「櫻井陽翔の兄です」
 いくら顔見知りであったとしても、お迎えのときには受付の職員に名前を告げる。
「はるとくん。おうちの人が来たよ~」
 海斗も陽翔の荷物をまとめるために、二歳児クラスへと爪先を向ける。
「にぃに」
 海斗の姿を見つけるとすぐに、ひしっと抱きついてくる陽翔は珍しい。
「陽翔くん。今日、お友達と少し揉めてしまいまして……」
 保育士の言葉に、海斗も眉をひそめる。
「喧嘩というまでではないのですが、よくあるおもちゃの取り合いです。陽翔くんが使っていたおもちゃを、他のお友達が遊びたいと言い出しまして。それで順番ことは言ったのですが……」
 その結果、陽翔がいじけたのだろうと容易に想像がついた。
 海斗とは年の離れた弟ということもあって、父親も海斗も甘やかしている自覚はある。よく虎は自分の子を崖から落とすと言うが、陽翔に対してそんな感情は一切湧かない。むしろ、陽翔が通る道には塵一つないように、先回りして掃除をしておくくらいの気持ちだ。
「わかりました。家でも注意してみておきます」
 当たり障りのない返事をして保育士の顔を伺うものの、彼女も海斗に何かを求めていたわけではないようだ。情報を共有できれば、それでいいらしい。
「ハル、帰ろう」
「あい」
 陽翔にリュックを背負わせ、残っていた職員に帰りの挨拶をする。
 まだ日は高く、外は十分に明るい。同じ時間であっても、外が明るいか暗いかで気持ちが異なるからおかしなものだ。
 暗い中、陽翔と手をつないで帰るとなると、どうしても焦りが生まれてしまう。
「ハル、今日はうどんでいい?」
「ハル、ちゅるちゅる、すきよ~」
 機嫌が悪かったら面倒だなと思っていたが、それは海斗の杞憂だったようだ。
「何うどんがいい? あったかいの? つめたいの?」
 このくらいの季節であれば、どちらであっても美味しく食べられそうだ。
「ちゅめたい、ちゅるちゅる」
 今日の夕飯は、買い置きの食材で済ませようと思っていたので、うどんであれば陽翔のリクエストに応えることができる。
「きょうは、りゅう、いない? おみせ、いかない?」
 昨日のことが強く印象に残っているのだろう。スーパーで陸と会い、そのまま彼らと一緒に夕飯を食べた。
 その間、陽翔はぐずることなくニコニコとしていたし、秋山兄弟が帰ったら電池が切れたおもちゃのようにぱたりと静かになったのだが。
「今日は陸くんたちも、お父さんと一緒にご飯を食べる日だと思うよ。今日は、ハルのパパも早く帰ってくる日でしょ?」
 金曜日は定時退社日だと航太が言っていた。つまり、五時半になったら残業せずに退社していいという決まりらしい。
 それでも海斗が陽翔を迎えに行ったほうが早いため、いくら航太の定時退社日であっても、陽翔のお迎えは海斗の役目で、夕飯の準備をするのも海斗の担当だった。
 今日は寄り道をせずに、まっすぐ自宅へと向かう。
「ただいま。ハル、手を洗って」
 誰もいない部屋。おかえりと言ってくれる人などいない。それでも「ただいま」と言ってしまうのは、なぜなのか。
 少しだけ生ぬるくしけったような空気が、肌にまとわりつく。
 陽翔の手を洗い、彼をテレビの前に座らせる。そのすきに、急いで着替えて夕飯の準備をする。
 ――ペポン!
 スマートホンが鳴った。この音は、航太からのメッセージがあったとき。
 ――ごめん。トラブル発生。残業になった。ハルを頼む。
 拝むようなうさぎのスタンプが連打されていた。
 鍋に水を入れながら陽翔に視線を向ければ、おとなしくテレビを見ている。そのうち身体を音楽に合わせて揺すり始めるだろう。
 ご飯を食べているときに、航太の帰りが遅くなったと伝えればいい。とにかく今は、夕食の準備をすることが最優先事項だ。
「ハル~。ご飯だよ」
 ざるにあけたうどんを、テーブルの真ん中にどんと置く。それから各々につけ汁を用意する。
「食べようか?」
「パパは……?」
 やはり覚えていたか。
「お仕事で遅くなるって。だから今日は、にぃにとお風呂に入って一緒に寝よう」
「やっ」
 手にしていたフォークを投げ出した。
 フォークがストンと床に落ちる様子を、海斗は呆然と眺めていた。こうなった陽翔は手がかかる。
 キッズチェアに座っている陽翔が暴れるとなると、椅子ごとひっくり返る可能性だってある。
「ハル。パパはお仕事。にぃにが一緒にいるからさ。ご飯食べよう」
「やっ。りゅうは? そらは?」
「陸くんも空くんも、今日は自分のおうちでご飯を食べてるんだよ」
「どうして?」
 どうして攻撃が始まった。どうしてと言われても、空と陸には彼らの家族があるからだ。
「陸くんも空くんも、今日はパパと一緒にご飯を食べるんじゃないかな」
「パパ、いない」
 静かにしろ、と怒鳴って陽翔がおとなしくなるなら、迷うことなく声を荒らげている。
 だが、それに大した効果がないことなどわかっていた。よりいっそう、陽翔が暴れるだけ。つまり、火に油を注ぐような状態。
「ハル、そこで暴れるとけがするよ」
 問題をすり替えてみたところで、陽翔に効き目があるとは思えない。どうしたものかと考えながらも、海斗は一人でずるずるとうどんを食べ始めた。
 つまり、陽翔を放っておく作戦に出たのだ。
「あぁ、美味しいなぁ」
 ドンドンとテーブルを叩き騒いでいる陽翔だが、その勢いはまだまだおさまる様子がない。
 そこで、海斗のスマートホンが鳴った。これは、メッセージアプリの受信音ではなく、通話の着信音だ。
 慌ててタップをすると、そこには空の名前がある。
「……もしもし?」
 口の中にうどんが残っていたから、慌てて飲み込んだ。
『あ、櫻井? あのさ。夕飯、カレーを作ろうと思ったんだけど、カレーってどうしたらいいんだ?』
「え?」
 海斗の頭の中は、一瞬のうちにいろんな考えが駆け巡った。
 ――今日は、弁当じゃないの?
 ――カレー? 作り方はルーのパッケージの裏に書いてあるよね?
 ――それよりも、電話がかかってきた?
『おい、櫻井。聞いているか?』
「あ、うん。聞いてる。えぇとね。カレールーは買ったんだよね?」
『買った』
「だったら、まずは鍋に水を入れて、そこに切った野菜を全部入れる」
『野菜は切った。……おい、陸。その野菜を全部、この鍋に入れろ。で、水の量は』
 近くに陸がいるのだろう。彼にあれこれと指示をする声が、スマートホン越しに聞こえてくる。
「どのくらいのルーを使うかにもよるんだけど、それはルーの箱の裏を見て」
 じゃ、一リットルだな、と誰に言うわけでもない空の声。
 そして海斗は説明を続ける。
「じゃがいも、人参がやわらかくなったら、そこに切った肉をいれる。あくが出てくるから、あくをとって、肉に火がとおったら一度火を消して、ルーをいれる。あとは、少し煮込めばいいよ」
 これが一番簡単な作り方だ。玉ねぎを炒めるとか、面倒な工程をすっ飛ばしても、カレーはできる。
『わかった。とにかく、水に材料を全部入れて、火をとおせばいいんだな? 最後にルーだな?』
「そうそう」
『そういや、櫻井の家。今日の夕飯は何?』
「え? 今日はざるうどんだよ」
『うどん……カレーうどん。よし、明日は、カレーうどんの作り方、教えて。って、ハル、騒いでんのか?』
 電話中も、陽翔は「やだ」とか「たべない」とか騒いでいた。その声が聞こえたのだろう。
「あ、うん。今日も父さんが遅いみたいで……金曜日は定時退社の日? で、早く帰ってくる日だったから……」
『じゃあさ。オレたちと今、テレビ通話するか? ハル、寂しいんだろ? どうせ、カレーも野菜に火がとおるまでもう少し時間かかるし。その間に』
 空の提案は、海斗にとってもありがたかった。
「うん。ちょっと待って……ハル、そらだよ」
 スマートホンを陽翔の前に置く。
『お~い、ハル~』
 スマートホンの向こう側からは、空の陽気な声が聞こえてくる。
「そら、りゅう」
 相手がテレビ通話に切り替えたため、画面には空と陸の顔が映し出される。
『ハル、にぃにの言うこと、きくんだぞ?』
『ハルはお利口だよね』
「ハル、おりこうよ」
 悔しいことに陽翔の機嫌が戻りつつある。今のうちに陽翔が落としたフォークを拾って、洗って、またテーブルの上に並べた。
『ハルのおうどん、美味しそうだな~』
 これは空の声だ。
「ちゅるちゅる、おいしいよ」
『ハル。また一緒にご飯、食べようね』
 そして陸の言葉には、陽翔も「あい」と返事をする。
『またな、ハル。にぃににかわってくれ』
「にぃに、そら。にぃに、そら」
 陽翔がスマートホンを指差したため、海斗はそれを手にする。
「秋山くん、ありがとう。ハルがご飯を食べ始めた」
『こっちこそ、ありがとな。これでオレたちも夕飯にありつける』
「あ、そうだ。父さんが、また秋山くんたちをご飯に誘ったらって言っていたから……また、誘ってもいいかな?」
『お、おぅ』
 返事をした空の声は、少しだけ上ずっていた。
「じゃ、またね」
『またな』
 プツッと通話が途切れ、スマートホンの画面は待ち受けへと切り替わった。しばらくそのままにしていると、表示は消え、暗い画面に自分の顔が見えた。泣きそうな表情にも見えて、慌ててスマートホンをポケットへしまい込む。
 フォークを持つ手を動かす陽翔を見ながら、海斗もずるずるとうどんをすすった。
 空と連絡先を交換したのがきっかけとなったのかもしれない。
 学校では話をしないが、児童クラブで顔を合わせたとき、スーパーでばったりと会ったときなどは言葉を交わす。何よりも、空から頻繁に連絡がくるのだ。
 たいてい、「どうやって作るの?」と料理に関する話題が多い。いつもは弁当だった夕食だが、今では陸と二人で作っているようだ。