「海斗。悪い。週末、出張になった」
 顔の前で両手を合わせた航太が、頭を下げる。
「出張?」
「ああ。しかも、金土の一泊二日。陽翔と二人だけで大丈夫か?」
「あ、うん。大丈夫だと思う」
 ここで「大丈夫じゃない」と言ったら、きっと航太の母親、つまり祖母がわざわざ新幹線に乗ってやってくるだろう。祖母のことは嫌いではないが、苦手だ。
 そして祖母も、海斗を嫌っている様子はないが、邪魔だと思っている節はある。そういった感情は、なんとなく伝わってくるもの。
 祖母は航太に地元に戻ってくるように言っているらしい。だが、仕事を理由に断っているようだ。
『どうせ、実家に戻ったところで兄貴夫婦もいるしな。俺たちはお荷物になるわけだ』
 その話を聞いただけでも、海斗が余計に肩身の狭い思いをする羽目になるはわかりきっていた。
「お父さん。いつも残業で遅いじゃん。それとそんなに変わらないよ。どうせ、陽翔と一緒に寝ているのは僕だし」
「うっ。そう言われると、ちょっと寂しいかも……」
 そう言った航太は、缶ビールをぐいっとあおった。
「あ、お父さん。その金曜日に、その……秋山くんと一緒に夕飯を食べてもいいかな……」
「ああ。いいんじゃない? 先方がいいっていうのが前提だけどな」
 父親の許可が出たところで、空にメッセージを送った。だが、その日は空の父親が早く帰ってくる日だから、難しいとのこと。
 ――だって親父、料理ができない。
 いったい何を食べていたのだろうかと、思ってしまうようなメッセージだった。だからあの日もスーパーで弁当を買っていたのだろう。
 それに、友達よりも家族を優先させるのは、当たり前のこと。
 そう自分に言い聞かせて、空に返事を送る。
 ――わかった。じゃ、またの機会に。
 空からは、アニメキャラがごめんと両手を合わせるスタンプが届いた。

 金曜日の朝は、海斗が陽翔をこども園にまで送り届けた。航太が始発の新幹線で行かないといけないと言い、六時前に家を出ていったからだ。
 父親不在で朝から陽翔がごねたらどうしようかと不安だった海斗だが、その心配は不要だった。
 いつもと同じように目覚めた陽翔は、着替えて、ご飯を食べて、リュックを背負って靴を履いた。
「ハル。今日はお利口さんだね」
「ハル、いつもおりこうよ。おりこうしてると、りゅう、くる」
 秋山兄弟が、海斗の知らないところで陽翔に何か伝えたのだろう。たまに、スマートホンを陽翔に手渡し、空や陸とテレビ通話をしているのだ。それは、空が料理について教えてくれと連絡を寄越した、そのついでに。
「そうだね。ハルがお利口にしてると、陸くんや空くんがまた来てくれるね」
 海斗の言葉にニコっと笑んだ陽翔の手をしっかりと握りしめ、玄関に鍵をかけた。
 夏至を過ぎたこの季節は、朝だというのに太陽がじりじりと斜めから照らしつけてくる。陽翔の頭にもしっかりと麦わら帽子をかぶせたものの、海斗は帽子をかぶらない。理由は単純明快。高校生にもなって帽子をかぶるような人はいないから。
 陽翔とつないだ手も、しっとりと汗ばんでくる。
「おはようございます。お願いします」
「おはよう。あら、今日は海斗くんなのね」
「はい。父は仕事で……」
「では、お預かりします。海斗くんもいってらっしゃい」
 一つ、任務が完了した感じがして、気持ちも少しだけ開放された気分で高校へと歩を進める。
 授業をいつもと同じように受け、それが終われば放課後児童クラブへと向かう。高校は二期生なので、この時期は前期中間テストも終わったところだ。
 空も部活に顔を出すようになり、陸の迎えは六時を過ぎることも多いらしい。陸がそのように不満そうにこぼしていた。
 空はああ見えて、パソコン部に所属している。目標は、秋に開催されるパソコン甲子園の本選に出場することだとか。
「海斗先生」
 陸は、初めて会ったときよりもしっかりしてきたように見える。宿題も自主的にやっているようで、海斗がくれば確認してほしいと言ってくる。そして間違えたところ、わからないところを指導する形になっていた。
「櫻井くん」
 まだ四時半を過ぎたところだというのに、児童クラブの職員が慌てて海斗を呼びに来た。
「保育園から連絡が入ったのだけれど……」
 海斗の耳元でこっそりと伝えてくる。
「わかりました。すぐにお迎えにいきます。陸くん、ごめんね。僕、もう帰らないと」
「海斗先生、ばいばい」
 近くにいた生徒たちに手を振って、海斗は慌ててこども園へと走っていく。
 肩で大きく息をしつつ、受付に声をかける。
「すみません。櫻井陽翔の兄です」
「よかった。隣に連絡したら、もう来ているって聞いたから。陽翔くん、ちょっとぐったりしていて……」
 話を聞けば、三時のおやつの時間から、陽翔の元気がなかったらしい。いつもであれば、すぐにパクつくおやつにも手をつけなかったとのこと。
 熱があるようではないものの、顔色が悪い。そうこうしているうちに、ぐったりとして横になってしまったため、慌てて海斗に連絡をいれたようだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに連れて帰ります」
 職員に案内され、リュックをおろすと休んでいた陽翔をおんぶした。それから、教科書の入っているリュックを肩にかけ直す。
 いつもであれば何かしらわめく陽翔だが、その力もないのか、身体のすべてを海斗に預けてくる。
 いくら二歳児であっても、力が抜けた状態で背負うと、ぐっと重みを感じた。
「タクシーを呼ぶ?」
 陽翔をおんぶして、荷物を手にした海斗の姿を目にした職員が声をかけてきた。
「いいえ、このくらいなら大丈夫です。すぐ、そこですし」
 そうは言っても、自宅までは五百メートルの距離はある。
「そう? 気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
 海斗は複雑な気持ちのまま、こども園を後にした。
 もちろん陽翔のことは心配だ。熱はない。だけど、ぐったりとしている。ただの疲れなのか、熱さでバテたのか。
 だというのに、陽翔を背負ったことで重い、暑い、辛いといった不満も生まれてくるのだ。
 どうして自分だけこんな目に合わなければならないのか。
「……はぁ、はぁ」
 額にはうっすらと汗が浮かび、息もあがってきた。
 部屋の鍵を開けたときには、力が抜けそうで玄関に座りこみそうになってしまった。だけどもうひと踏ん張りと、荷物を玄関に投げ捨てて、陽翔をなんとかリビングのラグの上に寝かせた。
「ふぅ……」
 陽翔の顔を見やると、眠っているようだ。
 エアコンをつけ、もわっとした不快な空気を少しでも追い出したかった。
 冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注ぐと、一気に飲み干した。汗でベタベタになったシャツを脱いで、Tシャツに着替える。
 陽翔は眠ったままで、目を覚ます様子はなかった。
 陽翔の様子を気にしながらも、海斗は夕食の用意や、風呂の準備、洗濯物を片づけたりと、やらなければならないことを終わらせる。
 そうやっているうちに、時計は六時半を示していた。
「……ふぇっ……」
 これは、陽翔が泣きそうなときの声。
「ハル。起きた? どうした?」
 そう声をかけたとき、海斗は目の前のできごとが信じられなかった。
「ハル!」
 陽翔がいきなりコポリと嘔吐したのだ。吐しゃ物で汚れてしまった場所は掃除しなければならない。それに、また陽翔が嘔吐するかもしれない。
 吐しゃ物を新聞紙で拭き取り、それをビニル袋へいれて口をきつく縛る。陽翔も汚れてしまったため、濡れたタオルで拭き、着替えさせる。
 だが、陽翔は目を閉じたままで苦しそうに息をしているだけ。
(病院……つれていかなきゃ……)
 そう思って慌てて診察券を確認すれば、かかりつけの小児科は六時で終わりだった。
(どうしよう……お父さんに連絡して……)
 航太に通話をしてみるものの、つながらない。とりあえずメッセージアプリで、陽翔の状況を簡潔に伝える。
(こんな陽翔、初めて見た……どうしたら……)
 病院も終わっている。父親にも連絡がつかない。どうしたらいいかがわからない。
 どこに連絡したらいいかもわからない。
(誰に相談したら……)
 不安に襲われるなか、海斗の頭に浮かんだのは空だった。