……あった、見つけた。

 空調の効いたコンビニの店内で、生き返るような心地を味わいながら、俺は目的のものを手に取った。
 袋越しに、そのふわふわした感触を指で確かめてみる。これなら間違いない。
 思いついたときには、俺天才じゃねえか、と思ったぐらい、パーフェクトな選択肢。
 ひとくちサイズで口に放り込むだけ。いくら暑い日でも、さすがにチョコみたいに溶けはしない。指に何かがべったりくっつくわけでもないし、匂いも控えめ。かといって花井が飛び道具と呼んでダメ出しするようなキワモノでもない。
 まさしく無難。完璧なほどに無難なやつ。それが今日のおやつ、マシュマロ。
 こいつのおかげで今日はもう安心だ。
 会計済ませたら、なんか早くも妙な達成感があった。



 ※ ※ ※ 



 キリのいいところで、シャーペンを置く。
 自分の中にある見えないスイッチのようなものを意識的にオフにすると、精神集中のために遮断していた感覚が、ゆっくりと通常に戻っていく。
 それ自体はいつも通りの流れではあるけど、何だか今日は普段以上に集中できた気がする。そのせいか、モードを切り替えた後に、ちょっと清々しさのようなものを感じた。
 目に入ってきた時計が示す時間は、想定していた休憩に入るタイミングよりも、だいぶ早かった。それだけ深く入り込んで、問題を解く速度も上がっていたんだろう。

 集中しようと思いさえすれば、その前後の状況を問わずに切り替えることができるのは、俺のある種の特技のようなものなのかもしれない。
 こないだ花井もそんなようなことを言ってたし。なんならいきなり手を舐められた休憩時間の後だって、わりと普通にその場で勉強再開してたりもするわけで。
 だけど、それでも本当はやっぱり、多少の差は出てるのかも。
 そう思えるぐらいには、今日の集中度には、違いがあった。
 もしかしたら……このあとのことに、あんまり不安要素がないからか。
 だとしたら、マシュマロ最強だな。

 首だけ捻ってそっと斜め後ろ方向の様子を伺ったら、花井はまだ何かに取り組んでいるところだった。
 黙々と文字を書き綴ってるから、記述系の問題だ。時々手を止めて、少し考えて、また動かす。
 前からちょっと気になってたけど、あのいつも使ってる金属製の銀色のシャーペン、かっけーな。花井があれ使ってるとこ、持ち前の甘さがキリッと引き締まる感じがしていい。

 これぐらいの時間で休憩を挟もうとか、いつもだいたいのところを決めてからお互い自習に入っているけど、俺の方が先にキリのいい状態になることは、これが初めてだった。
 こんなふうに花井が集中して勉強してるところをまじまじと見る機会って、案外貴重。
 笑顔が消えて、いつもの柔らかくてちょっと甘い雰囲気も、影を潜めてる。
 全体的にちょっと鋭さが感じられるし、表情もなんとなく、険しくて――これはこれで結構グッとくる……。

 またちょっと、花井の手が止まった。ぐぐぐっと眉間の皺が深くなるのが、遠目にも分かった。
 考え込んでんな、どうやら難問っぽい、と何気なく思っていたら――

「……渋沢。見過ぎ」

 こっちは見ないまま、花井がぼそっと低い声で言った。

 やっべ……そんなつもりなかったけど、俺、邪魔になってたか。
 ってか、最後すっげえしかめ面になってたの、もしかして俺のせい?
 慌てて、顔の向きを戻した。
 ほんとにそっと様子伺ってただけ、だったんだけどな。

「あと三分待って」

 後ろから、花井が小声でそう言うのが聞こえた。





 そして、ほぼピッタリ三分後、花井の席のほうでばたりと音がした。

「あー……も、無理。疲れた」

 改めて振り返ったら、花井はまた電池切れ状態になっていた。
 どこまで本当に動けないんだかは知らねーけど。
 しょーがねえよなあ。
 机の中からさっきコンビニで買ったやつを取り出して、開封しつつ席を移った。

「花井、口開けろ」
「ん? あー……?」

 促すと、花井は机に伏せたまま顔だけを軽く上げて、口を大きく開いた。
 よく目ぇ閉じて口開けられるよな……なに食わされるかも分かんねえ状態で。
 呆れ半分、感心半分で、そこにマシュマロをひとつ、放り込む。

「んん……これ……マシュマロ……?」

 咀嚼しながら、花井が呟く。

「んー。マシュマロねぇ……なるほど……」

 何か思案しながら、ぶつぶつ言ってる。その花井の様子に、俺は心の中でわずかに警戒した。
 なに考えてんだろ。
 いやまあ、さすがに今日のは、妙なこと仕掛けられる余地のない選択……の、はず。

 頭をもたげかけた焦りを宥めるように、自分もマシュマロをひとつ、口に含んだ。
 掴んでた指先は、サラサラのまま。
 柔らかい食感に、なんとなくほっとした。

「そういえばさ……さっきごめん」

 ふと思いたってそう伝えたら、花井がちょっと驚いたように、目を見開いた。

「え。なんで渋沢が謝んの」
「いや……なんか、もうちょっと気を配るべきだったなって」
「あー……あの程度でおれの気が散るとは思ってなかったんだろ。渋沢あれぐらいじゃ全く揺らがないもんな」

 花井がやっと上体を起こして、軽くそう言った。
 とりあえずマシュマロひとつで、その程度には回復したらしい。ずいぶん簡単だな。結局、気分の問題だけじゃねえかって気がするけど。

「別に謝ることないって。そもそも同じタイミングで、いつもはおれが、おまえのこともっと見てるもん」
「は……?」

 ……いきなり何を言い出すんだこいつは。
 からかってるのか、とも思ったけれど、花井の表情は至って普通で、むしろまじめに話してるようにさえ感じられた。

「気づいてなかったろ」
「いやまあ……いっつもタイミングはかって声かけてくれる感じだったから、様子窺われてんだろうなとは思ってたけど……そんなに?」
「わりと凝視ってかんじかも」
「まじか」

 俺の驚いた声に、花井はなんでもない風に笑う。その余裕っぷりが少し気に障る。

「毎度ほれぼれする集中っぷり」
「……そうかよ」

 俺がぼそっと返すと、花井は肩をすくめた。

「ほんとはおれもね、ああいうときでなければ……渋沢にだったら全然、見られて悪い気はしないんだけど」

 そんな言葉が花井の口から妙にさらりと出てきて、俺は一瞬返す言葉を探した。
 それが見つかるより先に、花井がまた口を開いた。

「なんなら今、いっぱい見てよ。好きなんでしょ、おれの顔」

 冗談っぽく聞こえるけど、その声色には少し本気が混ざってる気がした。
 まあ俺が花井の顔を好きってのは残念ながらその通りではあるけど、俺そんなにハッキリそれ伝えたことないよな。
 なのになんでこんな断定的なんだよ。なんかすげえ気恥ずかしいんだけど。

「……てか、休憩入れる状態になるの、今日は早かったじゃん」

 花井がふいに話題を少し変えてくる。
 そのことに、俺はちょっと安堵した。

「なんか普段より集中深くて」
「おー、まだ更に上の次元があったかぁ……」
「マシュマロ効果かも」
「なにそれ?」
「いや別に。……食う?」

 袋からひとつ、手にとって花井の口もとに差し出した。

「うーん……」

 軽く首を傾げて、花井は一瞬、躊躇したみたいだった。
 その様子に、あれ、と思ったけれど、結局すぐに花井は口を開いた。
 歯を立てずに唇だけでマシュマロを受け取り――それから、それをいったん自分の指で摘んで持ち、口を離した。

 なんでだよ。食わせてとか言うくせに、食わねー時もあんのか。

「もしかしてマシュマロ嫌いだったか」
「嫌いじゃないよ。むしろ、この感触は好き」

 花井はそのままその弾力を楽しむように、指でマシュマロを押して、感触を確かめてる。
 親指と人差し指で挟み込むようにして、何度も。

「柔らかくてきもちいーよね」

 妙に楽しそうに言う花井に、俺は顔をしかめた。

「……いや、食えよ」

 促したら、やっと口の中に入れた。
 花井がマシュマロを噛むのが、あごの動きでわかる。それもやっぱり、やけにゆっくりだ。

「このマシュマロの弾力って、唇と同じぐらい?」

 花井が急にそんなことを言い出した。
 どういう飛躍だよ……。
 いきなりこんなことを口にしたりするから、やっぱりこいつは油断ならない。

「またおまえはそーゆーことを……」

 呆れたように言い返すも、ついつい袋の中からまたひとつマシュマロをとって、自分でもその感触を手で確かめてしまう。
 花井がそれをみて、口角を上げた。
 あーくそ、俺の右手のバカ……余計なことして……。

「渋沢の唇もこれぐらいかな」

 花井の問いかけが、さらに胸をざわつかせる。
 え。俺の唇?
 ……まさか。

「触ってみてもいい?」
「え、ちょっと……おまえそんな……」

 言い終わる前に、花井の指が俺の唇に触れた。
 反射的に身体が硬直して、別に拘束されてるわけでもなんでもないのに、逃げられなくなる。思わず息を詰めた。
 最初に人差し指で、唇の形をなぞるように撫でられた。ふわっとした触感がじわりと意識に入り込んで、頭がぼんやりする。身体はかすかに震えた。
 続けて同じ指先で、今度はそっと押される。柔らかく、控えめな圧力が、唇にじんわりと伝わる。

「ん……おんなじぐらい。ふにふにしてる。柔らかいねー……きもちいい」

 それから親指も添えられて、二本の指で唇を摘まれた。
 さっきマシュマロにしていたのと同じ動きには、思ったよりも強い力が込められていて、わずかな痛みを感じた。
 ぎゅっと何度か押された唇が、少し熱を持った。 
 やばい。いま俺、何されてんのか意味わかんなすぎて、ちょっと涙目かも。
 見られたくなくて、ぎゅっと目を瞑った。

 花井の指がようやく離れていって、俺はぐっと息を堪えたままだったのを、やっと吐き出した。吐息も熱くなっていた。

「唇の色、さっきより赤くなってる。強く押しすぎたかな……もしかして痛かった?」

 ごめん、と花井が囁く。
 少し低く抑えられた、ぞくぞくするような甘めの声。
 謝りゃいいってもんじゃねえし。やりすぎだよ、おまえ。
 こんなん、食べるとか食べさせるとか、もはやまったく関係ねえじゃん。

「渋沢。その、手に持ってるやつ、ちょーだい」

 花井はそう言って、今度は自分の唇を指先で軽くトントンと叩いてみせた。俺に促すように。
 疲労感を覚えつつも、俺は手言われるままに持っていたマシュマロを、花井の唇に近づけた。
 なのに、花井は口を開かない。代わりにほんの少し、唇を突き出すだけ。

 なんなんだ、その仕草。おかしいだろ。
 なんで俺がこんな……キスせがまれてるような気分になんなきゃいけねえんだ。
 こんなふうに精神的にじわじわ攻めてくんの、勘弁してほしい。

「おまえほんと考えることおかしいって……」

 ため息をつきつつ、その唇にマシュマロを押し当ててやったら、花井はふふっと笑い混じりの吐息を漏らして、その息が俺の指先をかすめていった。
 ゆっくり、花井が目を伏せていく。
 やっぱまつ毛の長さが際立ってんな、とか、こいつはこんな顔でキスするのか、とか、ぼんやりと考えて――うっかり花井に見惚れている自分に気づいて、視線を逸らした。
 顔が熱い。
 くそ……人畜無害な見た目してるくせに、こんな使われ方しやがってマシュマロめ。全然無難じゃねえ。

「も、いーから食えって」

 むりやり絞り出した声には、焦りと苛立ちが滲んだ。マシュマロを押し当てる指先に、ぐいと力を込めたら、花井ようやくそれを口に入れて食べ始めた。
 そして、その後に続けられた言葉は――

「今ので、ほんとのキスしたくなったりした?」

 なんでもないことのようにさらりと問いかけてくるにしては、ずいぶんな内容だった。

「……なってたまるかよ」

 いや、なってたとしても、絶対おまえには言わねえよ。