ピロ、ピロ、と陽翔が歩くたびに靴が鳴く。
「ハル、今日のご飯は、オムライスでいい?」
「オム、しゅきよ~」
 どこか間延びした声を聞くと、へにゃっと力が抜けそうになる。そんな魅力が陽翔にあるものの、忙しい時間帯とか勉強したいときとか、逆に苛立ちの原因にもなるのだ。
 途中でスーパーに寄った。自宅、スーパー、こども園、そして高校が二キロ圏内にある。このために引っ越したといっても過言ではない。
 父親にとっては、スーパーとこども園が近くにあるというのが、家探しの条件だった。
 だから、海斗の高校入学が決まった時期に、この辺りで物件を探したのだ。
 そんな父親が帰ってくるのは、八時過ぎだろう。遅い時間でもあるし、年のせいなのかなんなのか、あまり重いものは食べられないと言っていたので、野菜たっぷりのスープを作ろう。
 オムライスとスープ。そこにお惣菜を並べれば、立派な夕食だ。
 そんなことを考えながら、手早く必要なものをカゴに入れていく。
 だけど、お惣菜コーナーで見知った顔を見つけてしまった。
「あれ? 櫻井じゃね?」
「あ、秋山くん……」
 このスーパーで顔なじみに会うのはよくあること。だけど今まで空とばったり会ったことなどなかった。
「どうしたの?」
 海斗が思わずそう尋ねたのは、陸がふくれっ面をしていたからだ
「いや、さ。弁当を買いにきたんだけど、オムライス弁当が売り切れててさ。それで陸がいじけてるだけ。早く、他の弁当を選べって言ったんだけどな、なかなか決めてくれないんだな~これが」
「だって。オムライスが食べたかったんだもん」
「売り切れだってさっき言われただろ? ないものはない。あきらめろ。そういうときもある」
 黙って秋山兄弟の話を聞いていた海斗は、彼らのやりとりの結末が気になりつつも、買い物を終えて陽翔の機嫌が良いうちに帰りたかった。だけど、やっぱり秋山兄弟のことで気持ちが波打って、つい口を開く。
「じゃ、夕飯、一緒に食べない? これから、オムライスを作ろうとしていたんだ」
 海斗からは、自然とそう言葉が出ていた。ただでさえ忙しない夕食の時間帯。三人前作るだけでも大変だというのに、そこに追加で二人分。なぜ、そんなふうに誘ってしまったのだろうか。
 海斗自身にもわからなかった。
「にぃに、オム、おいしいよ?」
 陽翔までその気になっている。
「いや。でも、櫻井の家の人に悪いし……って、櫻井が作るのか?」
「え? あ、うん。父親は帰りが遅いから、夕飯は僕が担当してる」
「え、と。こういうこと聞いていいのかわからんけど、母親は?」
「あ、うん。いない。父と陽翔と三人暮らしだから」
「じゃ、ボクんちと一緒だね」
 陸が明るい声で言う。
「ま、そういうことだから、弁当選んでた。その……ま、あれだ。迷惑じゃなかったらご相伴にあずかってもよろしいでしょうか」
 空の口からそんな言葉が飛び出してきて、海斗はおもわず噴き出した
「あ、うん。一応、父さんには連絡しておくし。多分、父さんもダメって言わないし。帰ってくるのは八時過ぎるから……」
 言うや否や、海斗はすぐさまスマートホンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げた。
 ――友達と一緒に、我が家で夕飯を食べてもいい? 僕が作るんだけど。
 このメッセージに気がつけば、すぐに返事が戻ってくる。会社とはいったいどのような場所なのかと思ってしまうくらいに、父親からの返事は早い。
 ――いいよ。だけど、俺の分も残しておいて。九時くらいになりそう。
 泣き顔のうさぎのスタンプとともに、すぐに返事がきた。
「父さんもいいって連絡があったから、遠慮しないで。だけど買い物は急いでしないと……」
 三人分から五人分に。いや――。
「秋山くん、秋山くんのお父さんの分はどうする?」
 先ほど陸は、秋山家も櫻井家と同じような境遇だと言っていた。つまり、子二人に父親との三人暮らし。
「あぁ、弁当買おうと思ってた。俺の親父も、毎日、遅いんだよね。それでも、八時くらいには帰ってくるけど」
「じゃあさ、秋山くんのお父さんの分も作るから、持って帰って」
 五人分が六人分になろうと、さほど変わりはない。
「お、おぅ」
 空は戸惑いながらも返事をした。その様子が、どこか照れているようにも見えた。
「カゴ、寄越せ。持ってやる。おまえにはチビちゃんがいるだろ?」
 空が手にしていた中身のないカゴは陸に押しつけ、海斗の買い物カゴを奪い取る。
「ありがとう」
 片手が空くだけで、だいぶ楽になる。
 鶏もも肉を追加で買う。卵は家にあるし、人参もある。玉ねぎは半分だけ使おうと思っていたけれど、まるごと一個使えばいい。
 スープにいれる野菜は、もやしとキャベツとコーン。そして挽肉を丸めて肉団子にする予定だった。
 レジで会計をすませると「あとで精算して」と空が言った。
「弁当代、親父からもらってるからさ」
「わかった。じゃ、ご飯を食べてから計算する。急がないと、陽翔がぐずるから」
「おぅ」
 買い物袋は何も言わなくても、空が持ってくれた。
 海斗はしっかりと陽翔と手をつなぐ。
「にぃに、りゅう、そら」
 陽翔は陸と空の名を嬉しそうに口にする。だけど「りく」は発音しにくいのだろう。いくら陸が「りく」と教えても「りゅう」になってしまい、とうとう陸もあきらめたようだ。
 マンションの二階、3LDKの間取り、それが櫻井家だ。
「どうぞ」
 玄関を入るとまっすぐに伸びる廊下の先にはダイニングがある。そして廊下の両脇には各部屋が配置され、それぞれ一人、一室使っているはずなのだが、やはり海斗は陽翔と同じ部屋で眠りにつく。
「へぇ。すげぇ。キレイにしてるんだな」
 きょろきょろと周囲を見回し、空は感嘆の声をあげた。
「トイレはここ。適当に座って。すぐにご飯の準備をするから」
 空は買い物の袋を、キッチンの上にどさっと置いた。
「秋山くん。悪いけど、陽翔をお願いしてもいいかな?」
 毎回、食事の用意をするときに、陽翔に呼ばれるのがわずらわしかった。幼児向けテレビ番組を見せてはいるものの、それだっていいところ二十分しかもたない。
 陽翔はすぐに飽きて、海斗に「あしょぼ、あしょぼ」と言ってくる。
「まかせておけ。陸もいるしな。お子ちゃまはお子ちゃま同士、仲良くしてくれるだろ?」
 そう言った空の視線の先には、なんだかんだでじゃれ合っている陸と陽翔の姿がある。
「汚れるから着替えてくる」
 自室に戻った海斗は、ささっと着替えをすませた。制服で料理をしたり、まして陽翔にご飯を食べさせたりしたなら、明日はご飯粒を制服につけて登校しなければならないだろう。
 キッチンへ戻りエプロンをつけたときには、先ほどスーパーで買ってきたものがカウンターの上に並べてあった。空が使いやすいようにと出してくれたのだ。
「ありがとう」
 すぐに鶏肉を細かく刻み、人参も玉ねぎもみじん切りにしてチキンライスを作る。二合のお米はタイマーセットで炊き上がっているが、あと追加で二合は必要だろう。ボールにご飯をうつして、手早く追加分をセットする。特急モードで炊き上げれば、問題ない。
「すげぇ。櫻井、手慣れてるな」
 チキンライスの材料を痛めている間に、スープを作る。
「秋山くん。この挽肉をスプーンですくって、この鍋に入れてくれる?」
「お、おぉ」
 ぎこちない手つきながらも、空は言われたとおりにスープにビー玉サイズくらいの挽肉の塊を、どんどんと入れていった。
「秋山くん。テーブルの上、拭いてもらってもいい?」
 布巾のある場所を視線で訴えれば、空にも通じたようだ。
「……テーブル拭いてきた。他に、何かやること、ある?」
 買ってきたコロッケを温めて半分煮切ってほしかったが、空は高校の制服姿のままだ。
「制服、汚れると困るから。あとは僕がやるよ」
「じゃ、上。脱ぐわ」
 そう言った空は、ブレザーを脱ぎワイシャツ姿になると、腕まくりをした。五月下旬というこの時期であれば寒くはないだろう。
 そこまでして何かしようとする空の気持ちが、海斗にとっては素直に嬉しかった。
「えっと。コロッケを温めて、半分に切って、皿に盛ってほしいんだけど」
「了解」
 海斗が指示を出せば、空は嬉々として動く。
 あっという間に食事の準備が整った。
 人数分のオムライスを作るのではなく、チキンライスの上に大きな半熟オムレツをのせるスタイルにした。
「はい、できたよ。手を洗って」
 大皿のオムライス。そしてスープとコロッケ。
 テーブルに並べるのは空にまかせ、さらに陸と陽翔の手を洗ってほしいと頼んだ。
 その合間に、海斗は次のチキンライスを手早く作る。
「すごぉい。これ、海斗先生が作ったの?」
 自宅にいるのに、先生と呼ばれるのはむず痒い。
「食べられる分だけお皿にとってね。ケチャップはお好きにどうぞ」
 空と陸を椅子に座るように促して、陽翔を抱き上げるとキッズチェアへと座らせた。その隣に座るのはもちろん海斗だ。
「にぃに、おいしいね」
 口の周りにケチャップをつけた陽翔はご満悦だった。
「すげ~うまい。海斗先生、ボクの兄ちゃんになって」
「んあ?」
 陸の言葉に空が目をすがめた。
「こんなに喜んでもらえて、僕も嬉しいよ」
 いつもは不機嫌な陽翔に食べさせ、自分も慌てて食べるような夕食だ。だけど今日は、陽翔も自分でスプーンを持って、汚しながらもなんとか食べている。
 だからか、海斗自身も自分で作った夕食を味わうような余裕もあるのだ。それにくわえ、こうやって空や陸と話もできる。
 家族団らんの夕食の場。
 そう呼んでもいいいような時間だろう。たとえ、そこにいるのが家族でなくても。
「ごちそうさまでした」
 大皿にあったオムライスはきれいになくなってしまった。追加でおかわりも出したというのに、米粒一つ、残っていない。
「ハルも、たくさん食べたね」
「あい」
 陽翔も今日にかぎっては聞き分けがよい。
 食べ終わった食器を手にして、海斗は席を立つ。
「陸も。自分で食べたものは自分で片づけろ」
「兄ちゃんもね」
 そんな兄弟のやりとりを微笑ましく思う。
「おい、櫻井。迷惑じゃなかったら、オレが食器、洗うから。おまえはそっちで休んでろ」
 空のその言葉が、海斗の胸をいっぱいにする。
 海斗にとっては、父親と陽翔のために食事を用意するのが当たり前になっていた。当たり前だからこそ、感謝してほしいとか、そんな気持ちも湧かなかった。家族だから当たり前。
 だけど、空にとってはそうでもないのだ。
 当たり前が当たり前になるのは、いつからだろう。
「うん、ありがとう。だけどこんな時間だから」
 海斗が壁にかかっている時計に目を向けると、空も同じように視線を追う。
 時計の針は七時半を示している。
「陸くんがいるから、あまり遅くならないほうがいいでしょ?」
「あ~そうだな。オレが陸を連れて歩いていると。誘拐に見えるらしいからな」
 空が自嘲気味に笑うものの、その姿を想像したら海斗も納得してしまう。笑いをこらえたつもりだったのに、少しだけ漏れ出てしまったようだ。
「なんだよ、櫻井。そんなにオレ、柄が悪いのか?」
「兄ちゃんは柄が悪いんじゃなくて、態度が悪いと思います。父ちゃんが言ってた。兄ちゃんは、年中、反抗期なんだって。あ、一生かな?」
 我慢の限界だった。海斗がぷはっと噴き出すと、空は舌打ちをする。
「ごめん、秋山くん。柄は悪くない。だけど、陸くんを連れて歩いたら、警察官が声をかけたくなるのもわかる」
「んあ?」
 空が鋭く睨んできたものの、彼が本気で怒っていないことなどすぐにわかる。
「秋山くん、本当に気を使わなくていいよ。それくらい、僕があとでやるし。それよりも、陸くんと歩いて誘拐犯に間違えられるほうが心配だもん」
 海斗が真顔でそう言えば、空も舌打ちをして「しゃあねぇな」と呟く。
「ほら、陸。帰るぞ。あんまり遅くなれば、櫻井に迷惑かかるからな。未成年誘拐の共犯者として」
 空がニヤリと笑ったから、海斗はもう一度盛大に噴き出した。
 そんな高校生二人のやりとりを、陸は不思議そうに眺めてから、ランドセルを背負った。
「秋山くん。これ、秋山くんのお父さんの分」
 タッパーとスープジャーの入った紙袋を空に手渡す。
「お、おぅ。サンキュ。じゃ、櫻井、これな」
 代わりに、空が千円札二枚をぎゅっと海斗の手の中に押し込んだ。
「え? こんなにもらえないよ」
 材料費を見積もったとして、六人分でも二千円はかかっていない。
「それ。今日の夕食代として親父が置いていった分だからさ」
 海斗が多すぎるからと返そうとしても、空はけして受け取らない。
「じゃ、櫻井。また明日。ほら、陸。帰るぞ」
 ばたばたと慌てて帰って行く秋山兄弟に、陽翔が「ばいばい」と手を振る姿は愛らしい。
 パタリと音を立てて玄関の扉が閉まると、嵐が去ったかのように静かになる。