首を横に振った。そんな芯を見て、祖父はくつくつと愉快そうに笑うと、確信に満ちた口調で言い切った。
「できない理由を考えることだ」
少し白みがかった黒目が、芯の姿をじっと見つめていた。その目にはもしかしたら、芯には見えない色々なものが、鮮明に映っているのかもしれない。
学校に行けない理由を考えるんじゃなくて、学校に行きたくなる理由を作ること。
アプローチできない理由を考えるんじゃなくて、好きだと思った気持ちを大事にすること。
「そうやって生きていかないと、人生はできないことだらけになっちまう。そんなのお前、耐えられないだろ」
出口のない暗闇に、ひと筋の光が差す。思わず顔を上げると、目が合った祖父は少しはにかんで、「まあ全部、ばあさんの受け売りだけどな」と付け加えた。
「死に際に言ってたんだ。もっとああしたかった、こうしたかったって。だから俺は、ばあさんができなかった分まで、今自由にさせてもらってる」
全然かまってやれなくて悪いな。応援してるから、まあせいぜい頑張れや。
祖父はそう言って、自分の食器を流しに置くと、風呂に入ると宣言してキッチンを出ていった。すれ違いざまに二度、頭をぽんぽんと撫でられて、芯は小さな頃の記憶を思い出した。
――バスに揺られていた。隣には祖父が座っていた。つり革や手すりの煌めきに目を奪われ、振動に体を揺らし、乗り降りする人々の服装や仕草を楽しんだ。
バス停を告げるアナウンスが、芯の耳を心地よく撫でる。思えば昔は、今よりもっと、世界には音があふれていた。低い走行音や後ろの席から聞こえる異国の言葉だけで、わくわくと胸が躍る時代があった。
道行く大人の真似をしては、なんにでもなれたような気がしていた。夢は無限に広がっていて、世界は芯を愛していた。
きっと世界は、あの頃も今も変わらない。先に裏切ったのは芯の方だ。意味や理由にとらわれて、そうしなければならないと思い込んで。
芯は唇を引き結んで、食べかけの夕食を見つめた。しばらくそうしてから、もう一度箸を持ち、米と肉と野菜を順番に口に運んでしっかりと噛む。
程よい塩味が味蕾を刺激し、胡椒の香りが、すっきりと鼻腔を通り過ぎた。その感覚と一緒に、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくような心地になる。
芯は残りの肉野菜炒めと白米を食べきってから、きちんと皿洗いをして風呂に入った。その日の夜は久しぶりに、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。