「だああぁ、無理……やっぱ無理!」
とうとう心の叫びが口から飛び出た。
売店の商品棚を掴んで身体を支え、どうにか心拍を落ち着けようと、肩で息をする。
レジのあるカウンターの中にいるパートのおばちゃんが、ぎょっとした様子でこっちを見た。
放課後の売店に通って三日目。
さっき売り場に足を踏み入れた時には、アラまたこの組み合わせで来た、みたいな顔をされたので、たぶん俺はもう個別認識されているんだろう。
学校随一の美形である花井蒼亮が顔を覚えられているであろうことは言うまでもないとして、俺みたいなこれといって目立ちもしない生徒が食堂や売店で働くおばちゃんたちに認識されることは、たぶんレアだ。
そしてようやく得た自分に対する認知は、たった今、奇声を発するおかしな子として、データが上書きされたに違いない。
いや、まあ。いい、そんなことはこの際どうでも。
「どーした、いきなり。大丈夫?」
俺の隣で、花井が笑いながら首を傾げている。
いきなりじゃねえし大丈夫でもねえ。おまえのせいだ、おまえの。
「なにが無理?」
「おまえと、ここで、こうやって並んで、買うものを選ぶのが」
「えー、なんでよ」
「なんでって、おま……」
おまえ昨日、ここで買ったチョコで俺に何しやがったか忘れたか。いやそもそもその前のラムネだって、どうだったんだあれ。いやいやでもやっぱり問題はあの板チョコだろ。ここをどこだと思ってる、校内の売店だぞ。そんな学校内で買ったもんで、しかも教室で、あんなことをするのはどうなんだ。ああだめだ思い出すだけで目眩がする。ほんとに今日ここで俺は何を選んだらいいんだよ、おまえまた絶対それ使って妙なことするだろ。そんなものこんな場所で買えるか。っていうかおまえが見てる横でなんて選べるか。いやもうどう考えたって――
……言えるかこんなん!
「ぜってえ無理」
ああまた心拍数が上がった。これたぶん血圧も上がってる。
「……コンビニ行ってくる。おまえはついてくんな」
「えー、なんでよ」
「うるせ、先に教室で勉強してろ」
「ちぇ。わかったよ留守番してますよ」
花井が口を尖らせて言う。
けれどすぐにその口もとはゆるんで、目はふわりと細められ、花井のとんでもなく整った顔には、柔らかな笑みが浮かんだ。
「そんでもちゃんと、買ってきてくれるんだよなー、渋沢は……」
別れ際の痛いとこついてくる言葉は、聞こえないふりして無視した。
今日はどんよりした曇天。いつ雨が降ってもおかしくなさそうな空模様だ。
既に七月に入ってはいるけど、梅雨明けはまだ遠いだろう。
校舎内の空調の効いたエリアを出たら、湿気を多く含んだ空気が肌にまとわりついてくる。建物から出ると更に不快指数が増す。
「あっちぃ……」
一人で歩いてるのに、誰に言うでもなく思わず声に出してしまうぐらいには、暑かった。
ここのところ気温はどんどん上昇してきているけど、実際の外気温よりも、体感温度はだいぶ高いだろう。皮膚に膜が張るような感覚がつらい。
ほんとに、こんな状況のなか、なんでわざわざ外のコンビニまで行かなきゃいけねーんだか。
バカだよなー俺。
こんなん、行く必要なんかねえのに。
もうやめようって言って、放課後は自習室で過ごすようにすれば、元通りだ。
たぶん、花井も別に引き止めたりはしないだろう。俺と過ごす時間なんて、あいつはどうせ気まぐれで遊んでるだけなんだし。
ほんとバカだわ。
クソあっちい。曇り空の下、直射日光に晒されてるってわけでもねえのに、なんでこんなに暑いんだ。
通用門を出て坂を下った先に、学校から一番近いコンビニがある。門のところからなら行きは三分、のぼり坂になる帰りはプラス一分。
入り口横では、中学生と思しき連中が何人かたむろして騒いでいる。学校に苦情の連絡入れられっとめんどくせーから騒ぐな、ほどほどで帰れ、と、ちらりと無言で睨みをきかせつつ、自動ドアを通り抜ける。まあ半ば八つ当たりみたいなもんだ。
冷えた空気に、やっと呼吸ができたような気がした。
コンビニの品揃えはさすがに校内の売店とは段違いで、俺は余計に頭を抱えた。
だめだ……何を見ても、どれもこれも花井が絡んでくる気しかしねぇ。すぐに頭の中が花井に占拠される。最悪だ。
はあぁ、と、ため息をついて項垂れたら、駄菓子ばかりを集めたあたりにしゃがみ込んでいた子どもが顔を上げて、一瞬目が合った。ポロシャツに吊りスカートの制服姿の幼稚園児だ。無邪気そうな目で見られると、脳内の妄想がやばいことになっている自分がより一層意識されて、いたたまれない。
一人なのかと店内をざっと見回したら、母親らしき人物が他の棚のところにいて、ちょっとホッとした。
それにしても、やけに真剣な顔で色々見比べて選んでる。まあたぶん幼児にとってはおやつ選び、一大事だもんな。俺にとっても違う意味で一大事ではあるけども……。
まあ、子どもの方は真剣っつっても、もちろん今の俺みたいに悲壮感漂う感じじゃない。楽しそうだ。当たり前か。
ほんとは俺もそんぐらい楽しく選びたい。それか気楽にただ食いたいもんを選びたい。とりあえず花井のことをまったく考えずに選びたい。……できねえよなぁ。
なんか、こう……花井にまったく変な気持ちを起こさせないよーな菓子って、ないもんかな。
ねえか、そんな都合のいいもん。
うだうだ悩んでるうちに、さっきの子どもが急に立ち上がって、現実に引き戻された。
どうやら何を買ってもらうか決めたらしい。母親のほうへ駆けていく姿を見送りながら、ふと懐かしさが込み上げる。
その手に取っていったのは、作る過程を楽しむ趣向が子どもに人気のものだった。セットされてる粉に水入れてぐるぐる混ぜるやつ。
俺もあのくらいの頃って、あれで盛り上がったっけ……。
いっそ花井も、ぐるぐるやって、童心に戻ってくれりゃいいんだよな。買ってったら、そんな感じで休憩時間、平和に終わんねーかな。
無理なんだろーな、たぶん。
教室のドアをそっと音を立てないように開けると、花井はひとり静かに勉強中だった。
端正という言葉がこれほど似つかわしい顔もないだろうっていう横顔で、机の上のノートにいつもの銀色のシャーペンを走らせる姿に、目を奪われる。
邪魔をしないように声はかけずに席に着いたら、後ろから「おかえり」と一言だけ声をかけられた。
振り返ると、花井の視線は机の上の手もとに落とされたままだった。手も止めていない。
こいつの切り替え方も大概だな。
こちらも「おう」とだけ短く返して、あとはもう無言。
休憩時間の状況はわけの分からないことになってるけど、それはさておき。集中すべき時間には互いの邪魔はしない、そんな暗黙の了解が成り立つ空気は、案外心地よかった。
※ ※ ※
「魔女のお菓子、ぐるぐるマジック……」
花井がお菓子のパッケージを手に取って、おもむろに商品名を読み上げた。
それから、込み上げてきたらしい笑いを、手で口もとを押さえて堪える。
休憩時間だ。
「懐かしいだろ」
「や、おれ、これ食ったことない」
「は? まじで?」
「こういうの、親が勝手に買ってくるもんじゃないじゃん。おれ、ねだった覚えもないし」
なんてこった。花井を童心にかえらせよう計画、早くも暗礁に乗り上げたじゃねーか。
そうそう上手くはいかないだろうと思っちゃいたけど、まさかの懐かしむべき原体験がないっていう状況……。
でもまあ言われてみりゃ、こういうの食わないってほうが、断然しっくりくる。
どっちかってと、優雅に高級焼き菓子とか食って育ってそうな?
王子っぽいもんな、容姿が。まあ見た目だけの話だけど。
「で、これってどういうやつ? おれ、遊びながら食うものらしいってことしか知らない」
「端的にいうと、アントシアニンが含まれてる重曹入りの粉を水で溶いて、別の粉でpH変えるっていうシロモノ」
「そんな身も蓋もない説明する……? 膨らんだり色変わったりして生じるはずだったおれの感動を返してくれ」
花井が渋い顔で言いながら、外装を開けた。中身を取り出して、その表情がふっとゆるむ。
白いプラスチックトレイに、小さいスプーンと、袋が三つ。
「なんか実験キットみたいでおもしろいなー」
ん? 意外に好反応?
「渋沢、作るのに水いるって。ある?」
「あー、ミネラルウォーターある。俺の飲みかけだけど」
「いーよ。持ってきて」
……おまえほんとそーゆーとこ気にしねえのな。
まあ昨日のアレの後じゃ、そんなんもはや毛ほども気にならないって話か――って、ああ……俺のバカ。
なんで昨日のこと、自分からわざわざ思い出すんだっての。
顔、あつ……。
自分の席のリュックの中からペットボトルを引っ張り出して、また花井の席のほうに戻ったら、花井は最初に使う粉をトレイに出しているところだった。ふわっとぶどうっぽい匂いがした。
「このいかにも香料って感じの匂いがまた実験ぽいわ……」
やっぱなんか、ちょっと楽しそうにしてる。
水を量るための小さなカップになっている部分も、もうトレイから切り離してある。そういえば机の上に広げてたノートも問題集も、いつの間にか片付けられてる。
準備万端かよ。やる気あんな、花井。
「えー、『いちばんのこな』に、水を入れてまぜると……?」
俺が外装の袋の裏に書いてある作り方を読みながら解答を促すと、授業かよ、と花井が肩をすくめる。
「重曹入ってるなら青」
それでも律儀に答えつつ、花井はトレイに水を注いで、スプーンでぐるぐると混ぜた。
白っぽい粉が、青く変色した。ご名答。
「で、つぎ『にばんのこな』を入れてよくまぜる、と。ちょっとずつ入れて色変化見る?」
「いや……どうせ想像つくし、いっきに混ぜる」
小さな袋の中の白い粉をふりかけた青いペーストは、花井がぐるぐるやってるうちに、もこもこと膨らみながら、淡く甘いピンク色に変わっていった。
うん……まあな。そうなるよな。
「く……もはや童心には戻れねえ……全部先が見えてしまう……」
「まぁ、ある意味戻ってるんじゃないの。幼児期じゃなくて、小学校だか中学だかに。懐かしいじゃん、この手の実験」
がっくりする俺を、花井が軽い口調で宥める。
なんか微妙に想定と違う展開だけど、まあこれはこれでいいか……。花井がそれなりに乗り気なんだったら。
「しかもまだ残ってるし。もしかしたらそれが感動を生んでくれるかもしれないだろ」
指でさし示されたのは、三番目の袋。
これ、ただのトッピングだけどな。
花井が袋を開けて、トレイの空いているくぼみに中身を出した。
「おお……なんつーか……ファンシーだな。これ昔からこんなんだったっけかな、そこまではよく覚えてねーわ」
色とりどりのキャンディーチップに、ところどころ星形のものが混ざってる。
きっと、コンビニで同じものを買ったあの幼稚園児は、これ見て盛り上がるんだろーな。週末の朝にやってる女児向け戦隊モノみたいなアニメの、あのキラキラした感じに似てる。
「はい、これ」
花井がそれまでぐるぐる混ぜるのに使っていたスプーンを、俺に寄越した。
「こっから先は渋沢の役目」
あぁ……食わせろってことな……。
出来上がったピンク色のなにか――結局のところコレ何なんだろうな?――そのなにかをスプーンに取って、トッピングのキャンデーをまぶしつけた。
うん……なんかしらんが眩しい仕上がりだ……。
「何これ、かわいーじゃん」
花井が笑った。
まじか。
やっぱおまえ意外と楽しんでんな。
「ん。どーぞ」
口もとに差し出してやったスプーンは、幼児が使うことが前提なのか、やけにサイズが小さかった。
花井が口に含む瞬間に一気に距離を縮めてきた気がして、ドキッとした。
唇が、指に触れそうで、触れなかった。
「味どう?」
「んんー……? ふわっふわ。なんつーか、掴みどころのない味……」
微妙な顔して、首を傾げてる。
見た目も何だかわからなけりゃ、味も何だかわからないってことだな……。
「渋沢も食ってみ」
「俺はいらね。付属のスプーン、一本だけだし」
「おれが指に取って舐めさせてあげよっか」
「……いらねえよ」
「じゃあ同じスプーンで。おれと間接キスしよ」
花井がダメ押ししてくるみたいに、にっこりと、抗うことを許さないような笑顔で、言った。
ここで従っとかないと、まじで口ん中に指突っ込まれそーで怖い。
とは言っても……
「おまえ……その言い方……」
言わなきゃそこまで気にせずに済むのに、なんでわざわざそんな言い方するかな。
ため息つきつつ、またスプーンにピンクのやつをすくい取って、トレイに出してるキャンディーチップの中に突っ込んだ。
花井が愉快そうに俺のことを見てる。
ああもう、くそ、しゃーねえな。
花井の視線が気になりつつも、俺は渋々スプーンを口もとに運んだ。
「かっわい……」
口開けたところで、花井が急にそんな呟きを漏らした。
「は……?」
「いやー……キラッキラのキャンディまぶした謎のピンク色を食す渋沢……似合わなくてかわいーなー……」
何言ってんだこいつ。
意味がわからないにもほどがある。
「……ほらな、感動生んでくれたじゃん、三つ目の袋。渋沢、まじかわいい」
「おまえのその感性、ほんと謎だわ。ってか、おまえがかわいいって言葉を口にすると、あのぶっさいくな猫の顔が脳裏にチラつく……」
「え、それうちのノノのこと? 失礼だなーあんなにかわいいのに」
「どっちが失礼だ、俺をおまえんちの不細工な猫と同列に並べるな」
腹立ちまぎれに、食べる直前で止まってたスプーンを、勢いにまかせて口の中に突っ込んだ。
って、甘……っ。
何だこれ、こんなに甘ったるいもんだったっけか。
「……むかつく。おまえももうひとくち食え。つーかこの謎の食べ物、残り全部食え」
「理不尽だなー。渋沢が勝手に買って来たくせに」
花井は苦笑しながらも、俺がスプーンを差し出すたびに、素直にそれを口に含んだ。
甘い、とか、ほんと謎な味、とか、ぶつぶつ言いながら。
その間も、これといって何も起きなかった。ただひたすら食べさせてただけ。
……このまま終わるのか?
ほんとに?
こないだはあんなだったのに? 落差すごくねえ?
それを望んでたとは言え、なんかちょっと、戸惑うんだけど。
「……よし。休憩、終わり」
プラスチックのトレイが空になって、最後のひとくちを花井に食わせた瞬間、俺はほっと胸をなでおろした。
と同時に、まじでなんも起きんかった、と、正直言えば拍子抜けもした。
もちろん、残念がってるとか物足りないとかでは、断じてない。ないから。
ま、ともかく。
今日の、花井を童心にかえらせよう計画。計画名通りには運ばなかったにしても、花井に変な気持ちを起こさせないっていう目的考えたら、上出来だな。
多少アレなことは言われたにせよ、今日の俺、無事だし。
そんなことをのんきに考えていたら、花井がまた「ほんとかわいーな渋沢は」と言った。
口もとを手で押さえて、笑いを噛み殺してる。休憩の最初に俺が手渡したものを受け取ったときと、同じ表情だ。
「……なあ、これでちょっと、緊張解けた?」
……あー。
やっぱな。そんな上手くいくわけねーんだよな。
要するに、こいつは最初から俺の思惑なんて承知の上で、俺はずっと転がされてたってことじゃん。
ハァ……ため息でちまう。
敵わねーわ。
「また、明日も一緒に休憩しよ」
花井はそう言うと、最後に「今日みたいな飛び道具はなしでよろしく」と付け足して笑った。
その声は優しく甘く、そしてちょっとだけ意地の悪い響きを含んでいた。
とうとう心の叫びが口から飛び出た。
売店の商品棚を掴んで身体を支え、どうにか心拍を落ち着けようと、肩で息をする。
レジのあるカウンターの中にいるパートのおばちゃんが、ぎょっとした様子でこっちを見た。
放課後の売店に通って三日目。
さっき売り場に足を踏み入れた時には、アラまたこの組み合わせで来た、みたいな顔をされたので、たぶん俺はもう個別認識されているんだろう。
学校随一の美形である花井蒼亮が顔を覚えられているであろうことは言うまでもないとして、俺みたいなこれといって目立ちもしない生徒が食堂や売店で働くおばちゃんたちに認識されることは、たぶんレアだ。
そしてようやく得た自分に対する認知は、たった今、奇声を発するおかしな子として、データが上書きされたに違いない。
いや、まあ。いい、そんなことはこの際どうでも。
「どーした、いきなり。大丈夫?」
俺の隣で、花井が笑いながら首を傾げている。
いきなりじゃねえし大丈夫でもねえ。おまえのせいだ、おまえの。
「なにが無理?」
「おまえと、ここで、こうやって並んで、買うものを選ぶのが」
「えー、なんでよ」
「なんでって、おま……」
おまえ昨日、ここで買ったチョコで俺に何しやがったか忘れたか。いやそもそもその前のラムネだって、どうだったんだあれ。いやいやでもやっぱり問題はあの板チョコだろ。ここをどこだと思ってる、校内の売店だぞ。そんな学校内で買ったもんで、しかも教室で、あんなことをするのはどうなんだ。ああだめだ思い出すだけで目眩がする。ほんとに今日ここで俺は何を選んだらいいんだよ、おまえまた絶対それ使って妙なことするだろ。そんなものこんな場所で買えるか。っていうかおまえが見てる横でなんて選べるか。いやもうどう考えたって――
……言えるかこんなん!
「ぜってえ無理」
ああまた心拍数が上がった。これたぶん血圧も上がってる。
「……コンビニ行ってくる。おまえはついてくんな」
「えー、なんでよ」
「うるせ、先に教室で勉強してろ」
「ちぇ。わかったよ留守番してますよ」
花井が口を尖らせて言う。
けれどすぐにその口もとはゆるんで、目はふわりと細められ、花井のとんでもなく整った顔には、柔らかな笑みが浮かんだ。
「そんでもちゃんと、買ってきてくれるんだよなー、渋沢は……」
別れ際の痛いとこついてくる言葉は、聞こえないふりして無視した。
今日はどんよりした曇天。いつ雨が降ってもおかしくなさそうな空模様だ。
既に七月に入ってはいるけど、梅雨明けはまだ遠いだろう。
校舎内の空調の効いたエリアを出たら、湿気を多く含んだ空気が肌にまとわりついてくる。建物から出ると更に不快指数が増す。
「あっちぃ……」
一人で歩いてるのに、誰に言うでもなく思わず声に出してしまうぐらいには、暑かった。
ここのところ気温はどんどん上昇してきているけど、実際の外気温よりも、体感温度はだいぶ高いだろう。皮膚に膜が張るような感覚がつらい。
ほんとに、こんな状況のなか、なんでわざわざ外のコンビニまで行かなきゃいけねーんだか。
バカだよなー俺。
こんなん、行く必要なんかねえのに。
もうやめようって言って、放課後は自習室で過ごすようにすれば、元通りだ。
たぶん、花井も別に引き止めたりはしないだろう。俺と過ごす時間なんて、あいつはどうせ気まぐれで遊んでるだけなんだし。
ほんとバカだわ。
クソあっちい。曇り空の下、直射日光に晒されてるってわけでもねえのに、なんでこんなに暑いんだ。
通用門を出て坂を下った先に、学校から一番近いコンビニがある。門のところからなら行きは三分、のぼり坂になる帰りはプラス一分。
入り口横では、中学生と思しき連中が何人かたむろして騒いでいる。学校に苦情の連絡入れられっとめんどくせーから騒ぐな、ほどほどで帰れ、と、ちらりと無言で睨みをきかせつつ、自動ドアを通り抜ける。まあ半ば八つ当たりみたいなもんだ。
冷えた空気に、やっと呼吸ができたような気がした。
コンビニの品揃えはさすがに校内の売店とは段違いで、俺は余計に頭を抱えた。
だめだ……何を見ても、どれもこれも花井が絡んでくる気しかしねぇ。すぐに頭の中が花井に占拠される。最悪だ。
はあぁ、と、ため息をついて項垂れたら、駄菓子ばかりを集めたあたりにしゃがみ込んでいた子どもが顔を上げて、一瞬目が合った。ポロシャツに吊りスカートの制服姿の幼稚園児だ。無邪気そうな目で見られると、脳内の妄想がやばいことになっている自分がより一層意識されて、いたたまれない。
一人なのかと店内をざっと見回したら、母親らしき人物が他の棚のところにいて、ちょっとホッとした。
それにしても、やけに真剣な顔で色々見比べて選んでる。まあたぶん幼児にとってはおやつ選び、一大事だもんな。俺にとっても違う意味で一大事ではあるけども……。
まあ、子どもの方は真剣っつっても、もちろん今の俺みたいに悲壮感漂う感じじゃない。楽しそうだ。当たり前か。
ほんとは俺もそんぐらい楽しく選びたい。それか気楽にただ食いたいもんを選びたい。とりあえず花井のことをまったく考えずに選びたい。……できねえよなぁ。
なんか、こう……花井にまったく変な気持ちを起こさせないよーな菓子って、ないもんかな。
ねえか、そんな都合のいいもん。
うだうだ悩んでるうちに、さっきの子どもが急に立ち上がって、現実に引き戻された。
どうやら何を買ってもらうか決めたらしい。母親のほうへ駆けていく姿を見送りながら、ふと懐かしさが込み上げる。
その手に取っていったのは、作る過程を楽しむ趣向が子どもに人気のものだった。セットされてる粉に水入れてぐるぐる混ぜるやつ。
俺もあのくらいの頃って、あれで盛り上がったっけ……。
いっそ花井も、ぐるぐるやって、童心に戻ってくれりゃいいんだよな。買ってったら、そんな感じで休憩時間、平和に終わんねーかな。
無理なんだろーな、たぶん。
教室のドアをそっと音を立てないように開けると、花井はひとり静かに勉強中だった。
端正という言葉がこれほど似つかわしい顔もないだろうっていう横顔で、机の上のノートにいつもの銀色のシャーペンを走らせる姿に、目を奪われる。
邪魔をしないように声はかけずに席に着いたら、後ろから「おかえり」と一言だけ声をかけられた。
振り返ると、花井の視線は机の上の手もとに落とされたままだった。手も止めていない。
こいつの切り替え方も大概だな。
こちらも「おう」とだけ短く返して、あとはもう無言。
休憩時間の状況はわけの分からないことになってるけど、それはさておき。集中すべき時間には互いの邪魔はしない、そんな暗黙の了解が成り立つ空気は、案外心地よかった。
※ ※ ※
「魔女のお菓子、ぐるぐるマジック……」
花井がお菓子のパッケージを手に取って、おもむろに商品名を読み上げた。
それから、込み上げてきたらしい笑いを、手で口もとを押さえて堪える。
休憩時間だ。
「懐かしいだろ」
「や、おれ、これ食ったことない」
「は? まじで?」
「こういうの、親が勝手に買ってくるもんじゃないじゃん。おれ、ねだった覚えもないし」
なんてこった。花井を童心にかえらせよう計画、早くも暗礁に乗り上げたじゃねーか。
そうそう上手くはいかないだろうと思っちゃいたけど、まさかの懐かしむべき原体験がないっていう状況……。
でもまあ言われてみりゃ、こういうの食わないってほうが、断然しっくりくる。
どっちかってと、優雅に高級焼き菓子とか食って育ってそうな?
王子っぽいもんな、容姿が。まあ見た目だけの話だけど。
「で、これってどういうやつ? おれ、遊びながら食うものらしいってことしか知らない」
「端的にいうと、アントシアニンが含まれてる重曹入りの粉を水で溶いて、別の粉でpH変えるっていうシロモノ」
「そんな身も蓋もない説明する……? 膨らんだり色変わったりして生じるはずだったおれの感動を返してくれ」
花井が渋い顔で言いながら、外装を開けた。中身を取り出して、その表情がふっとゆるむ。
白いプラスチックトレイに、小さいスプーンと、袋が三つ。
「なんか実験キットみたいでおもしろいなー」
ん? 意外に好反応?
「渋沢、作るのに水いるって。ある?」
「あー、ミネラルウォーターある。俺の飲みかけだけど」
「いーよ。持ってきて」
……おまえほんとそーゆーとこ気にしねえのな。
まあ昨日のアレの後じゃ、そんなんもはや毛ほども気にならないって話か――って、ああ……俺のバカ。
なんで昨日のこと、自分からわざわざ思い出すんだっての。
顔、あつ……。
自分の席のリュックの中からペットボトルを引っ張り出して、また花井の席のほうに戻ったら、花井は最初に使う粉をトレイに出しているところだった。ふわっとぶどうっぽい匂いがした。
「このいかにも香料って感じの匂いがまた実験ぽいわ……」
やっぱなんか、ちょっと楽しそうにしてる。
水を量るための小さなカップになっている部分も、もうトレイから切り離してある。そういえば机の上に広げてたノートも問題集も、いつの間にか片付けられてる。
準備万端かよ。やる気あんな、花井。
「えー、『いちばんのこな』に、水を入れてまぜると……?」
俺が外装の袋の裏に書いてある作り方を読みながら解答を促すと、授業かよ、と花井が肩をすくめる。
「重曹入ってるなら青」
それでも律儀に答えつつ、花井はトレイに水を注いで、スプーンでぐるぐると混ぜた。
白っぽい粉が、青く変色した。ご名答。
「で、つぎ『にばんのこな』を入れてよくまぜる、と。ちょっとずつ入れて色変化見る?」
「いや……どうせ想像つくし、いっきに混ぜる」
小さな袋の中の白い粉をふりかけた青いペーストは、花井がぐるぐるやってるうちに、もこもこと膨らみながら、淡く甘いピンク色に変わっていった。
うん……まあな。そうなるよな。
「く……もはや童心には戻れねえ……全部先が見えてしまう……」
「まぁ、ある意味戻ってるんじゃないの。幼児期じゃなくて、小学校だか中学だかに。懐かしいじゃん、この手の実験」
がっくりする俺を、花井が軽い口調で宥める。
なんか微妙に想定と違う展開だけど、まあこれはこれでいいか……。花井がそれなりに乗り気なんだったら。
「しかもまだ残ってるし。もしかしたらそれが感動を生んでくれるかもしれないだろ」
指でさし示されたのは、三番目の袋。
これ、ただのトッピングだけどな。
花井が袋を開けて、トレイの空いているくぼみに中身を出した。
「おお……なんつーか……ファンシーだな。これ昔からこんなんだったっけかな、そこまではよく覚えてねーわ」
色とりどりのキャンディーチップに、ところどころ星形のものが混ざってる。
きっと、コンビニで同じものを買ったあの幼稚園児は、これ見て盛り上がるんだろーな。週末の朝にやってる女児向け戦隊モノみたいなアニメの、あのキラキラした感じに似てる。
「はい、これ」
花井がそれまでぐるぐる混ぜるのに使っていたスプーンを、俺に寄越した。
「こっから先は渋沢の役目」
あぁ……食わせろってことな……。
出来上がったピンク色のなにか――結局のところコレ何なんだろうな?――そのなにかをスプーンに取って、トッピングのキャンデーをまぶしつけた。
うん……なんかしらんが眩しい仕上がりだ……。
「何これ、かわいーじゃん」
花井が笑った。
まじか。
やっぱおまえ意外と楽しんでんな。
「ん。どーぞ」
口もとに差し出してやったスプーンは、幼児が使うことが前提なのか、やけにサイズが小さかった。
花井が口に含む瞬間に一気に距離を縮めてきた気がして、ドキッとした。
唇が、指に触れそうで、触れなかった。
「味どう?」
「んんー……? ふわっふわ。なんつーか、掴みどころのない味……」
微妙な顔して、首を傾げてる。
見た目も何だかわからなけりゃ、味も何だかわからないってことだな……。
「渋沢も食ってみ」
「俺はいらね。付属のスプーン、一本だけだし」
「おれが指に取って舐めさせてあげよっか」
「……いらねえよ」
「じゃあ同じスプーンで。おれと間接キスしよ」
花井がダメ押ししてくるみたいに、にっこりと、抗うことを許さないような笑顔で、言った。
ここで従っとかないと、まじで口ん中に指突っ込まれそーで怖い。
とは言っても……
「おまえ……その言い方……」
言わなきゃそこまで気にせずに済むのに、なんでわざわざそんな言い方するかな。
ため息つきつつ、またスプーンにピンクのやつをすくい取って、トレイに出してるキャンディーチップの中に突っ込んだ。
花井が愉快そうに俺のことを見てる。
ああもう、くそ、しゃーねえな。
花井の視線が気になりつつも、俺は渋々スプーンを口もとに運んだ。
「かっわい……」
口開けたところで、花井が急にそんな呟きを漏らした。
「は……?」
「いやー……キラッキラのキャンディまぶした謎のピンク色を食す渋沢……似合わなくてかわいーなー……」
何言ってんだこいつ。
意味がわからないにもほどがある。
「……ほらな、感動生んでくれたじゃん、三つ目の袋。渋沢、まじかわいい」
「おまえのその感性、ほんと謎だわ。ってか、おまえがかわいいって言葉を口にすると、あのぶっさいくな猫の顔が脳裏にチラつく……」
「え、それうちのノノのこと? 失礼だなーあんなにかわいいのに」
「どっちが失礼だ、俺をおまえんちの不細工な猫と同列に並べるな」
腹立ちまぎれに、食べる直前で止まってたスプーンを、勢いにまかせて口の中に突っ込んだ。
って、甘……っ。
何だこれ、こんなに甘ったるいもんだったっけか。
「……むかつく。おまえももうひとくち食え。つーかこの謎の食べ物、残り全部食え」
「理不尽だなー。渋沢が勝手に買って来たくせに」
花井は苦笑しながらも、俺がスプーンを差し出すたびに、素直にそれを口に含んだ。
甘い、とか、ほんと謎な味、とか、ぶつぶつ言いながら。
その間も、これといって何も起きなかった。ただひたすら食べさせてただけ。
……このまま終わるのか?
ほんとに?
こないだはあんなだったのに? 落差すごくねえ?
それを望んでたとは言え、なんかちょっと、戸惑うんだけど。
「……よし。休憩、終わり」
プラスチックのトレイが空になって、最後のひとくちを花井に食わせた瞬間、俺はほっと胸をなでおろした。
と同時に、まじでなんも起きんかった、と、正直言えば拍子抜けもした。
もちろん、残念がってるとか物足りないとかでは、断じてない。ないから。
ま、ともかく。
今日の、花井を童心にかえらせよう計画。計画名通りには運ばなかったにしても、花井に変な気持ちを起こさせないっていう目的考えたら、上出来だな。
多少アレなことは言われたにせよ、今日の俺、無事だし。
そんなことをのんきに考えていたら、花井がまた「ほんとかわいーな渋沢は」と言った。
口もとを手で押さえて、笑いを噛み殺してる。休憩の最初に俺が手渡したものを受け取ったときと、同じ表情だ。
「……なあ、これでちょっと、緊張解けた?」
……あー。
やっぱな。そんな上手くいくわけねーんだよな。
要するに、こいつは最初から俺の思惑なんて承知の上で、俺はずっと転がされてたってことじゃん。
ハァ……ため息でちまう。
敵わねーわ。
「また、明日も一緒に休憩しよ」
花井はそう言うと、最後に「今日みたいな飛び道具はなしでよろしく」と付け足して笑った。
その声は優しく甘く、そしてちょっとだけ意地の悪い響きを含んでいた。