コンビニまでの坂道を下る足取りは、重い。
 とにかく暑いってのもあるけど、それより何より、今日は珍しく、花井がおやつ選びに注文をつけたからだ。
 曰く、『たまには甘くないものが食べたい、てゆーかスナック菓子食いたくて禁断症状出てる』と。
 見た目王子のくせにジャンク菓子に禁断症状ってどうよ。高級焼き菓子食って育ったんじゃなかったのかよ……って、それは俺が勝手に妄想してただけか。

 まあそれよりも、問題は王子のご所望がスナック菓子だってことだ。
 間違いなく手が汚れるじゃねーか。
 何を選んでも基本、手に食べかすが付着するのが、スナック菓子だ。
 加えて、ポテトチップスは油まみれになるし、ポップコーンも塩なり油なりにやられる。コーンスナック系に至ってはシーズニングの粉だ。それ、自分が食うときでさえ指舐めるやつじゃん。
 今日も俺の指は、また大変なことになる。確定だ。気が重いったらない。
 もうさぁ……甘くないものが食いたいときは、うちのじーちゃんみたいに煎餅食っときゃいいんだよ。
 煎餅みたいに指汚さずに済むスナック菓子、何かねえかな。もういっそマジで煎餅買ってっちまうか。
 きっと花井、嫌な顔すんだろな。そんな顔も見てみたい気はするけど。
 くそ、それにしても蒸し暑くて汗が止まんねえ。正常な判断力が奪われそうな危険な暑さだ。
 坂を下りきってコンビニに辿り着いたときには、もうだいぶ疲弊していた。

 そしてそんな状態で、駄菓子コーナーに陳列されたものを目にした瞬間、救世主が現れたと思った。
 それは棒状のパフスナックだった。個包装の、一本単位で売ってるやつ。
 そーだよ……この手のやつがあるじゃねえか。
 袋の上から持って食わせりゃいいんだから、手は汚れない。完璧。

 学校に戻るには上り坂なのに、行きよりは足も気分も、ちょっとばかり軽くなっていた。

 で、その救世主がもたらした結果はと言えば――



 ※ ※ ※ 



 自習の合間の休憩時間、包装を開けて途中までを剥き出しにしたパフスナックを前にして、花井蒼亮は困惑した顔で唸った。

「これは……うん……ちょっと想定外っていうか……そう来るか……」

 右手で額を押さえて、悩ましげに呟く。心なしか顔が赤い。そんな顔も、やっぱり絵になる。
 それにしても、食うものに口出してきたのも珍しいけど、反応も珍しい。
 何なんだ、いったい。むしろこっちが困惑するだろ、こんなの。
 そう思ってたら、花井はなにか吹っ切るように軽く息を吐くと、俺の目を覗き込んできた。

「渋沢、これおれに食べさせたいの? おまえが俺の口もとに差し出すこれを、俺が咥えるんだ? さすがに絵的に微妙だと思うんだけど……そーゆー姿が見たいってこと?」

 その含みのある言い回しで、花井が言わんとするところを理解して……そして俺は絶叫したくなった。

 いやちがうちがう、違うから!
 断じて、絶対に、まったく、そういう意図じゃねえから!
 どう考えても、それはおまえの頭がおかしいだけだから!

 ……我ながらよく叫ぶのを堪えたと思う。
 でも、気づいた瞬間にたぶん顔は真っ赤になったし、そのあと机に撃沈したから、心の叫びはきっと花井には届いただろう。

「いいよ、渋沢がして欲しいんなら、してあげる」
「変な言い方すんな」
「ほら、渋沢、ちゃんとからだ起こして。食べさせてよ」
「まじでそんなんじゃねえからな……」

 よろよろしながら、どうにか上体を起こす。右手に持ったままのパフスナックを改めて差し出す時には、羞恥で震え死ぬかと思った。
 花井は笑いながら、先端に唇でついばむように触れた。わざとらしく、ちゅ、と軽く音をたてて。

「まーでもこれじゃちょっと細身かもなー」
「何と比べてだよ……想像したくもねえ」

 ほんとに、おまえの頭の中はいったいどーなってるんだ、花井……。

「あ……その前に、これ、外してもらっていい?」

 花井が指先で、俺の手もとでとどまっているアルミフィルムの包装を、ぴんと弾いた。

「食べるとき口とか顎のまわりに触りそうで、ちょっと気になるから。外して、直接手で持って」

 踏んだり蹴ったりって、こういうことを言うのな……。
 こんなんだったら下手に考えすぎないほうが、全然マシだった。

 仕方なく袋から完全に出した。
 親指と人差し指の一番先の部分だけを使って、そうっと摘み上げるように持つ。
 できるだけ指が汚れるのを避けたいっていうのもあるけど、それよりもコレがなぞらえられてるものがモノだけに、なんか微妙な抵抗感……。

「どーゆー持ち方なのそれ。しっかり握っててくんなきゃ」

 案の定、花井に笑ってダメ出しされる。
 てか、それ、言葉の選び方おかしいから。わざとだろおまえ。
 ちゃんと持てっていうだけでいいじゃねえか。普通は握らねえんだよ、スナック菓子は。
 ……とりあえず、もうちょっとちゃんと持ちはしたけど、でも握らない。絶対。

 花井は俯いて口を近づけていき、そこで一度動きを止めて、「んー……」とちょっと唸ってから、また顔を上げた。
 そして、片手で前髪を大きく掻き上げて、ニッと笑う。

「おれの顔、よく見えるほうがいいんでしょ。見てていーよ」

 う……見たくない……とは言えない……。
 そりゃまあ俺はこいつの顔が好きだっていう事実はいかんともしがたいわけで……この整った顔がいったいどんなふうに……とか、思ってしまうのはもうしょーがねえし。
 でもさすがにこの状況は受け入れたらまずくねえか……。

 まとまらない考えが頭の中をぐるぐるして答えられずにいるうちに、花井は掻き上げた前髪を手で押さえたまま、あらためて俺の差し出しているものに唇を寄せ、俺の手のすぐ上あたりにそっと触れた。
 それから唇の隙間からほんの少しだけ舌先を覗かせて、そっと先の方に向かって舐め上げる。

「おいこら……なにやってんだよ……」
「がんばって渋沢の期待に応えてる」
「いやちょっと……ほんとにそんな努力いらないから! マジで期待なんてしてないって!」

 俺の精一杯の抗議を、花井は笑って無視した。
 舌先が、今度は先っぽの方の周囲を、ぐるりと一周した。

 そ……そこまでするか……。
 だめだ、もう……。俺がいま手に持たされてるこれって、何? もはや完全にスナック菓子じゃなくなってる……。
 つーか、あのな……これの形状、ただの円筒形だからな。そんな動きしたって、先っぽ、張り出してたりとかもしねーからな。
 だいたいおまえ、そんな舐めてたら水分でそれ、逆にフニャフニャになるじゃねーかよ。

 心の中で余計なツッコミを入れてしまってから、そんな自分に落ち込んだ。
 何を考えてんだ俺のバカ。もう消えたい。

 ようやく花井が舌を這わせるだけじゃなくて、しっかり口に含んだ。
 やっと食べ始めるのかと思ったら、そのまま動きを止めてしまう。
 髪を手で押さえたままの、上目遣いの花井と、思いっきり目が合った。思わず生唾飲み込んだ。
 美形がエロいことしてる顔、ヤバすぎる……。
 咥えたままのその状態で俺を見上げるな。
 なにかを意図したような舌の動かし方もするな。
 まじ勘弁して……。

「あーもう、いいから早く食えって……」

 限界を訴えると、口が塞がったままの状態の花井が、ふふ、と笑った。鼻に抜けたその息が、無駄に色っぽい。
 やっと歯が立てられたのが、花井の口元の微かな動きで分かった。
 あ、あ、ちょっと待ってこわ……
 ざく、と音を立てて、ついにパフスナックが噛まれる。
 いたっ、いたい、痛くないけど……なんかいたいやめてくれ。
 妙な形で感情移入してしまうのが止められない。何なんだこれ。
 ざく、ざく、ざく……と少しずつ削られ、ついに花井の唇が、俺の指先に触れる。
 最後のひとくちを口に入れるときに、花井の舌が、指先をかすめた。
 口の中のものを嚥下する音、喉仏が動く瞬間、それに続いて唇をぺろりと舐める動き――何もかもが、ひどく艶めかしかった。

 スナックを持たされていた右手が、ようやく空いた。
 わかっちゃいたけど危惧していた通り、シーズニングの粉が指先にべったり付着してる。
 俺がその手の汚れに気を取られていることに気づいたんだろう、花井がちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。

「手、きれいにしよっか」

 ――やっぱ、そうなるよなぁ……。

 かして、と花井の手が差し出される。
 普段よりも少しだけ低く囁かれる声に、どうにも抗えない。
 俺は羞恥に軽く下唇を噛みながらも、汚れた自分の手を、花井に舐めてもらうために、そこに載せた。
 なんかほんと、だんだん、どんどん、おかしなことになってないか?
 こんな、ちょっと人には言えないようなことに、俺、慣れすぎてねえ?
 どうしよ……言われるままに手、預けたりして、今更だけど恥ずかしすぎる。顔が熱い。
 ……いいのか、俺、これで。こんなことで。いやよくない。

 俺の内心の葛藤をよそに、花井は躊躇いもなく俺の手に舌を這わせる。
 指の汚れが一本ずつ舐め取られていき、最後の一本だけは、ちゅく、と音を立てて、指先を吸われた。

「ぁ……」

 ぞくりと身体が甘く震えて、堪えきれず、こぼれるように声が漏れた。

「ダメじゃん、そんなかわいい声出しちゃ。もっといじめたくなる」

 花井は俺の反応をからかって笑い、それから机の上に転がっている残りのパフスナックを手に取った。

「なあ、これ渋沢も食べる? おれが食べさせてあげるよ」
「いらねえ……それを受け入れたら、人としての尊厳が失われる気がする……」
「ひどいな、おれには食わせといて、そんなこと言う?」

 いや、いくらなんでもあんなの、食わせたって言わない。おまえは自ら食ったんだろうが。
 そう言い返したかったけど、なんだかもうその気力も湧かなかった。
 なんなんだこの異様な疲労感は……。

「じゃあ自分でどーぞ?」
「だからいらねって……俺もう当分これ食えねえ」

 差し出されたものを突き返して、俺はくずおれるようにして机に伏せた。
 頭がぐらぐらして、なんだかもう何もかも全部投げ出したくなった。

「なんか……疲れた……」

 ここらが限界かも。
 こんなエスカレートし続ける遊びに付き合うの、いいかげんきつい。
 そりゃ、何もかも嫌だってわけじゃ、もちろんないけど。でも。
 ちょっともう泣きそう。
 しんどい。

「あー……やりすぎちゃったか……。ごめんね渋沢」

 そんな、笑いの混じる声で謝られても、よけいにしんどい。

 ふいに頭に、花井の手のひらが置かれた。
 その感触に、びくっと身体が跳ねた。
 今度はいったい何をされるんだ、と、思わず身構えた。

「だいじょーぶ……今日はもうこれ以上なんもしない。ちょっと頭さわるだけ」

 あやすような言葉は、今までに聞いたことのない、ひどく優しい声音だった。
 そしてその言葉通りに、そのあとはそのまま頭をポンポンと二度三度、優しく叩かれただけ。その花井の手の動きと温もりが、身体の強張りを解いてくれた。

 こんな花井、俺は知らない。
 これは一緒に過ごすようになって、初めて触れる優しさだった。
 花井から手で頭に触られたのも、変な色っぽさを含ませずにただただ優しく触られたのも、これが初めてのことで――なんだか急に、ぐちゃぐちゃになってる心が、すうっと楽になるのを感じた。

 ……いったいどうなってんだろうな。おかしいよな、こんなの。
 俺をぐちゃぐちゃにするのも、楽にしてくれるのも、どっちも花井だなんて。