翌日。空の父親――和己がやってきた。陽翔を病院へと連れていくためだ。
こまめに水分を与えていたのがよかったのか、陽翔の具合が昨夜より悪化している様子はない。
「お世話になります」
陽翔を抱っこして車に乗り込むと、後部座席には椅子型のジュニアシートが取り付けてあった。
「それ、陸が使ってたやつ」
助手席に座った空が振り返る。
「困ったときはお互いさまだ。それに、櫻井に出張を指示したのは私だからな……」
ぼそりと言った和己の言葉の最後のほうは、海斗はうまく聞き取れなかった。
かかりつけの小児科医院まで送ってもらい、診察が終わったら連絡するようにと空は言う。
「あとでまた、迎えに来るから。終わったら、連絡して」
「迎えにくるのは、おまえじゃないだろう?」
そんな親子のやりとりに、秋山家の日常が垣間見えた。
「ありがとうございます」
ここまでくれば一人でも大丈夫だ。陽翔はうとうとと眠ったり覚醒したりを繰り返している。
診察の結果、空が言っていたようにウィルス性の胃腸炎とのことで、点滴をすることとなった。
針を刺す瞬間だけは目を背けたくなったが、陽翔の表情は次第に凪いでいく。
ポタリ、ポタリと規則的に落ちていく薬剤の動きが、海斗を眠りへと誘う。
どのくらい眠っていたのかわからない。
だけど、はっとして顔をあげると、薬剤はずいぶんと減っていた。
――ピーピー。
アラームのような音が鳴って、担当の看護師がやってくる。
「はい。これでおしまいです」
点滴が外された陽翔の腕には、小さくテープを貼られる。その上にアニメキャラのシールを貼ってもらい、陽翔はご満悦だった。
――やっぱり、胃腸炎だった。これから、薬をもらいます。
空にメッセージを送る。
――そうか。原因がわかって、よかったな。
すとんと、心の中の何かが落ちた。
体調が悪い陽翔のことはもちろん心配だった。だけど、その根本にあったのは、原因がわからないという不安からくるものだ。
原因がわかったことでどのように対処したらいいかがわかり、今なら前向きに陽翔の世話をしようと思える。
それを空からのメッセージによって気づかされた。
薬局で薬をもらっていると、航太から「駅についた」と連絡があった。始発の新幹線で帰ってきたようだ。
ゆるゆると締め付けられていた心が、ゆるんでいく。これが、不安から解放される気持ちなのだろう。
病院で点滴を受けた陽翔は、午後になれば家中を歩き回るくらいにまで回復していた。
昨夜のあの状態は嘘だったのでは、と思えるほど。
「子どもって、そんなもんだ」
テーブルの上には、航太の出張土産が並んでいる。昨日、駅についてさっさと買っておいてよかったと言っていた。
「ハル~プリン食べるか?」
「たべる」
航太の足元に寄ってきた陽翔は、ひな鳥のように口を開けて待っている。
「なんだ? 食べさせてほしいのか? ほら、緑色のプリンだぞ~」
「え? 抹茶? ハル、食べないんじゃない?」
「高級お抹茶プリンだぞ」
スプーンですくって、陽翔の口へ突っ込むと、その途端に陽翔は変な顔をする。
「ほら、言ったとおりじゃん。ハルにはまだ早いんだって」
「なんだよ、もったいないな。いいよ、パパが全部食べてやる」
「あ、ハル。胃腸炎だから……お父さん、うつるかもよ?」
「心配するな。あとでアルコール消毒するから」
「お父さんの看病はしないからね」
そう言った海斗も抹茶プリンを一つ手に取った。ふたを開けると、抹茶の香ばしいにおいが鼻孔を刺激する。
「……そういえば。お父さんと秋山くんのお父さんって、どんな関係?」
帰りの車の中で、和己が言ったのだ。
櫻井も帰ってきたから、もう大丈夫だ、と――。
「あぁ、会社の上司。今回の出張もあの人の命令。いや、本当は出張もあの人だったんだよ。だけど、家の都合がうんたらかんたらで、俺になったわけ」
家の都合。それはもしかして、陸がいるから、とか。
「困ったときはお互いさまだよ」
その言葉に海斗は救われた。
「そうなんだよな。だから、俺も引き受けたわけだ。うちには、頼りになる海斗もいるしな」
頼りにする人物が存在するだけで心強い。そして、頼りにされている事実を知れば誇らしい。
「秋山部長な。二年くらい前に奥さんを事故で亡くしてるから。それで、子どもたちのことが心配らしい。ああ見えて。だから、遅くても八時過ぎには帰っていく。子どもが寝る前に帰りたいんだとさ。俺なんて、九時、十時もざらなのにな」
そこで、航太はプリンを一口すくった。
「ま。だけど理解ある上司がいるおかげで、俺もわりと自由にできてるっていうか。急な呼び出しのときも、早く帰れって言ってくれるのは部長だし。休んでも文句言わないし」
仕事上の父親の姿を垣間見た気がした。
「だけど、まさか部長の息子さんと海斗が友達だったとは意外だった。同じ学年の息子がいるのは知っていたんだけど」
「僕もだよ。まさか、お父さんと秋山くんのお父さんが同じ職場だったなんて、思ってもいなかった」
「ほんと。偶然っていうのは恐ろしい」
そこで陽翔が抱っこをせがんだため、航太は愛おしそうに目を細くした。
夏休みに入ったとき、航太が信じられないことを口にした。
だからおもわず、海斗は空へと連絡をする。
『おお、どうした?』
「どうしたもこうしたも。なんか、お父さんが変なことを言っていてさ」
『変なこと?』
「うん。秋山くんのところと一緒に住むとか、そういうこと」
『あぁ、そのことか』
昨夜、いきなり航太が提案したのは、秋山家と一緒に暮らさないかという内容だった。
――ようは、流行りのシェアハウスっていうやつだ。
それが流行っているかどうかはわからなかったが、とにかく秋山家と一つ屋根の下で生活を共にするというのだけはわかった。
――いや、ほら。俺たち、似たような境遇だからさ。大人の数があったほうが、何かと便利。というか、部長は俺に子どもを預けて出張へ行くつもりだ。
そこで航太の言わんとしていることを、海斗は悟った。
『まぁ、とにかく。一緒に暮らさないかって、親父が提案したみたいだな』
「だって。僕たち、他人だよ?」
『他人が一緒に暮らしちゃいけないっていうルールはないよな? そんなルールがあったら、シェアハウスはどうなる?』
ここでもシェアハウスだ。
「……そうだけど。でもさ、迷惑じゃないかな?」
『はぁ? ちなみにこれを提案したのは親父だからな? あの人がこんなこと言うなんて珍しいんだよ。よっぽど、あのときのことが堪えたんだろうな』
「あのときのこと?」
『ハルの胃腸炎だよ。自分の家族を守るために、他人の家族を犠牲にしたとか。あのあと、うだうだうだうだ言っていて。うざかった』
そんなこともあったな、と今となっては思えるような出来事だ。
『あとなぁ。親父、櫻井の料理を気に入ってんだよ。多分、最終的な目的はそれだ』
「え?」
『最初にさ、オムライスとスープ、もたせてくれただろ? あれ食べて、えらい感動してた。つまりだ、このシェアハウスは親父によって仕組まれた、親父が快適に生活するための罠だ』
その言い方に、海斗は噴き出した。
『だからさ、あまり気負わず、気軽に考えて返事して。オレは家族じゃない誰かと暮らすのも、楽しそうだなって思う。その相手が、海斗ならなおさらだな』
「え?」
空に名前を呼ばれたのは初めてだ。
『そこ、驚くところか?』
「いや。違くて……名前……」
『あぁ。櫻井家と一緒に暮らすのに、櫻井呼びしていたら、誰が誰か、わからないだろ? だから海斗も、オレのことは名前で呼べば良い』
空のことを名前で呼ぶ。
陽翔と話をするときは、わかりやすように「空くん」と呼んではいたが、本人の前でそのように言ったことはない。
『陸のことは名前で呼んでるだろ?』
「それは、児童クラブで一緒だから……」
『だけど、オレと海斗は同じクラスだろ? 名前で呼んだっておかしくはないだろ?』
空の言葉のとおり、教室内では名前で呼び合っている者も多い。
「あ、うん。そうだけど……」
『とにかく、あまり深く考えるな。あと、うちは大きいから、部屋はあまっている。だから海斗とハルの部屋も準備できる』
それとなく自慢されたような気がする。
「わかった。ありがとう、空……あ、そうだ」
『なに?』
「また、夕飯、一緒に食べよう」
『お、おぅ。じゃ、またな』
照れたように返事をした空が、ぷつりと通話を切った。
秋山兄弟と一緒に暮らす。その生活を想像すると、悪いものではないかもしれない。
「お父さん!」
秋山家と一緒に暮らしてもいいよ――。
そう、航太には伝えるつもりだ。
【完】
こまめに水分を与えていたのがよかったのか、陽翔の具合が昨夜より悪化している様子はない。
「お世話になります」
陽翔を抱っこして車に乗り込むと、後部座席には椅子型のジュニアシートが取り付けてあった。
「それ、陸が使ってたやつ」
助手席に座った空が振り返る。
「困ったときはお互いさまだ。それに、櫻井に出張を指示したのは私だからな……」
ぼそりと言った和己の言葉の最後のほうは、海斗はうまく聞き取れなかった。
かかりつけの小児科医院まで送ってもらい、診察が終わったら連絡するようにと空は言う。
「あとでまた、迎えに来るから。終わったら、連絡して」
「迎えにくるのは、おまえじゃないだろう?」
そんな親子のやりとりに、秋山家の日常が垣間見えた。
「ありがとうございます」
ここまでくれば一人でも大丈夫だ。陽翔はうとうとと眠ったり覚醒したりを繰り返している。
診察の結果、空が言っていたようにウィルス性の胃腸炎とのことで、点滴をすることとなった。
針を刺す瞬間だけは目を背けたくなったが、陽翔の表情は次第に凪いでいく。
ポタリ、ポタリと規則的に落ちていく薬剤の動きが、海斗を眠りへと誘う。
どのくらい眠っていたのかわからない。
だけど、はっとして顔をあげると、薬剤はずいぶんと減っていた。
――ピーピー。
アラームのような音が鳴って、担当の看護師がやってくる。
「はい。これでおしまいです」
点滴が外された陽翔の腕には、小さくテープを貼られる。その上にアニメキャラのシールを貼ってもらい、陽翔はご満悦だった。
――やっぱり、胃腸炎だった。これから、薬をもらいます。
空にメッセージを送る。
――そうか。原因がわかって、よかったな。
すとんと、心の中の何かが落ちた。
体調が悪い陽翔のことはもちろん心配だった。だけど、その根本にあったのは、原因がわからないという不安からくるものだ。
原因がわかったことでどのように対処したらいいかがわかり、今なら前向きに陽翔の世話をしようと思える。
それを空からのメッセージによって気づかされた。
薬局で薬をもらっていると、航太から「駅についた」と連絡があった。始発の新幹線で帰ってきたようだ。
ゆるゆると締め付けられていた心が、ゆるんでいく。これが、不安から解放される気持ちなのだろう。
病院で点滴を受けた陽翔は、午後になれば家中を歩き回るくらいにまで回復していた。
昨夜のあの状態は嘘だったのでは、と思えるほど。
「子どもって、そんなもんだ」
テーブルの上には、航太の出張土産が並んでいる。昨日、駅についてさっさと買っておいてよかったと言っていた。
「ハル~プリン食べるか?」
「たべる」
航太の足元に寄ってきた陽翔は、ひな鳥のように口を開けて待っている。
「なんだ? 食べさせてほしいのか? ほら、緑色のプリンだぞ~」
「え? 抹茶? ハル、食べないんじゃない?」
「高級お抹茶プリンだぞ」
スプーンですくって、陽翔の口へ突っ込むと、その途端に陽翔は変な顔をする。
「ほら、言ったとおりじゃん。ハルにはまだ早いんだって」
「なんだよ、もったいないな。いいよ、パパが全部食べてやる」
「あ、ハル。胃腸炎だから……お父さん、うつるかもよ?」
「心配するな。あとでアルコール消毒するから」
「お父さんの看病はしないからね」
そう言った海斗も抹茶プリンを一つ手に取った。ふたを開けると、抹茶の香ばしいにおいが鼻孔を刺激する。
「……そういえば。お父さんと秋山くんのお父さんって、どんな関係?」
帰りの車の中で、和己が言ったのだ。
櫻井も帰ってきたから、もう大丈夫だ、と――。
「あぁ、会社の上司。今回の出張もあの人の命令。いや、本当は出張もあの人だったんだよ。だけど、家の都合がうんたらかんたらで、俺になったわけ」
家の都合。それはもしかして、陸がいるから、とか。
「困ったときはお互いさまだよ」
その言葉に海斗は救われた。
「そうなんだよな。だから、俺も引き受けたわけだ。うちには、頼りになる海斗もいるしな」
頼りにする人物が存在するだけで心強い。そして、頼りにされている事実を知れば誇らしい。
「秋山部長な。二年くらい前に奥さんを事故で亡くしてるから。それで、子どもたちのことが心配らしい。ああ見えて。だから、遅くても八時過ぎには帰っていく。子どもが寝る前に帰りたいんだとさ。俺なんて、九時、十時もざらなのにな」
そこで、航太はプリンを一口すくった。
「ま。だけど理解ある上司がいるおかげで、俺もわりと自由にできてるっていうか。急な呼び出しのときも、早く帰れって言ってくれるのは部長だし。休んでも文句言わないし」
仕事上の父親の姿を垣間見た気がした。
「だけど、まさか部長の息子さんと海斗が友達だったとは意外だった。同じ学年の息子がいるのは知っていたんだけど」
「僕もだよ。まさか、お父さんと秋山くんのお父さんが同じ職場だったなんて、思ってもいなかった」
「ほんと。偶然っていうのは恐ろしい」
そこで陽翔が抱っこをせがんだため、航太は愛おしそうに目を細くした。
夏休みに入ったとき、航太が信じられないことを口にした。
だからおもわず、海斗は空へと連絡をする。
『おお、どうした?』
「どうしたもこうしたも。なんか、お父さんが変なことを言っていてさ」
『変なこと?』
「うん。秋山くんのところと一緒に住むとか、そういうこと」
『あぁ、そのことか』
昨夜、いきなり航太が提案したのは、秋山家と一緒に暮らさないかという内容だった。
――ようは、流行りのシェアハウスっていうやつだ。
それが流行っているかどうかはわからなかったが、とにかく秋山家と一つ屋根の下で生活を共にするというのだけはわかった。
――いや、ほら。俺たち、似たような境遇だからさ。大人の数があったほうが、何かと便利。というか、部長は俺に子どもを預けて出張へ行くつもりだ。
そこで航太の言わんとしていることを、海斗は悟った。
『まぁ、とにかく。一緒に暮らさないかって、親父が提案したみたいだな』
「だって。僕たち、他人だよ?」
『他人が一緒に暮らしちゃいけないっていうルールはないよな? そんなルールがあったら、シェアハウスはどうなる?』
ここでもシェアハウスだ。
「……そうだけど。でもさ、迷惑じゃないかな?」
『はぁ? ちなみにこれを提案したのは親父だからな? あの人がこんなこと言うなんて珍しいんだよ。よっぽど、あのときのことが堪えたんだろうな』
「あのときのこと?」
『ハルの胃腸炎だよ。自分の家族を守るために、他人の家族を犠牲にしたとか。あのあと、うだうだうだうだ言っていて。うざかった』
そんなこともあったな、と今となっては思えるような出来事だ。
『あとなぁ。親父、櫻井の料理を気に入ってんだよ。多分、最終的な目的はそれだ』
「え?」
『最初にさ、オムライスとスープ、もたせてくれただろ? あれ食べて、えらい感動してた。つまりだ、このシェアハウスは親父によって仕組まれた、親父が快適に生活するための罠だ』
その言い方に、海斗は噴き出した。
『だからさ、あまり気負わず、気軽に考えて返事して。オレは家族じゃない誰かと暮らすのも、楽しそうだなって思う。その相手が、海斗ならなおさらだな』
「え?」
空に名前を呼ばれたのは初めてだ。
『そこ、驚くところか?』
「いや。違くて……名前……」
『あぁ。櫻井家と一緒に暮らすのに、櫻井呼びしていたら、誰が誰か、わからないだろ? だから海斗も、オレのことは名前で呼べば良い』
空のことを名前で呼ぶ。
陽翔と話をするときは、わかりやすように「空くん」と呼んではいたが、本人の前でそのように言ったことはない。
『陸のことは名前で呼んでるだろ?』
「それは、児童クラブで一緒だから……」
『だけど、オレと海斗は同じクラスだろ? 名前で呼んだっておかしくはないだろ?』
空の言葉のとおり、教室内では名前で呼び合っている者も多い。
「あ、うん。そうだけど……」
『とにかく、あまり深く考えるな。あと、うちは大きいから、部屋はあまっている。だから海斗とハルの部屋も準備できる』
それとなく自慢されたような気がする。
「わかった。ありがとう、空……あ、そうだ」
『なに?』
「また、夕飯、一緒に食べよう」
『お、おぅ。じゃ、またな』
照れたように返事をした空が、ぷつりと通話を切った。
秋山兄弟と一緒に暮らす。その生活を想像すると、悪いものではないかもしれない。
「お父さん!」
秋山家と一緒に暮らしてもいいよ――。
そう、航太には伝えるつもりだ。
【完】