本当は、数日前から分かってはいた。今日が、花井の誕生日だってことは。
 コンビニに向かって坂道を下りながら、ポケットのスマホを取り出して、通知を確かめる。
 やっぱり当日の今日も、その知らせが届いていた。
 『花井蒼亮』の名前が表示されるトーク画面は、いまだ空白のままなのに。
 メッセージなんて一度も送り合ったことがない。他愛のない会話もなければ、予定を確認するやりとりすらない。送受信の履歴は、まったく何もないまま。
 つまり俺のスマホの中での花井は、つい先日とりあえず成り行きで連絡先を繋いだだけの、形だけのいわゆる『友だち』ってやつで。
 なのにこのアプリのシステムは、そんな花井の誕生日をしっかり知らせてくる。
 別に、わざわざ教えてくれなくていいのにな。

 実のところ俺と花井には、放課後以外はいまだに学校でもほとんど接点がない。特別用がなければ目も合わさないし、お互い話しかけもしない。それぞれの交友関係も被ってないし。
 なのに最近は放課後にだけ、二人きりの教室で、人にはちょっと言えないような際どい接触を繰り返す。
 そのやり取りだけを取り出してみれば、見ようによってはもしかしたら、「友達以上、恋人未満」なのかもしれなくて。
 だけど冷静になって考えれば、俺たちはトーク画面さえ真っ白な「友達未満」でしかない。
 だから本来なら自分の誕生日を教え合う仲でもないし、もちろん別に相手を祝ったりもしない。

 ついこないだまで、なんなんだろーなこの妙な関係性は、って、思ってただけだった。なんかおかしなことになってるけど、まあいーか、って。
 それなのに好きだって自覚したとたん、この歪さが正直かなりきつい。

 開く必要もないのに開いては打ちのめされるトーク画面から、友だちリストに戻ると、あいつの名前の横には、花井家の猫の写真を使ったアイコン。
 よく分からない感性の持ち主の花井は、この不細工な猫のことも、そしてときどき俺のことも、同じようにかわいいって言う。でもやっぱ、ただ気まぐれにもてあそんでるだけの俺より、アイコンにしてる飼い猫の方が、花井の中では格上の存在なんだろうか。
 ……って、猫に本気で張り合ってどうするよ。しかも勝てる気がしねえし。

 あぁ……なんか精神的に、結構追い込まれてるわ、俺。
 たぶん今日も、教室に残ったところで、ろくに集中できねえんだろうな。
 さすがにやべーな、この時期にこんなの。
 しかも花井といたら、昨日のことだって意識しちまいそうで、気まずいし……。

 ――もう、このまま帰っちまおうかな。
 荷物は教室に置きっぱなしだけど。定期とスマホと財布だけは手元にあるし、帰れなくもねえかな。
 ……なんて、ちょっと魔が差しかけたけど。


『今日は花井蒼亮さんの誕生日です』

 見てしまったものを見なかったことには、どうしたってできないし。
 知っててスルーするのもどうなんだって話。
 ため息をつきながら、俺は結局コンビニのドアの前に立った。



 ※ ※ ※ 



 俺が教室に戻ったとき、花井はやっぱりいつものように、もう机に向かっていた。
 いつもと違ったのは、俺の気配に気づいた時に、完全に手を止めて顔を上げたことだ。

「……今日はもう戻ってこないかと思ってた」

 花井が静かに言った。
 コンビニへの道中で、もう帰ってしまおうか……なんて考えが一瞬でも頭をよぎったことを、あっさり見透かされてるみたいで、ドキっとした。

「……なんで? 帰るんだったら、ひと声かけてくって。ここんとこ毎日、この時間一緒にいるんだしさ。てか、荷物教室に置いてるし……」

 普段通りに振る舞おうとして、軽く言葉を返したつもりだったけど、どうにも声が引き攣りそうになるのを感じた。無理してるのが自分でも分かる。

「なんか買ってきたんだ?」

 花井の目が、俺の手にあるコンビニのレジ袋を捉えた。
 表情は穏やかだったけど、その言い回しに、なんとなく違和感を覚える。
 いや……だって、ずっとそういう流れだっただろ。昨日以外は。
 最初に自分で、そうしろって言ったくせに。
 今まで、俺が選んで買ってくることをおまえが望んでいたから、そうしてた。
 それを、なんで今更そんなふうに、何か含みのあるような、咎めるような言い方すんの?

 ……そう言ってやろうかとも思ったけど、やめた。
 そんなことより、まずはこの買ってきたやつを何とかしねえと、これきりタイミングを逃しちまいそうで――

「……あのさ、今日は、先にちょっと時間もらってもいいか」

 少し、緊張しながら声をかけた。

「今?」
「あんまりにもキリが悪いとかじゃ、なければ」
「……いーよ。座れば?」

 花井が微笑を浮かべて、俺を促すように、視線を自分の席のひとつ前の椅子にやった。
 なんなんだろ……笑顔なんだけど、本当には笑ってない気がする。

「話なに? ……あんまり聞きたくないけど」

 ギリギリ聞き取れるかどうか、心の声かと思うぐらいのかすかな呟きが、花井の口から漏れた。その言葉には少し不安が混じっているようにも聞こえる。
 いや、別にそんなたいした話じゃないし……ってか、俺が何の話をすると想像してんだろうな?
 俺と花井とで、よく分かんねえけど、なんかボタン掛け違えてるみたいな――どうにもズレてる感じがする。
 俺はただ、おまえに渡したいものがあるだけなんだけど。
 もしかしてそれが、この微妙な空気をどーにか変えることに、つながってくれねえかな……。

「……これやる」

 半ば、祈るような気持ちで、手に持ってるコンビニの袋を、そのまま花井に突き出した。
 どういう渡し方だよ、と自分にツッコミつつ……でもこんなやり方しかできない。
 花井は一瞬、戸惑ったように俺を見つめた。それから、ためらいがちに袋を受け取る。
 そのことにまずは安堵して、俺はゆっくりといつもの席に腰を下ろした。

「え……なんで?」

 袋の中身を確かめた花井の目が、ほんの少し見開かれる。その表情には、明らかに驚きが浮かんでいる。

「誕生日なんだろ。今日」

 大袈裟にはならないようにと注意を払って、さらりと伝えたつもりだけど、それでもどこかぎこちなさのある声になる。
 実際、別に大したものが入ってるわけじゃない。プラケースに入った苺のショートケーキのカットピース。それだけだ。

「こないだ連絡先交換したじゃん。そんで、通知来たから。……おめでと」

 心臓が少し早く鼓動を打つのを感じながらも、何とか平静を装う。

「生ものだし、休憩までおいとくのもちょっと気になるから、先に」

 自分で言い訳みたいな言葉を付け加えながら、俺は花井の反応を待った。しばらくの沈黙の後、花井がふとつぶやく。

「あー……時間くれって、それで……」

 そして一度言葉を切り、目を細めて。

「……ありがと」

 花井は小声で礼を言ってよこすと、照れくさそうに視線をそらした。

「……正直、ちょっとびっくりした」

 続く言葉にも、やっぱり照れたような響きがあって。
 頬がほんのり上気したようにも見える。
 そんな普段は表に出すことのない珍しい反応を見せながら、花井はレジ袋からケーキを取り出して、机の上に置いた。
 なんだか妙に可愛かった。
 理由のよく分からない緊張した空気が張り詰めていた俺たちの間に、少しだけ安堵感が漂ったように思えた。
 それに心底ほっとした……のは、ほんの一時のことで。

「でも渋沢……これ、フォーク入ってない」
「……あ」

 花井の指摘で、血の気が引いた。

「やっべぇ……」

 額に手を当てて、思わず唸ってしまった。
 やらかした。痛恨のミスだった。
 なんでこう、よりによってこんなタイミングで、一番やったらまずい失敗を……。

「くっそ、あの店員……」
 
 フォーク必要ですかって、なんで言ってくれねーかな。レジ袋は訊いてきたくせに。
 こっちがすぐそこの学校の生徒なの、校章の刺繍入ったシャツ見りゃわかんだろ。学校で食うんだよ、普通フォークねえと食えねえよ。
 内心で毒づきまくったけど……まあ八つ当たりだ。結局のところ、自分が悪いわけで。
 結局、いつものパターンか。また俺の手に危機が迫ってる……。

「昨日のおれと同じ罠にはまったんだ?」

 やっと花井がまともに笑った。
 そうだった、確かに花井は昨日、スプーンをもらい忘れて店に戻った話をしてた。あれをちゃんと覚えておいて、気をつけるべきだったんだよな……。
 そんなふうに心の中でひたすら反省しつつも、その一方でなにより花井が笑ったことが、俺にはとにかくありがたかった。
 あぁ、さっきまでの居心地の悪さは、なんとかなりそうかな、と。やらかしはしたけど、それで花井が笑うんだったら、もう構わない。もしこれを手で食わせろって言うなら、望みどおりにそうしてやる、と――。
 そんなふうに、やっと思えたときだった。花井がまた笑顔を消してしまって、真顔になったのは。

「なあ渋沢……おまえさ、たぶん勉強、全然集中できなくなってるだろ」

 唐突に真正面から切り込んでこられたのは、できればあんまり触れられたくない話題だった。

「一昨日もちょっとおかしかったし……昨日はほんとにひどかった」

 ……ほんと、おまえよく見てんな。
 思わず苦笑しそうになりながら、心の中で呟く。
 見透かされているような感覚に、胸の奥でじわっと焦りが広がった。

「まあ普通に考えて……おれが、やりすぎたせいだよな。おまえいつも信じらんないぐらいの集中力なのに……その渋沢をあんな状態にするなんて……おれほんと最悪」

 だんだん、花井の声が弱々しく小さくなってく。
 あぁ、また見たことない花井だ、とぼんやり思った。普段の余裕のある感じとは、かけ離れてる。
 冗談でも皮肉でもなく、自分が原因だって本気で思ってるみたいだった。そういうことじゃねえのに。

「もうこういうの、終わりにしよっか」

 花井がぽつりと言った。
 一瞬、心臓が止まりそうになった。

 ……終わり?

 頭の中で、嫌な響きが繰り返された。

 終わりってなんだよ。本気で言ってんのか。
 やなとこ見透かしてくるくせに、肝心なとこ分かってねえな。
 おまえが離れたところで、俺が集中できるかどうかなんて、たぶん関係ねえんだよ。
 俺はおまえのことが好きで、勝手にこんなんなっちゃってるだけ。終わりにしたからって好きじゃなくなるわけじゃねーじゃん。俺自身の問題だろ。

 ……なんて。 
 そんなこと言えるわけもない。
 どうせ変わんないからやめないで、続けて、とか。
 言えるか普通?
 無理だろ。

「……だから、昨日も言ったじゃん。大したことじゃないし問題ない。俺だってこんな時もあんだよ。おまえが俺のことを、よく知らないだけ」

 結局また、昨日と同じ嘘をついた。

「で。このケーキ、俺がお前に食べさせるんでいい?」
「……は?」

 言い返す隙を与えないようにと、俺が即座に続けた言葉に、花井は無防備に戸惑いの表情を見せる。

 まあそりゃそーだよな。こんなん俺でも、は?って、聞き返したくなる。
 ……でも、しょーがねえじゃん。終わりになんか、させたくねえんだよ。
 もう、おまえが俺のことを好きなわけじゃなくても、いいからさ……。

「渋沢……おまえおれの話、ちゃんと聞いてた……?」
「聞いてたよ。そんで、別にそれは問題ないって、もう答えたろ」

 肩をすくめて何気ないふうを装いながらも、反論されないように少し強い口調で、俺は花井に告げた。

「そんなこと気にしなくていいから。せっかく買ってきたんだし、誕生日祝い、俺の手から食えよ」





「で……なんで床?」

 少し呆れたように尋ねてくる花井は、腰高窓の下の壁に背中を預けて、やたら長い足を床に投げ出している。
 その隣で、俺は花井の方を向いて胡座をかいて座り――俺と花井の間には、プラケースのドーム部分を外した、苺の載ったショートケーキ。
 俺が床に腰を下ろすように言ったら、花井が意外にも素直に従って、結果がこの状況だ。

「昨日、おまえ言ってたじゃん。近くないと食べさせにくいって。ケーキだって崩れやすいし。机が邪魔なら、いっそ床の方が楽じゃね」

 答えながら、俺はケーキに手を近づけた。
 なんとなく、今まで食べさせてきたものよりも、手で直接触れることに勇気がいるよな……。
 ……ま、もう覚悟決めてクリームの中に指先を突っ込むしかない。
 人差し指、中指、薬指、それと、そこに添えるように親指。四本の指で、ケーキの端を掬い取る。

「まあいいけど……体勢に自由が利きすぎると、歯止めが効きにくくなりそ……」

 花井の呟きに、なんの話だ、とは思ったものの、手に取ったケーキを落とさないように運ぶのに意識を持って行かれて、結局そのまま流した。

「ほら……食え」

 俺の手元を見つめながら、花井が一瞬迷ったように口もとを引き締める。けれど次の瞬間には、その唇が開き、花井はケーキごと俺の指先を咥え込んだ。
 ゆっくりと、花井は口の中でスポンジを俺の指から受け取った。
 奇妙なほどの慎重さに、違和感を覚える。
 その正体を確かめたくて、もう一度ケーキを手に取り、花井の口の中に入れた。
 やっぱり、同じだ。

「……なんでそんな食い方すんだよ」

 苛立ちで、声の調子が少し低くなった。

「極力指に舌触んねえよーに、おっかなびっくり食ってんだろ」
「そこ怒るんだ……?」

 少し困惑したような花井の言葉は無視して、俺はもう一度手をケーキに伸ばし、今度はもっと強めに指で掬い取った。
 少しのスポンジと、わざと指にたっぷり絡ませた生クリーム。
 それをまた、花井の口もとに運んだ。

「ちゃんと舐めろよ」
「……どしたの。なんか変なスイッチ入った? 今日やけに強引」

 花井が少し驚いたように目を見開いて、それから苦笑まじりにそんなことを言った。

「これ誕生日祝いじゃなかったっけ。もーちょっと優しく祝ってほしーんだけど」
「うるせ。いーから、早く」
「まあ、これはこれで……案外、興奮するけどね……」

 ため息なのか笑いなのか判然としない息を吐いて、花井は今度こそ俺の指を舌先で受け入れた。
 ケーキのスポンジを舌と上顎で擦り潰す動きに、指が巻き込まれる。舌の柔らかさと生温かさ、唾液に濡れる感触に、眩暈がした。
 手首を掴まれてから、指先が口の外に解放される。そして間を置かず、花井はその指に舌を添わせた。付け根から指先へと指を舐め上げられ、吐息が熱を帯びて震えた。
 花井の呼吸も、僅かに乱れ始めていた。

「こーゆーのがまずいから……終わりにしよって言ったのにな……」

 花井が漏らした呟きに、また少し引っ掛かった。
 なんの話……? 俺の集中力がどうとかって、それを気にして、終わりにするって言ってたんじゃなかったっけ……。
 ぼうっと霞のかかったような頭で、どうにか思考の尻尾を掴もうとしたけど、急に手のひらを舌先でくすぐられ、その感触と背中に走る震えとで、掻き消えてしまった。

「ぁ……」

 吐息に小さな喘ぎが混じってしまって、花井が俺の表情を窺おうとするように、ちらりと視線をよこした。
 もしかして、もう一度同じとこ舐めてくれんのかな……、今度は舌の先だけじゃなくて、もっと全体使って……、なんて。その視線に、期待してる自分がいる。
 そんな自分に気づいて、実際にそうされてもいないのに、その想像だけでぶるっときて。恥ずかしさに唇を噛んだ。
 それなのに、次に花井が触れたのは、指の先で。ほんの先っぽだけ、唇で挟んで、ちゅ、と音を立てて吸う。
 それも……、それだって……まあ、ちょっと、気持ちいいけど……。
 でも。これってわざとやってんの? 分かっててやってんだろ。
 いま欲しいの、それじゃない。
 そうじゃねえんだってば……。

「手、ちょっと、はなせ……」

 声が震えた。身体はもっと震えてる。
 力が緩められた花井の手を振り払って、俺は自由になった手で、ケーキをグシャリと鷲掴みにした。上に飾られてる苺が、ゴロリと転がり落ちた。
 そしてその手を、花井の口の前に持っていって、ゆっくり開く。
 指の間から、小さなスポンジのかけらがクリームとともにこぼれ落ちて、花井の制服のズボンの上に落ちたけど、俺も花井もそれに構うことはなかった。

「……もっと手のひら舐めてほしーんだ?」

 ふ、と花井が笑いまじりの息を吐く。揶揄っているようでいて、だけどたぶん、そうでもない。
 きっとこいつも今、そんなに余裕ない。
 それが分かるような、熱っぽくかすれた声だった。

「俺はおまえにケーキ食わせてるだけだろ……」

 どうにか答えた俺も、なんかもうぎりぎりで。
 早く、早く、って……すごい焦燥感で震えが止まんない。

「あぁ……そーだね、おれはケーキ食ってるだけ……」

 そう言って、花井は手のひらのケーキに口をつけた。
 いつもだったらきっと、ゆっくり、じっくり、まるで焦らすみたいに触れてくるところだった。
 なのに今、花井は衝動に身を任せるようにしてケーキを貪ってる。
 唇と舌先と、それからときどき歯も、手のひらに荒々しく触れてくる。
 スポンジケーキの少しもそもそした感触、クリームのぬるりとすべる感じ、乱れた息の湿った生温かさ。
 与えられる感覚のすべてが、胸の内や腹の奥やいろんな場所をざわつかせて、快感をこれでもかと煽ってくるのに、それでもまだ足りない。
 そうして、花井は手の上のものをあらかた食べ切ってしまうと、ようやくそこに、ぺたりと舌を這わせて――

「……ふ、……っ、」

 触れられているのは手だけなのに、全身がわなないた。

「おまえほんとすきだね、ここ……。ほかにはどこで気持ちよくなんのか、ぜんぶ暴きたくなる……」

 最後に手のひらを唇で軽く啄んで、花井が顔を上げた。
 その顔を見て、どくん、と心臓が強く鳴った。

 俺の好きな、整いすぎっていうぐらいのきれいな顔を。
 頬に、口の端に、唇に、付着した白い生クリームが、汚していた。
 それが、もう、あまりにも煽情的すぎて――

「花井……顔に、いっぱいついてる……」

 喉がカラカラに乾いて焼けつくようだ。声が引き攣った。

「あー……やば、ベタベタんなった……」

 自分の手でそれを拭おうとした花井の手を、考えるよりも先に、気づけば咄嗟に掴んで止めて、下ろさせていた。

「なに……おれが自分でやるの、ダメなの? 渋沢がしたい……? いいよ、好きなようにして」

 もっと近い場所までにじり寄り、震える両手をどうにか花井の両肩に置いた。
 その手に少し力を入れ、身を乗り出す。
 顔同士が、ぐっと近くなる。
 呼吸が浅くなる。
 頬が信じられないほど熱い。

 どうしよう……、
 湧き上がってくる衝動を、どうしょうもなく、抑えられない。

「花井」
「うん?」

 名前を呼んだ。
 花井は動かずに、ただ俺のするがままに任せている。
 小刻みに震える唇を薄く開いて、そっと頬に触れさせ、クリームを舐めた。

「花井」
「うん」

 また名前を呼んだ。
 花井は拒まないまま。
 今度は口の端のを舐めとった。
  
「すき」
「……うん」

 名前を呼ぶかわりに、気持ちが溢れ出た。
 花井は腕を伸ばして、俺の頭を撫でる。
 そして俺は、花井の唇に、舌先で触れた。
 
 そこに付着しているクリームを拭い取って、舌を離れさせたとき、ふいに花井の手が俺の頭を引き寄せた。
 再び距離が詰まり、唇同士が優しくぶつかって、重なった。
 あぁ、ほんとに花井とキスしてしまった――ぼうっとする頭でそんなことをぼんやり思った。
 花井が俺と唇を重ねたまま、そっと口を開けた。下唇を唇で挟まれ、軽く吸われ、舌先でその輪郭をなぞられて……脳内も身体もあっという間に熱くとろけてく。
 知らず知らずに薄く開いてしまった俺の唇の隙間を、押し広げようとするみたいに、花井の舌先は触れてくる。
 熱病に冒されたみたいに、意識が朦朧として、わけがわからなくなってきて。もう本能に任せてしまおうと、口を更に開きかけた――、
 ちょうど、そのときだった。

 急に、誰かの話し声と笑い声が、廊下に響いた。

 深い眠りから瞬時にして、無理やり意識を引きずり上げられ目覚めさせられた時のような、強烈な覚醒感に、全身が一気に強張る。
 どちらからともなく唇が離れたところへ、花井が唇の前にすっと人差し指を立てた。
 しぃ……、と声には出さずに口の形で合図。
 それから、花井はそっと自分の体の位置を少しずらした。そして、俺はまた頭を引き寄せられて。花井の胸に、とん、と額が当たった。
 もしも通りすがりに教室扉のはめ込み窓から中を覗かれることがあったとしても、俺のことが見えないように、花井が自分の背中で庇ったんだってことに気づいてしまう。

 ……ああもうなんなんだよ。
 バカだろおまえ……こんなの離れたら、席に戻ったら、どってことなく済む話だよ。
 このまま動かない俺もほんとバカだわ……。

 心臓が暴走してる。
 この速すぎる鼓動は俺のなのか? それとも花井のか? 接近しすぎて、もう境目がよく分からない。
 話し声が、近づいて。
 一番近いところで、どっと笑いが弾けて。
 またしだいに遠のいていく。

 そして教室前の廊下は、再びしんと静かになった。






 ふーっと、長い長い息を吐いた。
 身体の力が抜けていく。

 ……あれ。
 そんで俺、さっきまで、何してたんだっけ……。

 ぼうっと考えてるところに、頭をそっと撫でられた。

 ……え?
 何なんだっけこの状況?

「渋沢……続きは? 無理そ?」

 花井が耳元で囁いた。

 ……なにこれ、近くね?

「え、あの……続き……て……」

 緊張が解けて安堵したと思ったら、次に襲ってきたのはひどい混乱状態だった。

 いや。
 いやいや、ちょっと待て。待って。
 俺さっき、花井に、何してた……?
 どうしよう、なんかすごく……すごいことをしてしまったような……。
 花井もなんでそれに応えてんだよ。これってまた、雰囲気ってやつ……?
 しかも俺、ヤバいこと言わなかったっけ。
 もしかして、すき、って言った……?
 言っちまった、よな……?
 え、嘘だろ、やば……

「すごい涙目になってる……かわい……」

 花井が俺の目尻に唇を寄せてきた。

 いやちょっとおまえ何しようとしてんの。
 これってどーゆーこと……?

 思わず両腕を突っ張って、花井のことを押し返した。 

「わるい……ほんと、俺、ごめん……!」
「なんで謝んの」

 花井が困惑してる。
 なんで、なんて。訊かれたって、俺にも分かんねえよ。何について謝ってるのかすら、自分でもよく分かんねえのに。
 分かるのはただ、今すぐこの場から逃げ出してぇってことだけ。

「ごめ……ちょっともう、無理……」

 たまらずに立ち上がった。

「も、帰る……」
「え、」

 ばたばたと自分の席に戻って、椅子の背もたれに引っ掛けてあったバックパックを引っ掴んだ。

「まじか……」
 
 勢い任せに引き戸を開けて教室を出るときに、花井が呆然と呟くのが聞こえたけど、俺はもうまったく思いとどまれる状態じゃ、なかった。

 そういえばケーキの苺を食べさせてない、とか。そんなものすごくどーでもいいことを思い出したのは、逃げるようにその場を離れて、だいぶ経ってからだった。