週明け、また雨になった。
 傘さしてわざわざ向かったコンビニで、今日は見る棚を変えてみた。
 スナックやら飴やらのいわゆる袋菓子とか駄菓子とかが並んでるところじゃなくて、個包装の焼き菓子なんかが並んでるとこ。

 先週、俺は自分と花井とのあいだに深い溝が横たわっていることを知ってしまった。主におやつ経験における格差で生じている溝だ。
 花井は幼児がこよなく愛する知育菓子を体験することなく成長した。もしかすると駄菓子とは無縁の男。さすが王子。
 じゃああいつは一体何を食って育ってきたんだ、と想像した結果、俺はこうして見る棚を変えるという行動に至った。
 高級そうな焼き菓子食って育ってきたと思われる男、花井蒼亮――まああくまで想像だけど。こいつに見合うような菓子を見繕ってやろうじゃないか、というのが今日のテーマなわけで。
 もちろんコンビニなんで、高級菓子っつったって限度はある。でも大事なのは気分であり雰囲気だ。
 というかあれだ、どうせ何を選んでも何かしら怪しげなことを仕掛けられるわけだから。毎度そこ基準で考えてると疲弊するし、何かしら別のテーマがあって選ぶ方が、いっそ心が平和。

 それにしても、焼き菓子だけでも色々あんのな。

 粉砂糖まぶした丸っこいクッキー。
 ひとくちサイズで、口に放り込むだけなら食わせるのも簡単。
 でも絶対、粉砂糖、手につくよな。却下。

 チョコを挟んだラングドシャ。
 うまそう。
 ……いやでも、ラングドシャって猫の舌なんだっけ。チョコと舌の組み合わせは論外だな。
 しかも不細工な猫の顔がちらついてむかつく。

 ……って。結局思考が、自分があいつに何をされるかってことに引っ張られてるじゃねーか。
 そうじゃないそうじゃない、今日はそこじゃないから。

 しっかり焼き色のついた四角いフィナンシェ。
 見た目シンプル。でもそれとなく上品そう。
 これがいいな。なんか似合いそうだし。

 ついでに紅茶とか買おう。この菓子もしかしたらコーヒーのほうが合うのかもしんないけど。でも王子には紅茶だろやっぱ。なんとなくだけど。
 ペットボトルかチルドカップじゃ、見た目はあんまりそれっぽくねーけど、まあ気持ちが大事。
 憂鬱になりがちな雨の日、いくらか気分も上がる、かも。

 かくして、その日の休憩時間、机の上にはフィナンシェとペットボトルのミルクティーが鎮座することになった。
 これは単なるおやつの時間ではなく、ティータイムだと断言させてもらいたい。
 


 ※ ※ ※ 



 今日もまた、俺が集中を切るのを見計らったようなタイミングで、花井は声をかけてくる。休憩の合図だ。

「バテた……渋沢、おれもう動けない……」

 机にへばりついて、ぐでっとしてる。勉強体力ねえなー。
 コイツの、こういうときとそーじゃないときの差って、何なんだろ。解いてた問題の難易度による消耗度合いとか? 得手不得手とか?
 こんなんでも出来は悪くなさそーなのが、面白いところだけど。こいつの立ち位置、たぶん俺と大差ない。校内ならそこそこ、全国的にはそれなりに上位、ぐらいの。浮き沈みしてそうだから、ちょっとムラあんのかもだけど。

「まあとりあえずこれ飲め」

 机にドンと、ペットボトルのミルクティーを置いてやった。
 そんなふうにグッタリされてちゃ困る。王子には優雅さが不可欠だ。

 ぐだぐだの花井が、ボトルにちらっと視線をやった。

「これは……飲ませてって言っちゃ、ダメなやつかなぁ……」

 ……ナニソレ口移しとかそーいうやつ?
 怖。
 一応はダメかもって思うだけの正常な感覚、おまえにもギリギリ残ってるみたいで安心したわ。

「渋沢、ふた開けてー」

 花井は甘えた声で言ってくる。
 開けてやったら、ふにゃっと笑った。
 それをちょっとかわいいと思ってしまう自分を呪いたくなった。そんなんだから、こんなおかしな状況にはまってしまうんだ、俺のバカ。
 ……てか、そもそもそういうんじゃねえから、今日のコンセプトは。王子はふにゃっと笑ったりしなくていい。

「飲んでちょっと動けるよーになったら、机の上片付けろ」
「えーなんで……めんどくさ」

 ミルクティーを飲みながら、花井はぶつぶつ言っている。
 なんでエネルギー切れるとこうも怠惰になるかなおまえは。
 あれこれ出しっぱなしの机じゃ格好つかないだろう、一応ティータイムなわけだから。

「またなんか妙なこと考えてんでしょ。飛び道具禁止だからな?」

 ノートやら何やらを机の中にしまい込みながら、花井が言う。

「別になんも。駄菓子じゃないし、一緒に飲み物も用意したから、なんかそれっぽく食おうかと思っただけ」

 片付いた机の上にもう一本、俺のぶんのミルクティー。それから個包装のフィナンシェをふたつ置く。テーブルセッティングもくそもないけどまあ、あれこれ出しっぱなしよりはなんぼかマシか。
 窓際の席は、雨の音がよく聞こえる。何となく雨音も楽しげに聞こえたり……までは、さすがにしないかもだけど。

「おー……お茶の時間って感じだねー。おれフィナンシェ好き」
「そーなんだ?」
「バターもアーモンドも好きだから、これ、好きになる要素しかない。バターなんてもう匂いかぐだけで幸せ」
「そんなにか」

 やっぱ見込み通り、高級焼き菓子食って育った感じだわ、これは。そうに違いない。

「つーか、ふたつあんだよ、これ。おまえのと、俺の。食べさせてたら、俺食べる暇ないじゃん。もう、それぞれ食うんで良くね?」
「……なに言ってんの。ふたつを二人で食べるんだと思えばいいだけだし」
「あぁそう……」

 一応、もう食べさせるの終わりでいいんじゃないかと、それとなく振ってみたけど、あっさり却下された。なんかもう、それ以上あんまり反論する気も起きなくなってきたな。

 もういいや、食わせりゃいいんだろ。
 そう思ってフィナンシェを袋から出したら、花井は顔を近づけてきて、いいにおい、と、ちょっとうっとりした顔をした。
 この美形が、こんなふうに夢見心地の甘くとろけるような顔をしたら、それはもうあまりにも王子だった。やべーだろその顔は。
 ああもう、認めよう、俺はコイツの顔に弱いんだ。性別とかそういうのは超越して、ただもうこの顔が好きだ。もちろんあくまで顔の話だけど。だって中身ちょっとおかしいし。
 でも、おかしいと言えばたぶん俺も、だいぶおかしい。

「どーやって食いてえの? かじる? ひとくちずついく?」

 食べさせ方のリクエストまできいてしまうとか、どーかしてる。

「ひとくちずつ食わせて」
「ん……」

 指先でちぎって、ひとくちぶん。
 花井はそれを俺の指ごと口に含んで、もう当たり前のように舌で指先に触れていく。
 そして俺はもうそのことに驚かない。ちょっと背中がむず痒くはなるけど、まあなんというか、慣れた。
 というか、こないだ何もされなかったのを経たことで、そーか今回はまたもとに戻るんだ、と……妙な安堵感さえある気がする。
 ……やばいよな、こんなのって。
 慣れたらだめだろこんなこと。

 ふたくちめ、指先を甘噛みされた。

「……噛むなよ」
「痛かった?」
「痛くはねえけど」
「じゃあいいじゃん」

 花井がちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。
 俺はため息をつきつつも、その笑みには抗えない自分がいることを自覚してる。くそ……おまえもしかして俺がおまえの顔に弱いの気づいてるだろ。そんで笑っとけばなんでも通ると思ってるんだろ。

 ほんと敵わねえ、と思いつつも、こんなことでいいのか、とやっぱり心のどこかで声がする。
 いや、だめだって。
 次々なんかしら仕掛けてられて、受け入れて……引き返せなくなったら。たどり着く先、どこなんだよ。想像できなすぎて怖い。

 食べさせるついでに自分の口にも放り込んだフィナンシェは確かにうまかったけど、正直あんまり気持ちに余裕がなくて、それどころじゃなかった。

「……いいじゃん、じゃねえんだよ。全然よくねえし。なあ、そもそも花井、おまえさ……付き合ってる相手とかいるんじゃねえの?」

 花井は一瞬目を細めて、軽く首をかしげた。それから、口の端をゆるめる。

「んー? なんで急にそんな話になんの?」

 質問そのものを楽しんでいるかのような、余裕のある表情を浮かべてる。
 こっちは気を張ってんのに、なんでおまえはそんなに平気なんだか。
 ……でもさ。そんな余裕ぶって、こんなことしてていいのかって話だよ。

「なんかいかにもいそうだから。もしそうなら……俺にあんまり妙な構いかたすんの、どうかと思うし。いくら冗談でも、こんなのって不誠実じゃん」

 俺がそう言うと、花井は視線を外してほんの少し考える素振りを見せ、けれどすぐにまた俺の方を見た。そして、軽く肩をすくめて答えた。

「ふぅん……つまりおれと渋沢がしてんのは、恋人がいたら別の相手とこんなことしちゃダメって思うぐらい、やばいことなんだ? だめじゃん渋沢、そんな状況、簡単に受け入れちゃ」

 その言葉に、俺はぐっと詰まった。

「……いや、そういうことじゃなくて」

 なんだよ、これ。俺が責められる流れ? 妙なことしてんのはどっちだよ。

「渋沢、手止まってる」

 花井が俺の手に残ってるフィナンシェを指差した。このタイミングで食わせろって、どういう感覚なんだか……。
 またため息をつきつつ、結局半分に割って、右手にある分は花井に、左手の分の自分の口へと運ぶ。
 お決まり通りって感じに、舌先が指に触れる。

「……ほら。こういうとこだよ、渋沢。不誠実だって言いながら、結局おれの言うこと聞いて、こんなことしてんじゃん」 
「それは、そもそもおまえが……」

 言い訳じみた言葉が出かけたけど、バカらしくなってやめた。どうせ言えば言うほど墓穴掘るだけだ。
 ……くそ、うまく返せねーな。

 花井はそんな俺を楽しむように見てる。目は笑ってるけど、どこか探るような視線も混ざっている気がする。

「ふたつめ開けて」

 抗えずに、ふたつめのフィナンシェの袋を開けた。また、バターとアーモンドの華やかな香りがふわっと広がった。

「で、渋沢こそ、どーなの。そういう相手いる?」

 俺の聞いたことには答えず、急に矛先を変えてくる。こいつやっぱりズルい。
 ちょっとムカついて、大きめに割ったやつを口の中に突っ込んでやった。
 眉間にシワ寄せてモゴモゴしてる。ざまみろ。

「いねーよ。地味顔の男子校生活なめんな」

 まあこのあたりは見え張って取り繕ってもしょーがない。
 つか、この美形相手に見栄もくそもない。勝負になるわけもねえし。

「……おれも同じ学校なんですけど?」

 花井が数秒の間をおいて、口の中のものを片付けてから、苦笑いを浮かべてそう言った。

「おまえはその顔面ならそんな悪条件、余裕で乗り越えるだろーよ」
「そんな無茶な」
「無茶じゃねえし。おまえ自分の顔に対する自己認識甘いんじゃねーの」

 自分のことをよく分かってないのか、分かって謙遜してんのか。それともただの言葉遊びなのか。
 全然無茶じゃないだろ? というかこの環境って、おまえにとっては悪条件というよりもむしろ、せめてここでは静かに過ごせるっていう、聖域みたいなもんだったりして。

「何それ……渋沢、そんなにおれの顔すきなの?」

 余裕たっぷりに返されて、心の中がわずかにざわつく。こういうの冗談で言えるところもずるいんだよな。
 言葉に詰まって黙り込む俺を見て、花井は楽しんでいるようだった。

「それをいうなら、そっちの地味顔って自己認識もどうかと思うけどねー。きりっとしててかっこいーじゃん、渋沢は」

 さらりと投げられたその言葉に、どんな顔して何を返したらいいのかわからず、やっぱりただ黙ってしまう。
 からかわれてるのか、意外に本気で言われてるのか……いまいち分かんねえ。

「それでいて可愛いことしたり、言ったりするもんな……。そういうの、相手選ばずやっちゃだめだよ。そんなギャップ見せられたら、みんなすぐ夢中になっちゃうから」

 そんなふうに言葉を続けて、花井はほんのり笑った。

 ……いや、ちょっと待て。
 可愛いこと? したり言ったり、する? 俺が?
 なんか引っかかんな、違和感しかねえ。
 まあそもそも花井の「かわいい」は基準がおかしいわけだし、他のやつにとって成り立つ話のわけねーわ。

 ってか、さらっと言われたけど、今の発言って。
 つまり、おまえ自身はそうだって言ってる?  俺のギャップにやられてるんだ、って……?
 ――まさか、だよな。
 こいつがすぐこういうふざけたこと言うの、ほんと何とかなんねえかな……。

「しょーもな……」

 俺はなんとなく顔が熱くなりそうなのを感じながらも、その感覚を振り払うように、わざと気にしてないふりをしてミルクティーを喉に流し込んだ。





「ほら……これでおしまい」

 そう言って最後のひとくちを食わせてやったとき、花井はふいに俺の右手の手首を掴んだ。

「渋沢の手、おいしそうないいにおいになってる」

 笑いながら俺の手に顔を寄せて、すんと小さく鼻を鳴らす。
 指に、手のひらに、息がかかった。

「バカおまえ、なに匂い嗅いでんだよ」

 笑い飛ばそうとしたけど、心拍が一気に跳ね上がるのが自分でもわかって、あんまりうまくいかなかった。

「バターの油分ついてる」

 花井の舌が、親指に触れた。
 ……まじか。こっから、また舐めんのかよ。

 おい、と制止するつもりで上げた声は聞き流されて、花井は俺の指先を一本ずつ舐めていった。
 手、ちょっと震えてたと思うけど、それについてあえて触れられることはなかった。

「渋沢、においも味も、おれの好きなバターとアーモンドだね」

 小指から舌が離れたところで、花井はふふっと笑みを漏らして、そんなことを言って俺の右手を放した。
 そしてその空いた手を、手のひらを上にして俺の左手側へと、差し出してくる。

「手で割るとき持ってたから、左手も」

 その動作は、まるで当然のことをしてるって感じに、余裕たっぷりだ。

「……バカじゃねえの」

 また舐められるのかと思うと、内心ぞわっとして手を引きたくなる。
 けれどその躊躇を、花井は許してはくれなかった。

「ほら、かして」

 ほんの短いその言葉に、声に、抗えない響きを感じた。
 そして結局――俺は左手を、花井の手の上に乗せてしまった。
 ほんと何やってんだろ……バカなのは俺のほうだな。

 窓の外で雨の音がしてる。
 やけに頭の中がぼうっとしてるのは、きっと単調に続いているその静かな音のせいだ。

 花井は俺の左手を軽く握り、もう一度鼻を近づけて、同じように小さく息を吸い込んだ。目を閉じて、まるで味わうかのように。

「うん……こっちもいいにおい」

 その声は右手のときの軽さと違って、どこか甘く低い響きが混ざっていた。
 また、指先を一本ずつ舐められて……だけど今度は、その後も手を放されることはなかった。

「そういえば渋沢こないださ……手のひら、ちょっと気持ちよかったんじゃないの」

 急にそんなことを言い出されて、ぎくりとした。

 ……バレてた。
 そりゃバレるよな、やっぱり。

 手のひらについたチョコレートを舌全体を使って舐め取られたときの、あの感触をまた思い出す。
 それだけで、身体が震えた。
 たぶんこれも、どうせバレてる。

「左手も、そうかな。ためしてみる?」

 こちらの意思を尋ねるような言葉が使われてはいても、その実まったくそんなこと訊かれてないのは、明らかだった。
 だって、声が。やっぱりあの、逃げ道を塞ぐような、抵抗する気を奪うような、少し低い声だったから。
 つまり花井には、実際のところ俺に有無を言わせる気なんてなくて――

 「……っ」

 指の付け根付近に、舌先が触れて、息をのんだ。
 それから、手のひらに接している部分が、舌全体に変わる。
 窓の外の雨の音が、急に聞こえなくなった気がした。
 心音だけが、耳の奥で強く響く。
 鼓動の速さとは対照的に、花井の舌はゆっくり、じっくり、時間をかけて這っていった。
 手の上の感触が、全身に伝わっていく。
 ぞくぞくするような甘い震えが、腰から背筋を通って、うなじへと上がってくる。
 ぎゅっと目を瞑った。
 辿り着いた手首の上から、花井の舌が離れる瞬間に、ぶるっと大きく身体が震えて、

「ぅぁ……」

 堪えきれずに、少しだけ、声が出た。
 呼吸が乱れてる。

「あぁ、やっぱりほら……左もよわいね。かわい……」
「うるせ……」

 からかわれて、ろくに言い返せもせずに、ちょっと泣きたくなった。

 ――やばいって、これ……。
 ほんと、なんでこんなことすんだよ。
 こないだチョコ舐めたとき、花井はあれを冗談めかして、おやつタイムだって言ってたけど。
 じゃあいったいこれは何なんだ。
 いま、手のひら、なんもついてなかった。油分も匂いも、ついてたのは指先だけじゃん。
 なのにそこ、舐める必要なんて、まったくなかったろ……。
 それなのにこんなの……もう完全に目的が違ってる。

「きもちよかった?」

 ……聞くなよそんなこと。

「……渋沢さ、この左手の、小指の付け根の下あたり、ちょっと皮膚固くなってんね」

 俺の答えは待たずに、花井は続けてふと、そんなことを言った。
 声の調子はもう、もとの軽快なものに戻っていた。
 それを感じた瞬間、正直かなり、ほっとした。
 呼吸と心拍を整えようと、一度そっと深呼吸したら、雨音が再び耳に戻ってくる。

「それ……部活のなごり……」

 声はちょっと、かすれ気味にはなったけど。
 でもまあ何とか普通に答えられて、安堵したのも、束の間。

「へぇ……ここ、弓持つ時に当たんのかな」

 花井がその部分に、まるで何か大切なものに触れるような繊細さで、そっと唇を触れさせた。

 ……すげぇな。
 花井……おまえいま完全に王子だったぞ?
 なにが衝撃的って、美形すぎて違和感ねえことだよ……。

 呆然としてたら、花井はちょっと笑って首を傾げた。

「どーかした?」

 尋ねられて、俺は大きく息を吐いた。
 はぁ……もう、どうもこうも……。

「いや……なんでおまえは見た目こんなに王子っぽいんかと……」

 心の声は、そのまま声になった。

「え、いまの? もしかしてときめいちゃった?」

 笑われたけど、もうどうでもいい。

「じゃあ、もっかい右手のほう、かしてみ。それならきっと、さっきのとこじゃない方がいい」

 そう言って花井は今度は俺の右手を取った。
 俯き加減になると、柔らかな髪がさらりと揺れた。長いまつ毛で、目の下の涙袋にうすく影が落ちる。
 そして恭しく頭を下げ、今度は手の甲に、そっと唇を触れさせて。
 ちゅ、と軽く音をたてて、そこに口付けた。
 さっきまで俺の心臓、バクバク言って暴れてたのが、ようやく少し落ち着いたと思ったら、また跳ねて……忙しかったのに。いまこの瞬間、ついに完全に停止した。

 花井がキラキラして見える。
 目の前がくらくらする。
 ……ちょっと待て。
 ここ教室だよな、どっかの城とかではないよな?
 目の前にいるこいつは――まあ確かに見た目は王子ではあるけども。
 じゃあいったい俺は何者なんだ。この立場って何。

「こんな感じじゃないの。求愛のキスなら」

 ん……?
 なんて……?
 手の甲に残る花井の唇の感触が、思ったよりもはっきりと感じられて、頭が追いついてこない。

「……俺いま求愛されたのか? てことは姫か、俺のポジションは。キャスティング無理ありすぎだろ」

 ちょっと間を開けてようやく返したその言葉に、花井は口の端をほんの少しだけ上げた。相変わらず、余裕の表情だ。

「うーん……かわいいとこはあるけど、プリンセス……には、さすがにちょっと見えないか」

 冗談めかした声色で応じて、笑う。
 でも、そのあとに続いた言葉は、急に声の調子が少し変わっていて――

「あのさ。さっきの質問の答えだけど……いないよ」

 余裕を感じさせる響きが影を潜めたその一言が、俺の胸に、妙に重く響いた。
 いないって、つまり……。

 思考が追いつく間もなく、花井が続けた。

「空いてるよ、おれの隣。渋沢その席、座ってみる?」

 ――は?

 その場に、一瞬の沈黙が落ちる。
 何を言われたのか、すぐには飲み込めなかった。飲み込めないままに、心臓だけがドクンと強く脈打った。

「……は?」

 ようやく声を出したものの、気の利いた言葉は出てこない。ただ驚きが先に立つ。
 そのまま数秒、沈黙が続いて。
 それから、花井はそんな俺の反応に肩をすくめて、軽く笑った。

「……せっかくなんで求愛っぽく答えてみた」

 なんだ、冗談か……びっくりさせんなよ。

 胸がぎゅっと強く収縮して、痛んだ。
 ほんと……こいつとのこの時間は、心臓に負荷がかかりすぎる。
 一瞬なぜか胸が高鳴ってしまった自分が情けないというか、ちょっと笑えてくる。

「またおまえはそーやって、すぐからかう……」

 言いかけたところで、笑いながら言葉を切った。
 冗談めかしたつもりでも、これ以上何かを言えば、逆に自分が追い詰められそうな気がしたから。