昼休みに、なんとなくだるくて保健室に行ったら、七度ちょうどの微熱があった。
 ほかに風邪症状みたいなものは何にもなくて、養護教諭には疲れ気味なんだろうと言われた。日頃の気温も上がってきたし、今日はまた雨で湿度も高いし、蓄積した疲労が表に出たんじゃないか、って。
 いやでも、たぶん知恵熱だろこれ。昨日の放課後のアレが原因だ、絶対。また放課後が近づいてきたから、なんかいっぱいいっぱいになってるせいに違いない。

 ホームルームが終わったあとで、まだ教室内に残ってるやつもちらほらいるなか、花井が俺の席のところまで来た。珍しい。

「渋沢……昼休み、保健室行ってたってほんと?」
「んー……」

 ……っつか、何で知ってる?
 食堂でメシ食った後に、一緒にいたやつらにひとこと断って向かったから、もしかしたらあんとき近くにいたのか。それとも俺だけが保健室にいる間に、あいつらに俺がどこに行ったか尋ねでもしたのか――まあそんなとこだろうけど。

 俺の隣の席のやつが帰り支度を済ませて立ち上がったところへ、花井はすかさず「ちょっと場所借りる」と声をかけ、そいつに代わってその席に座った。そいつがそれを気にすることも特になかった。
 ほんの一週間ほど前には、俺と花井が一緒にいるところを見た奴からはたいてい、レアな組み合わせだなって顔をされてたのに、人間って基本柔軟にできてるよな。もう適応してるし。

「具合どう」
「あー……ちょっと微熱っぽかっただけ。ほか何ともねえから」
「このあとは? 帰る?」
「今日やろうと思ってることあるし、残って予定こなしたい」
「無理してない?」
「別にしてねえ」

 ただし今日はもう、例の休憩時間はお手柔らかに頼みたい……。
 ってな言葉は、なんとなく言いづらくて、飲み込んだ。下手にそんなことを言ったら、昨日のアレコレを思い返してしまいそうで。

「今日おれがコンビニ行く。渋沢はここにいて」

 花井がさらっとそんなことを言った。
 ちょっと予想外だった。

「雨だし、外出てよけい具合悪くなったらまずいだろ」

 ……そうは言ってもな。どうせ帰りは、雨の中を駅まで歩くんだけどな。
 まあ花井がそう言うんだったら、無理に俺が行くこともねえか。任せちまおう。外、ジメジメ蒸し暑くてしんどいし。

 話してる間に、いつの間にか教室内には、俺と花井だけになっていた。
 最近はみんな引けるのが早い。ホームルームが終わりしだい、とっとと塾なり自習室なりへ移動って感じだ。いよいよ天王山の夏も近いもんな。

「なんか食いたいもんある?」
「や……別に、何でも……」

 言ってから、いまのは失言だったか、と思った。最初に売店でラムネ買ったときも、その後も、何でもよくはないだろって、花井はずっと言ってたもんな。
 だけど、今日のこいつは「そっか」と言って、すんなり俺の言葉を受け入れた。
 なんかどうも、いつもと勝手が違って戸惑うな……。

「じゃあおれが選んでくる」

 ほっとした。
 正直もう何を選んでも大変なことになりそうで、どうしたらいいのか分かんねえし。
 たかだか休憩用のおやつを選ぶだけ。なのに、そのたび、気を張ってばかりいる。
 予想外のことが起きて、そのたびにぐったりさせられる。今回は大丈夫だろって思っても、うまくいかない。もう、疲れてる。ほんとに。
 花井が何を選ぶのかも怖いけど、自分で選ぶよりはなんぼかいい。
 自分で選んだやつだと……なんか退路がない気がして。何をされても、おまえが選んだんだろって言われてしまう気がして、しんどい。
 次はどんな展開になるのか、考えすぎてしまう。何が起きてもおかしくない気がして、怖くなる。
 もしかして、花井は俺がこう言う気持ちになるのを分かってて、あえて最初からずっと俺に選ばせてたんだろうか。
 もう今日は選ばなくていいという事実に安堵しつつも、なんとなく恨めしく思って花井の顔を見たら――ひどく心配そうにこっちを見ていた。

「おれが行ってるあいだ、もし調子悪くなったりしたら、連絡して」

 もしかして俺、ものすごく気遣われてる……?
 声も、何だかとても優しい。
 でも、連絡って。
 いやまあ、連絡先……今は、知ってるけど。繋がってるけど。
 でもまだ一度も、やり取りしたことないよなあ……。

「すぐ戻るから」

 そう言いながら、花井はゆっくり手を伸ばしてきた。
 指先が俺の髪に触れる瞬間、驚いて少し身を引きかけたけど、花井の触れ方はあまりにも優しくて、妙な意図がないのはすぐに伝わってきた。
 そのことに安心して、俺はほぅっと息を吐き、力を抜いてその手に身を任せた。
 花井がそこに触れてくるのは、昨日に続いて二度目だった。
 頭に触れた手のひらが、ほんのり温かい。
 花井が頭を撫でる度に、その手の温もりが伝わってくる。
 優しく優しく撫でられて、触れられている部分も、頬も、胸の内側も、腹ん中も、みんなじんわり温かくなった。

 ――あ。
 今、なんか……胸の奥が、きゅっ、て。
 ……なんだそれ。
 なんだよ、それ。
 なんだ……そういうことかよ。
 あー……。
 分かってしまった。
 気づいちまったよ。くそ。
 花井なんて意地が悪くて、何しでかすか分かんないよーなやつなのに。それなのに、こいつにこんなふうに撫でらるのを、すごく嬉しいと思ってしまう自分がいる。
 優しく触れられるのが嬉しくてあったかくなるのに、同時に胸が締めつけられもして、せつなくて痛い。

 ――俺、こいつのこと好きなんじゃん。

 今まで、なんか分かんないけどしんどいって思ってた……でもそんなの、しんどくて当然だった。
 ふざけて触られたり舐められたりすんのも、なんだかんだ言ってそこまで嫌だったわけじゃない。冗談で思わせぶりなこと言われんのも、正直悪くはなかった。
 心理的にも、沼にハマるような妙な心地よさがあって……ほんとはたぶんちょっと癖になってる。
 だけど同時に……ものすごく、しんどい。
 そりゃそーだろ。だってさ……、
 そういうのが嫌だってわけじゃないけど、でもこんなふうに頭撫でられたりしてせつなくなってしまっていたりする俺の、本心からのいちばんの望みは。

 もっと優しい言葉をささやきかけてほしい。
 もっと大事なもの扱うみたいに触れられたい。
 俺は花井に、俺のことが好きだからって理由で、大切にされたい。

 ……たぶん、そういうことなんだ。





 そして俺は、もしかしたら物心ついて以来はじめての、集中したいのにできないという状況を、味わうことになった。
 花井はコンビニに行ってしまって、教室には自分ひとりだけだったのに。
 雨の音と、遠くで微かに聞こえる管楽器のロングトーン。湿気を吸った木の床のにおい。剥き出しの腕や首に感じる空調の冷気。
 いつもならスッと遮断してしまえるはずの自分を取り巻く何もかもが、どうしても消えない。
 そして何よりも、この場にいないはずの花井の存在が、意識から離れない。
 未知の感覚に、ひどく焦った。

 いや、未知というよりは……厳密に言えば、予兆は昨日、ちょっと感じてた。
 昨日の休憩後に勉強を再開した時に……何となく、どこか気持ちがざわつくような感じはあって、入り込みにくかった。さすがにあんなことされて精神的に疲弊してる、って思っただけだったけど。
 でもあれはもしかしたらそういうことじゃなくて――急に花井に優しくされたから、だったのかも。

 どうしようもなくて、今日やろうと思っていた課題は保留にして、あえて外的刺激を追う必要のあるリスニング問題にどうにか取り組んだ。ノイズキャンセリングを効かせたヘッドホンを装着して、目を閉じ、脳裏に浮かぶ花井の姿を必死で振り払い、音だけを意識しようとして。
 それなのに、花井が音を立てないようにと気を遣いながら教室に戻ってきた気配に気づいたら、それきりもう何も頭に入ってこなくなった。



 ※ ※ ※ 



「渋沢。ちょっと休憩する?」

 花井が声をかけてきたのは、これまでならありえないタイミングだった。
 ヘッドホンはとっくに外していた。結局リスニングもままならなくて、これならまだ数学の演習の方が入り込めるんじゃないかと思ったからだった。
 実際、まだその方がマシだった。普段みたいに完全に没入状態になることはなくても、物音や匂いや、いろんなことに気を取られつつも、とりあえず問題を解くこと自体は、できなくはなかった。一問解くにもものすごく時間がかかって、いま解いてるやつがいつ終わるんだかさっぱり分からないような状態ではあるにしても。
 だから、曲がりなりにも俺は問題に取り組んでいる最中だったわけで。

「何でこんなタイミングなんだよ」

 ちょっと苛立ちを覚えながら振り返った。このタイミングに対してではなく、花井に対してというわけでもなく、こんなふうに花井の声が聞こえて振り返ることのできる自分に、だ。

「……たぶん、声かけても聞こえると思って。いつもと違うから」
「聞こえるかどうか、試したってことか?」
「おれ、そこまで意地悪くないつもりだけど」

 花井は軽く肩をすくめて言った。
 よく言うよ。いつも意地の悪い笑い方して、俺のことからかってばっかいるくせに。

「マジで調子悪そう。なんなら、もう終わりにして帰った方がいーんじゃないの」
「ちょっと集中できてないだけだろ。大したことじゃねえし」
「渋沢にとっては、それが普通じゃないから言ってんの」
「俺だって、そーゆーこともあんだよ。たまにはさ。なんでもねーから」

 なんとなく嘘をついた。
 こんなの初めてだったけど、それを知られて、何が原因なのかって、追及されても困る。
 ……言えねーじゃん。おまえが原因だとか、そんなこと。

「それより、休憩するんじゃねえの。なに買ってきたんだよ、変なもんじゃねえよな」
「渋沢じゃないんだから。おれの選択は至極まともだよ」

 失礼な。誰のせいであんなことになってたと思うんだ。
 内心でそう毒づきながらも、話題が集中力云々からは逸れたことに、ちょっとホッとした。
 俺がいつもの席に移動する間に、花井はコンビニで買ってきたものを机の上に出していた。
 白桃のゼリーだった。
 
「あんまり具合の良くないひとに必要なのは、こーゆーものでしょ」
「さっきから言ってるけど、別に病人じゃねえからな」

 花井は笑いながらゼリーのシール蓋を開けて、自分の手に飛んだ汁を軽く舐め取った。
 その仕草を見て、なんとなく違和感を覚えた。

 ――それ、普段だったら、俺が開けてるよな。
 そんで、同じような状況になったら、俺の手がまた花井に舐められたり、したはず。
 いつもたいてい俺が包装を開けてやって、花井に食べさせるっていう流れだった。例外は花井が飛び道具って呼んだぐるぐる混ぜるやつぐらいで。
 なんで今日は、花井が自分で開けてんだろ。自分で買ってきたからか。
 やっぱりなんか今日はいつもと勝手が違って、調子が狂う……。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、花井はプラスチックの小さなスプーンのビニール包装も外していた。

「渋沢……今日さ、いつもと交代しよっか。おれが渋沢に食べさせてあげる」
「え、なんで……?」
「んー……看病かな?」
「だから、病人じゃねえって……」
「まーいいじゃん。ちゃんと口開けろよ?」

 花井がゼリーをすくったスプーンを俺の口元に運ぼうとする。でも、一度目は失敗した。つるりと滑り落ちたゼリーは、花井の左手がすぐに受け止める。

「あー……使いにくいなこのスプーン。すくう部分、浅すぎ」

 そう言いながら、花井はその手に載ったゼリーに口を付けて、ぢゅっと音を立てて啜った。
 その音がやけに耳に残って、少しだけ、身体が震えた。

「あと、机もじゃま。もっと近くないと、食べさせにくいし」

 花井は舌打ちして、ゼリーのカップを載せたままの机を脇に押しやった。空いたスペースに、椅子ごと前へずれてきて、首を傾けながら俺の顔を覗き込んでくる。

「これくらいじゃないとだめだよなー」

 ――距離、近……。

「じゃ、改めて」

 花井は軽く笑って、もう一度ゼリーをすくい、今度こそ俺の口元に差し出した。

 一瞬、口を開くのを躊躇った。
 ……知らなかった。食べさせるより、食べさせられる方が、ずっと気恥ずかしいなんて。
 花井、よくいつも平気でやってるよな……。

「どーぞ?」

 花井が柔らかく促してくる。諦めて、仕方なく口を薄く開けた。

 スプーンから唇の隙間に滑り込んできたゼリーは、なぜか予想外に冷たかった。
 花井が教室に戻ってから、もう随分経ってるはずなのに。
 舌の上に乗る冷たさが、喉の奥へと滑り落ちていく。ひやりとした感触は心地よく、そして少し意外で、……なんとなく落ち着かない気持ちにさせられた。

「……冷たいの、いーでしょ」

 俺の表情を読み取ったかのように、花井が満足そうに笑った。驚きがそのまま顔に出てしまったんだろう。

「凍らせたペットボトル買って、袋ん中、一緒に入れといた。ほら、これ」

 そう言って取り出したミネラルウォーターのボトルを、花井の手は優しく俺の額に当てた。まだ半ば凍ったままの結露したボトルが、ひやりと冷たい。

「冷た……」
「きもちいい?」
「ん……」

 冷えたゼリーが喉を通り過ぎた瞬間も、ボトルが額に触れた瞬間も、確かに心地良かった。
 それなのに……心の中が全然落ち着かないのは、どうしてなんだろうな。
 まるで冷たさが体の表面だけに染み込んで、胸の奥には届かないみたいだ。むしろ逆にじんわり熱を持って、それが焦りに変わっていく。
 自分の気持ちに、もう気づいてしまったからこそ、焦る。こんなふうに妙に優しく接してこられたら……俺はどういう態度を返したらいいんだよ?
 心配されて、気遣われて――優しくされるのは、うれしい。でも、せつなくて、どうしたらいいのか分からなくて困る。
 その困惑を振り払いたくて、ふぅっと息を吐いた。
 それからふと視線を上げて――そして、気づく。いつの間にか花井が、じっと俺のことを見つめていた。

「え……なに?」
「……なんでもないよ」

 その視線の思いがけない強さに戸惑いながら尋ねたら、花井は首を横に振って軽く笑い、それから手にしているペットボトルを、机の上の俺に近い位置に置いた。

「あげる。このミネラルウォーター、渋沢ときどき買って飲んでるやつだから」
「あぁ……うん。……ありがとな」
「次、桃のとこ食う? ゼリーの方がいい?」
「じゃあ、桃……」
「いーよ。ちょっと待ってて」

 ほんと今日はやけに、かいがいしい。
 急にこんなことされると、なんかもう……おまえ誰だよって感じだな。
 それでも、この優しさに身を委ねたら……どっかで一気に突き落とされそうで、どうしようもなく怖い。

「……これ、案外やりにくいかも」

 横にどけた机に向かって、プラスチックスプーンひとつでゼリーの中のゴロッとした白桃を切り分けようとしている花井が、少し困ったような顔をした。眉間にしわが寄ってる。
 スプーンはやけに小さいし、ゼリーはつるつる滑るし、って感じか。まあなんとなく想像はつく。
 その横顔を、こーゆー顔もいいよなあ、と性懲りもなく思いながら、ぼんやり眺める。というかもう、こいつがどんな顔してようが結局見惚れちまうんだわ、俺は……。
 
「実はさ……さっき買いに行った時に、レジの店員にスプーンいるかどうか訊かれなかったから、そのまま店出ちゃって。気づいて慌てて戻ったんだよねぇ……雨降ってんのに」

 花井は桃と格闘しながら、急にそんな話を始めた。

「さすがにスプーンなしでゼリーはキツいだろ、って思ったけど……でも、このスプーンも、たいがい使いにくいな」

 わざわざ取りに戻ったのに……ってぼやきながらも、どうにかこうにかスプーンで桃を切り分けている。

「……よし、できた。お待たせ」

 花井がようやく分け終えた白桃を、俺に差し出す。

「ほら渋沢、あーんして」

 冗談半分って感じの軽いノリに、反応するだけの気力が、今の俺には正直ない。ベタすぎるし恥ずかしすぎるけど、もうどうでもいい。

 スプーンをさらに近づけられて、仕方なく俺は口を開けた。
 口に入れた白桃の甘さと冷たさが、思っていたよりも鮮烈だった。なのにその甘さは、心の奥の焦りをほんの少しも和らげてはくれない。

 花井は俺に桃を食べさせたあと、自分の口にも同じスプーンで桃の果肉を運んだ。

「あー。冷えててうまー」

 そんなのんびりした調子の言葉が、なんだか少し胸に刺さる。俺ばっかり焦って、緊張してるみたいで。

「ん。次、ゼリーな」

 花井は再びスプーンでゼリーをすくい、俺に差し出そうとした。

「……っと、」

 その瞬間、またゼリーが滑り落ちて、花井の左手がそれを受け止めた。

「……あぁ……やっぱこのスプーンだめだわ」

 その言葉に、少し笑いたくなる気持ちが湧いたけど、同時にこみ上げる焦りの方が、ずっと強かった。この次に起きることが、読めてしまう。
 唐突に、花井の喉もとが上下したのが、はっきり見えた。微かに、喉が鳴るのも聞こえた。
 ……たぶん花井もいま、俺と同じことを、とっさに意識してしまったんだろう。

「渋沢……これ、どうする?」

 声からも、急に余裕が消えたような気がした。

 どうするって……なんだよ。
 どういう意味……?
 いや……そういう意味でしか、ないよな……。

「食える……?」

 どうする? とか、食える? とか……疑問形なのが、ほんとにキツい。
 いっそ思いっきり意地悪く笑いながら、これも食って、って言えよ。得意だろ、そういうの。そのほうがまだいい。
 答えられずにいる俺の口もとに、花井はゼリーの載った手のひらを差し出してくる。
 ……これ結局、実際には返事なんて求められてないってことだな。
 要するに、ただ、食えってことじゃん。
 だったら訊くなよ……。
 鼓動が異常に速くなってて、止まんねえ……。

 深く息を吐いた。少しでも気持ちを落ち着けようとして。
 そして、結局なんの効果も得られないままに、俺は薄く開いた状態の口を、ゆっくり花井の左手に近づけた。
 つるりと滑るゼリーを口に含むためには、開いた唇を手のひらに押し当て、舌ですくい取りながら、吸い上げる必要があった。
 花井の手に触れた舌は、ゼリーの味よりも、花井の手の僅かな塩っぱさばかりを、強く感じ取ってしまう。
 そうして俺がようやく口に入れたゼリーを嚥下したとき、同時に花井の喉も再び、ゴクリと唾を飲み込む音を立てた。

「渋沢……唇、濡れてる……」

 花井の声が低く響いて、自分の唇に意識が向いた。花井の手の上のゼリーに触れて、確かに唇にも口周りにも、濡れた感触がある。
 そこに、花井の眼差しを感じる。冷たく濡れているはずの場所が、なぜかじんわり熱い。視線で熱せられているみたいだ。
 堪えきれずに漏れた俺の吐息も、はっきりと熱を帯びていた。
 花井の顔が、ゆっくりと近づいてくるのが分かる。まるで時間が引き伸ばされたように感じられる。世界の全てがスローモーションになって、花井との距離がじわじわと縮まっていく感覚。
 心臓が暴れるように高鳴って、喉の奥が詰まった。

 ――あ……これ、やばい。

 一瞬、息が止まって、動けなくなった。
 けれど、花井の唇が俺に触れそうになる――その瞬間に、咄嗟に手が動いた。
 それを花井と自分の間に、強引に差し込んで。
 ギリギリのところで、俺は花井の唇を手のひらで覆い、遮った。

 ……そして、一瞬の間。


「え……なに、この手」

 沈黙を破ったのは、花井のそんな呟きだった。
 花井は数回瞬きをしたあとで、軽く笑って、口を押さえている俺の手に、自分の手を重ねた。

 手の甲に、花井の手の熱を感じた。その妙に生々しい感触に、今起きていることが確かに現実だと思い知る。

 ――俺いま花井に、なにされかけた……?

「どしたの渋沢……恥ずかしくなっちゃった?」

 言葉を発するのに合わせて、直接そこに触れている唇の動きと、かすかな息が、俺の手のひらをくすぐる。

「そうじゃ、なくて……」

 絞り出した声は、少しかすれた。

「そういうことじゃなくてさ……」

 もう手を離したいのに、今度は花井が放してくれない。

「これって、俺が今ガードしなかったら、どうなってた……?」

 俺の問いかけに、花井は一瞬、軽く目を見開いた。
 そして、ふっとその目を細めて。

「そりゃ……キスしてたんじゃない?」

 手のひらに、唇が押し当てられる。ちゅ、と音を立てて――唇にするはずだったキスを、代わりに手のひらに残すみたいに。 
 そのあまりの甘さに、眩暈がする。
 それからやっと、手を解放された。

「……なんで?」

 思わずこぼれた自分の言葉が、自分でも驚くほど幼い響きに聞こえた。

 止めてなければ、いま手のひらにされたのが、唇にきてたはずで。そしたらそれは、俺にとって初めてのキスになるところだった。
 でもどうせ、花井にとってはそんな特別なもんじゃ、ないんだろう。

「なんでって……そういう雰囲気だと思ったからだけど」

 さらりと、花井がそんなことを言った。

「雰囲気……」

 思わず、その言葉を繰り返した。

 なんだ、雰囲気って。
 そういう雰囲気だと思ったから?
 つまり、なんとなく、していいようなノリだったから?
 いま付き合ってる相手がいないから?
 俺があっさり受け入れそうだったから?

 ……おまえは俺を好きなわけでもないのに?

「あー……もしかして、違った?」

 花井が少しだけ眉をひそめて、俺を見つめてくる。
 俺が言葉を返せずにいると、花井はふと諦めたように息を吐き、俺の頭にそっと手を置いた。

「……じゃあ、おれの勘違いだったかも。……ごめんな」

 頭を撫でてくる手も、謝ってくる言葉も、どこまでも甘く優しいのに。
 それなのに、声にだけはどこか乾いた響きがあった。乾ききったささくれのような棘を隠し持つその声で、花井は俺の心に、無数の小さな傷をつけていく。
 ちくちくした痛みに、うっかり涙が滲みそうになった。